弥生篇◆CASE5:血族



〝さむっ……〟


 寒さも厳しいこの季節、まだ足跡もついていない新雪の上を弥生は歩いていた。

 木々が雪化粧をし、時折突風が柔らかな雪を吹き上げていく。


 弥生はふと顔を上げた。


〝夜竜さん、今、どこにいる……?〟


 一ヶ月以上顔を合わせていない女主人に、弥生は想いを馳せた。




 そこは、一番近くの駅から一時間ほど離れた奥地だった。


『モシモ会イタイノナラ、オ前カラ出向クトイイ』


 使い魔を通して、言葉を残した夜見卯月。紙切れに記されていた住所に来てみれば、そこは人里からも離れた場所だった。

 最後に降りた駅で話を聞けば、そこには昔から屋敷があり、魔女が棲んでいると噂になっているらしいが、本当のところは有力な一族が趣味が高じて作った屋敷だということらしい。




―― 思い出せ。お前は、力の使い方を、知っている


 人も通らぬ獣道のような場所を歩きながら、弥生は考えていた。ずっと頭から離れないのは、夢の中に出てきた言葉。

 弥生が知っているという、力の使い方。


〝知ってるのなら……なんで使えないんだよ……〟


 弥生は右手を見つめる。あまりにも無力で、何も出来ないこの手。この身体に流れているのは、魔王とまで称された闇の一族の血らしい。



 現在、弥生の前から姿を消している夜竜は、初めて会ったときから弥生が闇の一族の末裔だと繰り返しているが、弥生は未だに闇の一族がなんなのかよくわかっていなかった。

 夜竜の話では、他の闇に棲む者達に命を狙われて、姿を隠したということらしいが、魔王とまで称された一族が、なぜ弱い人間として生きることを選んだのか、不思議でならなかった。

 夜竜は卑小な人間にうずもれれば、力を隠せたのではないかといっていたが、腑に落ちないものを感じていたのも事実だ。

 木の葉を隠すには森の中という言葉がある。しかし、闇の一族が人間を隠れ蓑に使っているこれは、どう考えても銀世界に黒猫を隠しているようなものだ。


 昔から裏で力を使っていたらしい夜見家。従姉妹でありながら、付き合いがなかった様子の睦月と卯月。

 弥生は、夜見卯月と話せば、何かがわかるのではないかと思った。




 見えてきた何かに、ごくりと喉を鳴して弥生は立ち止まった。たどり着いたのは、黒い壁の屋敷だった。弥生が扉に近づくと、突然扉が開いた。


「…………」


 おそるおそる扉をくぐったが、そこには誰もいない。そっと、弥生の背後で扉が閉まった。

 屋敷の中は、閑散としてて、人の気配を感じられない。


「お待ちしておりました」

「っ」


 突然声をかけられ、弥生はそちらを見た。そこにいたのは、黒髪の少女だった。生気が感じられないほど白い肌に、感情のこもらない漆黒の瞳。前髪を眉が隠れるくらいのところでまっすぐ切りそろえ、他は腰まで届くほど長い直毛だ。灰色の和服を纏った彼女は随分小柄で、じっと弥生を見上げている。


「……貴女が、夜見卯月さん?」

「いえ、私は使い魔のかほるです。卯月様は、こちらです。どうぞ」


 抑揚のない声でそう言うと、かほるが弥生に背を向けた。音も立てずに、古い木の床を歩く彼女。意を決した弥生は、彼女の後に続いた。

 一歩足を進めるたびに、ぎっと小さく軋んだ音を立てるこの床は、随分古いものなのだろう。


〝動けない、ってどういうことなんだろう……〟


 そんなことを考えていると、かほるが静かに立ち止まった。


「卯月様はこちらにいらっしゃいます」


 感情のない目で弥生を見つめ、障子の引き戸を示した。障子の向こうには人の気配は感じられない。


「どうぞ、お入りください」


 弥生は頷くと、そっと戸を引いた。


「っ」


 その部屋には、敷布団とそこに横たわった女が一人いるだけだった。


「卯月様、お客様です」

「ありがとう」


 透き通るような声で女が言うと、かほるはすうっとかすんで消えた。


「このような格好ですまないな」


 女が、ゆっくりと身体を起こす。


「む、無理はしないでください」

「いや、大丈夫」


 女がまっすぐと弥生を見た。弥生と同じ色の薄茶の長い髪に、透き通るような白い肌。痩せていてもなお力強い瞳が印象的な顔だった。年齢を感じさせない顔だ。


「夜見卯月だ。お前が、夜見弥生か?」

「はい」


 卯月は驚いたように弥生の顔をまじまじとみつめる。


「もっと、近くに来てくれないか?」


 弥生は布団に近づいた。


「睦月の、息子……」


 そう呟いた卯月は、泣きそうな顔になり、


「夜見家を出て行った娘のところに……男児が生まれるとは……」

「?」


 卯月は震える声で、


「弥生は、夜見家のことを知っているのか?」

「いや、何も」

「そうか。力は使えるのか?」


 弥生は首を横に振った。


「睦月は、力を使えただろう?」

「母さんは、俺が小さいころに亡くなったから」


 弥生の言葉に、卯月ははっと息を呑んだ。


「……呪われた一族の、宿命か」

「呪われた……?」


 弥生は驚いて卯月を見た。


「呪われた一族って、どういうことですか……?」

「……全てを話そう」


 すっと背筋を伸ばして、まっすぐ弥生を見る卯月。


「夜見家の祖先は、もともと人ではない」


 核心に迫る話に、弥生は固唾を呑んだ。知らずに、弥生も姿勢を正していた。


「闇の、強力な呪術を使えた、王のような存在だったらしい」


 魔王のようなもの、と言った夜竜の言葉が思い出された。


「孤独を愛し、他人に干渉せず、ただそこに在っただけの者だった。だから、いくら強力な力を持とうと、他の者達は無闇に手を出さなかったらしい。自分からは手を出さないが、自分に手を出したものには容赦がなかった、と伝わっている」


 卯月が部屋の奥を指差した。そこにあるのは、古びた本棚だ。


「もしも読みたかったら、好きにすればいい。ただ、今は話を続けるぞ」

「はい」

「闇の王は、誰のものでもなかった。その力が誰かのものになることを、他の者達は恐れていたらしい。しかし、闇の王はそんなことには興味がなかった。そうやって世界の調和がとれていたのだよ」


 卯月は一息をつく。


「そうやって、ぎりぎりの一線を保っていた平安は、闇の王の心変わりであっさりと崩れたんだ」

「心変わり……?」

「闇の王は、一人の人間を愛したんだよ」


 弥生が首をかしげた。卯月は笑って、


「それがどうしたとでも言いたそうだな」

「まあ……」


 これは大昔の話なのであろうし、大昔には夜竜の言う闇に棲まう者達は人間から敬われていたはずなのだ。

 うまく共存していたはずなのに、人間を愛することに何の問題があるのだろうかと、弥生は不思議に思った。


「人間だよ、弥生。何の力もない、他の種族からすれば力の底辺にいるような種族だ。その人間に、力の頂点に立つ闇の王が懸想したのだよ」

「それが、何か……?」

「闇の王が誰のものでもなかったことで保たれていた調和は、他の者達の不安で一気に崩れた。誰もが闇の王を止めようとしたのだ。もしくは、闇の王の力を奪おうとした」


 弥生は、はっと息を呑んだ。


「荒れに荒れた者達に、闇の王は怒った。なぜなら、闇の王が愛した人間を殺そうとする者が現れたからだ」


 ふと、卯月の言葉が途切れた。静か過ぎるその場に、完全なる沈黙が訪れる。


「……それで、どうなったんですか」


 その沈黙を破ったのは、弥生だった。卯月は横目で弥生を見て、微笑する。


「闇の王の怒りに触れた奴らは、呪いを受けた」

「呪い……?」

「世界は、人間のものとなった。底辺の種族に、弱き人間に、その存在を消し去られたのだよ」


 と、卯月が目を伏せた。


「しかし、闇の王とてそれほどの力を使えばただではいられなかった。己も人間の中で暮らし、隠れるしかできなくなってしまった。そして、闇の王自身も、呪いを受けていたのだよ」

「え?」

「実際は、呪いと呼ぶにはふさわしくないのかもしれない。闇の王が人間を愛したことは、過ちだったのだ」


 卯月の言葉が、なぜか弥生の胸にちくりと突き刺さった。


「闇の王の血が混ざった一族は、その巨大な力の故か短命で、そして、女子しか生まれなかったのだよ」


 じっと、卯月が弥生を見つめる。


「え……?」


 言われた意味がわからず、弥生は呆けた声を出した。


「一族には――夜見家には、女しか生まれなかった。弥生、お前は、初めての男だ」


 衝撃的な言葉に、弥生は言葉を失う。


「夜見家は、子孫を残すために、夜見の王の血筋を残すために、ずっと霊力の強い人間と交わってきた。私も、睦月も、そうなるはずだったんだ。だけど睦月は、ただの人間を愛した」

「母さん……」

「睦月は、守りたいものを守るために夜見家から反発し、弥生の父親と結婚した。そこで、お前が生まれた」


 卯月が、なんともいえない表情で、


「私は、弥生に闇の王の力が宿っていると思う」


 そう、告げる。


「俺に……?」

「弥生、お前の守りたいものは何だ?」


〝俺の、守りたいもの……〟


 卯月は、己を嘲笑うかのように、低くのどを鳴らした。


「睦月が夜見家を飛び出してから、本家は大いに荒れた。なぜなら、残る一人である私には、子を産むことができなかったから」

「え」

「夜見家の、終焉だよ」


 今にも泣き出しそうな、儚い笑顔で、卯月は弥生に手を伸ばした。


「できることなら、私も赤子を抱きたかった」

「……」

「睦月は、弥生が大きくなった姿を見たかっただろうな」


 卯月の目に、涙が浮かぶ。


「いくら、人には使えない力が使えても、私にはそんなものは必要なかった」

「卯月さん……」

「私が守りたかったのは、呪われた夜見の血なんかじゃなかった。そんなものを守るための力なら、投げ出してもいいと思っていた」


 弥生は、ためらいながらも卯月の手を握った。今にも折れてしまいそうな、冷たい手だった。


「睦月が、うらやましい。この、命を奪う力を、守りたいものを守るために使えた睦月が、うらやましい」


 卯月が、ぎゅっと弥生の手を握る。


「私の命も、長くはないだろう」

「そんな……」

「私のような、ひ弱な体では、この体に宿る力を扱いきれない。夜見家の血筋の人間は、力に生命力を奪われるようなこの感覚に、怯えて生きてきたんだろうな」


 弥生は、唇をかんだ。力を望む弥生と、そうでない卯月。力を使える卯月と、そうでない弥生。

 できることなら、弥生がすべての力を受け取ってしまいたかった。


「弥生」

「はい」

「私に残された時間は少ないけれど、睦月ができなかったことを、弥生にしてあげたい」


 卯月はうんと頷き、


「私はまともに動けないけれど、できるだけ、甥であるお前に力を貸してやりたい」

「卯月さん……」

「睦月は、お前に力の使い方を教えられなかったかもしれないが、幸い私はまだ猶予がある。私の命が在る限り、私が伝えられることがある限り、全てを弥生に託す」


 弥生は頷いた。


「ありがとうございます」

「礼など、要らない。ただ、私に母親の気持ちを味合わせてくれ」

「こんな息子でよかったら」


 弥生の言葉に、卯月は微笑んだ。


「卯月様!」


 と、そこにかほるの甲高い声が響いた。

 弥生と卯月が、はっと顔を上げる。


「どうした?」


 卯月が声をかけるが、かほるが何かを答える前に、ばしんっと音を立てて引き戸が開いた。


「え……?」

「私に何も言わないだなんて、いい根性しているわね、弥生ちゃん」


 青い燐を飛ばしながら、険しい表情で立っていたのは、長らく顔を合わせていなかった夜竜だった。


「かほるは?」


 卯月が、低い声でたずねる。


「私を通さない気だったから、気を失ってもらったわ」


 夜竜が激しく燐を飛ばしながら、答えた。


〝やばい……夜竜さん、めちゃくちゃ怒ってる……〟


 焦る弥生に、夜竜は視線を飛ばした。


「っ……」

「帰ってきてみれば、使い魔は魂夜堂で留守番していて、弥生はいない。どれだけ心配したと思ってるの」


 引き戸を開けたものの、夜竜は部屋には入ってこない。険しい表情で、弥生を睨み付けている。うろたえる弥生だったが、卯月は夜竜を睨み返していた。

 それが面白くないようで、夜竜は卯月を睨みつける。不穏な空気が、部屋を包み込んだ。


「黒き竜よ」

「私の名前は夜竜よ」


 夜竜がおおよそ友好的でない声で言った。


「ちょっと、卯月さん、夜竜さん……」


 間に挟まれた弥生が、情けない声を出す。


「弥生、この竜女はお前に近づいているらしいが、どういうつもりなんだ」

「卯月さん、夜竜さんは……」

「聞き捨てならないわね」


 弥生が卯月をなだめようとした途端、夜竜が言葉を挟む。


「弥生ちゃんは、私のパートナーになるの。それを貴女がどうこういう筋合いはないでしょう」

「ふん、パートナー?」


 卯月は鼻で笑う。夜竜がむっとする。夜竜の周りで激しく燐が飛んでいるのが見えて、弥生は気が気ではない。


「お前も所詮、闇の王の力が欲しいだけだろう」


 卯月はぎゅっと弥生の腕を掴んだ。


「この子は闇の一族の、最後の血。孤高の王の力を継ぐ者だ」


 卯月の言葉に、夜竜が表情を変えた。


「弥生ちゃんが……?」

「その力が、欲しいのだろう?」


 夜竜の反応に、卯月は首をかしげる。


「待って、卯月さん。夜竜さんは、力なんか望んでない」


 やっと、弥生が口を挟む。卯月は弥生を見た。


「夜竜さんは、一緒に生きるパートナーを探してるだけなんだ。俺を選んだのは、俺が闇の一族の血を引いてるからだけど、その力が欲しいわけじゃない」

「共に生きる……ふっ」


 卯月は顔を歪めて、自嘲気味に笑った。


「お前は、知らなかったのか?闇の一族が、ことごとく短命であること」


 卯月の言葉に、夜竜ははっきりと顔色を変えた。


「弥生が、短命だとでも言いたいの?」

「夜竜さん……」


 弥生は、不安に駆られる。

 ずっと、夜竜が口にしていた言葉。長き時を一緒に生きられるパートナーが欲しい。しかし、もしかしたら、弥生も長くは生きられないのかもしれない。その、闇の一族の血ゆえに。

 それを知った夜竜は、弥生から離れてしまうのだろうか。


「闇の王とて、お前が望むとおりにことが運ぶかは、わからぬ」

「……それでも」


 夜竜は、すっと背筋を伸ばした。弥生と卯月が、同時に息を呑んだ。

 燐を飛ばしながら、穏やかに微笑むその姿は、神々しいほど美しくて、なにものにも勝るさまだった。


「私は、弥生ちゃんを選んだの。お願いだから、邪魔しないで」


 夜竜の言葉に、卯月はそっと微笑んだ。そして、


「入るがいい、夜竜よ」

「……お邪魔するわね」


 夜竜が、そのとき初めて部屋に足を踏み入れた。すぐに弥生に近づくと、いきなり抱きついた。


「会いたかった」

「や、夜竜さん……」

「弥生のくせに、私の目の届かないところに出向くなんて、生意気よ」


 ようやっと、夜竜が安心したように息をついた。


「改めて、私は夜見卯月だ」

「初めまして」


 卯月は、そこで初めて夜竜に興味を持ったように、まじまじと夜竜を見つめた。


「夜竜は、人間である弥生を選んで、どうするつもりなんだ?お前達にとっては、脆弱で卑小な生き物だろう、人間など」

「そうね。そう思うわ」


 夜竜は、その場に腰を下ろした。


「ずっと昔、私は人間が大嫌いで仕方がなかった。なぜ人間のせいで、力を持つ私達が隠れて暮らさなくてはいけないのか、ずっと不満だった」


 卯月はじっと夜竜を見つめている。


「だけど、一人の人間にあって、私は変わった。そして、気づいた。人間には、変わろうとする力があるって」

「変わろうと?」

「ええ。私達闇に棲む者達は、不変を好んでいたの。昔と何も変わらず、自然の中に生きて生きたいと。だけど、人間は違う。成長することを、変わることを厭わない生き物だわ」


 卯月が、考える顔になった。


「それって、凄いことなの。私達と比べたら、ほんの短い間しか生きられない生き物なのに、どんどん変わっていく。成長していく。長いときを生きている私達が、何も変わらないでいる間にね」


 夜竜は、弥生を見て目を細めた。


「私は、人間として生きている闇の一族に興味があった。そして、闇の一族の末裔なら、力が覚醒すれば私と一緒に生きられるんじゃないかと思った。だから、私は弥生を選んだの」

「変わる力、か……」


 卯月が、感慨深げに呟いた。


「睦月は、変わろうとした。自分の運命を、変えようとしたから――弥生をもうけたのかもしれないな」

「?」


 先ほどの話を知らない夜竜が不思議そうに卯月を見た。卯月は微笑んで、


「心配するな、夜竜。おそらく、弥生は闇の王の力を受け継いでいる」

「何を根拠に?」

「夜見家に初めて生まれた、男だからだよ」


 夜竜は目を見張った。


「弥生の母親は、自分の守りたいものを守るために力を使い、夜見家を飛び出した。私は、運命に囚われ、そして長くは生きられないだろう。睦月には、呪いから解き放たれた子供が生まれ、私はこうして死と向かい合わせだ」

「貴女、長く生きられないの?」

「もう、四〇になった。十分すぎるほど生きている」


 卯月の言葉に、夜竜は痛ましそうに顔を歪めた。それを見た卯月が笑う。


「なぜ、そんな顔をする。私は、幸せだよ、こうして弥生に会えたからな」

「弥生は、闇の王となるの?貴女はどう思うの?」


 夜竜の言葉に、卯月は目を細める。


「本当のところは私にもわからないけれど、弥生は私達とは違う。明らかに、違う。それだけは言える。私達は、生まれたときから力の使い方を親に習ったけれど、弥生はそれを知らないはず。私に教えられることがあるのなら、時間の許す限り、教えたいと思う」

「……貴女の病を、私が癒すことはできるかしら」

「無理だろう。これは、病じゃないからな」


 夜竜は、何とも言えない顔で黙った。


「……夜竜さん、俺、卯月さんにいろいろ教えてもらいたいんだ」


 弥生の言葉に、夜竜はうなずく。


「貴女は、ここを離れることはできないの?」

「……こうやって、体を起こすのが精一杯なんだ。あとのことは、全てかほるに任せている。ここなら、喧騒も届かない」

「でも、弥生が会いたいとなると……そうだ、鏡はある?」


 夜竜はにっこりと笑って、


「魂夜堂の鏡と、ここの鏡をつなげるわ。それなら、いつでも会える」


 卯月は目を見張った。


「そんなことができるのか?」

「あら、貴女にもできるでしょう?」


 できると信じて疑わない口調だった。卯月は夜竜の言い分が気に入ったようだ。


「ずいぶんと夜見家を高く買っているんだな」

「当たり前よ。弥生の血族だもの」

「そうか。弥生の、か」


 闇の王の、ではなく、弥生の、と言った夜竜に、卯月はずいぶんと好意を覚えたようで、


「今、かほるに鏡を用意させる。そうか、いつでも会えるのだな」

「そうよ。楽しみが増えたのだから、長生きしなくちゃ」


 そう言って、夜竜は卯月の手を握った。


「貴女はずっと一人だったかもしれないけど、これからはそうじゃない」

「そうだな。睦月ができなかった分、私が弥生の成長を見届けたい気もする」

「そうだよ、卯月さん。俺にいろいろ教えてくれるんだろう?」


 弥生も笑うと、卯月はにっこりと笑った。その笑顔に、弥生がはっとする。ずいぶん昔に見たことがあるような、そんな懐かしい笑顔――。


「……卯月さん、笑うと母さんに似てる」

「そうか?」

「うん」


 本当に嬉しそうに笑う卯月。そこで、かほるが遠慮がちに戸を開いた。


「卯月様、鏡を――」


 相変わらず抑揚のない声でそう告げる。弥生がその鏡を受け取り、夜竜に渡した。


「それじゃあ、この鏡でいつでも会えるように」


 夜竜は布団から離れると、目を閉じて透き通るような鳴き声を発した。それと同時に、夜竜の髪の毛がふうわりと浮き上がり、青い燐が文様を描いて蠢きだす。


「ほお……綺麗だな」


 卯月が感心したような声を出した。弥生は満足げに、


「夜竜さんは、本当に綺麗な人なんだ。心も」

「お前は、満足か?あの人と一緒にいて」

「夜竜さんがいない生活は、もう考えられないんだ」

「そうか」


 卯月はうんうんと頷いた。と、夜竜の声が止んだ。


「はい、なくさないようにね」

「ありがとう」


 卯月はその鏡を受け取った。


「夜竜は、綺麗な声をしているな。ずっと聞いていたくなる」

「そうかしら?」

「夜竜さんは綺麗な声で歌うんだよ」


 夜竜は笑って、


「弥生ちゃんてば、おだてても何もでないわよ」

「何か欲しくて言ってるんじゃなくて、本当のことだから」


 弥生の言葉に、夜竜は少しだけ頬を赤く染めた。その様子を見ていた卯月が、満足げに微笑んだ。


「弥生」

「はい?」

「その方を、お前が守るんだ」


 卯月の言葉に、弥生も夜竜も驚いたように彼女を見た。卯月は真剣な面持ちで、


「闇の王は、己の力を以ってして一人の人間の女を守るために世界を変えた。孤高の王の心を変えたのは、脆弱な人間だった。弥生、今度はお前が、追いやられている闇の者達のために、力を使うんだ」

「俺が……?」

「弥生が?」


 卯月は頷く。


「弥生が、夜竜と生きることを望むのなら、人間であることを捨てることを厭わないのなら、それができるはずだ」

「……俺は、夜竜さんと生きていくって、夜竜さんを守りたいって、ずっと願ってる」

「弥生……」


 弥生は夜竜に微笑みかけた。


「俺は男だよ、夜竜さん。守られてばっかりじゃ、立つ瀬がないと思わない?」

「……嬉しい」


 卯月も微笑む。


「二人とも、そろそろ里に下りるといい。最近は雪がひどいんだ。吹雪かれると、大変だろう」


 卯月の言葉に、二人は立ち上がった。その際弥生は卯月と握手をして、


「卯月さん、また会いにくる。鏡じゃなくて、時間が合ったら会いに来るから。元気で」

「わかった。ありがとうな」


 二人は深々と頭を下げて、屋敷を後にした。



「本当に、心配したのよ、弥生」


 里に下りる途中、夜竜は呆れたように弥生を見た。


「ごめん。でも、自分で何かがしたかったんだ」

「……ごめんなさい」

「え?」


 突然謝った夜竜に、弥生は思わず聞き返した。


「何で謝るんです?」

「私、弥生ちゃんのこと、なにもわかってなかったから」

「……?」


 夜竜は照れたように、


「私、ずっと私が弥生を守るって、そう思ってた」

「……夜竜さん……」

「でも、弥生には私を守る力があるんだものね?」


 弥生は笑って、


「守られてばかりじゃいられない。一緒に生きていくんだろ?」

「そうね」


 嬉しそうに笑う夜竜に、弥生も嬉しくなる。弥生は、そっと夜竜に手を伸ばした。驚いたように差し出された手を見た夜竜だったが、すぐに笑顔でその手をとった。


「俺達は、生きる時間が違うのかもしれないけど、それでも、一生をかけて一緒にいたい」


 弥生の言葉に、夜竜はしっかと頷いた。




 薄暗くなりつつある空に、ごうごうと雪が混ざった風が吹く。新しく積もった雪を踏みしめ、二つ並んだ足跡が点々と続く。

 この足跡のように、一歩一歩、ずっと並んで歩いていきたいと切に願う二人であった。

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