第二話 覆面怪盗の噂(九月十二日 鞠子)
結局、鞠子はその日の昼になってから自宅を出た。
前夜から今朝にかけての
長野県警松本警察署の駐車場に愛車のトヨタ・ブログレを停めてエンジンを切ると、鞠子はハンドルに
広域指名手配中の犯人に似た男がアパートの一室に潜伏している、との情報が入ったのが三日前。刑事課の刑事が、交代でその場所に張り込むことになった。
まずは本人を目視で確認し、脈がありそうな話であればそのまま行動確認、所謂「行確」に移行することになる。
鞠子は深夜に前の組と交代して、そのまま明け方まで粘っていたが、朝になって三日ぶりに部屋から出てきた男は、どう考えても他人だった。
整形の可能性を疑う余地はない。丸顔から馬面にする手術というのは無理がある。
この稼業に無駄足はつきものだが、それでも夫や娘とまともに話をする時間すらとれないのは辛い。今朝も鞠子が目を覚ました時には、洋は会社に、瞳子は学校に行ってしまった後だった。
誰もいないキッチンの机の上に、保温タンブラーが置いてある。洋が準備したものだろう。
中身はコーヒーに違いないので、鞠子はのろのろと動いて食器棚からカップを取り出し、コーヒーを注ぐためにタンブラーを持ち上げた。そこでやっと、下に敷かれている紙に気がつく。
――やれやれ、目までお留守とはね。
と、苦笑しながらふたつ折りの紙を開くと、一言「がんばれ正義の味方」と書かれてあった。娘は昔からこんな風に手紙をくれる。
「正義の味方、か」
ハンドバックの中から小銭入れを取り出し、その中にしまってある古ぼけたバッチを取り出す。これを見るのは久しぶりだった。
正義の味方だと思っていた人からもらった、正義の味方の証。
正義の味方が命を懸けて取り戻してくれた、正義の味方の証。
そういえば昔の正義の味方には、変身後の時間制限や生まれながらの弱点が初期設定されていた。けれど、それがいつの間にかなくなってしまったような気がする。
最初は弱虫でも、努力と根性で弱点を克服し、最後には人間の枠を超えた何かになってしまう正義の味方が多い。
弱みがないことは、本当によいことなのだろうか。
鞠子は苦笑して、そこで妄想を打ち切ると車のドアを開けて外に出た。夏の名残の日差しの中に、秋の
鞠子が席について一息ついたタイミングを見計らって、
「笠井班長、昨日はお疲れ様でした」
「うん、まあね」
鞠子はあいまいな返事を返すと、
「いいから本題」
と、榊を促した。
榊は苦笑いを浮かべながら、
「例の件を調べておきました」
と言い、真新しい茶封筒を鞠子の机に置く。
「榊」
鞠子の言葉に含まれる温度が下がったことを察知し、榊の顔は強ばった。
「昨日の晩、見張りの交代後はそのまま自宅に帰るように指示したはずだけど」
榊はさらに
これだけの資料を一晩で集めるために、榊がどれだけ他の署の担当者に頭を下げまくって、メール添付で送って貰ったかはなんとなく想像がついた。
だが、ここは一般企業ではない。上司の指示には無条件で従うよう求められる世界だ。
鞠子のように実績を積み上げることで班長まで昇格することは出来ても、鞠子のように既定路線からはみ出してしまったら、その行き着く先、組織の中に自分の永続的な居場所を見つけることは困難になる。
彼らをそのような茨の道に導きたくはなかった。
「はい、すみませんでした」
榊は神妙な顔で謝る。
「まあ、しかし、よくやったと誉めておこう」
鞠子は書類作成の努力そのものを、別に評価した。
榊はとたんに笑顔になった。犬ならやはり盛大に尻尾を振っていたことだろう。裏で鞠子のことを「ツンデレ上司」と読んでいるらしいが、デレの意味が違うような気がする。
嬉しそうな榊の顔を見ていると、少々むかついたのでそのまま放置することにした。
茶封筒の中身を取り出して、自分の机の上に出す。最初に現れた報告書の表面には、明朝体でこう書かれていた。
『ショコラ・デ・トレビアンによる連続窃盗容疑』
――実にシュールだ。
警察官になってから、鞠子は様々な事件に遭遇してきた。
しかし、本件の特異性さは桁違いである。県警本部の会議でお偉いさんが並ぶ中、同じく県警本部所属のいけすかない
「えー、その、ショコラ・デ・トレビアンと申しますのは――」
まずい、これはツボにはまる。
彼女は急いで資料を持ち上げると、頭の中の切り替えスイッチをオンにした。視線を固定して資料全体にピントをあわせて、そのまますべての文字を映像として記憶する。
さらにキーワードとなりそうな部分を赤字に変換して、検索キーとした。
最後に頭の中の引き出しに日付ラベルを貼って、そのなかに記憶した書類を収納する。
すべての書類についてその作業をするのに、一分とかからなかった。瞬間視と画像記憶、そして脳内収納術。
鞠子の特技だ。
「相変わらずすごいですね」
榊があきれた声で言った。これも放置して、鞠子は本格的な内容精査を始めた。
*
ショコラ・デ・トレビアンは、「おそらく」長野県内に限定して犯行「らしき」ものを重ねている。
その点が
しかしながら、長野県は戦国時代の昔から地方豪族がそれぞれの縄張りを持ち、覇を競っていた土地柄である。
その流れが現在でも市区町村ごとの競争意識となって残っており、警察署も自治体と同様に競争意識が強い。
従って、県警本部が主導する案件であっても、市区町村が
ショコラ・デ・トレビアンが最初に犯行を行ったと思われるのは、松本市の旧家である。その家の蔵の中に大切に保管されていた古い本が盗まれたらしい。
この「思われる」「らしい」というのは、いつ犯行がおこなわれたのかが分からない上に、蔵の中には整理途中の古書が大量に保管されていたので、何が盗まれたのかはっきりと分からなかったためである。
ただ、蔵の土間の真ん中にカードが一枚残されており、そこに、
『ショコラ・デ・トレビアンが、古い本の謎を頂きました』
とだけ書かれていた。
その後、諏訪市、上田市、長野市、松代市、佐久市の順に三ヶ月に一回の頻度で犯行が行なわれたらしい。
最初の松本市の事件が出口の見えない迷路に入りかけていた時、他の所轄でも似たような事件が発生していると、偶然、県警本部の知人から榊が聞きつけた。
連携が悪い上に対抗意識も強いので、なかなか所轄の捜査情報を横断的に見ることができなかったのだが、それでも榊が必死に相手を口説き落として入手したのが、鞠子の目の前にある資料である。
それを並べて見て、初めて共通点があることが分かった。
いずれも現場にもショコラ・デ・トレビアンの名前が書かれたカードが残されていた。
また、いずれの現場でも、盗まれたものが何であるのか特定できなかった。何も盗まれていない、と断言する家すらある。それではカードを残す意味や、次々に侵入を続ける目的が分からない。
ただの家屋侵入マニアにしては手が込み過ぎている。
空き巣にも専門分野や得意技があって、盗まれたものや手口から容疑者が浮かんでくる場合があるのだが、今回はかすりもしなかった。
ただ、ある現場で派手な
そのことから、その見事な手口とあわせて「覆面怪盗」という名称で呼ばれることもあった。
無論、警察が事件報告の中で覆面怪盗などというふざけた名称を使うことは、普通はない。
しかしながら、覆面怪盗が自称している「ショコラ・デ・トレビアン」という名称のほうが破壊的であるために、本件に関してはやむをえず通称として利用されることがあった。
もちろん、記録に残る者は正式名称で統一されている。
*
鞠子は榊に聞いてみた。
「ねえ、君は大学の第二外国語で何を選択した?」
「俺は中国語です」
――使えない。
とはいえ、鞠子もドイツ語を履修したので使えないのは同じだ。
「ショコラ・デ・トレビアンでしたら、フランス語の文法的におかしいと思いますよ」
そんなことを言いながら、コーヒーを二杯持って
「笠井班長の分です。どうぞ」
と言って、一つを鞠子の机に置く。
「馬垣」
「はい」
馬垣は、鞠子の言葉の温度が下がったことを全く気にしない。
「君も家に帰らなかったのか」
「いえ、帰りました」
「では、どうしてショコラ・デ・トレビアンの話をしていることが分かった?」
馬垣は自分のカバンの中から、タブレットPCを取り出して言った。
「榊からメールのコピーが随時入っていましたから、彼が何をしているのかはリアルタイムで分かります。そして、榊ならば笠井班長が出署した途端に、その話を持ち出すだろうと予測しました。最後に、笠井班長の机の様子から出署したばかりと判断しました」
なるほど。私は出署して直ぐに机周りを整えると、必ずコーヒーを入れるようにしている。コーヒーがないのに榊と話をしているところから推測したということか。
……いや、まだだ。
「続けて」
馬垣はにやりと笑った。
私が、彼の話に続きがあることに気づくかどうか、試したに違いない。
「はい。聞こえたのは大学の第二外国語の話からです。心理学専攻の笠井さんは十中八九、ドイツ語を選択したと思います。榊の中国語に残念そうな顔をしておられましたが、榊の性格からすると外国語でも中国語なら漢字だからなんとかなるだろう、という理由で選択しても不思議ではありません。むしろ、他の選択肢のほうが意外です。従いまして、他の言語である少ない可能性に賭けてみたのだと推量しました。であれば、残るはフランス語ぐらいです。後は勘で、ショコラ・デ・トレビアンという言葉の文法上の整合性を確認しようとしていたのではないかと――」
「ちょっと待った」
榊が割り込んだ。
「何で俺が中国語を選んだ理由まで、勝手に推測して――」
「違うのか」
「違いましたか」
二人に同時につっこまれ、実際にその通りだった榊は何も言えなくなってしまった。
馬垣は榊と違って、非常に要領がよい。
百八十センチ近い長身と登山で鍛えた体格は、仏像を思わせるほどの威圧感がある。短く刈り込んだ髪と、まっすぐ一本通った太い眉。目は切れ長で鼻はおおきな鷲鼻だ。
ただ困ったことがある。
二人とも外見はそうなのだ。
地元志向であれば出会うこともなかったはずだが、榊は信州に遊びに来て景色に惚れ込み、馬垣は生来の山好きが高じて、長野県で出来る仕事を探し求めた結果が、地方公務員の警察署勤務だった。
榊と馬垣はほぼ同じ時期に採用されているものの、県警本部の受け入れ窓口は別々である。
榊は内勤希望であり、上高地を有するから松本警察署を希望したのだが、馬垣は山岳遭難救助隊員を視野に入れていたために、ヘリの基地がある松本空港に近い松本警察署への配属を希望した。
そして、実際にそうなった。
初日、二人が並んでいるところを見て、署員全員が仰天した。榊も仰天したそうだが、馬垣はさほどでもなかった。
それほど、二人とも見た目が全く同じ、双子のような他人の空似だったのである。二人は学年まで一緒だったが、性格はまったく違っていた。
四月の早生まれである榊は、熱血漢で考えるよりもまず行動するタイプである。馬垣は三月の遅生まれで、落ち着いて熟考するタイプであり、パソコンに強い。
よく馬垣のほうが年長だと間違われて、榊が憤慨している。
松本警察署の刑事部刑事課勤務になったのは、ビジュアル的に面白そうだからだ、という話がまことしやかに流れていた。
確かに身長百五十五センチの鞠子の両側に、榊と馬垣が鎮座しているところは、相当インパクトがある。
「馬垣、資料はもう読んだな」
「はい」
「どう思う」
「まだ何も」
馬垣と話をするといつもこうだ。お互い、必要ない情報は省くので、短い言葉の応酬になる。
鞠子がさらに掘り下げて馬垣に意見を聞くべきか迷っていた時、榊の机の上にある電話が鳴った。
「はい、松本警察署刑事課、榊です」
榊が応対する。相手の声が電話口から漏れていた。鞠子と馬垣はバックを取り上げて、外出する体勢を整える。
さあ、事件の始まりだ。
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