相談篇◆CASE4:島田満



「あ~……疲れた」


 帰ってきたら、時刻は既に午前十二時を回っていた。


「まじかよ……」


 俺、島田満は、びきばきと痛む身体に鞭を打って、ベッドまで歩いた。明日も仕事なんだから、早く寝なくちゃいけない。


「まじ、つれぇ……」


 俺はこの春大学を卒業し、新社会人として某会社の開発部で働き出した。

 場所が変われば、ルールも変わる。大学で適当に作っていたプログラムも、会社に行けば会社のルールがあるわけで、それが妙に細かくて面倒くさい。

 関数がどうのこうの、階数がどうのこうの。流れ図はきちんと書けとか。新人は、毎日出される課題を終わらせないと、家に帰れない。

 この数日、慣れない場所への緊張と、遅くまで解けない課題に格闘し続け、毎日家に着くのはこんな時間になっていた。


「めんどくせ……」


 同期でも、早い奴は七時とかに課題を終わらせてる。なのに、こんなに時間かかってる俺ってどうなんだろう。


 ベッドに入っても、なかなか寝付けない。始めたばっかりなのに、上手くいかないとすぐに投げ出したくなるのは俺の悪い癖だ。


「……やめたいな……」


 でも、佐川さんは可愛いしな……。


 会社の先輩で、新人に教えてくれている佐川さんのことを思い出して、少しにやける。


 そんな馬鹿なことを考えているうちに、眠りに落ちていた。




「島田、これやり直しな」


 今日は運が悪い。よりによって木戸さんがいる日だとは。

 木戸さんは、広報担当でバリバリの仕事人間。自分にも厳しい人だから、他人にも厳しいのだ。広報担当の癖に、なんでもできるから、特に仕事がないときは開発部にしょっちゅう顔を出している。


「それじゃあ、島田君、お願いね」

「……わかりました」


 佐川さんが俺に流れ図を手渡す。せっかく提出した流れ図を、一からやり直すはめになった。

 大学では、課題もわりときちんとこなせていたのに。


〝まじ、めんどくせぇ……〟


 時刻を見れば、既に午後三時。今から終わらせられるだろうか。



 課題を終わらせて、佐川さんのデスクに提出した。窓の外を見れば真っ暗だ。

 ため息をついた俺は、帰路に付く。


〝……仕事、やめようかな……〟


 所詮、俺みたいな人間じゃあ、何にもできないに決まってる。


 俺は、辛気臭い顔で夜道を歩いていた。こんな時間のせいか、歩く人もまばらだ。ときおり酔っ払いとすれ違っては、俺もあんなふうに酒を飲みたいと思う。


〝……自棄酒でもするか〟


 明日も仕事だけど、俺の目は自然と酒場を探していた。すると、古ぼけた良い雰囲気のバーが俺の視界に入った。木でできた重たそうな扉も、石造りの壁も、良い感じを出していた。

 俺は迷わずその扉をくぐった。


「あら?」

「え?」


 くぐってから、俺はしまったと思った。

 てっきりバーかと思ったのだが、何か別の店らしい。店の中は怪しげな荷物でごった返していて、中央には重厚なテーブルが置いてあった。


〝質屋か……?〟


「こんな時間に、お客様は珍しいわね」


 俺はその声の主を見て、はっと息を呑んだ。

 薄暗く抑えられた照明に照らし出されたのは、この世のものとは思えないほど美しい女の人だった。透き通るような真っ白な肌に、つややかな黒い髪を腰まで流している。闇に濡れたような漆黒の瞳が俺を捉え、形の整った真っ赤な唇は三日月をかたどっていた。


「座りなさいな」

「えっと……」


 鈴のような透き通る声に促され、俺は戸惑った。

 正直、こんな得体の知れない場所からはさっさと抜け出したいが、この絶世の美女の言葉を無碍にするのも躊躇われた。


「魂夜堂の扉が開いていたのでしょう?」


 そんなことを言う女に、俺は心配になる。こんな夜中に、女一人で戸締りもしていないなんて危ない。


「あの……入ってきておいて、こう言うのもなんですけど、戸締りちゃんとしておかないと、俺みたいな変なのが来ちゃいますよ……」


〝最近は女の人が襲われる事件も少なくないというのに……〟


 俺の心配をよそにに、女はくすくすと笑っている。


「ここにはね、変な人は入って来れないようになっているのよ」

「は?」

「万が一入ってきても、私にとっては何の害でもないの」


 女はそう言うと、仕草だけで俺に椅子を勧める。俺は躊躇いながらも腰を下ろした。


「えっと……ここは何のお店なんですか?」

「ここは相談屋【魂夜堂】。心に闇を抱えた人だけに扉が開かれる場所よ」


 女がそう答える。


「私の名前は、夜竜。この魂夜堂の女主人」


 どう考えても胡散臭い。この夜竜さんが人間離れして綺麗じゃなかったら、俺はすぐにでもこの場から立ち去っていたと思う。


「私が貴方の心の闇を解放してあげる」


 正直、頭がおかしいんじゃないかと疑ってしまう。


「あら、頭はおかしくなんかないわよ」

「っ?!」


 ふふっと笑って、夜竜さんが俺を見る。漆黒のその瞳に、吸い込まれそうになった。


「貴方、悩んでいることがあるんでしょう?吐き出してすっきりしちゃいなさい。私がその闇を受け止めてあげるから」


 この人は、頭がおかしいのだろうかと思う反面、なにかの魔術に囚われたかのような錯覚に陥った。


「……仕事、やめたくて」


 そして何を血迷ったのか、俺はそんなことを初対面の相手に呟いていた。


「仕事を?」

「毎日、毎日、課題がなかなか解けなくて。帰るのがこんな時間になる」


 俺の半分愚痴のような言葉も、夜竜さんは相槌を打ちながら聞いてくれている。

 思えば、誰かが俺の話を、悩みを、真剣に聞いてくれているというのは初めてのような気がした。

 聞き手が赤の他人である夜竜さんだというのはおかしいことなのかもしれなかったけれど、赤の他人だからこそ話せるのかもしれない。


「同期の中にはさっさと終わらせる奴もいるし、そいつが俺を見る目ってのは、落ちこぼれを見る目にしか見えないし。まじで疲れる」


 あいつは有名大学の出で、佐川さんの後輩らしいし。なんかたまに話とかしてるし。


「担当の先輩は優しいけど、中にはスパルタの先輩もいるし」


 木戸さんとかがいたら、本当に大変だし。


「あの会社で生き残れる気がしない」


 もう、最後には完全にただの愚痴になっている。それでも、夜竜さんは何も言わずに聞いてくれている。

 静かな店の中で、俺の声だけがとうとうと流れていた。


「とにかく、そんなだから会社辞めたい」


 俺は話すのをやめて夜竜さんを伺った。夜竜さんはめちゃくちゃ派手な扇子を取り出すと、優雅に扇ぎだした。そんな優雅な仕草がぴったりな人だ。


「それで、貴方はどうしたいの?」


 だから、俺の話を聞いていなかったかのような、水を注すようなことを言われて、少しカチンと来た。


「だから、会社を辞めたい」


 再度言った俺を、夜竜さんは面白そうに見た。


「本当にそう思ってるの?」

「は?」


 この人は、本当に耳があるのだろうか。さっきから何度言わせる気なんだろう。


「だから……っ」

「貴方は、上手く課題がこなせるようになりたいんじゃないの?」

「え?」


 声を荒げた俺の言葉は、紡がれる前に夜竜さんの静かな声に遮られた。意表を突かれた俺は、夜竜さんの真っ黒な瞳を見つめる。


「貴方、新しい環境で慣れてないだけじゃない?」

「……確かにまだ慣れてないけど」


 働き始めてまだ、一週間。確かに、まだまだ今の環境に慣れているわけじゃない。


「それなら、慣れたら案外上手くいくかもしれないじゃない」


 そんな簡単なことみたいに言うけど、慣れるまでが大変に決まってる。


「慣れるまでどれだけかかると思ってるんだよ」

「あら、そんなのは貴方次第でしょう?」


 俺は顔をしかめた。夜竜さんは涼しい顔で、


「少しは、我慢も必要よ」

「我慢って……」


 俺にない忍耐力。それを、身に着けろと言いたいらしい。


「そんなの俺にできるわけない」


 俺がそう言うと、夜竜さんの視線が俺に向けられた。


「貴方ができないと思っていたら、できることもできなくなるわ」

「……」


 夜竜さんは、すっと手を伸ばして扇子で俺の胸を指した。


「限界を決めるのは、貴方自身」

「俺……」


 すると夜竜さんは扇子をおろしながら微笑んで、


「本当は、頑張りたいんでしょう?」


 そう言った。俺の胸の中で、何かが音を立てた。


「俺は……」

「本当は、自分が情けないんじゃないの?簡単に課題を終わらせる人もいるのに、何で自分はできないんだって」


 夜竜さんは、俺を責めるでもなく、ただ淡々と言葉を紡ぐ。


「きっと、環境に慣れていないだけよ。貴方の努力次第で、どうにかなるかもしれない」

「……どうにかならなかったら?」

「そうなったら、そのときまた考えればいいじゃない」


 夜竜さんはふふっと笑った。


「とにかく、やりもする前に、辞めちゃったら、貴方後悔するんじゃないの?」


 その夜竜さんの言葉に、俺は小さく頷いた。


「多分、後悔する」

「でしょう?なら、少しだけでも、頑張ってみなさいよ。もう社会人なんだから」


 そうか。俺は社会人になったと思いながらも、まだ心の中で何かに甘えていたんだ。


「……ありがとう、夜竜さん。俺、頑張ってみるよ」


 仕事も、なにもかも。


「ふふ、その意気よ」

「ところで」


 俺は携帯を取り出した。


「携帯番号、教えてよ」


 ちょっと変わってるけど、こんな美人と出会う機会なんてそうそうあるわけがない。


「あら、変なところには力が入るのね」

「とっ、とにかく教えてくれよ」


 なんとなく、この綺麗な人とまた話をしてみたいと思った。

 心が少し軽くなるような、そんな爽快な感覚を得られるから。


「ふふ……」


 夜竜さんが、俺の目を見た。


「っ……」


 すっと細められた漆黒の瞳が、怪しく光る。そして、青白い光が奔流となって俺に襲い掛かった……。




 ピピピピピピピピピ……・


「っ」


 俺ははっとして、目覚ましを止めた。


「……夢?」


 妙に現実感たっぷりの夢を見た。まるで夢の続きにいるように、心が軽くなっている。


〝……夢でも、番号聞ければよかったのに〟


 俺はため息をついた。ふと外を見て、俺は目を疑った。


「雪っ?」


 もう四月だというのに、道路にうっすらと雪が積もっている。


「まじかよ……」


 俺は寒さに身を震わせながら、仕事へ行く準備を始めた。



 早めに会社に着いた俺は、資料室から参考になりそうな本を借りてきて、自分の席で読んでいた。


「おはようございます」

「あ、おはようございます」


 そこに他の社員も出社してくる。佐川さんが俺に挨拶をしてくれた。


「おう、佐川ちゃん、おはよう」

「木戸さん、おはようございます」


 そこに木戸さんも入ってくる。そして参考書を読んでいる俺に気づいて、顔をしかめた。


「島田、お前熱でもあるのか?」

「なんでです?」

「いや、お前が自分から参考書読んでるの、初めて見たから」


 木戸さんの言葉に、佐川さんまでくすくす笑って、


「今日雪が降ってるのは、そのせいかな」


 と言う。佐川さんにまでそんなことを言われる俺って、いったいどうなんだ。


「課題、早めに終わらせられるようになりたくて。慣れないことも多いですし」


 照れ隠しに、素っ気無いそぶりを取ってみるけれど、木戸さんは俺の言葉に感動を覚えたらしい。


「お前、その向上心、良いぞ」

「え」


 見れば、佐川さんも木戸さんも微笑んでいる。


「私も、新人のときは苦労したんだよ。でも、島田君も慣れれば大丈夫」

「そうそう、慣れるまでの努力が肝心だよな、佐川ちゃん」


〝佐川さんも、苦労したのか……〟


 俺は、ちょっとだけ勇気を出してみることにした。


「あの、佐川さん」

「うん?」

「今夜、飲みに行きません?」


 それを口に出した瞬間、


「いでっ」


 木戸さんにはたかれた。


「何すんですか!」

「お前は、立場をわきまえろ。今日はお前の課題、いつもの二倍だからな」

「はあ?!」


 理不尽な木戸さんの言葉に、俺は不満の声を上げた。その俺の隣から、笑い声が聞こえる。


「島田、お前なあ、木戸さんのお気に入りに声かけるから」

「えっ!!二人付き合ってるんですか?!」


 さっきから始終困ったような顔をしている佐川さん。


「付き合ってないけど」


 その佐川さんの言葉に、木戸さんは不機嫌を顕わにする。それが珍しくて、俺は驚いた。いつも冷静沈着の仕事人間が、こんな顔をするなんて。

 驚いている俺をよそに、佐川さんが申し訳なさそうに、


「でも、ごめんね、今日は先約があるの」


 その言葉に反応したのは、俺じゃなくて木戸さんだった。


「なんだ、あの優男と会うのか?」

「優男って……」


 ちょっと照れたように笑う佐川さんが、やっぱり可愛い。


「今日は佐川ちゃんの仕事も増やすか」

「木戸君、職権乱用しないでね」


 今までの会話が聞こえていたのか、主任が声をかけた。


「みあっちはデート楽しんでおいで。島田君は、課題こなしてね」

「あ、はいっ」




 まだまだ慣れないことが多くて大変だけど、このアットホームな職場の、本当の意味で一員になれたらいいなと思った。


 課題に取り掛かった頃には、昨夜見た不思議な夢のことなどすっかり忘れていた。

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