相談篇◆CASE3:片岡守



 人生とは無情なものだ。


「心して聞いてください」


 仕事ばかりだった俺が、これからの時間を、家族のために使おうと思っていたのに。


「膵臓癌です。詳しく調べなければなりませんが、他の臓器にも転移しているようです」

「が……ん……?」


 人生とは、無情なものだ。


「もう、手の施しようが……」

「……先生、はっきりと言ってください」


 人生まだまだだと思っていたというのに。


「これからの治療の程度によりますが、もって半年かと」


 人生とは本当に、無情なものだ。





「はあ、しかし仕事に行かないというのも変な感じだな」

「そうですね。今まで休まずにお仕事していましたからね」


 先日定年退職をした俺は、片岡守、六十歳。今隣でお茶を入れているのは、妻の洋子、五十八歳。


「今まで、苦労をかけたな」

「どうってことないですよ」


 俺が二十八のときに結婚してから三十二年、洋子は文句の一つも言わず家を守ってきた。二人の子供を育て上げ、家事をきちんとこなしてきた。

 そのことを、どうってことないと笑顔で言える洋子を尊敬する。


「貯金もあるし、これからは夫婦水入らずで暮らせるな」

「うふふ、あなたのことですから、今に仕事がしたくなって仕方がなくなるんじゃないかしら」

「そうかもしれないな……」


 洋子の言葉にふと考える。


「なにか、趣味を見つけられるといいな」

「そうですね。それがいいですね。できたら私も一緒に出来ることがいいです」


 洋子が笑うと、その場の空気が和む。

 出会ったときから、洋子の笑顔を守りたいと思っていた。それで苦労をかけながらも、家ではいつも笑顔で出迎えてくれる洋子。

 その洋子と、老後の穏やかな時間をすごしたいと思っていた俺のささやかな希望は、一瞬にして崩れ去ることとなる。




 きっかけは、洋子の言葉だった。


「あなた、最近痩せてはいませんか?」

「そうか?」

「ええ」


 洋子の言葉に、俺は久しぶりに体重計に乗って驚いた。以前計ったときよりも、十キロ近く落ちていたのだ。


「仕事を辞めたせいかな?」


 そういった矢先、突然腹に激痛が走る。


「また、おなかが痛いんですか?」

「ああ……」


 洋子は心配そうに、


「あなた、病院できちんと調べてもらってください。あなた、この前からおなかが痛いっておっしゃってるじゃないですか。最近は怖い病気が増えているんですから」

「ああ、そうする」




 翌日、気が乗らないながらも向かった病院で、血液検査や尿検査を受けた後、医者の言葉のままにCTスキャンを受けた。

 何をそんなに大げさなことをするのかと思い、しばらく待った後、診察室に呼ばれた。


「最近腹痛があるということでしたね」

「はい」


 カルテと検査結果を見つめている医者の顔が、暗い。

 嫌な予感がした。


「お酒や煙草は?」

「最近では減りましたが、昔はよく」

「そうですか。片岡さん、こちらが血液検査の結果です」


 そう言って見せられた紙には、よくわからない単語と数字が並んでいて、意味がわからなかった。ところどころに赤い線が引いてある。


「このエラスターゼ1や、SPAN-1のほかにも、赤い線が引いてあるものの数値が標準より高くなっています」

「はあ……」


 意味不明の単語に、俺はただ相槌を打つ。


「それが、どうしたんです?」

「片岡さん、心して聞いてください」


 医者が背筋を伸ばした。つられて俺も姿勢を正す。


「膵臓癌です。詳しく調べなければなりませんが、他の臓器にも転移しているようです」


 医者の言葉に、俺は言葉を失った。


「が……ん……?」


 がんって、あの癌だよな?

 他人事だと思っていた。癌なんて……うそだろう?


「もう、手の施しようが……」

「……先生、はっきりと言ってください」


 かすれた声が出た。


「これからの治療の程度によりますが、もって半年かと」


 想像だにしなかった診断結果に、俺の目の前は真っ暗になった。


「な、なにかの間違いでしょう……」


 信じられない。きっと、誤診だ、誤診に違いない。


「先生、嘘だって言ってくださいよ……」

「残念ながら……」


 緊張で手が震えるなど、洋子の親に挨拶に行ったとき以来だった。


「嘘だ……」

「あくまでこのままの状態で放置すればです。これからの治療で……」

「嘘だ!」


 叫んで頭を抱えた俺は、未だに医者の言葉が信じられない。



 これから、洋子と子供や孫達と、穏やかな時間をすごそうと思っていたのに。こんなのは、あんまりだ。

 これから、まだまだ時間があると思っていたのに、余命半年?


 たった、六ヶ月?


 誰か、嘘だと、これは悪い夢だと言ってくれないだろうか。


「このTS-1という飲み薬を処方します。精密検査と治療方針の相談をしたいのですが、ご家族の方も……」


 医者の言葉など、俺の耳には入ってこなかった。



 それから、どうやって家に帰ったのかも、覚えていない。




「あなた、どうでした?」

「…………」


 俺は処方箋を洋子に渡して、無言で寝室に向かった。


「あなた?」


 扉越しの洋子の戸惑ったような声にも、俺は何も答えなかった。



 しばらくして、洋子が寝室の扉を叩いた。


「あなた……このお薬……」


 心なしか、洋子の声が震えていた。


「い、インターネットで調べてみたの」


 そういえば、洋子は数年前から孫達と一緒にパソコンを使っていたっけ。


「あなた、癌なんですか……?」


 洋子が寝室に入ってきた。


「あなた?」

「……ああ」


 さっと、洋子の顔から血の気が引いた。


「で、でも、治るんでしょう?」


 確かに、最近は癌はすぐに死ぬ病気じゃなくなった。でも、それは発見が早ければの話だ。


「……半年」

「え?」

「余命半年だって言われた」


 俺の言葉に、洋子の手から処方箋が落ちた。

 俺は立ち上がってそれを拾った。


「ど、どこへ……」

「うるさい」

「っ」


 それでも追いすがろうとする洋子に、俺は冷たい視線を向けて、


「お前に何がわかる、これから死ぬ人間の気持ちなんかわかるものか!」


 そう叫んだ俺は、そのまま家を出た。



 歩きながら考えたのは、洋子のことだった。


 これから治療をするとすれば、今までの貯金はあっという間になくなるだろうし、旅行へ行きたいと思っていたのも、叶わなくなってしまった。

 それより何より、今まで苦労をかけてきた洋子に、余計な苦労をかけることになってしまう。


 そんなことを考えながら、俺が向かったのは市役所だった。




 いろんなことを考えながら、あちこちを歩いているうちに、日が暮れていた。


「……ただいま」

「あなたっ」

「すまん」


 家に帰って、心配そうに迎えた洋子に、俺は微笑みかけた。


「あの……」

「もう、遅いから、寝るか」

「はい……」


 洋子、お前にはわからない、俺の気持ちは。

 俺はお前には苦労をかけたくないんだ。


 洋子、俺は、お前を愛している。


 だから、家を出るのは俺のほうだ。




 翌日、俺はまだ寝ている洋子を起こさぬようにベッドを出た。そして、昨日市役所でもらってきた、離婚届に判を押した。


「洋子……ごめんな……」


 苦労をかけるくらいなら、俺は一人で死ぬ。

 洋子には、これから自由な人生を生きてもらいたい。


「ごめんな……」


 もうすぐ洋子が起きだすだろう。

 俺は、その前に、家を出た。




 俺には、半年しか残されていないらしい。

 そう考えると、無性に何もかもが馬鹿らしくなった。


 半年でいったい何が出来る。

 何も出来やしない。


 腹の痛みは酷くなる。

 たびたび感じていた腹痛だったが、今思えばこれが癌の症状だったのか。


 朝焼けの空を見ながら、ため息をついた。


 半年、苦痛とともに生きて何も変わらないのなら、いっそのこと己の命を絶ってしまってもいいかもしれない。


 俺は携帯電話で、息子である茂と娘の結華にメールを入れた。


『母さんのことを頼んだ』


 たったそれだけのメール。あいつらは、母親思いだから、きっと面倒を見てくれるだろう。


 結局、こんな病を抱えた俺が洋子に出来ることは、解放してやることだけだった。




 何もかもが空っぽになってしまったような不安定な気持ちのまま、あちこちを歩き回った。

 時間が過ぎるにつれて、通勤通学のやつらとすれ違い、俺と違って、未来ある奴らをねたましく思った。


 俺だって、若い頃はああやってせかせかと生きていたんだ。

 こんなことになるくらいなら、もっと人生を謳歌してもよかったかもしれない。老後にのんびり、なんて考えていた俺が甘かった。

 後悔先に立たずという奴だ。


 本当は、悔しい。

 なんで俺がこんな目に遭わなくちゃいけないのか、意味がわからない。

 怒りにも似た憎しみのような感情が心を波立てる。


 だけど、時折走る痛みが、俺から気力を奪っていく。


 ああ、こんなことなら、この腹痛が始まったときに病院に行けばよかった。

 仕事仕事で、最近は自分の体なんかいたわらなかった。

 つい最近まで、洋子に体に悪いですよと言われていたのに、酒も煙草も続けていた。


 それが、こんな形で牙をむくなんて。



 とぼとぼと適当に歩いていた俺は、いつのまにか見知らぬ路地にやってきていた。


「っ」


 こんなときに限って、腹が痛くなる。突然足を止めた俺に、後ろから誰かがぶつかった。


「あっ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」


 うずくまった俺に、相手は驚いたようだ。ちらりと相手を見れば、いかにもいまどきの若者という感じの茶色い髪の男子高校生だった。


「気分でも悪いんですか?」


 ふん、若いくせに敬語を使えるとは感心だ。


 そんなことを思っていても、体のほうが正直で、眩暈と激痛に意識が遠のいていった。


「大丈夫ですか?!」


 焦ったような少年の声を聞きながら、俺はそのまま意識を手放した。




「んっ……」


 はっと気づいたとき、俺は薄暗い場所にいた。


 ここは、一体……


 乱雑に何に使うかわからない荷物が置いてあり、得体の知れない空気の漂う場所だった。

 この世のものとは思えない雰囲気に、まさか俺は死んだのかと一瞬疑う。


「あ、気づいたんですか」

「っ!」


 突然かけられた声に驚いてそちらを見れば、さきほどぶつかった少年がいた。


「いきなり倒れたので、まさか放っておくわけには行かなくて……」

「……すまん、迷惑をかけたな」


 立ち上がろうとした瞬間、再び腹に激痛が走った。


「無理はしないでください」


 心配そうに俺の体を起こす少年に、俺は自嘲の笑みを向けた。


「若いのに言葉遣いがしっかりしてるな」


 自分に向けられた言葉だとわかったらしい少年は、苦笑した。


「敬語を使わなくちゃいけないような状況に追い込まれることが多々あるんで。あ、俺は夜見弥生って言います」

「……片岡守」


 少年が何かを言おうと口を開いたとき、


「あら、起きたの?」


 鈴のような透き通った声が部屋の奥から聞こえてきた。


「あ、夜竜さん」


 ひょこっと、女が顔を出した。


「っ」


 それは驚くほど、美しい女だった。年甲斐もなく、どきりとさせられるほどの美貌だ。この少年よりは少し年がいっているようだが、それでも二十代だろう。漆黒の髪を結って、それが陶磁のように滑らかで白い肌を飾っている。桜色に染まった頬と、真っ赤な唇が白い肌に彩を与えていた。

 女は長いまつげに縁取られた漆黒の瞳を俺に向けて、にやりと笑った。

 その瞬間、逃げ場を失ったかのような不思議な感覚に陥る。


「貴方……」


 その目を細めて、赤い唇が三日月を描いた。その口元から覗く白い歯が、異様に鋭いのは気のせいだろうか。


「美味しそうな、匂いがする」

「何?」


 意味不明の言葉に、俺は顔をしかめた。


 そもそも、一体ここは何だ?なんだって、こんな女と高校生が一緒にいるんだ?


「貴方、病を抱えているの?」

「っ」


 女を見れば、その瞳は楽しそうに歪められ、見ているこちらが飲み込まれそうな感覚に陥る。さながら蛇女の微笑みだった。


「とっても美味しそうな闇の香りがする」


 そんなことを言っている女は、頭がおかしいのだろうか。


「魂夜堂に出入りしている弥生にぶつかったのも、導かれてのことでしょう。貴方、もしかしたら、悩みを抱え込んでいるのではなくって?」


 高慢な女の物言いに、いらっと来る。


「なんで君にそんなことを言われなくちゃいけないんだね」


 こんな若い娘に、知ったような口をきかれる筋合いはない。


 さっさとこの場から立ち去ろうとした俺は、女と目が合った。


「っ」


 なんとも言えない気味の悪い感覚が俺を襲う。


「そこに座って。弥生ちゃん、お茶をよろしく」

「わかりました」


 女に座れといわれた瞬間、素直に座ってしまった俺が一番驚いた。女も俺の向かいにある派手な椅子に座り、これまた煌びやかな扇子を一閃させた。

 女王のような振る舞いに、いっそう悪寒が走る。


「名乗るのが遅れたわね。私の名前は夜竜。この相談屋【魂夜堂】の主よ」

「相談屋……?」


 カウンセラーというやつなのだろうか。


「俺は心なんか病んじゃいない」


 喧嘩腰でそう言っても、女は微動だにしなかった。若い女にしては、肝が据わっているし、どこか落ち着いた雰囲気を放っている。


「そう、心は病んでいないけれど、体はぼろぼろのようね」


 知ったような口をきく夜竜とかいう小娘に、頭に血が上った。


「ああ、そうだよ!昨日医者に余命半年だって言われたところだ!」


 これは、完全に八つ当たりだ。

 だけどこんなことを他人である小娘に言ったって、何が変わるわけでもない。ただ己が、虚しくなるだけだ。

 それでも叫ばずにはいられなかった。

 俺は洋子と穏やかな老後を過ごしたかったんだ。それが、全て……。


「お前に何がわかる!相談屋だと?そんなのただの自己満足だろう!」


 興奮して叫んだ瞬間、激痛が俺を襲った。


「興奮しちゃ駄目よ」


 腹を押さえてうずくまった俺に、小娘が妙に落ち着いて声をかけてきた。その声が、いやに耳に届いて、俺は小娘を見た。

 吸い込まれそうな漆黒の瞳が俺を見ていて、そっと白い手をさし伸ばしている。その肌から、青白い火の粉のようなものが見えるのは、気のせいだろうか。


「体に障るから、少し落ち着いて」


 その言葉に、なぜか心が直接なだめられたような、そんな奇妙な感覚を覚える。小娘の手の動きに合わせて、俺は座りなおした。


「貴方の言うとおり、相談屋は自己満足よ」

「…………」

「それでも、私は心に闇を抱える者達の闇を解放したいの」

「……お前にそれができるかのような口ぶりだな」


 若いくせに、簡単なことのように言ってのける。そんな小娘の姿勢が気に入らなかった。そこにさっきの弥生とかいった高校生がお茶を持って部屋に入ってきた。


「お前みたいな若い娘に、俺の気持ちはわからんよ」

「わっ……」


 そのとき、少年が茶器を取り落としそうになった。


「うふふ、気をつけてよ、弥生ちゃん」

「す、すいません……」


 少年は信じられないものを見るような目で俺を見る。


「なんだね」

「いえ……」

「貴方、目に見えるものだけを信じていたら、損をするわよ」

「なんだ、小娘が年上に説教する気か」


 とたん、少年が挙動をおかしくする。


「なんなんだね、言いたいことがあったらはっきり言わないか」


 俺の言葉に、少年は困ったように小娘を見た。


「うふふ、若作りはしてみるものね」

「は?」


 何がおかしいのかくすくす笑っている夜竜とか言う小娘を見ていると、なぜかぞくりとした。得体の知れないものと向き合っているような、そんな感覚。

 小娘はにやりと赤い唇を引き上げて、


「貴方は、私が人間じゃないって言ったら、どう思う?」

「はあ?」


 と、からかい混じりの視線を向けてきた。俺は顔をしかめて、


「俺は冗談なんか聞きたくない。帰らせてもらう」

「ふふ、そうやって現実から逃げる気?」


 何を……


「そうやって、家族から逃げてきたんでしょう。同情されるのが嫌で」


 同情……?


「ふざけるな!俺は……俺は、家族に迷惑をかけるのが嫌で……」

「そうね、ご家族にしてみたら迷惑な話かもしれないわね。そうやって怒鳴り散らかされるんだもの」

「っ……」

「もう少し、冷静になりなさいよ」


 なんで、こんな小娘の言葉を聞かなくちゃいけないんだと思いながらも、なぜか俺はその場から動けなかった。


「貴方はあと半年しか生きられないことがわかった。半年しか残されていない貴方の絶望もわかった。だけど、その絶望が貴方の大切な半年を無意味にしていい理由にはならないわ」


 小娘の言葉に、俺はうなだれた。


「……わかってる。わかってる、言われなくても。こんなことなら、今まできちんとしてくればよかったとか、そんな後悔ばかりわいてくる……でも、どうすればいいんだ。半年で、何が出来るって言うんだ」


 頭を抱えて、俺は泣いた。なんで、こんな得体の知れない小娘の言葉で泣かなくちゃいけないんだ。


「何もできないと、本当にそう思っている?」

「家族に、妻に苦労をかけるだけだっ……」


 これから、楽しい時間を過ごそうと思っていたのに。


「こんなことなら、仕事ばかりしていないで旅行に連れて行ってやればよかった……」

「後悔、しているの?」

「ああ、してるさ。老後を二人で過ごそうと思っていたのに、その時間を奪われた俺の気持ちがわかるか?」


 小娘は目を見張って、


「そんなのわからないわよ」

「貴様っ……」


 小娘は不可解そうに首をかしげて、


「貴方はその不運な人生を哀れんでもらいたいの?」

「なっ……」

「でも、私は貴方はまだ幸せなほうだと思うわよ」


 幸せだと……?余命半年と宣告されたこの俺が?


「少なくとも、半年を与えられたんだから」


 小娘は全てを悟っているかのような面持ちで、


「貴方は後悔しているというけれど、後悔しない人なんてどこにもいない。だって、明日は誰にもわからないんですもの」


 小娘の隣に、さっきから立ちっぱなしだった少年が腰掛けた。


「明日がわからないから、今日を一生懸命生きるの。貴方は、余命半年といわれたかもしれないけれど、明日貴方が死なない保障はどこにもないわ」

「……そうだが……」

「それに明日がわかったら、何も面白くないじゃない。でも、明日死ぬかもしれないなんてそんな風に生きている人は少ないわ。だがら、みんな日々をなんとなく過ごしている」


 確かに、日々をなんとなく過ごしていた。当たり前のように仕事に行って、洋子がそれを支えてくれることを当たり前だと思っていた。


「でも、少なくとも貴方は、大切にしなくてはいけない半年を与えられたじゃない」

「大切にしなくてはいけない半年……」


 夜竜は笑って、


「私には、貴方がどうなろうと関係ない。このまま自棄を起こしたまま、無意味に半年を過ごして死のうと、何も関係ない」

「貴様……っ」


 夜竜の言葉でせっかく穏やかになっていた心が、同じ声で乱される。


「貴方はいいわよ、死んだら何もかも終わりじゃない。苦痛からも解放されて、その前に回りに当り散らして。でもね、貴方は貴方の気持ちが私達にはわからないというけれど、貴方は残される人の気持ちを考えている?」

「…………」


 俺が死んだら、洋子は……


「もしも、貴方が始めのような、何もかもを諦めたような態度をしていれば、遺された人達は貴方の苦痛を代わりに背負って生きていくのよ。それこそ、貴方のために何も出来なかったという後悔を、一生」


 俺は、唇をかんだ。

 夜竜の言葉で、何か大切なものを取り戻したような気分になった。


「貴方が、大切にしているものは何なの?」

「……」

「貴方自身の命なの?」


 俺が大切にしているもの――……


 俺は、ふっと笑って、


「……妻の笑顔だ」

「あら」

「昔も今も、妻の笑顔を守りたいと思っていた……」


 ずっと一緒に生きてきた洋子。


「貴方の状態を知って、奥様は笑っているかしら。貴方が落ち込んで、奥様は笑っていられるかしら?」


 俺は首を横に振った。


 俺だけが辛いんだと思っていた。だけど、洋子だって辛いに違いない。

 それなのに俺は、離婚届を残して、洋子を置いていった。


「病は、気からよ」

「なに……」

「医者に言われたからって、残された命を半年と決め付ける必要はどこにもない。もっと……生きるためにあがいてみても、悪くないんじゃないかしら」


 夜竜は笑って、


「余命わずかと言われて、二年も三年も生き延びた例は、世界中にあるのよ」

「確かに……」

「奇跡は起きるものじゃない。起こすものよ。全部、貴方次第」


 俺の目に、奇跡を信じて疑わない女の笑顔が焼きついた。


 そうか、一日でも長く生きたいと、生きられると信じてみるのも悪くない。

 信じるということは、こんなにも心を強くするのか。

 そうだ、病気なんかに、癌なんかに負けてたまるか――。


「もっと、頑張ってみるか」

「そう、その意気よ」


 俺は笑って、


「あんた、何もかも悟ったようなことを言うな」

「うふ、だてに長生きはしていないから」

「長生き?」

「いいの、気にしないで」


 変な女だ。


「貴方の闇、確かに貰い受けたわ」

「残された時間は短いかもしれないが、もう一頑張りしてみるとするよ」




 家に帰ると、居間から洋子のすすり泣く声が聞こえてきた。


「……ただいま」

「っ……あなたっ……」


 はっとして俺を見た洋子の顔は、蒼白で、その手に握られていたのは離婚届だった。


 ああ、俺は洋子の笑顔を守りたかったのに、洋子にこんな顔をさせてしまっていた。俺は洋子の手から、離婚届を奪い取り、破り捨てた。


「あ……」

「すまない、洋子」

「あなたっ」


 洋子が俺にしがみつく。


「私は、あなたと一緒に生きる覚悟を、当の昔からしていたんです!最期まで、寄り添うと!それを……っ」

「すまん、洋子……っ」


 力いっぱい俺を抱きしめる洋子。小さな体のどこにこんな力があるのだろうか。


「すまない、旅行にはいけなくなった……」

「はい」

「明日、病院に行く。一緒に来てくれないか……?」

「はいっ」


 泣きながら、洋子は笑っていた。


「洋子、俺は半年しか生きられないかもしれない。でも、ずっと洋子の笑顔を見ていたいから、生きるための努力をすることにする」


 本当は辛い、愛しい妻を置いて逝くこと。

 本当はわからない、俺が治療に耐えられるかも。


「また……苦労をかけるな」


 本当は労わりたかったのに、穏やかな時間を過ごしたかったのに、俺はまた洋子に苦労をかけてしまう。

 それでも洋子は、俺に笑いかけて、


「あなたのためなら、どうってことないですよ」



 君が愛しい。

 だから、君のために生きるための努力をすることを、約束するよ。


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