第十四話 覆面作家の正体(九月十七日 瞳子)

 月曜日。

 今日は敬老の日なので学校はない。

 瞳子の頭の奥のほうには、にぶい痛みがある。

 いつもならば夜の二十時には必ず寝ているのだが、昨日は洋が夜になってから外出しないかとずっと聞き耳をたてていた。

 結局そのまま寝てしまったので、洋が外出したかどうかは分からない。洋が覆面怪盗として鞠子に逮捕されていたらどうしようかと思う。

 耳をすましてみると、キッチンから朝食を準備しているらしい物音が聞こえた。

 瞳子は飛び起きて階段をころげるようにして降りた。

「ああ、おはよう。階段は走っちゃだめだよ」

 キッチンにはいつも通りの洋がいた。

 湯気で眼鏡が曇っている。目玉焼きが軽やかな音をあげている。レタスもパリパリした姿ですましている。パンをトーストするくすぐったい香りがする。

 すべてがいつも通りだ。

 瞳子は泣いてしまった。

 洋は何も言わず、温かいココアを瞳子の目の前に置くと、椅子に座って彼女が泣き止むのを待っていた。

 しばらくして、瞳子がおずおずとココアのカップを持ち上げて飲み始めた時、表に車が停まる音がした。

 鞠子がとても疲れた様子で、キッチンに入ってくる。

「ただいま」

 と言って、鞠子は瞳子の顔を見た。

 泣き顔の痕跡を見つけたのだろう。少しだけ真剣な眼差しで瞳子を凝視した後、笑顔になって瞳子の頭を撫でた。

 瞳子は恥ずかしくなって、ココアのカップで顔を隠す。鞠子がテーブルに着くと、洋はコーヒーを前に置いて言った。

「昨日は大変だったようだね」

 瞳子は少しだけ身体を震わせた。

「うん、ちょっとね」

 そう言って、鞠子はコーヒーを一口飲み、顔を上に向けて大きく息を吐いた。

 はりつめた空気が一緒に吐き出されて、再び前を向いた時には穏やかな顔になっていた。

「ありがとう。パパと話をしていなければ気がつかなかった。狙いは別なところにあったのよ」

 洋は私の目の前にトーストしたパンを置きながら、頷いた。

「女の子地蔵はいくつかの絵がつながっているシリーズだったのよ。ショコラ・デ・トレビアンの狙いは最初から松本市営美術館のほうだった」

 そこで鞠子は小さく溜息をつく。

「それを気づかれないようにするため、予告状を別な場所に送って、捜査を撹乱した。確かに予告状には絵を盗むことは書いてあったけど、場所はなかった」

 事件が一応終わったことで気が緩んだらしい。

 鞠子は瞳子が聞いていることも忘れて、事件の経過を話していた。

「ここまで気がついておきながら、美術館のほうに仕掛けた罠が破られてしまった。絵は無事だったけど、彼女をとり逃がしてしまった」

「彼女?」

 瞳子は思わず声を出してしまった。

 洋と鞠子に見つめられて顔が赤くなる。

 鞠子は瞳子がいる前で事件の話をしてしまったことに、ちょっとだけ『しまった』という顔をした。

 しかし、ここまで聞かれてしまった後で途中から仲間はずれにするわけにもいかないと決めたのだろう。にっこり笑うと、そのまま話を続けた。

「そうなの。犯人は女性なのよ。美術館に進入した方が防犯カメラに写ってのだけれど、その姿から推定したショコラ・デ・トレビアンの性別は女の子だったのよ」

「顔は写っていなかったの」

「それが、ピザのデリバリー業者を装っていたため、ヘルメットを被ったままだったのよ。ピザの箱でカバーまでして。よく計算されていて憎たらしいぐらい」

「逃げられたということは、美術館のほうはノーマークだったのかな」

 洋が言った。

「榊と馬垣を配置したわ。私の推測にすぎないから、他の警察官は動員できなかった。でも、そのことが裏目に出た」

 鞠子はまたコーヒーを啜る。

「ショコラ・デ・トレビアンを追い詰めたところまではよかった。しかし、大男二人が美術館の敷地内にいるのを不審に思った一般人が、駆けつけてきて馬垣を倒してしまった」

 鞠子は眉を潜める。

「彼は表には出さないけれど、かなり武道の腕前が高いのよ。それでも倒されてしまった」

「馬垣さん、怪我をしたの?」

「病院に運ばれて、そのまま入院してしまったわ。命に別状はないけど、回復には時間がかかりそう。でも、変なのよ」

 鞠子はそう言いながら片方の眉を上げた。

「お医者さんの見解だと、馬垣には自分から倒れたような打撲傷しかない。しかも、馬垣のやつ――」

 鞠子は背中を反らして腕を組んだ。

「鎮痛剤の影響かとも思ったのだけれど、実に楽しそうなのよ。犯人逮捕の邪魔をされたのだから公務執行妨害に違いないのに、一般人の善意だし、ただの私的な勝負で自分が勝手に倒れたのだから民事だといって認めようとしない。これでは罪を問えないわ」

「馬垣さん、Mなの?」

「そうじゃないけど、まあ、似たようなものでしょう。それにしても――」

 鞠子は組んだ腕をほどいて、膝の上に置いた。

「そもそも目的をそらすために、別なところに贈り物攻撃をするなんて、ずるい」

「贈り物?」

「あら、そういえば瞳子は、前日に宅配便がたくさん届いたことは知らなかったわね。そして昨日はデリバリー業者の波状攻撃よ」

 そのことを聞いて、瞳子の頭の中でいくつかの欠片がはまった。

 鞠子はとても疲れていたためか、瞳子の表情の変化に気がついていなかった。

「少し寝るわ」

 そう言って、寝室に去る。

 洋はさすがに瞳子の表情に気がついており、いたずらが見つかってしまった子供のような顔をした。

 細かい点は不明だけれど、瞳子には少なくとも一つのことが分かった。

「パパが覆面――」

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