第三話 繋がる
自宅に戻ると、ランドセルを置く間ももどかしく、私はオバケのところに駆け寄った。
お菓子の空き缶の中で十分に昼間の光を浴びたのだろう。
それは乳白色のテニスボールほどの大きさの毛玉になっていた。
手洗いした程度だったにもかかわらず、染みや汚れは見当たらない。
触れてみると予想したよりも柔らかく、柔軟剤で洗濯したかのようだった。
ということは、これが本来のオバケの本体ということになる。
研究資料で見る一般的なオバケの姿と感触は、「ごわごわとした硬めの毛髪」というものだった。
お菓子の空き缶ごとダイニングテーブルに移動して、その日の宿題をしながら横目で眺める。
(動いたりするのかな)
心理的には、浜辺で生き物の巣穴の前に座り込んで、中から何かが出てくるのを期待しているのに等しい。
オバケなのだから、
一応、その昔は恐怖の対象だったのだから、
何かとんでもない挙動を見せてくれるのではないかと期待する半面、実際にはこんな毛玉がどれだけ頑張っても、小学生を驚かすだけの力はないに違いないと冷静に考えてもいる。
そうなのだ。
一般にはまだ知られていないが、オバケの本性がある程度解明されたことにより、専門家のオバケに対する接し方が真逆になってしまっているのだ。
過去の恐怖に彩られた伝説的なオバケは存在しない。
実際には人間に対して直接的・物理的影響を及ぼすこともできない、せいぜいが暗がりから変な姿で飛び出てくるのが関の山の毛玉である。
まだ一般人が多い昼であればともかく、彼らは未だに人目を避けて姿を現す。
そして、人を脅かそうと試みる。
ところが、夜は「狩人の時間」だ。
オバケに恐怖心を感じない者たちが跳梁跋扈する時間だ。
それに、オバケを捕獲してオバケの研究をしている機関の下請け業者に売却すると、貧相なものでも百万円以上の値がつく。
立派なオバケを捕獲できたら、サラリーマンの年収ぐらいは稼ぐことができる。
それ専用の法人すら設立されているのだ。
私が見つけたこのゴルフボール状の毛玉でも、おそらく三百万円はくだらないと思う。
窓際に置いておいたのはまずかったかもしれない。
そんなことをつらつらと考えているうちに、宿題も終わってしまい、やることがなくなってしまった。
今日のご飯が届くまでにはまだ二時間ぐらいはあるだろう。
私は本格的に毛玉を弄ぶことにした。
*
ダイニングテーブルの上を片付けて、柔らかいタオルを一枚その上に引く。
そこにお菓子の空き缶から取り出した毛玉を丁寧に映してみる。
室内とはいえエアコンからの風があり、空気が掻き乱されているはずなのだが、毛玉はそよとも靡かない。
試しに息を吹きかけてみる。
やはり毛玉は動かない。
むきになって勢いよく息を吹きかけてみたが、その隣にあった宿題のプリントが飛んでしまい慌てる。
紙をかき集めて端をそろえている間もまったく動いていない。
物理法則が異なるというのは本当らしい。
しかし、その一方で撫でてみると滑らかな毛触りは感じられるのだから不思議だ。
さわさわと撫でる。
毛足の長い猫はこんなものだろうか。
本当は犬か猫が飼いたい。
放置されているのだからそれを要求する権利もあると思う。
ここは一軒家の自宅でマンションではないから、賃貸契約の条文に縛られることもない。
しかしながら、母親の動物の毛に対するアレルギーがひどいために、自分の家で毛のある動物を飼うことはできないのだ。
はたしてオバケの毛はアレルゲンになるのだろうか。
触れるのだから物理的な存在ではあるのだろう。
しかし、この手触りの良さは癖になる。
さわりさわりと撫でているうちに、なんだか小さな可愛らしいペットを飼っているような気分になる。
さわりさわり。なんだか愛おしいと思う気持ちも出てくる。
さわりさわり。掌が心なしか暖かい。
さわさわ。何かが指先から流れ出て、オバケに流れ込んでいくような気分。
静電気だろうか。
さわさわ。いつまでも触り続けていたい。
とても可愛らしくて愛おしいもの。
――ざわり。
驚いて手を引っ込める。
今、オバケが少し動いたような気がしたのだ。
少し離れて見つめる。別に変ったところはない。
前と同じくエアコンの気流にすら反応していない。
もっとよく見ることができるように、恐る恐る顔を近づける。
動きはない。
私の息でそよいでもおかしくないほど近くまで顔を寄せてみる。
動きはない。
詰めていた息を強く吐き出してみる。
動きはない。
気のせいかと思い、大きなため息をつく。
そして、その反動で大きく息を吸い込んだところで、
オバケはころんと転がって、私の頭の上に駆け上っていった。
*
乳白色というのだろうか。
濃度を感じる白い空間の中に、私はふわふわと浮かんでいるようだ。
オバケが頭の上に駆け上った直後、テレビの番組が切り替わるように私の周りの世界が切り替わった。
不安は何故か感じない。
むしろ安心感につつまれているような気分である。
足の裏に柔らかいものを感じるので、どうやら立っているらしいのだがふわふわとしている。
柔らかい絨毯や毛布の上とも違う。
そう、これは、
大きな猫の背中に立っているような感じ、というのが近い。
(驚かせてしまって、申し訳ない)
落ち着いた声がした。
聞こえてくるというよりは、音つきで頭のなかに吹き出しが再生されたというほうが近い。
おかしな感じ。
普通の会話が相手に向かう矢印、つまり方向性を持ったものだとすると、今の声はマンガの吹き出しのようなものが、話し手ではなく聞き手の頭の上に間違えておかれたような気がする。
(理解が早くて助かる)
また声がした。
「あなたは誰?」
(やあ、私は君に助けてもらったオバケと君たちが呼ぶものだ)
目の前の乳白色の空間、私の目線のたかさより少しだけ下に、『それ』のふわふわとした姿が浮かぶ。
(このほうが話しやすいだろうか)
「ありがとう」
(それから、わざわざ声帯を震わせる必要はない)
「えっ…と」(これでいいかな)
(それでよい)
『それ』は微かに上下する。
(まずは助けてもらった礼をいわなければならない。それから、事情説明も必要と思う。そこで、少しだけ君の情報を借りてもいいだろうか)
(あ、うん。どうぞ)
同意した途端に、世界が変わり始めた。
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