第二話 学校の絵
四月になり、私、
今年入学した一年生の姿を見ていると
「自分も昔はあんなに小さかったんだ」
と驚いてしまうが、そのことを素直にママに話したら、
「自分だってまだ小学生なのに、何お年寄りみたいなこと言ってるの」
とあきれられた。でも、本当のお年寄りには小学校一年生は『別な生き物』に見えているのではないかと思う。
ランドセルだけが歩いているかのような不安定な後ろ姿を見ながら、私は今年になってまた肩紐の位置をずらした自分のランドセルの重さを感じていた。
さて、学年が一つ上がるにあたって最大の不安要素だったクラス分けでは、無事に
他に変わったことといえば、転校生だろうか。
松本市は、長野県内では大きいほうの都市なので、毎年四月になると転校生が何人かやってくる。今年も私のクラスには、男子と女子が同時に二人やってきた。
女子のほうは、お父さんが会社員で何度か転勤を経験してきたらしい。クラスに溶け込むのが早かった。
男子のほう――
同じクラスの男子が何人かが話をしようと試みたものの、あまりの愛想のなさに返り討ちにあっていた。
声のかけ難さは、本人の性格以外にお父さんの仕事もそれに拍車をかけている。始業式の翌日、真凛ちゃんがその情報をもたらした。
「新しい松本警察署長の息子さんなんだって」
真凛ちゃんパパからもたらされた内部情報だった。
真凛ちゃんは、
「くれぐれも失礼のないように」
とパパから念入りに釘を刺されたらしく、露骨に距離を置いている。私のママは何も言っていなかったが、多分、署長の息子と同じクラスになったと言っても、
「あ、そうだったの」
程度の反応しか示さないだろう。
いろいろあって、始業式から一週間過ぎても俊一君は一人ぼっちのままだった。
*
月曜日の朝。サトちゃんと学校前の通学路を歩いていると、小学校のあたりがなんだか騒がしかった。
信濃大学の附属学校には中学校、小学校、幼稚園があり、その順番で南から北に敷地が並んでいる。
敷地の西側を南から北に向かって一方通行路が走っていて、校門はすべてそちら側に開いていたので、生徒の大半がその道を通る。
私とサトちゃんも中学校側の南西の角で曲がり、まっすぐな一方通行路を登校している訳だけれど、その日は角を曲がった直後から、彼方にある小学校の校門を人が慌ただしく出入りしているのが見えた。
「これは殺人事件ね」
と、サトちゃんが目を輝かせて不謹慎なことを言った。
「学校だから怪談? それとも呪いによるものかしら? 犯行現場はトイレ? それとも理科室? 」
近づくにつれて、小学校全体がわさわさと湧き立っているような気がした。あちこちで交わされている会話が、古い校舎内に反響しているせいだろうか。
脳内妄想をたくましくしているサトちゃんと共に校門にたどり着くと、何人かの生徒が南側にある校庭に向かって走っていくのが見えた。
私たちもランドセルを背負ったまま、木立の中を抜けて校庭に向かう。前方には朝の早い時間にもかかわらず、生徒が壁になって立っていた。
中学生のお兄さんお姉さんの姿もちらほら見え、その向こうからは次々と歓声とも悲鳴ともいえない声が聞こえている。
やっと校庭の端まで行き着き、生徒の壁を掻き分けて前に出た私とサトちゃんは――やはり歓声とも悲鳴ともいえない声をあげた。
鳥がいた。
校庭のグラウンドを端から端まで使って、南米にある古代遺跡の壁面を飾っていそうな、簡略化された、それが逆に力強さを感じさせる鳥の羽ばたいた姿が、白線で描かれていた。
あまりの大きさに私たちが唖然としていると、後ろのほうから控え目な、
「ごめんなさい。通してもらえますか」
という声がする。
(あの声は山根先生だ)
私が振り向くと、ゆっくりとこちらに向かってくる
先生はいつものように『西欧のメイド』のような肌の露出が極端に少ない服を着て、癖のない髪を後ろに束ねてポニーテールにしていた。髪をとめている「今日のアクセサリ」は、赤いカニさんだった。
先生も私に気がついたらしく、細身のセルフレームの眼鏡の向こうにある、二重の大きな目を穏やかに輝かせながら、にっこりと微笑んだ。そして、視線を校庭のほうに向けると――固まってしまった。
校庭の地上絵を呆然と見つめている。表情が抜け落ちて、棒立ちになった先生の様子が心配になり、私は駆け寄った。
他にも立ちすくんでいる生徒はいたが、それでも表情のどこかに余裕が残っていた。
(すごーい。どうやって描いたんだろう)
(なんでこんな無駄なことをしたんだろう)
と、そんな心の動きが見えた。でも、今の山根先生にはそれが見えない。
「先生、大丈夫ですか」
手を握って声をかけてみるけれど、反応がない。微かに手が震えていることだけが伝わってくる。先生の顔をよく見ると、唇が微かに震えていた。
そして、その間からやはり震えた声で、
「まさか、こんなことが……」
という言葉が漏れている。
「先生、先生、大丈夫ですか?」
私は先生の腕を少しだけ引っ張りながら、また声をかけた。今度は成功する。山根先生は私のほうを見て二回瞬きをすると、いつものような穏やかな顔に戻った。
後で先生から聞いたところによると、私はその時、たいそう心細そうな顔をしていたらしい。だから先生はしゃがみこんで、
「有り難う。ごめんなさい。もう大丈夫」
と言わなくてはいけないと思った、という。
その仕草と声がいつもの先生のものだったので、私は安心した。安心したので、先程のことはもう言わないことにした。
山根先生が、私に微笑んでから校庭を見て固まるまでの間、一瞬だけ『鷹が獲物を狙っているような眼』をしたことを。
そして、私が先生のその眼を見るのは二回目だった。
みんなが遠巻きに『鳥の絵』を見つめていると、校庭の北東の端から男の子が一人、グラウンドに向かってゆっくりと近づき始めた。
(あ、あれは俊一君だ)
俊一君は絵に近づきながら、ときおり立ち止まっては、地面にしゃがみこんで顔を近づけていた。
そして、グラウンドの絵を消さないように間を注意深く歩くと、同じように立ち止まってはしゃがみこむことを繰り返す。
みんなは、
(勝手に何しているんだろう)
(後で怒られても知らないぞ)
と思いながら、彼の動きを目で追いかけていた。
そんな中をゆっくりと移動した俊一君は、絵の中心部分にさしかかる。
その時、パトカーのサイレンが聞こえてきた。次第に近づいてくる。
みんなの表情が変わる。小学校の敷地に無断で立ち入っていた中学生は、面倒に巻き込まれないうちにと、いっせいに姿を消し、小学生もその流れに乗って教室に入ってゆく。
パトライトを点滅させながら、白いトヨタ・マークXが小学校の校門から入ってきた時には、生徒の姿はまばらになっていた。
俊一君はまだグラウンドにしゃがみこんでいる。
車のドアが開いて、運転席と助手席からは大柄な男性が、そして後部座席の運転席側のドアからは小柄な女性が姿を現した。
私のママ――
朝、私が起きた時間には既に姿がなかったので、ママは真夜中に呼び出されたのだろう。長い髪が少し乱れていた。小さい頭におでこは大きな富士額。
黙って座っていると「良家の子女」だが、実際は松本警察署の刑事だ。
その両脇を固める二人の男性は、百八十センチ近い長身と登山で鍛えた体格、短く刈り込んだ髪と真っ直ぐ通った太い眉、切れ長の目とおおきな鷲鼻だ。そして――
「うわ、本当によく似ている。あれで双子じゃないの?」
サトちゃんは、私のママの姿が見えたところで、残る二人がその部下である馬垣さんと榊さんであることを了解した。実物を見るのは初めてのはずだけれど、私から話は聞いていたのでさほど驚かない。
山根先生は何も知らなかったので、やっぱり驚いた。
「えっ、双子じゃないんですか」
目を丸くしている。
松本警察署刑事部刑事課笠井班の三人は、私に気がつくと三者三様に反応した。
馬垣さんは軽く会釈をした。
榊さんは大きく手を降った。
ママは盛大に眉をひそめた。
そのまま三人が近づいてくる。
「お久しぶりですね、瞳子さん」
「おはようございます、馬垣さん」
「おや、今回はすぐに分かりましたか」
「もちろん、小学生相手に会釈する警察官は、馬垣さんぐらいです」
隣では榊さんが山根先生に挨拶をしている。
「松本警察署の榊と申します」
「小学校の図書室で司書をしております、山根と申します」
「あ、図書室の先生ですか。それはそれは申し訳ございません」
「あの、別に謝られることは何もございませんが」
「や、これはどうも。昔から図書室というと、先生によく叱られていたものですから」
「ああ、声が大きいと」
「そうそう、それです」
榊さんは背中を少しだけ屈めながら頭をかき、山根先生はそんな榊さんを見上げながら笑う。
その向こうでは、
「山田さん、おはよう」
「鞠子さん、おはようございます」
「電話で呼び出されたから来たのだけれど、これはすごいわね」
「そうですね。ところで鞠子さんは刑事課だから、小学校の校庭にいたずら書きがあったぐらいでは出動しないのでは。民事の可能性もあるし」
「相変わらず鋭いわね。今回は別件との関連性を探りにきたところよ」
「別件って――ああ、それ以上は捜査上の秘密ですか」
「そういうこと」
本妻と、その後釜をねらう女の争いが繰り広げられていた。
(もっともママは気がついていないが)
馬垣さんが、グラウンドにしゃがみこんでいた俊一君に近づいていく。
「なにか見つかったかい」
「――複数の靴の跡と、棒を立てた跡があった」
俊一君がぶっきらぼうに答える。
「棒の跡?」
「そう」
「そうですか、ふむ」
「……怒らないの?」
「えっ、何故ですか」
「だって、僕が勝手に犯行現場を動き回ったために、重要な手がかりを荒らしてしまったかもしれないでしょう」
「ああ、それね。それなら私の上司から怒らないように言われているんだ」
そう言って馬垣さんは、校庭の外から全体を見回しているママのほうを見た。俊一君もつられてママのほうを見る。
「もっとも、言われなくても怒る気はなかったけどね。君は非常に慎重に歩いているようだったから」
「――そうですか」
俊一君は立ち上がった。
「後は宜しくお願いします」
「分かった。それから――」
馬垣さんは背筋を延ばすと、
「貴重なアドバイスを有り難う」
と言って、敬礼をする。俊一君は顔を真っ赤にすると、そのまま何も言わずに校庭を慎重に横切り、端に出た途端に教室のほうへ走っていってしまった。
私は、初めて彼の小学生らしい姿を見ることができた気がした。
ここで一時間目の授業が始まる時間となり、私とサトちゃんは後ろ髪を盛大に引かれながら教室に向かった。だから、ここから先の話は私がママから後で聞いたものになる。
馬垣さんは校庭の地上絵を慎重に見回りながら、俊一くんが観察した内容を確かめた。確かに、残された足跡から「複数の人間が極めて整然と動いた」ことが分かる。
さらに棒を立てたような丸いへこみが規則的に並んでいるのも、俊一くんが指摘した通りだった。
榊さんはデジタルカメラで丹念に写真を撮っている。ジャングルジムの上から鳥の全体像を撮影し、次にいくつかのブロックに分けて部分を記録してゆく。足跡や棒の跡もいくつか撮影した。
ママは校庭の端から動かずに二人の様子をじっと眺めていたが、実際は頭の中に記録した校庭の画像を上から見た姿に変換していた。
『メンタル・ローテーション』と呼ばれるこの能力と、『瞬間視』とを組み合わせることで、ママは好きな角度から世界を再生することができた。
馬垣さんと榊さんが、作業を終えてママのところに戻ってくる。その時には、ママも全貌の把握を終えていた。
「これは、ナスカの地上絵の描き方を再現したもののようね」
「そのようですね。棒の跡も等間隔に並んでいます」
馬垣さんも同意した。
「えっ? ナスカの地上絵って、大きすぎて地上だけで描くことができない、という話では?」
「榊、いつの時代の話をしているんだ」
「ナスカの地上絵の規模でも、紐と棒と根気さえあれば描けますよ」
ママと馬垣さんがつっこむ。榊さんは残念そうな顔で、
「なんだ。宇宙人が手伝ったという話はガセですか」
と言った。馬垣さんは苦笑しつつ、懐から二つ折りの紙を取り出して開く。
「ともかく、鳥というキーワードが共通していますが、直接的な結び付きはさそうですね」
ママは黙っている。榊さんも、なんだか合点がいかなそうな顔をしていた。
「ただのいたずらじゃない気がするんだけどなあ」
「榊、合理的な説明は可能か」
「いえ、できません。ただの勘にすぎませんが、共通点を持つ出来事が、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じ場所で、偶然起きる可能性を検討するよりは、隠れた繋がりを検討するほうが合理的ではないでしょうか」
榊さんの勘はよく当たる。また、後半の言い分ももっともだった。ママは馬垣さんの手元で風に揺れている紙を見つめた。
この紙は、本日午前四時頃、警察署の窓口に直接投函されたものである。警備用カメラの画像が確保できたが、徒歩でやってきた『特徴を念入りに消したらしい男性』の姿が残されていた。
紙の一番上には『宝石と魚が絡み合った紋章のような絵』が描かれており、その下には明朝体でこう書かれている。
「ショコラ・デ・トレビアンが鳥とともに謎を奪いにきました」
(これは、いつにも増して明解な挑戦状だな)
と、鞠子は思った。
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