魔性篇◆CASE5:魅了


「何してんですか?」


 始業直後の授業ともいえない授業を終えて魂夜堂に寄った弥生は不思議な光景に首をかしげた。


「ちょっとね」


 この魂夜堂には、新学期の喧騒も届かず、相変わらず静かで穏やかな時間が流れている。

 夜竜はいつもの椅子に座って、いつもの扇子ではなく珍しいものをいじっていた。


「それ、どうしたんです?」

「リキにもらったの」


 夜竜の隣に座って、一緒になって手元を覗き込む弥生。

 その手に握られていたのは、携帯電話だった。


「もらった、って……」


 夜竜はちらりと弥生を見て、


「いつでも弥生ちゃんに連絡できるようにって」


 夜竜の言葉に、弥生は目を丸くした。


「それに血が足りなくなったときは真っ先に連絡したいからって。一番に登録されてる番号がリキのだなんて、萎えちゃうわよね。まあ、あいつ名義だから仕方ないけど」

「ちょっと見せて」


 弥生は夜竜の携帯のメモリーを確認して、微笑んだ。そして自分の携帯を取り出して、赤外線で番号を送った。

 その様子を夜竜がきょとんと見ている。


「リキは気が利くんだね」

「どうして?」

「一番は確かにリキだけど、ゼロ番は空いてたよ。まあ、俺の番号を入れておいたけど」


 そう言って、弥生は夜竜に携帯を返した。

 受け取って、夜竜はふっと笑った。


「そう、0が最初だったわけね。盲点だったわ」

「で、使い方とかわかるんですか?」


 見た目は若いとはいえ、夜竜は高齢だ。

 夜竜は露骨にむっとする。


「失礼ね。携帯くらい使えるわよ。たまに紅亜に借りたりしてるんだから。この携帯の請求は全部リキに行くから、思う存分使わせてもらうわ」


 うふふと微笑む夜竜が怖い。心の中で、弥生は心の中でリキにご愁傷様とつぶやいた。


「それにね、掲示板を一つ作ったのよ」

「ん?」

「携帯版【魂夜堂】。普通の小さな悩みも聞いてあげようと思って」

「へぇ」


 本当にいろいろできるらしい。


「今日はね、遠いところからお客様が来るはずなのよ」

「ふうん?」

「前からの予定だったから、間違いはないはずなんだけど、もうお昼過ぎね」


 夜竜は時間を確かめて小首をかしげる。


「まあ、弥生も来たし、いっか」

「そういえば、なんで今まで携帯持ってなかったんです?紅亜さんに借りることもあったんじゃ?」


 弥生の問いに、夜竜はじっと携帯を見つめて、


「声が聞きたいときは、直に会いたいし、大事な用件なら使い魔を飛ばせば良かったからね」

「ふうん」

「あるにこしたことはないかもしれないけど……弥生がいたら、紅亜を呼ぶときとか、貴方に頼んでたでしょう、連絡」


 夜竜の言葉に弥生は吹き出して、


「俺は夜竜さんの使い魔ですか」

「あら心外ね」


 夜竜はふふと笑い、


「貴方は私の奴隷よ」


 と言ってのける。どちらにしろ大差はない。

 そんなことを言い合っていたときだった。


「こんにちは、夜竜。あら、お客様……?」


 弥生の身体がぞくりとざわめいた。

 その声は、妙になまめかしく、艶やかで、心を掴むようなものだった。

 身体を硬直させた弥生に、夜竜が苦笑した。


「こんにちは、セイレン。こっちは弥生。私のパートナーよ」

「あら、人間のパートナー?羨ましいことね」


 夜竜にセイレンと呼ばれた女性がしゃべるたびに、弥生は首根っこが持っていかれるような感覚に陥る。

 夜竜はおそるおそる女性の方を見た。


 そこにいたのは、不自然なほど長いスカートをはいた、金の髪を持つ女性だった。


「セイレン、ちょっと手加減してあげて。弥生がさっきからおかしいのよ」

「ふふ、ごめんなさい。でも、なかなかそうもいかないのよ」


 青い目が弥生を捉えて笑う。

 おかしなものだ。顔のつくりは普通というか、並の上くらいで、特別弥生のタイプだとかいうわけでもない。それなのに声を聞くだけで頭がくらくらするほどの快感を覚える。


「弥生ちゃん、大丈夫?」

「まあ、この人がただの人間ではないだろうなってのはわかった」

「ふふ、ごめんなさいね」


 夜竜は困ったように眉を下げて、


「聞いたことない?セイレンって」


 弥生はふと考えた。


〝なんだっけ……セイレン……あ!〟


「あれですか、海とかで旅人を殺……」


 そこまで言ってはっとして口を閉ざした。

 セイレンのほうはにこにこと微笑んでいるだけで何も言わなかった。


「貴方も身をもって体感してるでしょ、セイレンの声の威力は」

「まあ……」

「この魅惑の声で歌われたら、そりゃあひとたまりもないわよね」


 夜竜があっけらかんと言うが、そんな問題ではない。


「や、夜竜さんは平気なんだ?」

「あら、私は竜で、女だもの」

「うふ、私はかつて神々をも魅了したというのにね」


 セイレンが言葉を発するたびに弥生がもだえる。

 セイレンはその様子をほほえましいものでも見るような目で見ていたが、ふと表情を曇らせた


「私は歌うことが好きで好きで、ただ歌っていただけなのよ。海の精に生まれた私だもの、岩礁にいるのは不思議ではないわ。でも、そのせいで大勢の人が命を落としたの」

「セイレンがここに来たがっていたのも、これが理由よ。歌を歌いたい、それだけ」


 しかしセイレンは目を伏せ、


「私は、他の人達みたいに変身能力があるわけではないから、人前に出ればすぐにばれてしまうわ」


 セイレンの言葉に耳を傾ける弥生は、理性を保つのに必死だった。


「どういう意味ですか?」


 ぱっと見は人間にしか見えないが、変身能力があるわけではないという。

 セイレンはそっとそのスカートのすそを持ち上げた。


「!」


 そこにあったのは、鳥の足だった。

 言葉をなくす弥生に、セイレンはふふと微笑んでスカートを直した。


「弥生ちゃんは、セイレン伝説をあまり知らないみたいね」

「ああ……旅人を惑わす怪……精霊としか」


 まさか本人を前に怪物呼ばわりもできない。弥生は慌てて言い直した。


「言い直さなくてもいいわよ。本当のことだもの。下半身が鳥だなんて、人間から見たら化け物以外の何者でもないでしょう」


 セイレンの言葉に、弥生は腰が砕けそうになりながらも必死にそれに耐える。夜竜はそれを見ながら笑っている。


「ふふ、弥生ちゃん、セイレンはね、水辺の妖精でもともとはニュンペーだったのよ。とある女神に仕えていたのだけどね、その方が攫われてしまってから悲しんでばかりいたの」

「それが他の女神の怒りに触れて、このような怪物の姿に変えられてしまったのですよ」

「女神……」

「まあ、伝説ですけどね」


 そう付け加えたセイレンに、弥生は目を丸くした。


「伝説なの?」


 弥生は夜竜を見た。


「まあ、伝説といえば伝説ですけど。生い立ちみたいな。セイレンは海の精霊には違いないわ。生まれたときからこんな姿だけど」

「何が本当なわけ?」

「セイレンの声が他の人達を魅了したってこと。セイレンの種族がなんでこんな姿になったかなんて、その太古の昔まで遡らなきゃわからないわよ」


 夜竜が苦笑した。そして弥生がふと気づく。


「セイレン、って種族の名前ってことか?あれ、固体名とかは……」

「私達には名前はないわ。セイレンとだけ」

「そう、なんだ」


 弥生にはなぜか、妙にそれが寂しく思えた。


「ところで夜竜、本題なんですが」

「そうだったわね」


 夜竜は難しい顔をした。


「貴女の声を、どうにかしたい、そうだったわね?」

「ええ」


 セイレンは哀しそうに、


「私は好きな歌を思う存分歌いたいだけ。だけど、私が歌えば、被害が出る」

「大昔に大海の岩礁で歌うことを決めたセイレンがいるけれど、あそこでは船や飛行機が次々と消える怪奇現象が起こっていて、人間の間にも話題になっているし……」


 夜竜の言葉に弥生ははっとして、


「え、それってもしかして、例のトライアングル地帯……?」

「そうよばれることもあるわね。あそこには、いろんなものが棲んでるから、弥生ちゃんは近づかないようにね」


 真顔で釘を刺す夜竜。


「い、いや、行こうとも思わないけど……」

「それなら、私は思い切り歌ってもいけないの?」


 哀しげに目を伏せて、セイレンが言った。

 それに、夜竜がふふっと笑った。


「諦めるのはちょっと早いわよ」


 携帯を見せて微笑む夜竜に、弥生とセイレンが顔を見合わせて首をかしげた。


「セイレンの声は、防音設備の外までは届かないでしょう?」

「そんな設備の中で歌ったことはないから、わからないわ」

「それに、機械を通した声なら、何の効力もないんじゃない?」


 夜竜の言葉に、セイレンは首をかしげて、


「録音もしたことがないからわからないわ。そもそも私の声は録音できるのかしら?」

「機械が耐えられるかがポイントかしら」

「でも、そうだとしたら?」

「セイレン、貴女歌手になりなさい」


 弥生ばかりでなく、セイレンまでもがぽかんとする。


「私も上手くいくかどうかはわからないわ。でも、やってみる価値はあるんじゃないかしら?乙姫に頼んで、海辺の近くのスタジオを探していたのよ」

「でも、上手くいくかしら?」

「私はついてはいけないけど、一度やってみる価値はあるんじゃない?」


 そう言って夜竜はチラシを渡した。


「それがその場所。乙姫のお得意様が音楽関係のお仕事をしているらしいわ。腰砕けにしてやりなさいよ。向こうには乙姫もいるから」


 チラシを手にして目をぱちくりさせていたセイレンは、にっこりと微笑んだ。


「ありがとう、夜竜」


 その想いのこもった声に、弥生の方が腰砕けにされそうになった。


「あ、そうだわ。もしも歌手になるとしたら、名前が要るわ」

「名前……」


 夜竜が弥生を見た。


「え?」

「いい名前、考えてあげてよ」

「セイレンに、ってこと?」

「そう」


 夜竜に言われ、弥生は少し考えた。


「……海の精霊だし、歌が好きなら、精歌(せいか)なんてどうだろう?」

「セイカ、いい響きですね」


 セイレンが肯いた。


「それでは、私、頑張ってみるわ」

「くれぐれも、気をつけるのよ」

「ありがとう」


 セイレンは深々と頭を下げて魂夜堂を後にしようとした。


「あ、そうだ」

「どうしたの?」

「夜竜、ここに来る途中でファラに会いましたよ」


 その言葉に、夜竜が表情を変えた。

 どこまでも冷たい、硬い表情。


「あいつ、何か言ってた?」

「いいえ。私には目もくれなかったわ。あの人は、貴女のことしか考えていないでしょう?」


 困ったように言うセイレンだったが、夜竜は首を横に振った。


「あいつはそんな可愛いもんじゃないわよ……」

「そうね。じゃあ、今度こそ失礼するわね」


 そう言ってセイレンは去っていった。




 弥生は難しい顔で考え込んでいる夜竜を見た。


「大丈夫ですか?」

「そうね。ちょっと大丈夫じゃないかもしれないわ」

「えっ」

「なんてね」


 夜竜はふふっと笑った。

 その笑顔に、多少気がかりではあるものの安心する弥生。


「乙姫さんも、なかなか顔が広いんですね」

「まあ、私の妹分だもの。それに、海のことなら、あの子の管轄よ」


 夜竜は携帯を眺め、


「それにしても、この携帯電話ってやつは便利だわね。すぐに連絡が取れちゃうんだもの」

「でも」


 弥生は笑って、


「機械なんて通さずに、こうやって毎日会えたほうがよっぽど良くないですか?」

「あら、弥生ってば、そんなに私のこと愛してくれてたの?」


 冗談めかして笑う夜竜に、弥生も微笑む。


「そりゃあ、ご主人様には忠誠を誓わなきゃいけませんからね」

「ふふ、そんなこと言って」


 まんざらでもなさそうに笑う夜竜。

 しかしやはり弥生は気になっていた。

 夜竜が一瞬で表情を変えた、セイレンが口にした「ファラ」という名前。


〝ファラ、って誰なんだろう……?〟


 気になりつつも、弥生は夜竜には聞けなかった。

 と、夜竜の黒い瞳が真っ直ぐと弥生を見ているのに気づく。


「また、何か考えてるでしょう」

「なんでもないですよ」

「嘘つき。でも、本当に大丈夫だから」


 そうやって気丈に笑う夜竜。



 まさか、その彼女の笑顔が奪われる日が来ることになるとは、弥生は想像だにしていなかった。




 世界を魅了する歌声を持つとして、セイカという名前の新人歌手が新星のごとく現れるのは、数ヶ月後のお話。

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