第十三話 真の目的(九月十六日 覆面怪盗)

 時計を見ながら、福岡邸の混乱した様子を想像した。

 松本市内のほとんどのデリバリー業者に電話して、同じ時間で配達を指定しておいたので、家の周囲はスクーターだらけだろう。

 そうでなくとも狭い道だから身動きすら取れないに違いない。

 覆面怪盗は微笑んだ。


 *


 松本市営美術館の夜間通用口のチャイムがなった。

 警備員がモニターで来訪者を確認してみるとピザの宅配人が立っている。ヘルメットを被ったままの姿に警備員は舌打ちをした。

 ――まったく最近の若いやつは礼儀を知らない。

 応対する声も横柄になった。

「ピザなんか頼んでないよ」

 インターホンでそう告げると、バイトらしき配達員は激しく狼狽してもそもそと何かをつぶやくと、情けない声で言った。

「店に確認したので、電話を貸して貰えませんか」

 女の声だった。

 人の良い警備員がドアを開けると、小柄な配達員が中に入ってきた。

 ヘルメットの側面に派手な書体で外国語らしき言葉が書き連ねられている。警備員がヘルメットに気をとられていると配達員が言った。

「本当にごめんなさい」

 謝る必要はないと言う前に、彼は薬品の匂いがするハンカチで鼻と口を塞がれた。

「あなたの仕事を奪ってしまいました」

 警備員は薄れてゆく意識の中でその言葉を聞いた。


 ピザのデリバリー業者を装ったのは、そのほうが深夜に歩き回っていても不信感を抱かれなくてすむということからだった。

 ユニフォームはインターネットで購入し、ピザの箱は前日にホテルから注文した店の空箱だった。

 警備員に使った薬品はインターネットでも入手可能だったが、意識を失わせるだけにとどめるには注意が必要だった。

 薬品でも当て身でも、あまり過剰な刺激は生命の危機に直結する。

 怪盗はハンカチを密封式のプラスティックシートの中に注意深く入れてから、ヘルメットのバイザーを押し上げた。刺激臭の名残が鼻をついた。

 警備員室の中を見回して、館内の防犯カメラの映像がモニターに表示されているのを見た。そばに警報装置のスイッチがあったので、それを定時巡回用のオフモードにした。

 常駐の警備員を置いている場合であっても、美術館のような施設には外部の警備会社と契約していることが多い。

 それも、警備員室にある警報装置のマスタースイッチを解除してしまえば、無用の長物となる。

 地方の公共施設に、それ以上のハイテク装置を設置するほどの資金力はない。

 美術館の年間予算とその使い道については、図書館にある年次会計報告書を見れば一目瞭然だった。

 警備予算というリスク回避のための情報をセキュリティがないに等しい状態で公開するという、極めて能天気な行政の有り様に怪盗は苦笑した。

 怪盗は、ヘルメットを脱ぐと警備員室の机の上に置いた。

 ヘルメットの下から黒い布にはでな刺繍いりの覆面が現れる。

 警備員をクリアしても監視カメラはある。予算から見て、警備会社が常時監視するタイプではなさそうだが、油断は禁物だ。

 覆面はそのための道具であり、自分にとって怪盗という非日常の存在になりきるための必要な儀式である。派手な刺繍は、目や口などの印象を記憶させないための隠れ蓑だ。


 美術館の中を懐中電灯で照らしながら進む。

 誰もいないと思って電灯をつけたために、周囲からの通報で逮捕される、ということがありうる。

 目的の絵は常設展示室の中でもとりわけ目立たない隅のほうに、ひっそりと掛けられていた。構図も記録に残っている通りだった。

 女の子地蔵に封印されていた妖怪が、すっかり改心したことを村の娘に語っている場面が描かれていた。

 巻尺を取り出すと、描かれたその情景のある点からある点までの長さをいくつか測る。

 印刷や写真では捉えられないほどのわずかなおうとつが、その目印になっている。日中の衆人環視の中ではとてもできないことだった。

 絵の何箇所かにあるそのような点について長さを計り終えると、カードを取り出して、絵の右側の壁面に貼り付けた。

 そのカードには、

『ショコラ・デ・トレビアンが女の子地蔵の導きを頂きました』

 と書かれていた。

 簡単な作業を終えると、怪盗は絵をそのままにして、入ったルートを逆に辿って警備員室に戻った。

 知らぬ間に残したかもしれない痕跡を注意深く探る。

 例えば、ポケットから道具を取り出した時に、一緒にコンビニのレシートを落としたことに気がつかなかったとしよう。

 そのレシートからは実にいろいろなことが分かる。買い物した日時から、カメラの映像に残された姿が手に入るかもしれない。

 買ったものを見れば、男性か女性か、独身かどうかぐらいは推測できるかもしれない。

 店によっては、性別などの簡単な顧客情報を店員が入力している場合がある。

 そこで、痕跡が残っていないことを確認しつつ、怪盗はあえて松本市外のコンビニで拾った他の人のレシートを一枚、くしゃくしゃにして現場に落としておくことまでした。

 意識を失っている警備員の隣を抜けて、置いておいたヘルメットを被る。

 ピザの箱はそのまま警備員室に残す。どのみち警備員の証言からピザの店員が疑われるのは間違いないし、箱に指紋のたぐいは残さないように注意していた。

 箱に注文者を追跡するための隠し番号が記されているかもしれないと想定したが、ホテルの宿泊は偽名だった。

 防犯カメラに記録されていることも考えて、かつらやサングラスで変装しておいたので、そこから正体がばれることはないだろう。

 むしろ、ピザの箱に振り回されてもらったほうが好都合である。

 また、手ぶらであれば外の防犯カメラに記録されていた場合に、何も盗んでいないことの証になる。

 今回は今までよりもリスクが高いので、偽装工作は念入りにやっておいたほうがよい。

 最後に自分の行動を一通り振り返って、怪盗は納得した。

 よし、ここまでは何も問題はない。

 作者のシナリオ通りだ。


 怪盗は、手ぶらで夜間通用口から外に出た。

 正面玄関は常夜灯でぼんやりと照らされている。

 玄関前の広場にさしかかった時、前の公道から美術館に入るところ、歩道の上に男が二人立っているのが見えた。

「こんばんは」

 男のうち、向かって右側にいたほうが言った。

 彼はこんな不可思議な状況なのに、落ち着いている。

 つまりは警察官だ。

「松本警察署の榊と申します。連れのほうは同じく松本警察署の馬垣」

 左側の男が頭を下げる。

 ――双子にしか見えないのに名前が違う。何か事情でもあるのだろうか。

 怪盗はそんな場違いなことを考えていた。

「ショコラ・デ・トレビアンさんですね。笠井警部が想像していた通りだった」

 そう言いながら、二人は一瞬いぶかしげな顔をした。

 当然だろう。怪盗は何も持っていない。

 予告状まで出して他の犯行現場に目を向けさせていたのに、何も持たずに美術館から出てきたのだから、彼らの当惑は当然だった。

 しかし、そのまま男達は近づいてきた。

 ――笠井警部。

 その名前を聞いたところで、怪盗には今回の計画が失敗に終わった理由が、不明な部分は残るものの、何となく理解できた。

 ――ああ、逮捕されるのだな。

 こうなることも想定して準備はしておいたものの、とても残念なことだった。

 ――何よりもあの子が悲しむ。

 そう思うと胸の奧のほうに鋭い痛みがある。頭が重い。

 ヘルメットを外して覆面姿になっても、男達はゆっくり向かってきた。

 途中で彼らの足が止まる。


 覆面で制限された視界の左側から誰かの背中が割り込んできた。


 思わず後ずさったが、そのゆったりとした動きからは、何の脅威も感じられなかった。いや、むしろ守られている安心感がある。

 身動きせずに背中を見つめていると、男の声がした。

「早くお逃げなさい」

 聞き覚えのある声だった。

 怪盗は名前を呼びそうになり、かろうじて堪えた。そして、その声の指示に従って、美術館の裏口に向かって駆け出す。


 榊と馬垣は想定外の出来事に困惑した。

 怪盗が何ももっていないこともそうだが、それでも怪しい人物であることに変わりはなかったので、職務質問をしようと考えていた。

 美術館には警備員室があるはずなので、そこで事情を聞くこともできるだろう。

 しかし、そこで他の人物が割り込んできた。捜査の過程で、怪盗が複数であることも想定はされていたが、実行犯は残された足跡や目撃証言などから単独犯だと考えられていた。

 それが二人。

 しかも、派手な覆面と狐面。

 狐面は縁日で売られているプラスティック製の安物ではない。木彫りと思われる重厚感すら感じる、見事な面である。

 狐面の男の隙のない立ち姿に、実行犯のほうを取り逃がしてしまったものの狐面のほうを逮捕すればよかろうと判断した二人は、間合いを縮めた。

「ふふ」

 榊の耳に笑い声が聞こえてきた。

 馬垣だった。

 榊は身震いした。

 ――馬垣が喜んでいる。

 非常にまずかった。

「おい、馬垣」

「なんですか」

「なんですかって、お前、素人相手になに考えているんだよ」

「素人じゃありませんよ」

「なんだって」

「見て分かるじゃないですか。あれはなかなかだ」

 榊にも分かっていた。割り込んできた時の間合いの取り方や、怪盗の前に立った時の佇まいから、相手がかなりやっかいな相手であることはわかっていた。

 しかし、馬垣にかなう相手ではない。

 榊は知っていた。

 馬垣の実家がただのさくらんぼ農家ではなく、先祖代々、連綿と続く古武道を継承する家系であることを。

 馬垣と組むようになってから「絶対に他のものには漏らさない」ことを約束させられて、その上で教えられていた。

 そのことは流派の中と、やむをえず周囲のかなり親密な者だけが知っていることだった。


 彼の流派――微塵流は隠された流派だ。


 馬垣がにやにやしている。いつもの冷静さはどこにもない。こちらが馬垣の本質なのだろう。

 普段の姿は、流派を秘匿するために身につけた、いわば刀に対する鞘のようなものだった。

(こうなると止めようがない)

 榊は一歩下がって、邪魔をしないようにした。

 怪盗が逃げ去った後も、狐面の男はひっそりと立っていたが、ゆっくりと左足を前に伸ばしはじめた。そして、そのつま先をゆっくりと回転させて、周囲に円陣を描いた。

 もちろん、美術館はアスファルトに固められているので実際には見えない。見えないはずだが、その場にいる榊と馬垣にはその円がくっきりと浮かび上がって見えていた。


 馬垣は想像した。

 自分が槍であることを強くイメージする。

 空間を切り裂き進む一本の鋭く尖った槍だ。

 腰を落とし、右足を後ろに体重を前の左足にかける。

 そして静かに息を吐く。

 狐面の男は、構えることなく、静かに立っている。

 背中の毛が逆立つ。

 構えのない柔らかな相手は、たいていが強敵だ。

「微塵流飛走一ノ形、槍風。参る」

 最後の息を吐ききるように低い声でそう宣言すると、馬垣は右足を前に踏み出した。

 姿勢を低く保って、両腕は身体に密着させて走る。

 狐面の男が、腰を落として両腕を前にまっすぐ伸ばした。

 馬垣のうなじの毛が逆立つ。


 狐面の男の左側に駆け込み、その勢いをそのまま回転運動に変える。

 左足のハイキックを繰り出す。

 遠心力も加わって、まともに受ければ骨ごと粉砕する。

 狐面の男の顔面にあたると思った刹那、下からの衝撃で左足が上に跳ねた。

 狐面の男が右手のひらで、馬垣の左足のくるぶしを弾いたのだ。


 身体をひねりながら、今度は後頭部への右足での回し蹴り。

 狐面の男は振り返りつつ、左手のてのひらで馬垣の右足のくるぶしを下から上に跳ね上げる。


 馬垣はとんぼを切りながら退避。

 腹ばいで着地すると同時に、低い位置からの右ストレート。

 左足のうらで、右手首を内側からはじかれる。


 はじかれる力を利用しての左足ローキック。

 左手のひらで左足くるぶしを打たれて、はじかれる。


 馬垣は大きく後方に飛んで、間合いを広く取る。

 狐面の男は最初の円から外に出なかった。

 それどころか、最初に立った位置から足の置き場所すら変わっていないように見えた。

 そのことが馬垣には嬉しかった。

 ただ嬉しかった。

 全力を出すことができたのは、父がまだ健在だった五年前までである。

 その父を超えてしまった後、彼が持てる力をすべてぶつけてもよい相手は、誰もいなかった。

 その馬垣の力をもってしても、目の前の相手に全く歯が立たない。

 彼は今まで、相手が一般人だと思って一応の手加減をしていた。

 しかし、すべての攻撃を正確に弾き返すためには、かわす以上の力の差が要求されるはずである。

 ――つまり、全力を出しても何ら問題ない相手だ。

 彼は笑みを浮かべて、それから丸い刃を思い浮かべた。

 ――次は一撃必殺、微塵流飛走ニノ形、円月!


 馬垣は側転した。

 一回、二回。

 回転を重ねるごとに加速する。

 五回転目、遠心力を地面から垂直方向に向けて跳躍する。身体を丸めてさらに加速した。

 相手の間合いに入ったところで、右足のかかとにすべての遠心力を集中する。

 膨らんだ円の力は、立ちふさがるものを容赦なく叩き潰す。

 回転の先にある防御の形に組まれた腕を押し潰す。


 ――はずだったが、その位置にはなにもない。

 さらに下から、揃えられた足の裏が延び上がって、馬垣のかかとを弾き返した。

 馬垣の身体は遠心力を無駄に放出しながら宙を舞い、かろうじて打撲程度に収まりそうなほどの強さで、地面に叩きつけられた。


 馬垣のかかと落としを、

 後方に身体を反らして、

 両足を下から上に伸ばし、

 自分の足の裏で馬垣の踵を受け、

 そのまま弾き返してしまった男は、

 そのまま、身体を伸ばして円の中心に立ち上がった。


 その一部始終を、榊は呆然と見つめていた。

 馬垣の攻撃は、警察官にあるまじき破壊力を持っていた。

 普通の人間がそれをまともに受けたら、間違いなく死んでいただろう。

 それが、いとも簡単に封じられてしまった。

 いや、正確に言うとまったく相手にされなかった。

 狐面の男が姿を消すまで、榊は身動きできなかった。


 榊が自分を取り戻して馬垣のところに近づいてみると、馬垣は笑っていた。

「ずいぶんと派手にやられたな」

「いや、やられたわけじゃない」

「なんだよ、負け惜しみかよ」

「違う。そうじゃない。俺はただ自分から岩に激突しただけだ。こんなのはただの自損事故でしかない」

 そう言って、馬垣は身体を起こそうとしたが、上体すら持ち上がらなかった。

「ここまで俺をないがしろにできる人は、この世に二人しかいないはずなんだ。ひとりは微塵流四天王、堅守。そしてもうひとりが――」

 馬垣はそこで気を失ってしまった。

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