第一話 始まりの朝(九月十二日 瞳子)

「……よう、朝だよ。おはよう、朝だよ」

 枕元の目覚し時計が、いつも通りの明るい声で世界の始まりを告げていた。

「うー」

 少女はうなりながら、少しだけ乱暴にアラームの停止ボタンを押す。

「今日も一日、頑張ろうね!」

 目覚し時計は、手厳しい殴打の直後であるにもかかわらず励ましの声を送るが、御主人様の意識はなかなか浮き上がってこない。健気な言葉は聞き流されてしまった。

 少女は自然の摂理に逆らって少しずつ目を開く。そして、徐々に形を鮮明にしてゆく世界と、真実を告げる目覚し時計の表示をにらんだ。

 デジタルの数字が「九月十二日の朝六時を二分過ぎています」と教えている。目覚し時計は二分前から彼女を起こす努力を継続していたらしい。

 部屋の中には、わずかに少女の体温がこもっていた。

 ――寝ている間に身体から生気が抜け出し、周囲に漂っている。

 そこで彼女は軽く頭を振り、おかしな想像を打ち消した。そしてまずは、両腕を布団から出して大きく伸びをする。

「むふううん」

 思わず変な声が出てしまったため、布団の中で顔を赤らめる。

 続いて彼女は、具沢山なサンドイッチから摺り落ちるレタスのように、ベッドの端を使ってゆっくりと布団からい出た。

 目をこすりながら南向きの窓に近付いてカーテンを開ける。そして、クッキーを牛乳に浸すように朝日を身体全体に万遍まんべんなく染み込ませた。

「目を覚ますには、日光を浴びて体内時計をリセットするのが一番効果的だ」

 そう本に書いてあったので続けている朝の儀式、眠気を消し飛ばすためのお呪いだ。

 彼女はまだまぶたに重力を感じながら、窓の外を眺めた。

 途端、魔法のようにその重力が消えてなくなる。

「わーっ、綺麗!」

 今朝はとても天気がよかった。

 彼女の家は少しだけ高台にあり、前方には高い建物が一つもないので、南向きの窓からは右手と左手に山が連なって見える。

 しかもここは長野県松本市である。見えるのはただの山並みではなく、北アルプスと中央アルプスだ。それだけでテンションが急上昇する者続出のロケーションである。

 それに加えて、今日の空気は異次元と繋がってしまったのではないかと思うほどに澄んでいた。

 昨日の夜遅くに少し雨が降ったのだろう。手前の山の緑は葉の一枚一枚まで際立って見え、風にそよいでいた。あまりの鮮やかさに、寝ている間に世界が脱皮したのではないかと思ったぐらいである。

 ――しかし、そうなったら抜け殻の処理が大変だよね。

 彼女は少し笑ってしまった。

「今日の自分は元気が良い!」

 そう声に出して言ってみる。

 これもいつもの彼女のお呪いである。


 少女の名前は、笠井瞳子かさいとうこという。

 現在、小学校五年生。家族三人で長野県松本市に住んでいた。

 母親の笠井鞠子かさいまりこが生まれたばかりの瞳子の顔をまじまじと見つめて、もうこれしかないと思って付けた名前が示す通り、瞳が大きい。

 しかし、それよりも額が広いとよく言われるので、本人は不満だった。そのため黒髪を長めに伸ばして、普段はおでこを隠し、残りの髪はツインテールのおさげにしていた。

 食べ物の好き嫌いはほとんどないが、ネギがちょっと苦手で、イクラとトマトが大好物である。

 趣味は読書とお絵かきで、インドア派かというと運動も嫌いではない。得意技は一輪車とスキップという、まあ言ってみれば普通の小学生だ。

 瞳子は、カーテンだけでなく部屋の窓まで開けてみた。すると、部屋に入り込む夏の名残の日差しの中に、秋の気配がかすかに混じっているような気がする。

 彼女はその気配を大きく吸い込むと、続いて祖父から教えてもらった体操を始めた。


 *


 瞳子には、兵庫県神戸市に住む祖父と祖母――ママのパパとママと、宮城県仙台市に住む祖父と祖母――パパのパパとママがいる。どちらも長い休みに訪ねて行くと歓迎してくれた。

 神戸の祖父と祖母は、遊びに行くと神戸市内はもちろん、京都や奈良などの史跡や神社仏閣を案内してくれる。祖父は大学の歴史の先生、祖母は中学校の先生をしていたが、いまはすっかり悠々自適の生活を送っていた。

 仙台の祖父と祖母は昔から続いている豆腐屋である。朝早く起きて、もうもうとした湯気の中で豆腐や油揚げを作っていた。

 仙台の家には母屋の隣に広くてがらんとした板敷の離れがあって、渡り廊下でつながっている。

 その離れが何のためにあるのか、瞳子には分からない。祖父に聞いてみたことがあるが、彼は笑って答えてくれなかった。ただ、その代わりということで、彼女は遊びに行く度にその離れで、祖父から新しい体操を教えてもらうことになった。

「他の人には決して教えてはいけないよ」

 と、祖父から何度も繰り返し念入りに注意されたその体操は、左右の腕をひらひらさせる動作、後ろに下がると見せかけて前に出る動作、ロボットダンスのような動作、それらを組み合わせたものである。

 ただ、体操を教えてくれる祖父の動きを見ているだけで、次第に頭がくらくらしてくるので、瞳子は大変に困った。

 前に父親の笠井洋かさいひろしが離れに来て、その場面に出くわしたことがある。

「お父さん、やめてくださいよ」

 いつもは穏やかな洋が珍しく迷惑そうな言い方をしたので、瞳子は驚いた。

「いいじゃないか。いつか何かの役に立つかもしれないし」

 そう言って祖父は笑っていたが、洋は困惑した表情を浮かべたままだった。

 仙台の祖父については他にも逸話がある。

 祖父が松本まで遊びに来たので、洋と瞳子が案内役となって一緒に市内まで出かけた時のことである。

 市議会議員選挙が近かったため、松本駅前広場では立候補者が何人かマイクを持って演説していた。

 祖父は、その中の一人、年齢がひときわ若い男性をじっと見つめると、つかつかと歩み寄って大きな声で言った。

「いや、大変感動しました。お若いのによく街のことを考えていらっしゃる。応援しますぞ。ぜひ頑張って頂きたい」

 そう言いながら、相手の腕を取ってぶんぶんと振り回す。最初のうちはあっけにとられていた男性もすぐに満面の笑みを浮かべ、最期には涙までにじませながら手を握り返していた。

 男性が見送る中、悠々と立ち去る祖父の背中を少し離れて見ながら、瞳子は洋に尋ねた。

「おじいちゃん、長野に住んでいるひとじゃないのに投票できるの?」

 洋は苦笑しながら言った。

「できないよ。でも、彼はあの体験から街のために全力で何かをしようと思うかもしれない。そういうつもりでやったんじゃないかな」

 当時の瞳子には、その理屈がよく分からなかった。


 *


 瞳子が祖父から教わった動きを丁寧に繰り返していると、階下から洋の声が聞こえた。

「ご飯だよー」

「着替えたらすぐ行くー」

 パンの焼ける香ばしい匂いを嗅ぎながら、瞳子は急いでパジャマを脱いだ。


 着替えを終えた瞳子が一階のキッチンに入った時、大きめのダイニングテーブルの一角では鞠子が行き倒れていた。

 黒いパンツスーツは汚れていないものの、あちこちに細かい皺がよっている。

 小さな顔はテーブルの上に組まれた両腕の上に乗っており、肩の下まで伸ばした長い髪はテーブルの上で乱れ、富士額が見事に露出していた。

 瞳はいつもであれば鋭く輝いているのだが、今はきつく閉じられていた。

 黙って座っていれば、いかにもフルートを吹きそうな良家の子女に見える容姿だったが、実は長野県警松本警察署の刑事だ。

「ママ、張り込み明けで今帰ってきたばかりだから、起こしちゃ駄目だよ」

 洋がフライパンのふたを押さえながらそう小声で言ったので、瞳子はそろりそろりと歩いて、いつもの自分の席に着いた。

 鞠子の前では入れたてのコーヒーが湯気をあげている。しかし、彼女が動く気配はなかった。

 いつもならゾンビのようにゆらりゆらりと前後に揺れつつもコーヒーだけは飲むのだが、今日はその余力すら残っていないらしい。

「あー、昨日は随分と無理をしちゃったんだね」

「そのようだね」

 と言いながら、洋はフライパンの蓋を上げた。立ち昇る湯気。蒸し焼きされた目玉焼きがフライパンの真ん中におとなしく収まっている。

 洋には湯気がよく似合う。

 四十五歳とは思えないほど立派な総白髪で、しかも天然パーマであったから、ところどころが丸まっている。それを、整髪料で無理矢理後ろになでつけていた。

 縁なしの丸メガネの向こう側で、大きめの瞳が常に穏やかに笑っている。よく見ると睫毛まつげが長く、女性の部下からうらやましがられることがあるらしい。

 身長は百七十五センチを少し超えるぐらいあるものの、小太りなので威圧感は全くない。

 会社では「カーネルさん」の愛称で親しまれていて、休みの日に洋の会社で開催された運動会に呼ばれた時、瞳子もその現場を目撃して驚いたことがある。

 なるほど、湯気がよく似合うはずだ。

 食卓の上にはスライスされたトマトが置かれ、隣に塩が添えてあった。土曜日に新村の交差点の手前にある野菜直売所で購入したものである。

 瞳子はトマトが大好物だ。ちょっと早めに取り過ぎて青臭い香りを放っているトマトも、ぎりぎりまで粘ってれに熟れたトマトも、等しく好きである。

 また、いろいろな食べ方の中でも、塩だけつけるシンプルな食べ方が一番好きである。これが食卓の上にあるだけで瞳子のテンションは急上昇した。

「いただきまーす」

 瞳子がしばらく食べることに集中していると、外から、

「とーおーこーちゃーん」

 という声がした。親友の山田聡子やまださとこが迎えに来たのだ。

 ――小学生が友達を呼ぶ時の音程は万国共通なのかな?

 そんなことを考えながら瞳子は箸の動きを加速させた。

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