第八話 好敵手の起源

 中学二年生の頃の話を続ける。

 私の誕生日の翌日、彼女は風邪で学校を休んだ。さすがに昨夜の三月の雨がまずかったのだろう。実際、彼女が何時間、雨の中で私の帰りを待ち続けていたのか分からない。

 私は、学校に出た途端に取り巻き連中を呼び出して、彼女のことを知っているかどうか尋ねた。

「ああ。あの、いつも長袖、黒タイツの気味が悪い子ですよね」

 中の一人がせせら笑った。

「しきりに私たちの回りをうろちょろしていて目障りだったんで、何度か怒鳴って追い払いました」

 そこで、両方の手を前にだらりと出して、続けた。

「恨めしそうな顔をして黙って立っているから、余計に気持ち悪くて。『幽霊』ってあだ名をつけたら、みんなにウケましたよ」

 予想以上の悪意に私は目の前が暗くなった。

 吐き気がする。私がいい気になって彼女のことをないがしろにした結果、彼女は孤立無援でずっと我慢していたのだ。そして、いままで一言も私にその不満をぶつけたことはなかった。

 私は目の前の取り巻き連中を即座にシメた。彼女が私の親友であり、彼女をいじめるやつは私が容赦しないことを、トラウマになるレベルでしっかりと叩き込む。

 その日の授業中、私は前の日に彼女から貰った、木製の小さな犬がついた髪飾りを眺めて過ごした。彼女にとって、私がまだこの髪飾りの似合う少女だということが、無性に嬉しかった。


 *


 その日の放課後、私はもう一つの懸案事項を片付けることにした。

 学校から彼女の家までの道すがら、お花屋さんで「お見舞い用に」と指定して花束を作ってもらった。その月の小遣いがかなりやられたが、気にしている場合ではない。

 それを持って、彼女の家の前に立つ。

 立つ。

 立つ。

(たはぁ――)

 溜息が出た。なんだか入りづらい。彼女のことを顧みなかった後ろめたさもあったが、家の中に巣食っているかもしれない『悪意』におびえたせいでもある。

 一緒に鳥取砂丘に出かけるぐらいだから、彼女の家族とは面識がある。とてもそんな危険な人たちには見えなかった。しかし、彼女が自宅以外であんな痕をつけるはずがない。

 具体的な脅威であれば分かりやすくて簡単なのに、秘められた悪意には慣れていない。しばらく逡巡した後、私は腹を決めると玄関の呼び鈴ボタンを押した。

 すぐに中で「はーい」という声が聞こえ、掃除でもしていたのか、腕まくりをした彼女のお母さんが出てきた。

「あらまあ。茜ちゃんじゃないの。お久しぶりね」

「あ、こ、こんにちわ。お見舞いに来ました」

「あら、有難う。さっきまで寝ていたけれど、今は熱も下がって起きていると思うから、あがってちょうだい」

 彼女のお母さんは昔のままの気安さで、明るく私を迎えてくれた。

(もしかして、お母さんはなにも知らないのだろうか)

 いや、そんなことはありえない。あんなに目立つ痕を、他人ならともかく家族の間で隠し通すことはできない。

 昔と同じ明るい家の中の雰囲気に拍子抜けしつつ、一方で警戒も続けつつ、私は彼女のお母さんの後に続いて階段を登った。

 彼女の部屋は二階にある。そのドアの前に立つと、

「茜ちゃんが来たよ」

 と声をかけて、長めに時間をとってから彼女のお母さんは扉を開けた。

 彼女は布団の中で縮こまっていた。顔が赤いのは熱の余波なのか、それともパジャマ姿を見られたせいなのか判然としない。ともかく彼女には何のわだかまりもないようだった。

 彼女のお母さんが部屋を出たところで、私は彼女に頭を下げて言った。

「ごめん、私が無神経だった。クラスのみんなには私の親友に手を出すなと言った」

 と、まずは盛大に真剣に謝罪する。彼女は熱でうるんだ目をしばたかせながら、私の話を嬉しそうに聞いてくれた。

 私はその変わりのなさがうれしかった。


 だから本当はここで終わりにして、彼女を包む深い闇から目をそらしたかった。


 しかし、もうそんなことはできない。だからといって、何もなかったことにはできない。

 彼女から目をそらしたせいで大変な重荷を彼女に背負わせてしまった以上、私も彼女の重荷を一緒に背負わせてもらう必要がある。

 私は覚悟を決めて切り出した。

「その、昨日のことなんだけど。私、見てしまったの」

 彼女が布団の中で硬直するのが分った。

「見てしまった以上、もうなかったことにはできなくて。だから教えてほしい」

 私は彼女の眼をしっかりと見つめる。瞳の奥の感情のゆらぎも逃がさないように見つめる。

「あなたの腕にあるのは打撲の痕だと思う。原因は何なの」

 私は優しく彼女のお布団の中に手を入れた。彼女も覚悟したようで、抵抗することもなく熱くなった腕をなすがままにしている。私は布団から出した彼女の腕からパジャマの袖をまくりあげた。


 手首から肘にかけて、全面に亘る斑模様が彼女の白い素肌を浸食していた。


「黙っていてごめんなさい。ただ、まだ貴方にもこれが何かをお話しできる段階になくて――」

「いじめられてできた痕じゃないの?」

「そうじゃない。これはもっと普通のことなの」

 普通――その言葉を聞いて私の頭に血が上った。

「普通にしてこんなになるわけないじゃない!」

「痛い!」

 思わず私の手に力が入ってしまい、彼女の敏感な傷痕に響いてしまった。私の頭から急速に血が下がる。急いで手を放した。

「ご、ごめん」

「ううん。私こそごめんなさい。貴方にはちゃんとお話ししたいんだけど――」

「分った。もう大丈夫。貴方が普通だと言えば、何でも普通だからもういい。ただ、いつかは必ずお話ししてちょうだい」

「うん。それからだけど……」

「分ってる。他の人にはこのことは一切言わない」

 私は力強く約束した。


 その後、しばらく昔のように雑談をして、彼女が疲れないうちに帰ろうとしたところ、彼女のお母さんに呼び止められ、

「茜ちゃん。リビングでお茶でもどうかしら」

 と言われた。断るのもなんだか変なので、そのまま流れでお茶を頂くことになってしまった。

 彼女は「いじめじゃない」と言っていたものの、なんだか目の前にいる彼女のお母さんが『見知らぬ魔物』のようでちょっと怖かった。

 おずおずとリビングのソファに腰を下ろすと、彼女のお母さんは花柄模様の可愛らしいティーカップによい香りのする紅茶を注ぎながら、言った。

「茜ちゃんが友達で、本当によかった」

「どうしてですか?」

「あの子はいつも長袖に長ズボンでしょう。だから、学校のお友達から敬遠されてはいないかと、ずっと心配していたのよ」

 前に腰を下ろしながら、彼女のお母さんは言った。昔から何度も会っているが、いつもにこにこ笑っている印象しかなかった。それが今、目の前でとても辛そうに眉をひそめている。

 それで、彼女のお母さんはすべての事情を了解しているのだと、私は気がついた。

「しかも中学校になると、目立つことは決してプラスに働くばかりではない。だからとても気がかりだったの」

 私は何も言えなかった。事実その通りになっていて、その原因の大半は私の無神経さによるものだった。

 彼女の母親は顔をあげる。いつもの笑顔に戻っていた。

「でも、心配なかった。いつも学校での出来事や茜ちゃんと話したことを楽しそうに家で話してくれるのよ。今日はこうだった、ああだったって。茜ちゃんが助けてくれるから全然心配ないって。何もないはずがないとは私も分るけれど、あの子はそんなことは一言も言わない。それは、貴方がいつも支えて、守ってくれているからだと思うの。だから有難う」

 といって深々と頭を下げられる。


 私は硬直した。


 彼女は私に文句を言わないばかりか、親に心配をかけないために私のことを本当の友達として話していたのだ。

 彼女の想像した楽しい学校生活を。

 彼女の想像した楽しい私との話を。

「そ……そんな、こと、は、ないんで、す」

 私は耐えられなかった。次から次へと胸の奥から後悔が湧き上がってくる。

(彼女のことで、どうして最近の私は後悔ばっかりしているのだろう)

 驚いた彼女の母親に背中をさすられながら、その優しさにさらに耐え難くなって、私は長い間、嗚咽おえつを続けた。


 *


 それからのことは少々駆け足になる。

 私と彼女は、また仔犬のような関係に戻った。そして、私はこれまでの恩義を返して不義理を挽回するために、高校受験で彼女と同じ学校に行くために猛勉強した。

 なぜなら、学園ドラマにあるような『同じ高校の中にレベルが違いすぎる生徒が共存する世界』は、現実にはないからだ。

 受験というふるいは、無慈悲に子供たちの生息圏を分割してゆく。彼女は成績が良かったので、主に私が頑張らなければならなかった。

 もしお願いしたら、彼女は高校のレベルを下げて私の(その時点での)最高レベルにあわせてくれるだろうが、それは私自身が許さなかった。

 彼女のレベルに合わせるために、私が頑張る。彼女の勉強がおろそかにならないように注意しながら、放課後の図書館で私の勉強に付き合ってもらった。

 ともかく私は勉強した。彼女の生息圏から振り分けられないように猛勉強した。

 そして――


 あえなく撃沈した。


 現実は厳しい。不合格となり嘆く私を、彼女はしきりに励ました。

 まあ、おかげで以前の私では想像もつかない上位の高校に進学できたのだから、まったくの無駄というわけでもなかったが。


 彼女が通学している進学率県内トップの高校ともなると、彼女の「長袖および黒タイツ」も個性としてすんなり受け入れられたようで、その点は心配がなくなった。

 さらに、この時期になると彼女の手足からはほとんどあざがなくなっていて、「夏でもたまに長袖を着てくることがある」という程度の珍しさになっていた。

 私は彼女と学校が違っても頻繁に会って話をしていたが、別な学校に通うことは話題の幅が広がることに繋がった。

 いつも一緒にいた時よりも、彼女の話が私には楽しかった。もしも同じ高校に通っていたならば、共通の体験ができたかもしれないが、お互いの世界を尊重することができなくなっていたかもしれない。

 ちょうどいい時期に適度な距離を置いたことで、二人の仲はむしろ依存から共存へと望ましい方向に切り替わったような気がした。

 まあ、彼女はどんな環境であってもびくともしないから、主に私の自立を促すためによかったと思う。


 *


 さて、ここから一気に話は大学時代に入る。

 私と彼女は、一緒に東京の大学に入学した。同じところではない。もうこの時期になると、お互い離れていても絆は結ばれているという安心感がある。東京に行くことにしたのも、たまたまだった。

 もちろん、彼女のそばにいられるのはやはり楽しかったが。


 彼女は、親元から離れて独り暮らしを始めてから、すっかり打撲の痕を気にすることがなくなった。

 長袖と長いスカートを好む(というよりは、それしか持っていない)ところは依然として変わらなかったが、長袖でも生地の薄いものにするなど、彼女なりに工夫していることが分かると、なんだか自分のことのように嬉しくなった。

 大学に入ってすぐに、私は大学のプロレス同好会に引きずり込まれ、そこで活動している時にプロレスラーの世界に引きずり込まれた。

 大学の同好会出身という異色の経歴は、実力主義の皮を被った徒弟制度の世界では異質物に等しい。業界の抗体反応にさらされて、私はすっかりまいってしまった。

 実力では負けるはずのない相手にも、連日の精神攻撃と熟練の試合運びに悩まされて、なかなか勝つことができない。

 私をこの世界に導いた業界関係者も、なかなか立ち入ることができない女の領域で繰り返されるいじめに、何も有効な対抗策が見いだせずにいた。

 ただ、私には絶対的な避難場所があったから、それによって陰湿ないじめに耐えることができた。そこで、ある日その絶対的な避難場所である彼女に恩返しをしようと思い立った。


 知らないということは恐ろしい。


 その恩返しが、私と彼女の世界と関係を根本から作り替えてしまう発端になろうとは思ってもみなかった。


 *


「えっ、水着?」

「そう、水着」

 その日、私と彼女は東急線「自由が丘」駅前から少しだけ離れたところにある、線路沿いの落ち着いた喫茶店で話をしていた。

 その店の真ん中にある丸いテーブルの、さらに真ん中には、いつ来ても大量のバラが惜しげもなく飾り付けられていて、その周りに座って彼女と話をすることは私の精神安定剤だった。

「貴方、水着を着たことはあるの」

「うーん、記憶にない」

「だと思った」

 私は一杯が六百円を超える恐るべきコーヒーをすすると、こう宣言した。

「今年の夏、貴方は生まれ変わるのです」

「えーっ、いいよぉ」

 彼女は顔を赤くして、両手を前に出してふるふると振った。しかし、私は容赦しない。

「駄目です。もう決めました。これから水着を買いに行くことは既に定められた運命なのです。そのために茜は資金を準備しました」

「えーっ、いいよぉ、悪いよぅ」

「認めません。もしこれ以上固辞した場合、茜にも考えがあります」

「――どんな考えなの」

「今ここで、赤子のように泣きわめき、転げ回ります」

「――本気?」

 もちろん、私は本気である。この喫茶店に来たのも計画のうちだ。

 彼女も、これ以上何を言っても無駄であることを悟り、とうとう

「参りました。水着を探します」

 と言った。彼女は私に約束したことを決して裏切ったりしない。

 私たちは喫茶店を出ると、東急東横線で渋谷まで出た。


 彼女の基本姿勢が『守り』であることに気がついたのは、高校生の頃だった。

 同じ学校にいる時にはいつでも会えるので気がつかなかったが、彼女は自分から誰かを呼び出すことはしなかった。

 中学二年のあの夜、余程の覚悟をして私の家の前で待っていたのではないかと思うほど、彼女から動き出すことはなかった。

 大学生になってからも同じで、彼女は黙っていると守りの生活に入り込もうとする。私が地方遠征でいなかった連休中、一歩も外に出ずに本を読みながら過ごしたこともあるらしい。

 だから、私は意識して彼女を引っ張りまわさなけれはならなかった。


 春すらまだ本番になっていない時期にもかかわらず、売り場にはカラフルな新作水着が並んでいた。

 私と彼女は唖然とした。

 彼女は、今まで知らなかった世界にただ驚いていただけだった。私は別なことに衝撃を受けていた。

(――可愛い!)

 仕事柄、いつも水着のような格好をしていたので気がつかなかったが、本気の水着は『別次元の怪物』だ。

(何これ、可愛いじゃない。こんな格好でリングに上がったら、ポロリどころじゃすまないけど。しかもこれなんか――)

 私はセパレートの下を手に取った。

(既に隠す気すら失っている! 『エブリディ戦闘状態』だ!)

 私の目の前には勝負をかけるためのバトルスーツが、ところ狭しと並んでいたのだ。

 私の変なところのスイッチが(キュピーーーン)という破裂音とともにオンに切り替わる。

 私は目の前の水着をいくつか掴むと、まだ唖然としていた彼女を追い立てるようにして、そのまま試着室に向かった。


「これ、サイズが違うんじゃないかな」


 試着室の中から、彼女の躊躇ためらい混じりの声が聞こえてきた。

「なんだかはみ出すよ」

 やはり。私の目に狂いはなかった。

 いつも余裕のある服しか着ていないから目立たなかったが、やはり彼女は――

「なんだか恥ずかしい、これ」

 と言いながら、彼女が試着室のカーテンを開けてシンプルなワンピースの水着を着た姿を現した時、私は声を失った。

 知能指数が百三十を超えている人にとって、この滑らかで豪華な曲線の美しさは凶器ではないかと思う。しかも、恥じらいに少しだけ赤らんだ全身の肌は、それだけでご飯が軽く三杯いける。

 彼女の伴侶となる者は、さらに恐ろしいものを見ることになるだろう。

(――ふっ。ふっ、ふっふっふっ)

 私はほくそえんだ。

「茜ちゃん、なんだか目が恐いよ」

 無論だ。私の手には、既に『エブリディ戦闘状態』が握られている。

「そ、それも、す、すごぉーく似合うけど、こ、こっちなんかさらに似合うんじゃないかなぁぁ」

 私は裏返った声で言った。

「それ、なんだか布が少ないよ」

(ちっ、ばれたか)

 ここは強行突破しかあるまい。

「まあまあ、そんなこと言わないで。きっと似合うからさぁ。ねっねっねっ」

 私は何気なく彼女の二の腕をつかんだ。


 途端に――以前の私なら気がつかなかった強烈な違和感を受ける。


 いや、違和感ではない。これは闘争本能だ。

(この感触――)

 知っている。私の熱が一気に上がってから、急激に下がる。

「――ごめん。他に用事ができた」

 私は感情の抜け落ちた声で言った。

「ちょっと私と一緒に来てくれないかな」

 彼女も状況を理解していた。少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの落ち着いた笑顔に戻る。

「分かった。着替えるね」

 試着室のカーテンを閉めて、元の服に着替え始める。

 私はその間、あまりの展開に棒立ちになっていた。カーテンの向こうから、衣擦れの音とともに彼女の声が聞こえてきた。

「これでやっと昔の約束が果たせるね……」

 途端に試着室の空気が変わり、その気配が外に漏れだしてきた。

 私は驚愕した。

 肌が粟立つ。

 背中をさわさわとした気配が這いずり回る。

 うなじのうぶ毛が立ち上がる。

 何かとんでもないことが起ころうとしていた。

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