弥生篇◆CASE6:花見
続いていた寒波も遠のき、桜も芽吹きだした春の日、弥生は魂夜堂に向かっていた。
〝んー、やっとあったかくなった〟
背伸びをしながら、心地よい気候に自然と笑みがこぼれる。
〝あー、俺も受験生か……〟
この春から最高学年になる弥生。受験勉強で忙しくなったら、魂夜堂に行く時間も減るのかとか、そんなことを考えていた。
魂夜堂の前に立つと、中から不思議な音が聞こえてきて、弥生は首をかしげた。
「夜竜さん?」
恐る恐る扉を開いて、弥生は目をむいた。
「こらっ!そこは駄目!」
「っ?!」
がうっ
「きゃああああっ!私の本が!!!」
いつも冷静な夜竜の叫び声に、弥生は硬直した。美しい顔を蒼白にし、この世の終わりのような顔をした夜竜は、がっくりと机の上に居座っていたものを撫でた。
がううっ
「……夜竜さん……それ……」
「あ……弥生ちゃん、来てたの……」
夜竜が、それを抱えあげて弥生を見た。夜竜の腕に抱かれて、満足げに桃色の燐を飛ばしているのは、どう見ても、子犬くらいの大きさの黒い竜だった。
唖然としている弥生をよそに、小さな竜は夜竜の腕の中で嬉しそうに暴れている。
「ちょっと、暴れないで!」
夜竜が弥生のほうへと一歩進むと、弥生は一歩後退した。
「「…………」」
がうっ
へらっと笑う弥生に、むっとする夜竜。
「ちょっと、なんで離れるのよ」
「いや、近づいたら今にも噛み付かれそうなもんで……」
「噛み付かないわよ!」
いつもは叫ぶことなど滅多にない夜竜が、声を荒げている。
「それで、それは、いったいなんなんです?」
〝まさか、夜竜さんの子供とか……?〟
弥生が完全に引けた腰で、夜竜にたずねた。夜竜はさらに顔をしかめて、
「弥生ちゃんの考えてることはわかるけど、断じて私の子供ではないということだけ伝えておくわ」
「ですよね」
ふん、と鼻を鳴らした。そして、どんっと机の上に仔竜を置いた。その拍子にがふっと仔竜が盛大に燐を含んだげっぷをした。
「この仔の名前は、玄竜(げんりゅう)。私の甥にあたるの」
「甥?!夜竜さん、兄弟いたんですか?!」
なんとなく孤高のイメージがあり、夜竜に身内がいるとは思っていなかった弥生は、驚いて声を上げた。その瞬間、驚いた玄竜ががふっと燐を吐いた。
「血の繋がりはないわ。でも、私の兄弟子のような人だから。春になったから、嫁と修行に行ってくるとか言って、玄竜を私に預けていったの」
「弟子って……夜竜さん、師匠でもいるの?」
ぽかんとした弥生の問いに、夜竜は肩をすくめた。
「黒竜族の長よ。私達が子供のときにお世話になったの」
そう言って、玄竜の撫でている夜竜を見ながら、弥生は夜竜の幼少時代を想像してみる。しかし、うまくはいかなかった。
「夜竜さんの子供の頃って、想像できないや」
「今と大して変わらないわよ。その頃は人間の姿をとることは少なかったけれど」
「へえ」
夜竜は玄竜を抱えあげて、弥生に差し出した。
「抱っこしてみる?」
「え」
弥生ははっきりと逃げ腰になる。
「大丈夫、噛み付きはしないわよ」
玄竜の黒い眼がじっと、すがるように弥生を見ている。その尻尾は嬉しそうにぶんぶん振られていて、そして背中にある小さな羽はばさばさと音を立てている。
「まだ歯も生えそろっていないから、大丈夫」
夜竜の言葉に、弥生はおそるおそる玄竜を受け取った。ずっしりとした重みがあるかと思えば、想像したよりも軽く、拍子抜けした。
「あれ、軽い」
「そうでしょ。見た目よりずいぶん軽いのよ。私もね」
夜竜は笑って、玄竜が先ほど風の球で吹き飛ばした本を片付ける。弥生は腕に収まっている玄竜を見た。嬉しそうに腕の中で跳ねている玄竜と目が合う。
がうっ
「うわっ」
鳴き声とともに、高圧の風の球が顔面に噴射され、弥生はひっくり返りそうになった。
「大丈夫?」
「なんとか……」
当の玄竜は嬉しそうに弥生を見ていた。
「こいつ、俺で遊んでるな……」
「まあ、子供だからね」
赤ちゃんをあやすのと同じ要領で、弥生は玄竜を落ち着かせる。夜竜は意外そうに目を見張った。
「あら、上手いわね」
「親戚の子の面倒見てたことあるんで」
弥生の腕の中ではしゃいでいた玄竜が、徐々におとなしくなる。そして、ぱっちり開いていた瞳が、半目になり、尻尾がだらんと垂れ下がった。
それを見た夜竜が微笑む。
「弥生ちゃんってば、いいお父さんになるわね」
「あ、そういえば、父さんが卯月さんに会いたいって言ってるんです。珍しく明日休みだからって。花見がてらに、一緒に行きませんか?」
思い出したように言った弥生に、夜竜は目を見張り、
「行くのはかまわないんだけど……」
と、その視線が玄竜に向けられる。
「そうするとこの仔も一緒よね」
「ですね」
夜竜は困ったように続ける。
「さすがに、ペットですっていうのは、無理があると思うの」
弥生は、夜竜の言葉に唖然とした。
「トカゲをペットにする人はいるけど、この見た目じゃ、コドモドラゴンって言っても無理があるわよね」
その言葉に、弥生が再度硬直する。
固まっている弥生を見て、夜竜はそっと赤く頬を染めた。その黒い瞳がそっと伏せられる。
「弥生、そこは笑って突っ込んでくれないと」
「……コモドドラゴンですよ」
「ふんっ、子供のドラゴンだから間違ってないでしょ」
ますます真っ赤になりながら言う夜竜に、弥生は苦笑した。夜竜はふいっと顔を背けた。
「もう、弥生なんて知らないっ」
「すねないでくださいよ」
そんな言い合いをしている間に、玄竜は完全に眠りに落ちていた。その寝顔を見ながら、夜竜は少し考え、
「自分で化身できないかもしれないけど、私が力を貸したらできるかしら」
そう言って、考えをめぐらせる。弥生はそっと玄竜を近くにあった寝台に寝かせた。
「とりあえず、明日は父さんの運転だから、よろしくお願いします」
「わかったわ」
夜竜は微笑んで、眠っている玄竜を撫でた。
一行は、久司の運転で卯月の屋敷へと来ていた。こちらでは満開に咲いている桜が、古風な卯月の黒い屋敷を飾り付けていた。
「おお、見事な桜だな」
「本当、綺麗ね」
久司の言葉に、夜竜も頷いた。その腕の中には、生後五ヶ月ほどの人間の赤ん坊の姿になった玄竜がいた。
どんぐりのような黒い瞳、つややかな黒い髪、真っ白な肌も、夜竜と似ている。その頬は林檎の色に染まっていた。
「車で来ると、あんまり歩かなくてすむんだ」
弥生が辺りを見回しながら、呟いた。以前は駅から歩いた道も、雪がなければ車で登れた。
春を迎えた山の木々は、青々と茂り、桜の花が春の装いを魅せる。それを見た玄竜が、人間の幼子となんら変わらない様子できゃっきゃとはしゃいでいた。
玄竜と久司の邂逅は、見ものだった。
久司の運転で魂夜堂に寄ったとき、夜竜は玄竜を抱いて外で待っていた。それを見た瞬間、久司は急ブレーキをかけて、弥生は危うく顔面をぶつけるところだった。
「なにするんだよ!」
「……弥生、俺は、夜竜さんに子供ができたなんて一言も聞いてないぞ」
「はあ?」
久司は難しい顔で、
「お前な、まだ高校生だろうが。いったいどうやって養っていくつもりだ」
と言ってのけた。あまりの衝撃に、弥生は唖然とし、そして笑い出した。
「笑い事か、馬鹿!」
「あのな、父さん、あれ夜竜さんの仔じゃないし!まして俺のでもないし!」
「む」
そんなやり取りの後、弥生は夜竜と玄竜を車に招き入れたのだった。
外の空気を吸ってはしゃいでいる玄竜を見て、夜竜は微笑む。
「きっと、樹木のエネルギーを強く感じるからね。この仔の餌だから」
「あれ、ご飯とか食べないの?」
久司の言葉に、夜竜はうなずく。
「人間の姿をしていても、私と同じ竜ですからね」
「あーっ」
声帯の形が変わったせいか、玄竜がずいぶん人間らしい声を出す。久司は笑って、
「いまだに夜竜さんが竜だって信じられないからなあ」
「皆さま、卯月様がお待ちです」
屋敷の前でわいわいやっていると、待ちくたびれたのか門から黒い髪の少女が顔を出した。卯月の使い魔であるかほるだ。
「あ、今行きます。ほら、早く入ろう」
弥生がそれに応えて、玄竜を抱いている夜竜と久司を中に招き入れた。かほるに続いて卯月の部屋に入ると、卯月が椅子に座っていた。読み物をしていたのか、正面の机の上には細かい文字がびっしりと刻まれた本が置いてあった。
「こんにちは」
「よく来たな」
弥生の姿を見て嬉しそうに笑う卯月は、身体を起こすのがやっとの様子だった以前より、ずいぶん元気そうだった。
「卯月さん、元気そうじゃないですか」
「ああ、弥生のおかげかな」
そうやって微笑む卯月の前に、久司が歩み出た。
「夜見久司という者です」
卯月が、久司を見た。
「卯月さん、俺の父さんだよ」
「貴方が……睦月の……」
「ええ」
卯月に歩み寄った久司に、卯月は姿勢を正した。そして、その顔をまじまじと見つめた。
「はじめまして……参ったな、いろいろ言う事を考えていたんだが……」
少し困ったように言う久司に、卯月は震えている右手を差し出した。
「睦月を、受け入れてくれてありがとう」
「卯月さん……」
久司は差し出された右手を握り締めた。
「睦月を幸せにしてくれて、ありがとう」
卯月の言葉に、久司の目から一筋の涙がこぼれた。
「俺は、睦月を守れなかった。みすみす……死なせてしまった……」
「それでも、睦月は幸せだった。自分で選んだ男と一緒になれたのだから。それに、夜見の姓まで名乗って……」
久司は涙をぬぐって、微笑んだ。
「睦月の家の事情は聞いていたんだ。彼女の力のことも知っていた。でも、それを理由に彼女を諦めることはできなかった」
夜竜と一緒に玄竜をあやしていた弥生が、久司の言葉にはっと顔を上げた。
「夜見家の中にいれば、結界に守られていたかもしれない彼女を連れ出して、弥生の命まで危険にさらしたのは……俺の責任だ」
久司の言葉に、卯月は首を横に振った。
「それでも、私は睦月が羨ましい。夜見家に、弥生をもたらしてくれてありがとう」
先ほどから、謝礼ばかり述べる卯月に、夜竜も苦笑する。
「卯月ってば、そんなに感傷に浸ってないで、外の空気を吸いに行きましょうよ。体調、随分良くなってるんでしょう?」
夜竜の言葉に、卯月は少し躊躇ったようだった。
「外に……?だが、身体が……」
「そうだよ、卯月さん。桜がとても綺麗に咲いてるし。歩けなかったら、俺がおぶるよ」
卯月は弥生を見て、
「失敬な、そこまで落ちぶれてはいないぞ。年寄り扱いするな」
と笑う。久司も笑って、
「それなら一緒に行きましょう。少しでもいいから」
「……そうだな、せっかくの、私の季節だ。ところで……」
久司に身体を支えられて立ち上がった卯月が、玄竜に視線を飛ばした。
「それはなんだ?」
「うーっ」
今まで静かにしていた玄竜が、それ呼ばわりに抗議のうなり声を上げる。
「赤子よ。見てわからない?」
「それは見ればわかるが……人間じゃないだろう?」
「あら、やっぱり卯月にはわかるわよね。玄竜は黒竜よ。私の知り合いの子供」
弥生も立ち上がって、卯月の隣に移動した。ゆっくりと卯月のペースにあわせながら、歩き出す。
「竜か。どうりで大地の気を一身で受けているはずだ。食いしん坊だな」
卯月が、玄竜を抱いて隣に来た夜竜に笑いかけ、玄竜の頭を撫でた。
「あーっ」
きゃっきゃっと笑う玄竜に、卯月が微笑む。
「子供は良いな」
「ええ。さあ、玄竜も早く外に出たがってるわ」
ゆっくりながらも、しっかりした足取りで屋敷の外へ出た卯月は感嘆の声を上げた。
少し強い風が木々を揺らし、桃色の花弁を散らしていく。それが雪のように舞い、緑と混じって幻想的な空間を作り出していた。
「綺麗だ……」
卯月の長い薄茶色の髪が、風でなびく。その儚げな姿はまるで、桜の精のようだった。
「まさに、名は身を表す、ね。卯月は春そのものみたい」
「本当ですね」
夜竜の言葉に、弥生も頷いた。
「不思議なものだな。卯月さんって、冷たい冬のイメージがあったんだ。初めて会ったのが雪の日だったせいかもしれない。けれど、こうして見ると、やっぱり春が似合う人だ」
「弥生も、春の月よね」
そう呟いた夜竜は、桜を見上げている久司を見た。
「奥方は、雨が似合うしとやかな人だったの?」
突然話しかけられ、久司が驚いて夜竜を見る。
「睦月のことかい?」
「あら、他にも奥方がいるの?」
夜竜の冗談を、久司は笑い飛ばした。
「睦月は、雨上がりの星空のようなやつだった」
目を細めてそう言った久司は、再び視線を桜に戻した。
「雨上がりの星空、ね。弥生のお父様は詩人ね」
弥生だけに聞こえるように笑いかけた夜竜。その腕の中で、はしゃぎ疲れた玄竜が寝息を立てていた。
「代わろうか?」
「お願いできる?」
弥生が起こさないように、玄竜を抱きかかえた。背伸びをした夜竜は、そっと卯月に近づいた。
「夜竜」
気配で気づいたのか、卯月が振り返りもせず夜竜を呼んだ。
「何?」
「ありがとうな」
その声に、笑いが混ざっている。
「卯月、貴女、さっきからお礼を言いすぎよ」
「他に、言葉が思いつかないんだ」
髪を風になびかせながら、卯月が振り返る。
「それに、きちんと伝えておかないと、後悔しそうなんだ。私は……いつ死んでもおかしくないから」
卯月の言葉に、夜竜が顔をしかめた。
「卯月、死ぬことばかり考えていたら、生きていけなくなるわよ」
「わかってる。でも実際、弥生に会う前は、いつ死んでも良かった。だけど、今は、少しでも長く生きたいと思う」
「その意気よ」
夜竜が微笑むと、卯月は目を細めて桜を眺める。
「また来年、この桜を皆で見られたらいいな」
「そうね」
「その頃には、あのチビも大きくなっているかな?」
卯月の視線の先には、弥生の腕の中ですやすやと眠っている玄竜がいた。
「きっと、手がつけられないほど大きくなってるわ」
「そうか、楽しみだな」
「ええ、楽しみね」
夜竜が弥生のほうへと近づくと、入れ替わりに久司が卯月に近寄った。
「身体のほうは、大丈夫ですか?」
「ああ。でも風が強いから、そろそろ屋敷に入るよ」
「ご一緒します」
卯月の身体をいたわりながら、久司が屋敷へと同伴した。
「来年、またこの時期に休みを取ります。そうしたら、皆で花見をしましょう」
「そのときは、何かもてなしできるといいな。ご馳走を用意しておくよ」
「楽しみにしています」
二人が屋敷に戻ったのを見送って、弥生は夜竜に話しかけた。
「卯月さん、前より元気になってるよね?」
「ええ、きっと、弥生がいるから」
弥生は微笑んで、
「俺をしごいてるときの卯月さん、楽しそうだもんな」
「ふふ、きっと、来年も一緒に桜を見れるわよ」
そう言って桜を見上げる二人。
「夜竜さん、いつかの歌を歌ってよ」
「弥生ちゃんの頼みなら、仕方ないわね」
夜竜はにっこり笑うと、その鈴のような声で歌いだした。その身体から、青白い燐が舞い散る。
気持ちよさそうに歌う夜竜の、透き通るような心にしみる旋律を聴きながら、弥生は玄竜の背中を撫でた。眠っている玄竜の身体から、桜の花弁のような燐が飛んでいた。
強い風に揺らされた桜が、夜竜の美しい歌声に共鳴するように舞っていく。
その心が洗われるような世界に、二人は酔いしれたのだった。
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