第七話 三好の大誤算

 電話が繋がった。

(はい、高段社総合インフォメーションサービスでございます)

「あっ、あのっ、わたくし、しっ、信濃大学格闘技同好会の、みっみっ三好といいます」

(お電話有り難うございます。総合インフォメーションサービスの池田が承ります。ところで大変申し訳ございませんが、お名前をもう一度頂戴できますでしょうか?)

「みっ、三好です」

(えーっと、ミッミヨシ様)

「あっ、すいません。み・よ・し、です。三つの好物と書いて『三好』です」

(ああ、三好様ですね。大変失礼致しました。それではご用件を承りますが)

「はっ。あの。月刊格闘技通信の記事を読みまして」

(はい、有り難うございます)

「それでその――」

 と、こんな具合のファースト・コンタクトから三好はたどたどしく用件を話し始めた。

 もとより計画してのことではない。当たって砕けろの勢いだけで電話をしてしまったので、話が自分でもどうしようもないくらい散らかって収拾がつかなかった。

 ただ、一所懸命さは伝わったようで、池田さんは格闘技通信の編集部に電話を転送してくれるという。

(転送する寸前、一瞬だけ耐えきれなかったのか、吹き出したらしい息が聞こえた)

 用件を引き継いでいるらしい。少しだけ待たされた後、回線がつながり、

(はーい、格闘技通信編集部の権藤)

 と、勢いのよい声の男性が出た。

 三好は自己紹介の後、再び電話をした理由を説明し始める。さすがに二度目なので、池田の時よりは落ち着いて説明することは出来たものの、

(要するに、だ)

 権藤が、やはり笑いを堪えているような荒い息遣いで言った。

(大学の新入生勧誘企画で何かやりたいので、同じく大学のプロレス同好会出身であるアマゾネス斎藤と連絡がとりたい、とそういうことか?)

「――その通りです」

 電話の向こうから盛大な笑い声が聞こえた。覚悟はしていたものの、あまりの豪快さに少しだけ三好はへこむ。そして、

(そこまで笑わなくても――)

 と、「無茶な電話をした自分」のことは一旦棚上げして腹を立てた。

 権藤はさんざん笑った後、かすれた声で謝る。

(いや、すまん。悪かった。近頃珍しいぐらいのストレートな『お願い』だったので、思わず笑っちまった。いや、本当にすまん)

 権藤の飾り気のない真正面からの謝罪に、三好は怒りが収まると同時に、やはり無茶なお願いなのだろうかと弱気になる。

「やっぱり非常識ですか」

(ああ、いや、そういう意味じゃないんだ。まいったな。本当に悪かった)

 権藤は下げた勢いで机か何かに頭をぶつけたらしい。電話の向こうから『ごつん』という派手な音がした。

(つつ……確かにお前――ああ、三好君だったな。三好君以外のとりすましたやつが同じような電話をかけてきたら、ただではすまなかったな。その前に総合受付の池田ちゃんが、丁重にお断りしただろうけどな。今回はその池田ちゃんが、驚いたことに「ちゃんと最後まで笑わずに話を聞いてやってくれ」ときた。お前、なんだか気に入られていたぞ)

 今度は、何かで扇いでいるような音がした。

(まあ、確かにお前の言い方には心がこもっていたな。話はうまくないけどよ。俺はそういう馬鹿は好きだね)

「では!」

(いやいや、ちょっと待て。だからといって、そのままアマゾネス斎藤につなぐわけにもいかないのが、大人の社会よ)

「そうですよねえ」

(なんだか、上がったり下がったり忙しいやつだなあ)

「すいません」

(謝るなよ。走り出したなら回りを引きずってでも走り続けなよ。お前ならできそうだから)

 電話の向こうから、ライターの着火音がした。

(この間のインタビューは、うちの編集者が直接担当したもんじゃあないんだ。アマゾネス斎藤からの指定で別な部署から記者を借りたんだよ。それほどの仲だから、あいつだったらなんとかなるかもしれない。うまくいくという約束はできんが、連絡は絶対させるから頑張ってみろよ)

「はい、有り難うございます!」

(まだオーケーが出た訳じゃないから、俺に礼を言うなよ。さっきも言ったが、こんな話は誰もまともにはとらないよ。駄目でも他の企画で当たって砕けてみな。そして、いよいよ困ったらまた俺のところに電話しな。相談には乗るよ。ただ、最後まで自分達の力で足掻きな。じゃあな)

 電話が切れる寸前、回線の向こうで、

(編集長、ここ禁煙で――)

 という女性の金切り声が聞こえた。池田は最も効果的な人物に直接繋いでくれたらしい。

 三好は泣きそうになった。

 あまりにも安易に身勝手な電話をかけてしまった自分の迂闊さへの後悔と、それを受け止めて最大限の協力を惜しまなかった大人たちの度量に、完全に打ちのめされてしまった。

 始めから終わりまで、黙って隣で見ていた沢渡、浅月、野沢が、何か言いたげな顔をしている。三好は涙をこらえると、少しだけかすれた声で言った。

「約束はできないが、必ずつなぐ。駄目だったらまた電話してこいと言われた」

 とたんに三人が喚声をあげた。頭や肩を叩かれながら、三好は思った。

(駄目だったとしても悔いはないけど、できれば実現したい)

 三好の生まれて初めての野望だった。

 

 権藤と話をしてから一時間後に、インタビューを担当した編集者から連絡があった。三好の三度目の説明も相変わらずの散らかりようだったが、その編集者は最後まで笑わなかった。

(なるほど、分かりました)

 電話の向こうで背筋を伸ばしていそうな雰囲気の声が聞こえた。

(権藤さんがわざわざやって来て頭を下げていくはずだわ。ここまで何も考えずに、いきなりお願いされてもねえ)

 やばい、相手を怒らせたか――と、三好の背中から変な汗が出る。

「すいません」

(三好君、貴方もしかして大家族の末っ子?)

「はい。九人家族の五人兄弟で、兄二人と姉二人です」

(あら、なるほどね。道理で年長者の扱いが上手なはずだわ。特殊技術だから、あんまり悪用しちゃダメよ)

「はい、すいません」

(普通なら「よく考えてから出直してこい!」と指導の一つもするところだけれど、権藤さんの顔に免じて今回は協力するわ。三日後に松本市に伺う予定があるので、その時に直接会って話を聞かせて貰えないかな)

「はい! お願いします」

(それから、いろいろ言ったけどこの話はとても面白いわ。私もなんだか取り込まれそうなぐらい。だから自信を持ちなさい)


 *


 そして、三日後の土曜日がやってきた。

 三好は、沢渡と一緒に田中デパート二階の喫茶室にいた。もちろん、二人だけではない。目の前にはくだんの編集者が座っている。

 二十代後半ぐらい。髪を短く切り揃えて、明るい茶色に染めている。化粧は控え目だが、二重の大きな瞳が華やかな印象を与えていた。なんだか血統書付の猫のような人だった。

 男子大学生にとっては、夢に出てくる『大人の女性』そのものである。

 二人は変に緊張した。

「採用面接じゃないんだから、固くならないでね」

 編集者は流れるような仕草でコーヒーを飲むと、話を始めた。

「まず、結論から先に伝えるわね。既にアマゾネス斎藤さんには打診しました。彼女は大変に乗り気です」

「えっ!?」

 いきなりの満額回答に、二晩徹夜して対策を練り上げてきた二人は仰天した。編集者はそんな二人の意気込みを既に察していたらしい。初めて微笑むと、

「自信を持ちなさいって言ったでしょ。疲れているときには、砂糖とミルクを多目に入れたコーヒーが効くわよ」

 三好と沢渡が砂糖とミルクを入れたコーヒーを一口飲むまで悠然と待っていた彼女は、おもむろに話を続けた。

「ただし――」

 三好と沢渡は背筋を伸ばす。

「――引き受けるにあたって、条件が三つあります」

 まあ、当然だろう。沢渡が答える。

「できる限りのことはします」

「まずは話を聞きなさいな。とんでもない条件かもしれないわよ」

 彼女は沢渡の実直な物言いに、やんわりと釘を指す。

「まず、第一の条件です。イベントの内容なんだけど、仮設リングを使った試合形式のものにしてほしいの。そして、一般の方から対戦相手を募集する」

「ちょっと待って下さい」

 三好は慌てて話を遮る。

「仮設リングといっても、その準備と資金が――」

「ああ。そこは問題にはなりません」

 彼女はすました顔で言う。

「リングと周辺設備はアマゾネス斎藤が持ち込みます。費用も彼女が持ちます。一般の対戦相手については、誰も現れなかった場合を想定してサクラも準備しておくそうです」

 三好と沢渡は驚愕した。話は、彼らが意図したものよりも遥か上の大それたイベントになっている。沢渡の目が、

(こんな企画、俺達に出来るのかよ)

 と言っているが、三好は即座に覚悟を決めた。

「大学側にかけあってみます」

「おい、三好!」

「すまん、沢渡。こんな馬鹿で無茶なことは一生に一回出来るかどうか分からない。だから、やりたい」

 三好と沢渡のにらみ合いになる。しかし、すぐに沢渡が折れた。

「わかったよ。付き合うよ」

「ありがとう」

 その様子を編集者は目を細めて見ていた。

「いいわねえ。男の子の友情」

 三好と沢渡は赤くなる。

「さて、今の条件は受け入れられたようなので、次の条件なんだけど」


 *


 残り二つの条件を聞いた三好と沢渡は、先程までの高いテンションがすっかりどこかに消え去ってしまったかのように、難しい顔をしていた。

「うーん……」

 三好が唸る。

「これって、もしかして犯罪すれすれじゃありませんか」

「そうね。二つとも『不法侵入』にあたるかしらね」

 編集者は涼しい顔をして怖いことを言った。

「でも、これが条件です。イエスかノーか、いずれかしか回答はありません」

 三好と沢渡は顔を見合わせる。非常にぎりぎりの条件提示だった。

 犯罪であるような、そうではないような。学生の頃には誰しもが必ず経験しているだろう『悪戯』のようにも思えるし、それでも見つかったら『ごめんなさい』では済まない。

「一つは、僕か他の誰かが協力すれば多分大丈夫ですが、もう一つのほうはさらに協力者が必要です。最小限の人員――そうですね、三人であれば協力できるかもしれません」

 三好が言うと、沢渡が何か言いたそうな顔をした。しかし、寸前で自制したらしい。三好も心の中で(野沢、すまない)と思った。

「いい決断ね。三人もいれば大丈夫でしょう。もちろん、私とアマゾネス斎藤も付き合います」

「えっ、いいんですか? 社会人は、それこそ洒落にならないでしょう」

「その点はご心配なく。これはアマゾネス斎藤自身が言い出したことなので、彼女も責任を負うと言っていますから」

 彼女は手を差し出した。

「これで条件はすべてクリアされたかしら」

 三好と沢渡は契約成立の握手をする。彼女の手は意外にも温かかった。


 田中デパートの喫茶室で次の話があるというので、三好と沢渡は失礼することにした。

 コーヒー代は会社員である彼女が取材費として支払うという。それでも、ひとしきり押し問答をしてから、三好と沢渡はお言葉に甘えることにした。

 頭を下げながら喫茶室の入り口まで下がっていると、三好は入ってきた誰かにぶつかってしまった。

「あっ、すいません」

「いえ、大丈夫ですよ」

 小太りで白髪の男性が、穏やかな顔で言った。そのまま三好と沢渡の横を歩き去ると、編集者の席に向かってゆく。三好と沢渡はその後ろ姿を見送ると、エスカレーターのほうに歩いて行った。

 大学まで徒歩で戻る最中、沢渡がぼそりと言った。

「やっちまったな」

「ああ、やっちまった」

 三好は、手元にある編集者の名刺を見つめて言った。そこには非常に珍しい名前がかかれていた。


 四月朔日恵美わたぬきえみ


 *


 四月朔日との打ち合わせ以降、三好の生活は一変した。

 田中デパートから大学の部室に戻ると、待機していた浅月と野沢を交えてもう一度四月朔日が提示した条件を吟味した。

 携帯電話で事のあらましは伝えてあったとはいえ、野沢は『半ば非合法な条件』にはまったく躊躇しなかった。

「そんなの、男子高校生ならば経験ずみの話だろ」

 野沢は軽く言い放った。

「夜中に女子高のプールに忍び込んで『さすがに水が違う』と言ったやつがいるぞ」

「お前じゃないの」

 沢渡がつっこむ。

「そーなんだ。ねえねえ、どう違ったの」

「それがだな、この、泳ぐに従って肌がしっとりとするというか――俺じゃないよ」

「あやしー、変態さんだわ、変態さんよ」

 浅月は、きゃあきゃあ言いながら野沢から離れると部室のドアから外に出て、さらにドアの隙間から顔を出した。

「野沢の、へ・ん・た・い」

 そう止めを刺すと、また、きゃあきゃあ言いながら浅月はどこかに逃げていった。沢渡がぼそりと言う。

「同期の手前、嫌とは言えなかったのだろうな」

 三好もそう思う。

 浅月は普段の行動からは想像がつかないほどのお嬢様だった。昔から信州のとある一帯を支配してきた旧家で育ち、家柄にいつもプレッシャーを感じていたという。その反動が、大学での奔放な行動だった。

 三好、沢渡、野沢は、その点に気がつくと浅月の擁護に回ることにした。

「確かに犯罪だからな。あいつの親にバレたら一大事だ。日本刀を持った親父に追い回されるぞ」

 野沢は体を震わせた。これは誇張ではない。浅月の親父ならやりかねない。

「――あいつは当日の準備に専念させようか」


 同好会の上級生への説明は、あっけないほどスムースだった。昨年の所業については先輩も忸怩たる思いがあったようで、新入生勧誘企画ではあったが同好会の総力を注ぎ込むことが決まった。

 残るは大学当局との交渉だったが、これが難物だった。

 運動部と運動系サークルの自治会である『体育会事務局』と、大学施設を管理している『学生部』への企画説明では、昨年のことが槍玉にあげられて、いくらまともな企画だと説明しても話が通らない。

 進捗報告のついでに四月朔日に相談してみたところ、権藤に相談してみてはどうかと言われた。

 先日の礼もある。三好は高段社の総合インフォメーションに電話をかけた。

(はい、高段社でございます)

 聞き覚えのある声が流れてくる。

「池田さんですね。信濃大学の三好です。先日は本当にお世話になりました。おかげで大変に助かりました」

(あら、ずいぶん落ち着いたわね。前のあなたもなかなかだったけど、しっかりした受け答えのあなたもいいわね)

「ありかとうございます」

(今日は権藤に直通でよろしいでしょうか)

 少しだけ笑いが残る声で、池田は仕事モードに戻る。

「はい、お願いします」

 前回よりもはるかに短い待ち時間で、前回同様の元気な声が聞こえてきた。

(はい、月刊格闘技通信の権藤です)

「先日はお世話になりました。信濃大学の三好です」

(おお、話は四月朔日から聞いたぞ。すごいことになったようだな)

 三好は権藤に電話をしてから、今までの展開をかいつまんで話した。そして、大学側の許可が下りなくて困っていることを伝える。

(――で、四月朔日が俺に相談しろと言ったのだな)

「はい」

(――そうか)

 電話の向こうから盛大な溜息が聞こえた。

(まったく、ミズ・エイプリルは人使いが荒い。二件目のお願いかよ。紹介した以上は、俺にも徹底的に責任を負わせるつもりだな)

「なんだか大変申し訳ありません」

(いやいや、謝らなくていい。確かに大人の力が必要な局面だしな。とりあえず、大学側のキーマンを教えてくれ)

 三好は、学生部の課長の名前と連絡先を伝えた。

(明日になったら、その学生部の課長に電話してみてくれ)

 権藤はそれだけを指示する。その後、いくつか事務的なやりとりをした後、

(すまん。会議の時間になった。また話を聞かせてくれ)

 と言って、権藤は電話を切った。

 その寸前、

(編集長、皆さんさっきからお待ち――)

 という金切り声が聞こえてきた。

 なんだかとても申し訳なかった。


 *


 翌朝、学生部に電話をすると、課長が開口一番、言った。

(三好君。重要なことは早く言いなさい)

「はあ……」

(高段社が後援ならば最初からそう企画書に明記すれば話は簡単だったのに。私の方で追記して学生部長と学長の承認は得ておいたから、後で承認通知を学生部に取りに来なさい)

 電話の後、しばらく呆然としてから、三好はやっと事態が飲み込めた。

 昨日の電話の後、権藤は『信濃大で開催されるアマゾネス斎藤のエキジビション・マッチへの後援』に、高段社内の了解を取り付けて、大学側に通知したのだ。

 急いで権藤に電話をする。今日は池田以外の女性が取り次ぎに出たので、三好は軽く落胆しつつも権藤への転送をお願いした。

 今日の権藤はすぐに出る。

(おう、今忙しいので手短に言う。すまんが勝手に後援にさせてもらった。大学の事務は企業の後援には弱いからな。それから、大変に申し訳なかったが広報に話を通す時に、後援資金の話が出たので勝手にでっち上げた)

 権藤は金額を言った。

(すまん。足りなかったら言ってくれ。手続きは四月朔日から連絡させる。頑張れよ)

 と言って電話を切る寸前、やはり金切り声が聞こえた。

(編集長、最終稿の印刷所回し、とっくに締め切り――)

 電話が切れた後、三好はまた呆然と立ち尽くした。権藤の提示した金額は、同好会の当初予算の三十倍近かった。


 *


 当日の会場設営はアマゾネス斎藤のチームが引き受けることになっていたので、三好はそれまでの細々こまごまとした事前準備を進めた。

 大学の承認が完了した時点で、残り時間は二ヶ月少々。作業は無数にあった。

「三好、弁当屋に仮注文いれてきたぞ」

 沢渡が二月にもかかわらず、汗をかきながら部室に戻ってきた。

「烏龍茶をサービスでつけてもらった。ゴミは翌日引き取るから分別しておいてほしいそうだ」

「じゃあ、注意書がいるね」

 浅月がパソコンで文書を作り上げる。

「野沢、これコピーして当日の備品箱に放り込んでおいて」

「了解」

 野沢が自転車で購買部に走り去る。

「ポスターとチケットのゲラがあがってきたよー」

 三好と沢渡は浅月のパソコンを覗きこむ。メールに添付されたPDFファイルを開くと、アマゾネス斎藤が腕組みした写真の横に、

「誰の挑戦でも受ける!!」

 という大きな文字が、勢いのある毛筆体で書かれていた。

 全員が息を飲む。

「――なんだか凄い」

 と言いながら、浅月は誤字チェックに入った。空気は読めないが、文字は完璧に読める女なのだ。その作業を進めながら、浅月が言った。

「そうそう。印刷枚数は見積り通りで構わないか、ですって」

「ポスターが五十枚、チケットが五百枚だっけ」

 沢渡が尋ねる。

「そう」

 沢渡は三好のほうを見た。

「妥当なところだと思うけど、どうする?」

 三好はじっとポスターの画面表示を見つめていたが、ぼそりと言った。

「チケットは千枚にしてくれ」

「「千枚?」」

 浅月と沢渡が硬直する。そこにコピーの束を持った野沢が帰ってきた。

「ん? どしたの」

「三好が、チケットを千枚刷ると言い出した」

「ふうん。なんだかイメージがよく掴めないけど、そんなもんじゃないの」

「馬鹿言え」

 沢渡は鼻息を荒くする。

「例えば、だ。一クラス三十人で一学年二クラスの小学校があるとする。生徒だけで三百六十人だな」

「そうなるな」

「その小学校が運動会をしたとする。親は、まあいろいろあるが、二人は来るだろう」

「まあ、そうだな」

「お前のところの小学校も、だいたいそんな規模じゃないのか。それが大学の体育館に入るわけだ。しかも真ん中にはプロレスのリングがある」

「――ごめん、前言撤回。すげえ多い」

「だろう? それをやると三好は言っている」

「――三好、お前馬鹿じゃないの」

 野沢は、その無駄に格好良い声でそう言い放った。

「そんなことはないよ。千枚作っても実際にすべて売れるとは限らない。まあ八割ぐらいだと思う」

「大学の同好会が主催するイベントに八百人も客がくるかよ」

「来るよ」

「なんでそんなに自信がある」

「ポスター見ただろ。あれなら客は押し寄せる」

 沈黙が部室の中を満たした。

「俺にも見せてくれ」

 野沢はそう言うと、浅月のパソコンを覗き込む。

「うーん、確かにそうかもしれない」

「しかしだな、一枚千円のチケットだ。これが八百枚売れたとすると売り上げは八十万だ。六百円の弁当代がスタッフ五十人分で三万円。会場代と備品代で四十万ぐらい。当日の学生アルバイトへの支払いが十四名分だから七万円。五百人だととんとんになる。それが八百人だと三十万は利益だろ」

 沢渡はすらすらと収支計算をした。

「それはアマゾネス斎藤さんの出演料にあてる」

「まあ、権藤さんからの支援は全部アマゾネス斎藤さんの準備費用にあてたけど、確かにそんなもんで準備できるわけがないからな。多少なりとも出したい気持ちはわかるが、しかし八百人だぞ。そんなに集められるのかよ」

「大丈夫だ」

 三好には自信があった。

(この企画ならいける)

 実はこの時の三好の決断が、「三好の大誤算」として後々の代まで語り継がれることになるのだが、この時点では誰もそんなことになるとは想像もしていなかった。


 *


 約束の時がやって来た。

 夜、大学の部室で待機していると、三好の携帯電話が鳴る。

「はい、三好です」

「四月朔日です。皆さんお揃いですか」

「三人とも揃っています」

「そうですか。では、大学の正門の前で落ち合いましょう」

 三好、沢渡、野沢の三人は、部室を出ると無言で正門に向かった。

 大学構内の街灯で影が伸び縮みする中を男三人で連れだって歩いていると、「これから非合法活動に手を染めるのだ」という気分が次第に高揚してくる。

 正門の前まで来たところで、三人は目を疑った。


 人影が二つ。


 一つは、周囲のものとの縮尺から四月朔日であることがわかるが、もう一つの影のほうは完全に縮尺が狂っていた。

 後ろ姿ながら、女性であることはわかる。ただ、三人が普段目にしているサイズではない。

 身長が百八十五センチあるとは聞いていたが、ただ高いだけではなく、その高さに高密度の筋肉がみっしりと詰め込まれて、さらにきちきちと軋みをあげているようだった。

 まだまだ寒い信州の深夜だというのに、ダウンジャケットを腕にかけてシャツ一枚だけである。

 その小山のような身体がこちらを向いた。

「ああ、初めまして。アマゾネス斎藤です」

 右手を挙げて、斎藤はにっこりと笑った。

「こんばんわ。三好です」

「沢渡です」

「野沢です。お会いできて光栄です。大ファンです」

(そんなことは聞いたことがないぞ、野沢)

 三好と沢渡は心のなかでつっこむ。

「あら、嬉しいわね。じゃあ、今度のイベントでは拳で語り合いましょう」

 と言いながら、斎藤は踵落としの真似をした。野沢が嬉しそうに逃げる。

(いや、それは拳じゃない)

 三好と沢渡は、またもや心のなかでつっこむ。

「それにしても申し訳ありません。私の遊びに付き合わせてしまって」

「いえ、私達のほうこそ、不躾なお願いですいませんでした」

 四人は一緒に頭を下げる。そこに四月朔日が声をかけた。

「じゃあ、さっさと終らせましょうか。移動するから乗ってちょうだい」

 大学の門の前には、白いワンボックスカーが停まっていた。ナンバープレートのひらがなが「わ」だったので、レンタカーと分かる。一番後ろのシートが倒されていて、必要なものが既に搭載されていた。

「三好君、道案内をお願いできるかな」

「はい。でも、すぐそこですけど」

 大学の正門から南に向かって走り、二つ目の信号で右折。次の信号でまた右折。そのまま北に向かって少し走ったところで、目的地に着いた。

「あら本当。これは近いわ」

「それにしても、なんでわざわざこんなことをするんですか」

 自己紹介からずっと黙っていた沢渡が、もっともな質問をした。

「まあ、そう思うのも同然よね」

 斎藤は苦笑すると、左の掌に右の拳を当てた。肉の当たる重い音がする。

「挑戦状を叩きつけるならば、それなりに演出に力を入れたいじゃない。携帯電話やメールじゃ味気ないし。それに、「いつかまた二人でやりたいね」って言っていたことなんだ」

 そう話す斎藤は、プロレスラーのアマゾネス斎藤ではなく、素敵な計画に目を輝かせる少女のようだった。

 とびきりの美人という訳ではない。癖の強いセミロングを無造作に後ろでまとめていて、髪飾りには古びた木製の犬がついている。顔のところどころに傷があり、化粧はしていないようだが――


 それでも、さきほどの斎藤の笑顔は、とても美しかった。


「――やりましょう」

 沢渡が車から飛び出す。三好と野沢も、遅れるものかとドアを開ける。

 信濃大学附属松本小学校は常夜灯の中に浮かび上がり、これから行われることを静かに見守っていた。

 夜のお絵描きが始まった。

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