魔性篇◆CASE7:紅葉


「ちょっと遠出しない?」


 夜竜が突然そんなことを言い出したのは、十一月も終わりに近づいていたある日のことだった。

 外を歩いてきて、すっかり身体が冷えてしまい、魂夜堂で暖を取っていた弥生はきょとんと夜竜を見た。夜竜は、なにやら得体の知れない分厚い書物を読んでいる。


「遠出、ですか?」

「ええ」


 それ以上夜竜は何も言わない。傲慢で勝気な女主人で、最初は何を考えているのかもよくわからなかった弥生だが、一緒にいるうちに彼女の考えていることがなんとなくわかるようになっていた。


「どうしたんです?」

「ん?何?」

「なんかあったんですか?」


 弥生の言葉に、夜竜が顔を上げた。虚をつかれたような、そんな顔で。


「どうして?」


 小首をかしげる夜竜に、弥生は苦笑した。


「気づいてないんですか?なんか寂しそうですよ。夜竜さんらしくない」


 しばらく漆黒の瞳をしばたかせていた夜竜が、肩をすくめた。


「……弥生ちゃんには隠し事できなくなってきたわね」

「どんだけ一緒にいると思ってるんですか」


 弥生がそう言うと、夜竜はくすぐったそうに笑った。


「そうね。ちょっと、古い知り合いから使い魔が届いて」

「知り合い?」

「そう。ずっとずっと長い時を生きている人なの」


 夜竜は寂しそうに、微笑む。絶世の美女である夜竜が見せるそんな表情は、弥生の目に毒だった。冗談抜きで心臓を持っていかれそうになった。


「その人がどうしたんですか?」

「最期になる前に、私に会いたいって」

「え?」


 夜竜は、読んでいた本を閉じた。そしてどこか遠くを見つめるように、言葉を紡いだ。


「いくら、長い時を生きるからといって、やっぱり寿命は存在する。生きるものとしての定めだわ」

「そう、ですね」


 長い時を生きる竜である夜竜と、竜に比べたら短い時間しか生きられない人間の弥生。

 その夜竜の願いは、一生をともに過ごすパートナーを得るということだった。

 そして、そのパートナーとして選ばれたのが弥生だった。

 いつか弥生にも最期の日が来る。そのとき、夜竜はどんな想いをするのだろうか。

 そう思う反面、本当に闇の一族としての力を解放できる日が来ることを願っている弥生がいた。

 夜竜と、長い時を一緒に生きるために。


「週末、付き合ってね」

「はい」




 蜘蛛土竜に乗って夜竜とやってきたのは、隣の県だった。

 山に囲まれた里に近い場所に、都会の喧騒は届かず、穏やかな時間が流れている。

 木々は、黄色や赤に色づき、空は青くどこまでも透き通っていた。


「さすがに、寒いな」

「風邪ひかないようにね」


 ジャケットを羽織る弥生に対して、夜竜はなぜか着物を着ていた。髪の毛もきっちりと結い上げ、まるで別人のような印象を受ける。鶯色の着物は、夜竜を随分大人しい印象に見せていた。


「ところで、なんで着物なんです?」

「聞くのが遅いわよ」


 山道に向かって歩きながら、夜竜は笑った。下駄を履いた足で歩くには不自由な道も、夜竜は何事もなく進んでいる。


「紅莉(あかり)に会うときは、着物って決めてるの」

「へぇ?」


 夜竜の話によれば、紅莉というのが今日夜竜を呼んだ老齢の精霊らしい。


「それも、今日で最後だって思うと……やっぱり寂しいわね」


 そんなふうに他愛もない話をしながら山に入った二人がたどり着いたのは、穴倉のような場所だった。

 辺りを沢山の紅葉が彩っている。


「もう少しすると、ここも雪が積もるわ」

「そっか」

「紅莉、私よ」


 夜竜が暗がりの中に声をかける。しかし返ってくる声はない。弥生は、夜竜の顔が不安げにしかめられるのに気づいた。

 と、中からがさごそと物音がした。


「夜竜か」


 低い、しわがれた声が聞こえた。


「ええ、私よ」


 夜竜がほっとしたような声を出した。弥生もそっと胸をなでおろした。間に合わなかった、という最悪の事態は免れたらしい。


「入れ」

「わかったわ」


 夜竜が行きましょう、と弥生の手を引いた。並んで、狭い穴倉を進んでいくと、ぽっかりとひらけた空間に出た。しかし真っ暗で、弥生にはそこになにがあるのか認識できなかった。


「夜竜、一緒にいるのは誰だ?」


 地を這うような、低い声が近くで聞こえる。


「夜見弥生、私の伴侶よ」

「ほお、お前が伴侶を見つけたのか」


 伴侶、と言われるとくすぐったくて、弥生は苦笑する。しかし、暗闇に目が慣れてきても、さっぱり周りが見えなかった。

 それに気づいた夜竜が、この場所の主に声をかける。


「紅莉、光を灯しても良いかしら?弥生は暗闇で何も見えないの」

「おお、好きにするが良い。すまないな、わしにはもう、光は必要ないものでな」


 夜竜が、弥生には理解できない言霊を紡いだ。すると、いくつかの光の玉が二人を取り囲んだ。

 そして初めて、弥生はそこにいる老人の姿を認識した。地べたに胡坐をかいて座っている、古びた着物を着た老翁。枯れたようにやせ細り、じっと夜竜を見つめている姿は、どこか異様でもあった。


「……だいぶ、痩せたわね、紅莉」

「ふ、言っただろう、わしには時間がないと」


 紅莉の言葉に、夜竜が顔を歪めた。しかしその声は、しわがれてはいるものの覇気があり、しっかりしている。


「夜竜、顔をよく見せてくれ。わしはもう、立ち上がれんのだ」


 紅莉に呼ばれ、夜竜はそっと紅莉に近づいた。紅莉は目を細めて、夜竜の頬をなでた。骨ばった手が、かすかに震えていた。


「紅葉……」


 夜竜のことを紅葉と呼ぶ紅莉に、弥生は首をかしげた。


〝紅葉?〟


「若者、弥生といったか」

「あ、はい」

「夜竜を、頼んだぞ」

「はいっ」


 弥生は力強く返事をした。それに満足した紅莉は、低くのどを鳴らして笑った。


「夜竜、これを、見せてやれ」


 紅莉がゆっくりと胸元から何かを取り出した。夜竜はそれを受け取って、弥生に見せた。


「これは……」


 それは、一枚の古い写真だった。白黒の、薄汚れた写真に一人の少女が写っていた。

 弥生は驚きに目を見張った。その写真の少女が、どことなく夜竜に似ていたからだ。


「その子はな、紅葉というんだ」


 弥生は、語りだした老翁の言葉に耳を傾けた。


「生まれたときから、長くは生きられないといわれていた娘じゃった」


 夜竜がそっと目を伏せる。紅莉はしわがれた声で続けた。


「小さい頃から、紅葉はわしのところに遊びに来ていたんだ」

「紅莉は、紅葉の木霊なの」


 夜竜がそっと弥生に耳打ちをした。紅葉という名前に混乱しかけたが、紅莉は紅葉の木の精霊ということだとわかるのに時間はかからなかった。


「同じ名前の木を大そう気に入ったんだろうな。季節が変わるたび、わしの木の葉の色が変わるたび、毎年会いに来てくれた」


 独り言のように続ける紅莉。夜竜はそっと弥生の手を握った。


「夜竜さん……」


 その手が、震えていた。


「いつ尽きるかわからぬ命、それでも紅葉はわしに会いに来た。いつからか、わしは紅葉に会うのが楽しみになっていた」


 弥生の脳裏に、ある情景が浮かんだ。

 赤い葉が舞い散る中を、一人の少女が歩いている、そんな情景。


「木霊であるわしが、人間と相容れないのはわかっていた。それでも、毎回わしに話しかける紅葉に、耐えられなくなったわしは、姿を見せたんだ」


 紅莉は目線を上に向けながら、恍惚とした表情を浮かべていた。

 もしかしたら、紅莉には当時の光景が見えているのかもしれない。自分に笑いかける紅葉の姿が。


「最初は驚いていた紅葉も、すぐに心を許してくれた。わしもあの頃は若かったからな、いい話し相手になれた」


 紅莉は口元に笑みを浮かべる。


「病気をしていた紅葉は、寂しかったのかもしれないな。だから、木霊であるわしにさえ心を開いた。あれは、本当に気立てのよい、優しい娘だった」


 過去形で語られる、紅莉の過去。紅葉という名の少女との交流に、その光景を思い浮かべながら話を聞く。

 夜竜も弥生も一言も言葉を発さなかった。なぜなら、紅莉は過去を見ているから。

 紅莉の意識は完全に過去にあり、そこには夜竜も弥生も存在していないのだ。


「わしは、幸せだった。紅葉と言葉を交わせて。会うたびに、わしの葉を送ってな。紅葉が笑うんだ。また、新しい紅葉の葉をもらいに来ると」


 突然、紅莉の声が途切れた。夜竜が顔を上げた。


「……紅葉は、来なかった」

「「…………」」


 寂しげに笑った紅莉は、やっと現実に戻ってきた。


「幸せだったさ。少しの間でも、心を通わすことができて」

「紅莉……」

「夜竜、お前に初めて会ったときは驚いた。紅葉に似ていたから」


 夜竜は、紅莉の手に紅葉の写真を握らせた。


「夜竜、この老翁のわがままを聞いてくれてありがとうな」

「紅莉、礼には及ばないわ」

「いや、礼くらい受け取ってくれ。わざわざ着物にまで袖を通してくれた。お前に、逝く前に会えて、良かった」


 夜竜の顔が、歪む。弥生は、そっとその肩を抱いてやった。


「紅葉……わしもそろそろ、お前のところに逝くからな」


 そう言ったきり、目を閉じて眠ってしまった紅莉を残し、二人はその場を後にした。




 空の下に出ると、紅葉が散っていた。夜竜の着物を、紅葉が飾る。

 夜竜の目には、涙が光っていた。


「……夜竜さん、大丈夫?」


 ためらいながらも、弥生は声をかけた。夜竜は目を伏せたまま、涙をぬぐった。


「また、仲間が逝く」

「……」

「竜ってね、結構長生きだから……今までも、看取ってきたのよ、こういうふうに」


 弥生は、どんな言葉をかければ良いかわからず、じっと夜竜を見ていた。


「でも、何度さよならしても……慣れない」

「夜竜さん……」

「死は、誰にでも訪れるもの。だけど、やっぱり悲しい」


 弥生は、夜竜を抱きしめた。夜竜は弥生の胸に顔をうずめる。


「悲しいのは、当たり前だ」

「うん……」

「夜竜さんの友達なんだから」


 夜竜は、頷く。


「ごめんね、しばらく、胸借りるわよ」

「いつでも使って」


 一つに重なったままの二人を見守るように、風が吹いた。

 それに合わせて舞い散る紅葉が、まるで鎮魂歌を歌うようにさわさわとざわめく。



 一人の木霊が、この世を去るのは、それから数日後のことだった。




「そろそろ、帰りましょうか」


 そっと弥生から離れた夜竜が、笑顔を浮かべた。


「もう、大丈夫?」

「……ええ」


 そんな夜竜に手を貸して、弥生はふもとへの道を進む。


「あら?」


 と、夜竜が顔を上げた。


「どうかした?」

「……いえ、誰かが呼んだような気がして」


 夜竜が不思議そうに辺りを見回していると、そこに黒い影が近づいてきた。


「カラス……?」


 二人の前に、一羽のカラスが止まった。


「これは……使い魔ね」

「え?」


 夜竜はまじまじとカラスを見つめ、


「でも……これは、人間が使っているものね」

「ええっ!」


 意外な言葉に、弥生は大声を上げた。ガァ、とカラスが一声鳴く。


「に、人間って……」


 戸惑う弥生をよそに、夜竜は顔をしかめながら考えている。と、


「ガァっ……ダレダ?」

「「っ」」


 カラスが、言葉を放った。一気に夜竜の顔が険しくなり、弥生も言葉を失う。


「コノ土地ニ、入ッタ、オマエは、誰ダ?」


 顔を見合わせる夜竜と弥生。


「ここになら、何度か来ているけど……こんな歓迎は初めてだわ」

「オマエジャナイ」

「え?」


 カラスが、小さな頭を弥生に向けた。小さな瞳に睨みつけられ、弥生はたじろいだ。


「オマエハ誰ダ」

「えっ、俺?」


 あまりの出来事に、唖然とする弥生。と、夜竜が気配を変えた。豪と、風が爆発したかのような気を放ち、青白い燐を飛ばす。

 その漆黒の瞳が、じっとカラスを捕らえていた。


「お前こそ誰」

「私ガ聞イテイルノダ」

「名乗れ」


 弥生がたじろぐほどの、気配のぶつけあいだった。睨み合っていた両者だったが、軍配は夜竜に上がった。


「……使イ魔ヲ通シテデハ、分ガ悪イ」

「わかっているのならどうして姿を現さないの?」

「動ケナイカラダ」


 ガァっと鳴きながら言うカラス。夜竜は、そっと気配を抑えた。


「私ハ、卯月。芳シイ匂イヲ持ツオマエ、オマエハ誰だ?」

「「!」」


 名乗られた名前に、二人は言葉を失った。


「卯月……?」


 それは、弥生の母親の従姉妹にあたる人物と同じ名前だった。


「貴女は、夜見の一族の者?」


 夜竜が尋ねた瞬間、カラスが羽毛を逆立てた。


「オマエハ誰ダ!」

「待って、敵じゃない!」

「俺はっ、夜見弥生です」


 弥生が思わず名乗る。カラスが、ぴたりと動かなくなった。


「……夜見、ダト……?」


 そして、驚いたような声を放った。


「オカシイ、血筋ハ、途絶エタハズダ」

「俺は、夜見睦月の息子です」


 弥生が応えた瞬間、カラスが飛び立った。


「えっ」


 夜竜はすかさず右手を動かしていた。黒い影がカラスを追う。

 二体の使い魔が飛んでいった方向を見て、弥生は呆然と呟いた。


「今のは……」

「探し物の方から、出向いてくれるなんてね」


 夜竜がため息をついた。


「それにしても、使い魔をあれほど使うということは、卯月という人は相当な術者ね」

「……でも、俺の名前を聞いた途端、いなくなった」


 弥生は不安げに、


「母さんと、何かあったのかな……?」

「有り得るわね」


 夜竜はそっと弥生の肩に触れた。


「今日は、帰りましょう」

「でも!」


 今、夜見卯月の居場所がわかるというのだ。

 しかし、夜竜は首を横に振った。


「あれだけの術者だもの。準備は万端にしなきゃ」

「……戦うってことですか?」

「それは相手次第よ。今日のままだと、分が悪いわ」


 夜竜の言葉がにわかには信じられず、弥生は首をかしげた。


「夜竜さんの力が、及ばないってこと?」

「弥生、相手は闇の一族よ」

「…………」

「弥生は覚醒していないからわからないかもしれないけど、闇の一族は、私達の頂点に立つ存在なのよ」


 そういえば、夜竜がかつて、闇の一族は魔王のようなものだと言っていたのを、弥生は思い出した。

 夜竜はそっと微笑んで、


「夜見卯月が、動けないと言っていたのも気になるけど……準備するに越したことはない」

「そう、ですね」


 そういうものの、内心弥生は落ち着かなかった。


〝もしも……夜見卯月に出会ったら、何かが変わるのかな……〟


 漆黒の瞳が弥生を捉えていることに気づいていたが、弥生は顔を上げなかった。


「怖いの?」


 夜竜が、静かな声で尋ねた。弥生は俯いたままかぶりを振った。


「弥生ちゃん、もしもこれがきっかけで闇の一族として覚醒しても、弥生は弥生よ」

「……夜竜さん……」

「今までと、何も変わらないから、安心して」


 弥生は顔を上げた。そして、穏やかな笑みを浮かべている夜竜と目が合った。


「夜竜さんには、隠し事できないな」

「ふふ、当たり前でしょ」


 弥生も小さく微笑んだ。




 その頃、夜竜の使い魔はカラスが飛んでいった先へとたどり着いていた。そこへ近づこうとした瞬間、ばしゅっと不気味な音を立てて使い魔が何かにはじかれたように消えてしまう。


「……場所が、知れたか……」


 それは女の声だった。どこか、寂しげな女の声。


「弥生、夜見の一族の、呪われた一族の末裔か……」


 天を仰ぐ女は、いつか退治するであろう血族のことを思い浮かべながら、そっとその瞳を閉じた。




「……使い魔が消えたわ」

「え、大丈夫なんですか?」

「大丈夫。場所はわかったから」


 夜竜は微笑んで、


「ちょっと、どきどきする」

「なんで?」


 弥生が尋ねると、夜竜は明らかに落胆したような顔をして、


「弥生はどきどきしないの?もしかしたら、弥生の力が覚醒するかもしれないのに」

「……そっか」


 弥生は、むくれる夜竜の腕を取った。


「すねないでよ。夜竜さん、俺、ちゃんと最期までそばにいるから」


 夜竜ははっと弥生を見た。


「紅莉さんは、少しの間だけでも紅葉さんと心を通わせて幸せだったと言っていたし、幸せだったんだろうけど、でも俺は、夜竜さんと一緒にいたいから。いつまでも」

「……弥生……」


 闇のような瞳を揺らがせる夜竜が思い浮かべたのは、かつて自分を置いて逝った男の顔だった。


「弥生は、洸みたいに、置いて逝ったりしないんでしょ?」

「しない」


 確証はない。

 証明もできない。


 でも、その言葉だけで、今この時間を一緒に過ごしているだけで、夜竜には十分だった。


 それでも、やはり願いたかった。

 最期のときまで、こうして二人で過ごすということを。

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