相談篇◆CASE2:木下香織


「どうしよう……」


 私は途方に暮れていた。

 家に帰る途中の川辺に座り込んで、ひざを抱えていた。


「どうしよう……」


 泣きたくて、困惑して、ぐるぐるとわけのわからない感情が私の身体の中を駆け巡っている。


「どうすればいいの……!」


 私のお腹の中には、赤ちゃんがいた。




 命とか、生とか死とか、今まで深く考えたことなんてなかった。


 私の父親は、身ごもった母を捨てて他の女のもとへといったらしい。母一人子一人の生活で、母も苦労している。

 それでも母は、私を今まで育ててくれた。十六年という短い人生は、母の苦労のおかげでここまでこれたというもの。


 それなのに、私はとんだ親不孝者だった。




 始まりは、二ヶ月前のこと。


「香織!」


 バイト先で出会った結衣が、バイト帰りに声をかけてきた。


「どうしたの?」


 やけににやにやと含み笑いをしている結衣に、薄気味悪さを覚えた。


「ねえ、合コンいかない?」

「合コン?」

「そう、合コン。相手のおごりだそうだから、適当に相手しようよ」


 正直、合コンなどには興味はなかった。


「ね、いいじゃん?」


 しかし、お願いと可愛らしい仕草で頼み込む結衣を、無下に扱うこともできず、私は合コンに行くことを承諾したのだった。



 この合コンに行ったことを、死ぬほど後悔することになるとは、このときの私はまだ気づいていなかった。




「君、香織ちゃんっていうの?」

「はい」

「結衣ちゃんのお友達なんだって?」


 合コンの相手は、大学生だった。結衣の先輩とその友人達らしい。女の子も他に二人いて、四対四で行われた。

 話しかけられたら答えるし、その場の雰囲気に慣れようとしながら、ものめずらしい空気に気分が高揚していたのも事実だった。

 しきりに私に話しかけてくる眼鏡をかけたこの人は、佐伯さんというらしい。なかなか格好良くて、どきどきした。


「香織ちゃん、連絡先教えてよ」

「えっ?」

「いいでしょ?」


 携帯を片手に、爽やかな笑顔を向けてくる佐伯さんに赤面して、私もおずおずと携帯を取り出した。そして番号を交換した。

 トイレに立った私に、結衣が続いた。


「ちょっと、香織、佐伯さんと良い感じじゃん」

「そ、そうかな?」


 結衣も、上田という人と仲良くなったらしい。


「このあと、あたし上田さんに送ってもらう」


 結衣が意気込んでそう言った。


「え、それじゃあ、私は一人で帰ろうかな」

「何言ってんの!佐伯さんが送ってくれるに決まってんじゃん!」


 頬を赤く染めて興奮しながら言う結衣。


「そんでさ、あわよくば……とか、香織は思わないの!」

「あわよくばって……」

「佐伯さん格好良いじゃん!」


 たしかに佐伯さんは格好良い。


「そんなにうまく行くもんかな?」

「ふふ、見てなって」


 二人で席に戻る。


「香織ちゃんはスポーツとかやってるの?」

「あ、ずっと帰宅部だったの。だけど、観るのは好きです」


 佐伯さんと他愛もない話で盛り上がる。大学生達の席にはお酒があって、ほろ酔い気分のようだった。


「俺、サッカーやってるんだ。今度試合とか観に来ない?」

「あ、観てみたいです」


 年上の男の人と話す機会が今までなくて、本当は少し緊張していたけれど、佐伯さんと話をしているうちに、最初のぎこちない感じはなくなっていた。


「佐伯さんがサッカーか。きっとモテるでしょう」

「勇」

「え?」


 佐伯さんがにこっと笑って、


「勇って呼んでよ」

「……勇さん」


 口に出してから顔がにやけてしまう。


「香織ちゃん、可愛い」

「いや、そんなことは」


 佐伯さんが私の耳元に顔を持ってきたので、どきっとする。


「このあと、どう?」

「えっ?」

「二人で抜け出そうよ」


 思わぬ展開に、どきりと心臓がはねた。こんな経験は初めてで、どうすればいいかわからない。


「ね、良いよね?」


 こんな格好良い人が誘ってくれているという状況に舞い上がった私は、


「はい」


 と答えてしまっていたんだ。



『今から上田さんとホテル行っちゃう。香織も頑張ってね!』


 そんなメールが届いたのは、佐伯さんと二人で店を出たときだった。

 積極的な結衣に、驚いていると、


「へえ、上田もやるな」

「あっ」


 佐伯さんにもメールが見えたようで、私は赤面する。

 佐伯さんはそっと私の肩に手を回した。


「俺達も、行こうか」

「…………」


 真っ赤になった私は、佐伯さんのなすがままだった。



 これといった抵抗もしなかった私は、そのまま佐伯さんと関係を持ってしまった。




 それからあと、佐伯さんとはたまにメールをするくらいの仲で、発展するようなことはなかった。

 一夜の情事のみの関係だ。


 大して気にも留めず、いつもどおりの生活を送っていた私が異常に気づいたのは、二ヶ月経ってからだった。



 最近、身体がだるかった。

 たまに吐き気まで覚える。酷い眠気もしていた。


「香織、大丈夫?最近、調子が悪いんじゃない?」


 お母さんが、私の顔を見て不安そうに尋ねる。


「うん……なんか、気分が悪くて……」

「病院に行ったほうが良いんじゃない?」

「でも、ただ風邪かもしれないから」


 病院に行くことを渋る私に、お母さんがわざと怒ったような顔をして、


「だーめ。学校の帰りに病院に寄りなさい。いいわね?」

「……わかった」


 保険証を持たされ、私は学校帰りに病院に寄ることを約束させられた。




 授業も終わり、気が乗らないものの、私は近くの総合病院に向かった。

 内科の診察室で、医師が私の症状を尋ねる。


「木下香織さん、今日はどうされました?」

「最近身体がだるくて。たまに吐き気もするし、なんだかいつも眠くて……」

「それじゃあ、ちょっと診るね」


 検温をしたのち、心音を聴いている。

 ぼうっとしていた私が、医師がはっとしたのに気づいたのは、彼が私のおなかを触診しているときだった。

 制服姿の私を見て、医師が戸惑ったようだった。

 私はそんな彼の様子に首をかしげた。


「木下さん、最近の月経はどうですか?」

「え?」


 あれ、そういえば、月のものが先月も来ていない。


「そういえば、遅れてるみたい……」


 医師が戸惑ったように、


「落ち着いて聞いてね」

「はい?」

「妊娠の兆候が見られるから、産婦人科で詳しく調べてもらおう」


 医師の言葉に、私は硬直した。


「にん……しん?」


 そんなまさかと思いつつ、私はすがるように医師を見た。


「先生、ただの風邪ですよね……?」

「木下さん、産婦人科に連絡をするので、そちらで詳しく調べてもらいましょう」


 呆然とする私は、その場から動けなかった。


「佐々木さん、付き添ってあげてくれるかな」

「はい」


 医師が近くにいた看護師さんに声をかけた。


「木下さん、行きましょうか」


 佐々木看護師さんに付き添われ、私は真っ青な顔のまま産婦人科に来ていた。


「木下さん、落ち着いてね」

「ど、どうしよう……!」


 産婦人科の待合室では、制服姿の私は目立っていた。

 混乱する私を、佐々木看護師さんが穏やかな笑顔で落ち着かせる。


「木下さん、診察室に入りましょう」


 佐々木看護師さんにつれられ、診察室に入った私を迎えたのは、女の医師だった。


「木下香織さん。最後に月経があったのはいつ?」

「……二ヶ月前……?」


 泣きそうな顔で答える私に、佐々木看護師さんはまだ付き添ってくれていた。


「それじゃあ、超音波で診てみるから、そこに寝てください」


 私は言われるがまま診察台に横になった。怖くて震える私は、思わず佐々木看護師さんの手を握った。


「大丈夫よ、落ち着いて」


 佐々木看護師さんは、手を握り返してくれた。

 女医が私のおなかにひやりとするものを塗って、テレビでよく見る機械を私のおなかに当てた。


「妊娠しているわね」


 しばらく画面を見つめていた女医の言葉に、私は凍りついた。


「木下さんは、十六になったばかりね?」

「そうです」


 答えられない私に代わって、佐々木看護師さんが答えた。


「答えづらい質問かもしれないけれど、相手はわかっているのかしら?」


 相手?

 相手って何?


 あまりのショックで、私は正常にものを考えることができず戸惑う。

 女医は私を落ち着かせるように、穏やかな声で、


「香織ちゃん、落ち着きましょう。あなたの体は一人のものじゃないのよ」


 椅子に座りなおした私の目から、涙がこぼれた。


「香織ちゃん、おなかの赤ちゃんの父親は誰だかわかるの?」


 父親……


 私の脳裏に、佐伯さんの顔が浮かんだ。

 私は、小さくうなずいた。


「香織ちゃんはまだ未成年だから、ご両親とも相談しなくてはならないわね」


 それからは、誰の言葉も頭に入らず、どうやって病院を後にしたかも覚えていない。


 気づいたら、川辺に座り込んでいた。

 何をどうすれば良いのかもわからず、途方に暮れた。


 父親は、佐伯さんだ。

 それは確かだ。


 だけど、このことで彼に連絡をとることもためらわれた。

 お母さんにもいえない。

 けど、いつまでも黙っていられる問題じゃない。


 脳裏に、中絶という言葉が浮かんだ。


 自分のおなかに手を当ててみる。

 ここには赤ちゃんがいるらしい。

 全く、実感がない。


 この赤ちゃんをおろしてしまえば、全てをなかったことにできるんじゃないかと、思った。




 日が暮れた頃、私はとぼとぼと歩き出していた。

 何をどうすればいいのかもわからない。

 一人で考えるには、許容量をオーバーしていた。


 ちりん……


「?」


 ふと、鈴の音のようなものが聞こえて顔を上げた。

 家へと向かっていたはずなのに、ぼうっとしていて道を間違えたらしい。

 気づけば知らない通りに迷い込んでいた。


 回りには私以外誰もいない。

 薄暗い通りで、植物が目立った。


 なんだか気味が悪くなって、もと来た道を戻ろうとした私だったが、ふと奥の灯りに目が行った。

 何かのお店だろうか、薄暗い通りに、一箇所だけ青白い光が灯っていて、扉が開いている。


 私は、その光に導かれるように足を運んでいた。

 木の重そうな扉が、人一人通れるくらい開いていた。

 その扉を飾るように緑のつたの植物が生い茂っていて、それに埋もれるように『相談屋【魂夜堂】』と書かれた看板があった。


 相談屋……。


 私はその文字をじっと眺めていた。

 そして自分のおなかをさする。


 一人で考えることは、もうできない。

 かといって、身近な人に話すのもためらわれる。


 赤の他人に軽々しく話すことは出来ないけど、なぜかこの場所が気になった。

 だから私は、気づいたら扉に吸い込まれるように中へ入っていた。


 ばたんっ


「!」


 いきなり、びくともしなさそうだった扉が風もないのに閉じた。


「あ、お客さん?」

「ひゃっ」


 びっくりしていた私は、突然声をかけられて飛び上がった。

 声のしたほうを見ると、制服姿の男の子が、雑多な荷物にうずもれるようにおいてあるテーブルにもたれていた。

 切れ長の瞳の、穏やかな雰囲気の、私より年上に見える人だった。


「夜竜さん、お客さん」


 その男の子は私を一瞥すると、奥の方へと声をかけた。


「弥生ちゃん、ちょっと待って、今手が離せないの。五分くらいお話しててあげて」


 奥から、女の人のとても綺麗な声がした。旋律を奏でるような耳に優しい声だった。

 男の子が困ったようにぽりぽりと頬をかいて、


「ちょっとここに座っててくれる?」


 私は言われるがまま、差し出された豪奢な椅子に座った。


「俺は夜見弥生。君は?」


 弥生さんと名乗った彼は、柔らかそうな栗色の髪に、紺色の瞳をしていた。


「木下香織です……」


 私はうつむいてしまう。


「ここは、闇を心に抱えた人が来る場所だ」

「え?」


 弥生さんがとても静かな声で言った。


「魂夜堂の扉は、闇を抱えた人のためにしか開かない」

「闇……」


 弥生さんの話を聞きながら、私はとても不思議な気分になった。

 それは、弥生さんがただの人間ではないような、そんな気分。


「その闇を、ここの女主人が食らってくれるよ。ちょっと胡散臭いかもしれないけどね」

「こら、胡散臭いって何よ」

「いでっ」


 弥生さんの後ろから伸びてきた白い手が、ぱしっと彼の頭をはたいていた。それに続いた声は、先ほどの綺麗な声で、現れた人も、今まで見たことのがないくらい綺麗な人だった。

 きらきらと煌めいて見える黒い髪を一つに束ねた、吸い込まれそうな真っ黒の瞳を持った女の人。真っ白な肌に、真っ赤な唇で笑う綺麗な人。

 芸能人とかモデルとかのレベルではなく、女神か妖精のように美しい人。


「それじゃあ、中に入ってくれる?可愛らしいお嬢さん」


 私は美しい人に続いて奥へと向かう。


「弥生、あとはよろしくね」

「はーい」


 面倒くさそうな弥生さんの返事のあと、私達は青白い光を放つランタンのある部屋にいた。


「さあ、座ってちょうだい」


 衝立に囲まれた場所に、テーブルがあって、椅子が二脚向かい合うように置いてある。美しい人はその一つに座った。

 私も、向かい合うもう一つに腰を下ろした。


「私は夜竜よ。貴女は?」

「木下香織です」


 やりゅう、なんてとても変わった名前だと思った。


「戸惑ってるのね」

「へ?」


 突然の言葉に顔を上げると、真っ黒な瞳と目が合った。


「苦しんでいるというよりも、戸惑っているというのが、貴女から受ける感じ」


 吸い込まれそうな瞳には、全てを見透かされているような感じだった。


「それとも、何かを受け入れられていないのかしら」

「……私……妊娠しているんです」


 ぼそりと言った一言に、夜竜さんは目を見張った。


「今日、病院でわかって……私、どうしたらいいかわからなくて」

「どうしたらもなにも、出来てしまったものは仕方がないわよね」

「でもっ」


 そういうふうに言われてしまうのは、何か悔しかった。


「でももへちまもないわよ。事実なんだもの」


 夜竜さんの穏やかな言葉に、私は泣きそうになった。

 そう、これは事実。

 妊娠しているという事実は、変えられないのだ。


「父親は、お付き合いしている人なのかしら?」


 私は、首を横に振った。


「……一度だけ、そういう関係になっただけなんです」


 お互いの気分が高揚して、一度だけ持った関係。

 まさか、それでこんなことになるとは。


「香織はいくつなの?」

「……16になったばかりです」

「母親になるには早いけれど、その年齢の母親がいないことはないわね」


 私はうつむいて、


「母親になんか、なりたくない……!」


 子供なんて、要らない。

 私は、まだ16歳なのに。


「甘ったれちゃ駄目よ。貴女は、もう母親なんだから」

「そんなの!おろしちゃえばいいじゃん!」


 私が叫んだ瞬間、その場の空気が凍りついた。

 だけど私も止められなかった。


「おろせば、なかったことにできるんでしょう?」

「本当にそう思っているの?」


 夜竜さんは、怒っているわけでも、責めているわけでもないようだった。ただ穏やかに続ける。


「出来てしまったら、おろせばいい。本当にそう思っているの?」

「だって、しょうがないじゃん!」

「言ったでしょう、甘ったれないでと」


 夜竜さんの言葉に、私は口を閉ざした。


「貴女の責任よ。他の誰でもない。避妊と中絶は天と地の差があるのよ」

「…………」

「子供が欲しくないのなら、妊娠して困るのなら、最初からそういう行為をしなければいい。それでもそういう行為に及ぶのなら、避妊に努めるべきでしょう」


 夜竜さんの言うことは正論だから、何も言い返せなかった。


「でもね」


 夜竜さんは、悲しそうに、


「愛されないことが確実にわかって生まれてくるくらいなら、生まれてこないことも幸せかもしれない」

「え……?」


 夜竜さんは、口にするのをためらっているようにも思えた。


「子供が出来てしまったらおろせばいいと、私はそういうふうな考え方は許せない。だけど、生んでから虐待されるようなら……生まれてこないほうが幸せかもしれない」

「私、虐待なんてしない!」


 思わず叫んでいて、その言葉に自分でも驚いていた。


「とても、デリケートな問題よ。倫理的にも。現に中絶を認めない国は沢山あるからね」

「…………」

「正しい答えなんて、人間には出せないんじゃないかしら。命を扱うことは、命を持つものにはできないことよ」

「言ってることが、わかりません」


 夜竜さんは寂しげに微笑んでいた。


「貴女も命を持つものなんだから、他の命のことを貴女は決められるわけがないと言っているの。それでもそれを決めなくちゃいけない立場に立たされた貴女は、悩まないわけがないのよ」


 私は自分のおなかを抱えた。そこに確かに宿っている命。軽々しくは、扱えないんだ。


「さっき、おろせばいいって言ったとき、貴女は命を軽々しく扱っているように思えた」

「…………」

「だから、よく考えて。おろせばなかったことにできる、なんてそんな馬鹿なことはないのよ。貴女が扱うのは、命なの」


 そう言った夜竜さんは、少しだけ嬉しそうに微笑んで、


「でも貴女、虐待なんかしない、って言ったじゃない」

「え?」

「子供を育てることは、人を一人育てることは本当に難しいことだわ。それに貴女はまだ十六歳だもの。でも、そういう行為をするからには、いつも親になる覚悟を、いつも大人でいる覚悟を持たなくてはならないわ」


 夜竜さんの言葉には重みがあって、できることなら世界中に聞かせてやりたいと思った。


「貞操観念とか、そういうことじゃなくて、最近は楽しみのためにかなんだかはわからないけれど、軽々しくそういう行為をするじゃない?」

「そう……ですね」

「でも、そういう行為って、やっぱり子供を作ることだって覚えておかなきゃいけないと思うの。ただ気持ちいいからやるとかそういうんじゃなくて」


 私は頷いた。


「そこがまず曖昧だから、できたらおろせばいい、なんて考える子が増えてるんだと思う」

「…………」

「おなかの中にいる赤ちゃんにも、痛覚があるのよ」

「痛覚……」

「中絶って、どういう風にするか知ってる?」


 私は首を横に振った。


「赤ちゃんを、おなかの中でかき混ぜて、ぐちゃぐちゃにしてから吸い出したりするの」

「!」

「大きかったら、はさみで切ったりね」


 反射的に、私は自分のおなかをおさえていた。


「ある程度育っていたら、分娩と同じように外に出すらしいけど」


 夜竜さんはそこで言葉を切って、


「赤ちゃんは、この世に生まれてくる前に痛みを覚えて死んでいくの。それが中絶よ」

「…………」

「だから、軽々しく思わないで欲しい。出来たらおろせばいい、なんてそういうことは。中絶って、本当にやむをえない事情がある人のためのものなのよ。例えば、母体に危険がある場合とか、そういうときに。だからね、子供を生みたくないのなら、最初から作らないことが大切なのよ。最近は避妊の技術も格段に進歩しているのだから」


 私は、軽く考えていた。

 16歳だから、子供だから、生まなくても許されると思っていた。

 でも、違う。生みたくなかったら、妊娠しないために努力をしなくちゃいけなかったんだ。

 それを怠ったのは、私。

 その責任は全て私にのしかかってくる。


「いい顔になったわね」

「え?」


 夜竜さんは、私を見て微笑んでいた。それは、本当に綺麗な笑顔で、同性の私でもどきっとするものだった。


「決めるのは、貴女自身よ。貴女のご両親とも、おなかの子供の父親とも話をしなくてはならないでしょうね」

「はい。ちゃんと話します」


 逃げていちゃ、駄目だ。

 逃げていたって、このおなかの赤ちゃんは私の中で育っていくんだから。


「夜竜さん、ありがとうございました」

「問題は沢山あるし、学校や世間の目も厳しいと思うわ」

「はい」

「辛いことがあったら、いつでもいらっしゃい。聞いてあげるから」


 私は頷いた。




 家に帰って、真っ先にしたことは、お母さんに全てを打ち明けることだった。


「妊娠……?」


 私の告白を聞いたお母さんは、蒼白な顔で私をひっぱたいた。


「あんた、わかってるの?!まだ16なのよ?!」

「ごめんなさい、でも、ちゃんとわかってる。これがどれだけ重たいことなのか、ちゃんとわかってる」


 おなかを押さえながら話す私に、お母さんはため息をついた。


「産むの?」


 私はうつむいて、


「最初は、おろしちゃえばなかったことに出来ると思った」

「香織……」

「だけど、そんなふうにはできない。こうなっちゃった責任は私にあるんだから、この子をきちんと育てることでしか私は許されないと思う」


 お母さんはまだ青い顔だった。


「お母さん、ごめんなさい」

「香織……」


 お母さんは、泣きながら私を抱きしめてくれた。


「とにかく、この子のお父さんにも、きちんと話をしておこうと思う。認めてくれるなんて思ってないけど」

「香織、大丈夫。一人親でも、子供は立派に育つの」


 お母さんが、こんな私を立派と称してくれたことに、私は感極まって涙を流した。


「お母さん、ごめんなさい!苦労して育ててくれたのに……こんな……っ!」

「香織、泣くのはやめなさい。お母さんになるんでしょう?」


 私ははっとしてお母さんを見て、頷いた。


「学校にも、話をしなきゃならないわね。とにかく、やることは沢山あるわ」


 頷いた私は、自分の部屋に戻ってメールを打った。


『会って話したいことがあるんですけど、時間ありませんか?』


 返事はすぐに来た。


『香織ちゃん、久しぶり。明日時間あるけど、会う?』

『それじゃあ、一時に駅前の喫茶店で待ち合わせしましょう』

『了解』




 翌日、待ち合わせの場所に行くと、佐伯さんは先に来ていた。


「香織ちゃん、久しぶり!」

「お久しぶりです」


 さわやかな笑顔で答えてくれる佐伯さん。

 だけど、もしこのことを話したら、彼はどんな反応をするんだろうか。


「香織ちゃん、大丈夫?気分悪い?」

「いえ」

「そう?話って何?」


 私は意を決して、


「佐伯さん」

「ん?」

「私、妊娠したんです」

「え?」


 佐伯さんが、笑顔のまま凍りついた。


「佐伯さんに、責任を取ってもらいたいとか、そういうことは考えていないんですけど、でも、黙ってちゃいけないと思って……」

「それって……俺の……?」


 私は頷いた。


「これは、全部私の責任です。だから、佐伯さんは……」

「ちょっと待てよ、全部君の責任のわけないだろ」

「え?」


 てっきり、責任逃れをするか、おろせとか言うと思っていた佐伯さんは、真剣な表情で私を見ていた。


「ちょっと待って。まだ混乱してるから」

「は、はい」

「俺の子なんだよね?」


 私は頷いた。


「いつわかったの?」

「昨日……」


 佐伯さんは、必死に何かを考えているようで、


「ごめん、香織ちゃん。俺、避妊もしないで……」

「いや、でもそれは私の責任で……」

「俺の責任だろ。どう考えても」


 意外だった。佐伯さんは絶対に私を責めると思っていたのに。


「あのさ、俺、まだ大学生だし、収入とかないんだけど」

「へ?」

「やっぱ子供育てるのってお金要るよな」


 佐伯さんは一生懸命何かを考えている様子。

 それが妙に可愛らしくて笑ってしまった。


「ちょっと、香織ちゃん、人が真剣に考えてるのに笑わないでよ」

「ごめんなさい」

「でも……子供とか……まじかよ」


 佐伯さんは大混乱しているようで、考えながら、ぶつぶつと意味不明なことをつぶやいている。


「私、佐伯さんのこと誤解してたみたいです」

「へ?」


 私は微笑んで、


「佐伯さんは、絶対に私に子供をおろせとか、他人のふりをするとか思ってたから」

「ちょっと、それはあまりにも俺に失礼なんじゃない?」

「ごめんなさい」


 佐伯さんはちょっと怒ったような顔で、


「そりゃあさ、この年で親になるとか、そんな難しいことは考えられない。でも、現に香織ちゃんのおなかの中には俺の子供がいるんだろう?」

「……佐伯さん……」

「俺は、その事実から逃げるような男にはなりたくない」


 私は、佐伯さんのことを激しく誤解していたようだ。


「ごめんな、香織ちゃん。まだ十六なのに」

「いえ……」


 充分です。

 そういうふうな言葉をもらえただけで。


「今、香織ちゃんのご両親はうちにいるの?」

「へ?」


 だいぶ、佐伯さんのことを誤解していたようだ。


「土下座しに行かなきゃ」

「ええっ?」


 佐伯さんは決死の表情で、


「大事な娘さんをこんな目に遭わせたんだ。殴られる覚悟で頭を下げに行く」

「……ちょ、佐伯さん?」

「勇って呼んでって言っただろ」


 ぽかんと私は佐伯さんを見た。


「こんなことになって不本意だとは思うけど、俺は香織ちゃん一人に苦労させるわけにはいかない」

「え、ちょ、ちょっと待ってください」

「何?」

「佐伯さんと私は、一時的にそういう関係になっただけで、付き合ってるわけじゃないし……そんな迷惑はかけられない」


 佐伯さんはますます怒ったような顔になって、


「香織ちゃん」

「は、はい」

「俺だって大混乱で、何をすれば良いかわからないけど、子供は現にそこにいるんだ」


 私はうなずいた。


「俺、まだ二十一だし、親になるとか考えてもみなかったけど、これじゃあ腹をくくるしかないだろう」

「あの、本当に、おろせとか言わないの?」

「香織ちゃん、俺は、命をそんな風に扱うやつにはなりたくない」


 佐伯さんはとても真剣な顔だった。


「俺の母親は、俺を自分の命と引き換えに生んでくれたんだ」

「え……?」

「俺の父親が言うには、俺をおろせば母さんは助かったんだろうけど、絶対にそれを許さなかったって。俺はそうやって誰かの命と引き換えに生まれてきたのに、俺は自分が与えた命を殺すなんてできない」


 佐伯さんは寂しそうに、


「俺には、君にその命をおろせという資格なんてない」


 佐伯さんは私の手を握って、


「香織ちゃん、俺に、きちんと責任を取らせてくれ」


 思わず、涙がこぼれた。


「俺、頼りないし、本当になんもできないかもしれないけど、必死に頑張るから」


 私はうなずいた。




 その後、私は佐伯さんをお母さんに引き合わせた。

 お母さんは佐伯さんを怒鳴りつけたけど、必死に土下座する佐伯さんに、最後には頭を上げてと言っていた。


 学校には、休学届けを出すことにした。

 勉強は、子供のことが落ち着いてから続けることにした。

 佐伯さんがいうには、佐伯さんが卒業してから正式に籍を入れたいとの事だった。


 佐伯さんはすぐに私を、お父さんに会わせたのだけれど、そのとき佐伯さんのお父さんは、思い切り佐伯さんを殴っていて、驚いた。

 そして佐伯さんのお父さんは、私に土下座をしてきたので、似たもの親子だと思った。

 顔に青あざを作って笑う佐伯さんは、初めて会ったときよりずっと格好良く見えた。




 まさか、十六歳で子供を生むことになるとは思わなかった。

 これから、偏見とかそういうものに立ち向かっていかなくてはならないのだろうけど、強く生きていかなくちゃいけないと思う。

 それでももし、辛いと思うことがあったら、またあの魂夜堂に行きたい。

 夜竜さんの笑顔が、私を強くしてくれるように思えた。

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