魔性篇◆CASE9:鬼神
外には雪が降り積もり、子供達のはしゃぐ声も、ここには届かない。
魂夜堂では、いまや日課となった弥生の訓練が行われていた。
『想像するんだ、己の命を注ぎ込むような』
「はい」
じっと火のついていない蝋燭を見つめる弥生。時折炎が上がるものの、それが燃え続けることはない。
集中している弥生の額には、冬にもかかわらず玉汗が浮かんでいた。
〝燃えろ、燃えろ……〟
弥生は腹の底から念じるけれども、一向に炎が燃え上がることはない。
『コツさえつかめれば、うまく行くはずなんだけれど、つかむまでが大変ね』
卯月の言葉に、弥生ははあと肩の力を抜いた。
「卯月、最近身体の調子はどう?」
横から見ていた夜竜が、鏡の向こうの卯月に話しかける。卯月は笑って、
『こうして人と話すだけでも随分気持ちが変わる。大分良くなったよ』
「そう、その調子で長生きするのよ」
『はは、長生きしても夜竜には及ばないとは思うけどな』
「いいえ、わからないわよ。卯月だって立派な闇の一族の血を引くものですもの」
穏やかな会話だが、精根を使い果たした弥生は会話どころではなく、机にへばっていた。
それを横目で見た夜竜が顔をしかめた。
「弥生ちゃんってば、だらしないわね」
『全くだ。これくらいでへばってどうする』
この二人にかかれば、弥生に反論の余地など生まれるはずもない。
〝なんで俺の周りって、強い女の人ばっかりなんだろう……〟
「弥生、何か言った?」
「いえ、何も」
弥生の考えていることはお見通しである夜竜の笑顔が、怖い。
鏡の向こうで卯月は難しい顔をして、
『私の教え方が、悪いのかもしれないな……』
「あら、卯月はきちんと教えられていると思うわよ。でもね、色がわからない人に色を教えることは、とても難しいことですもの。仕方ないわ」
『そうだな……』
と、誰かが魂夜堂の扉を叩いた。
「誰か来たみたい」
「あ、卯月さん、お客さんが来たみたいなので」
『わかった。また明日な』
「はい」
卯月の姿が消えたのを確認して、弥生は鏡を片付けた。
「扉は開いているわ。お入りなさい」
「お邪魔する」
低い声が聞こえて、魂夜堂に一人の男が入ってきた。そしてそのまま深々と夜竜に頭を下げた。
その人物は雪のような白い髪を乱雑に伸ばし、古風な戦士のような装束をまとっていた。半分ほど布で覆っていて、顔は認識できない。
「あら、雪夜叉じゃない」
夜竜が驚いたような声を上げた。口角を上げた男は、そっと布を取り払った。
「久しくなるな。夜竜殿」
雪夜叉と呼ばれた男の顔を見た弥生は、はっと息を呑んだ。雪のように白い肌に、金色の瞳は縦に割れている。そして極めつけは、額にある黒い角。大人の親指ほどの長さしかないが、黒光りしていて妖しい。
これがただの人間であるはずがない。弥生は直感的に彼が人間とともに暮らしている闇に棲まうものではないと思った。今で出会った人の中で暮らす魔性の者達は、もっと人間くさい雰囲気を纏っていたが、目の前のこの人物は違う。異質感を隠そうともしていない。
なぜか、警戒するように弥生は態勢を変えた。それを横目で見た夜竜は小首をかしげた。
「雪夜叉、この子は弥生。閻魔から聞いている?」
夜竜の言葉に、雪夜叉は弥生を見て、ふっと微笑んだ。その笑顔を見て、弥生の中の黒いものがざわめく。
〝なんだ……これ……〟
そんな弥生の様子を気にするでもなく、雪夜叉はうんと頷いた。
「こちらが弥生殿か。うむ、閻魔様から聞いている」
「そう、弥生、この人は雪夜叉。見ての通りの鬼よ」
「はじめまして」
強張る声を出しながらも、弥生は脳裏に浮かんだ鬼の像と、目の前の雪夜叉を比べてみる。
〝赤くないんだ……〟
抱いていた印象との違いにまじまじと見つめていた弥生に、ぶふっと夜竜が吹き出した。
「弥生ちゃん、今、鬼なのに赤くないんだとか考えてたでしょう」
「まあ……」
だけど、それだけではない。雪夜叉の持つ何かが、弥生の中に在るものを刺激している。
「そうだ、雪夜叉、閻魔はどうしてる?」
「お変わりはない」
と、知っている名前が出て、弥生は夜竜を見た。
「雪夜叉さんと閻魔さんって、どういう関係なんですか?」
夜竜は微笑んで、
「雪夜叉は獄卒なの」
「ごくそつ?」
聞きなれない単語に、弥生は首をかしげた。雪夜叉が穏やかに微笑みながら、
「地獄の番人のことだ」
弥生は目を剥いた。
「じ、地獄とか、本当にあるの……?」
夜竜は少し考える顔になり、
「弥生がどう思っているかによるけど、地獄はあるわよ。ほら、閻魔が罪を集めていたでしょう?あれを浄化する場所よ」
雪夜叉はただ何も言わずに微笑んでいるだけだ。それなのに、なぜか弥生は嫌悪感を覚える。
嫌悪感というよりも、不快感。雪夜叉自身にというよりも、雪夜叉の纏う雰囲気に、弥生の中に在る何かが激しく反応している。
「弥生、どうしたの?」
「……えっ」
弥生がはっとすれば、夜竜が心配そうに弥生の顔を覗き込んでいた。
「いや……」
どうかしたのかと聞かれても、弥生に答えるすべはない。弥生にも言葉に出来ない感覚なのだ。
「夜竜殿、弥生殿は邪気に反応しているのだろう」
と、雪夜叉が静かに言葉を挟んだ。
「邪気……?」
訝しげに眉をひそめる弥生に、あ、と小さな声を上げた夜竜。
雪夜叉の金色の瞳を見るたびに、背筋がざわざわとし、胸がむかむかする弥生。
「ごめんね、弥生。この頃すっかり弥生が普通の人間でもあるってこと忘れちゃう」
「そこは大事なところなので、忘れないでください」
弥生が呆れたように言うが、夜竜は悪びれもせず、
「私にとっては些細なことだから。雪夜叉は獄卒だって言ったでしょう?」
「うん」
「人の中に棲む鬼を狩るのも、雪夜叉の仕事なの」
その言葉に、弥生は首をかしげた。
「鬼なのに、同じ鬼を狩るんですか?」
「厳密には同じじゃないのよ」
「我は人間に宿る鬼を狩るのだ。人間の心に生まれる、鬼をな」
雪夜叉は目を細めて、弥生を見つめる。弥生は、血が沸騰するかのような衝動を覚えた。
かっと、雪夜叉が目を見開いた。
「っ」
赤く染まる、瞳。
それに捕らえられた弥生は、動けなくなる。
「心の中に棲む鬼に気づかず、己で制御しきれずに、身を滅ぼす者達を幾人も見てきた。人間の心には黒く醜い鬼が棲むものだ」
「鬼……」
「それを我らが狩ってやらねば、弱き人間はすぐに悪にとりつかれる」
弥生の頭に浮かんだのは、テレビのニュースで取り上げられるニュースだった。無差別殺人、バラバラ殺人事件、放火――およそ人の所業とは思えぬような、凄惨な事件。
雪夜叉が赤い唇を三日月の形にする。その口元から、鋭い牙が覗いて見えた。
「たぶん、弥生ちゃんが考えているのは正しいわよ」
横から夜竜が口を出した。
「雪夜叉のような上位の鬼達が、人間達の心に生まれる鬼を引き受けているの」
「そう。夜竜殿、今日はそのことで話をしに参った」
すっと、雪夜叉の瞳の色が元に戻った。それと同時に弥生の体から力が抜ける。
「最近、鬼狩りに手が回らない」
「そうね、酷い事件の話を聞くたびに、どうしたのかしらとは思っていたわ」
雪夜叉はため息をついて、
「人間の数が増えたものあるが、それよりも鬼の生まれる頻度が増えた。とてもじゃないが我らだけではすべての鬼を狩りきれない」
「鬼を、制御できなくなった人が増えたということかしら?」
雪夜叉は頷いた。
「本来ならば、鬼も人の心の一部。己で制御できなければならないのだ。しかし時折、鬼が憎悪や悲しみを受けて、己で制御しきれなくなることがある。それを我らが狩るだけで良かった。しかし、最近は世界中どころか日本だけでも手が回らない」
「……私に何が出来るかしら」
「誰か、鬼狩りに手が回る者を知らないだろうか」
雪夜叉の言葉に、夜竜はため息をついた。
「知らないことはないわ。私が頼めば手を貸してくれるはず」
「ならば」
「でも、人が鬼を、自分の心を制御出来ないことには解決しない問題なのじゃないかしら」
雪夜叉は黙る。
「弥生は、人としてどう思う?」
「どう、って……」
「悲しみや憎しみに我を忘れてしまうことや、人の成すこととは思えない所業を行うこと」
弥生は少し考える。
悪びれた様子や反省の様子も見せず犯罪を行う人間達、己の欲のみで人を殺す人間達――。それを見た自分は、どうして、と思う。
弥生だって人間だから、誰かを許せないとか憎いと思うこともあるし、悲しみに気が狂いそうになることもある。それでも、自分を見失うまではいかなかった。
「人間の心が、弱くなっているような気はしてます。それか、心の箍(たが)みたいなものが外れてしまっているような」
「心の箍か、上手いことを言う」
雪夜叉がふっと息を吐いた。
「人の心に生まれる鬼を、自分で認識していなくちゃいけない。鬼という名の負の感情は、自分で制御できなくちゃいけない。だけど、それができなくなってしまうほど、人は迷い、狂う。私はそんな心の闇を解放するために魂夜堂を開いているわ。少しでも惑う人が減るように。雪夜叉達獄卒は、生まれてしまった鬼を狩ることで世に平安を与えようとしている」
「この世に生きるのは我ら鬼だけではない。夜竜殿のような竜も、弥生殿のような人間も、実にさまざまな種族が生きている。平安に生きたいのは誰もが同じだ。そうだとしたら平安を作るための努力をしなくてはならない。少なくとも、鬼に乗っ取られぬように自制する努力が必要だ。しかしそれがだんだんとできなくなっているのが、現実だ」
諦めたように呟く雪夜叉。夜竜はそっとその肩を叩いた。
「私達にできることは、ただ私達が手を出せる範囲で導くことだけ」
「……やることは昔も今も変わらないというのに、やらなければいけないことはどんどん増えていくのか」
「変わらないものなんてない。そしてきっと人間だって、変わっていくわ」
「そうだろうか」
雪夜叉は弥生を見た。弥生は、小さく頷いて、
「俺も、そう信じたい」
と言った。雪夜叉は小さく微笑んで、
「それなら、我もそう信じるか」
と、雪夜叉は弥生を見つめ、
「話は変わるが、時折弥生殿に黒く蠢くものが見える。鬼ではないようだが、なんだろうか」
「黒く……?」
夜竜は微笑んで、
「弥生は闇の一族の血を引いてるの。私にも最近、弥生が闇を飼っているのがはっきり認識できるようになってきたわ」
「え、本当ですか?」
微笑む夜竜に、弥生は驚いたような声を上げた。
「ええ、卯月と会ってからかしら。どんどん弥生のオーラみたいなものが強くなっているわよ。時々闇が見えるくらい」
「さっき、雪夜叉さんと向かい合ったとき、血が沸騰するかと思ったんですけど」
「我も感じた。あれが鬼ならすぐに狩ってやろうかとも思ったが、それにしては様子が違ったのだ」
夜竜はそっと弥生の髪に触れて、
「弥生なら、自分の鬼くらい自分でどうにかできるわよ。私が選んだ人間ですもの」
「そうかな」
「そうに決まってる」
夜竜の笑みに、弥生も微笑み返す。
「そうだな。そうやって己を強く持てば、鬼にとらわれることなどないのだ」
雪夜叉が頷いた。
「それでは夜竜殿、助太刀の件頼んでもよろしいだろうか」
「ええ、心当たりには連絡しておくわ」
「お世話になる」
雪夜叉が立ち上がる。
「あら、もう行っちゃうの?」
「ああ」
頷いた雪夜叉が右手を伸ばした。と、その手に纏わりつくように光のうねりが見える。その瞬間、雪夜叉が右手を一閃させた。
「それでは、失礼する。また会おう」
その右手に出現した、赤い長刀を肩に乗せ、軽く手を振った雪夜叉は魂夜堂を後にした。
「心の鬼って、どうやって生まれるんですか?」
「きっと、憎しみや悲しみにとらわれて、それしか考えられなくなって、狂ったときに生まれるんじゃないかしら」
「そっか……」
最近よく耳にする、耳を疑うような痛ましい事件。
しかし、弥生は首を横に振った。
「夜竜さん達は、鬼の所業だと言ったけど」
「うん?」
「いや、酷い事件とか……」
弥生はため息をついて、
「俺は、結局は人がやってることだと思う」
夜竜の漆黒に瞳が弥生を見つめた。
「うまく言えないけど、人は気をつけることを忘れちゃったんじゃないのかな。思いやることとか、なんかそういう簡単なこと」
「そうかもしれないわね」
「そうだとしたら、救いようがないよな」
弥生の言葉に、夜竜はそっと微笑んで、
「それでも、信じたくなるの、人はまだ変われるって」
「……そうだね」
夜竜はそっと弥生の肩に頭を乗せた。弥生はその肩を抱く。
「夜竜さんは、もしも俺が鬼に飲まれたらどうする?」
「愚問ね」
ふふっと夜竜は笑って、
「さっさと目を覚ましてもらうわよ。でも、鬼に飲まれるなんてふがいないパートナーを選んだ記憶はないわ」
「そっか」
「愛する人が、間違った道へと行こうとしたら、止めるのが愛だと思うから」
弥生は微笑んで、
「それじゃあ、俺も夜竜さんがおかしくなったら、止めなくちゃいけないな」
「ふふ、弥生ちゃんの癖に、生意気」
嬉しそうに笑う夜竜に、弥生も嬉しくなる。
「雪夜叉さんの仕事が減る日が来るといいな」
「本当にそうね」
まだまだ寒い日が続くが、それも魂夜堂には関係がない。
世の中のあちこちで鬼の慟哭が聞こえようと、それも魂夜堂には届かない。
いつもと変わらぬような穏やかな今日も、夜竜と弥生の関係は少しずつ変わっていく。
変わらないものはないと言った夜竜の言葉通り、きっとこの世に変わらぬものなどないのだろう。
それを証明するように、少しずつ強くなっていく二人の絆が、永遠に続けばいいのにと弥生はほのかに願っていた。
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