第2話 怨霊武田軍の黒髪(一)
「武田信玄って知ってるか。有名人だもんな。
風林火山っていえば武田信玄だもんな」
「名前くらいなら知ってますよ。
でも久左衛門さんって中国史専門じゃないんですか」
「漢方好きだからって三国志が好きとはいってねえだろうがよ、
桃園の誓いしか知らねえよ」
「赤壁の戦いとか映画でやてましたよ。
あ、ちょうど三人ですし桃園の誓いでもしますか」
俺は茣蓙に寝かされていた。暗闇の天井を見つめながら久左衛門と夢空のくだらない話に耳を傾ける。しばらくして豪快な笑い声にはっとして意識が覚醒した。
「なんで、あばら屋にもどってるんだよ……」
背中を丸めて腹を縮めて涙にむせぶ。声を荒げておいおい泣いた。すると目下美少女である夢空が優しげに背中を撫でつけた。男子校ならではの母性だ。聞けば男子校に入学して早々躓いて長期不登校であったという。元男の容姿もそりゃあ美しかった。閉鎖的空間で如何様に扱われるか想像に難くない。しからば当然の流れで若者捨ての被害者になった。と久左衛門は徒然語った。
「とどのつまり時差があって女になったと……」
「ああ、気づいたら女の身体になってたな」
「久左衛門さん達って人間ですよね……」
「人間じゃなかったらなんだっていうんだよ」
「じゃあ房中術ってか若返りの術ってどこから」
簾越しに霧雨が降っていた。あばら屋の土壁と土間は湿っている。悪寒に震えた俺は改めて外の様子をうかがった。渓谷は篝火に照らされていた。宴台は変わらずにそこにあり、心許ない川床が蔓草で橋をかけている。感づきたくないものばかり察しよろしく気づいてしまう。母親に捨てられ役所に簀巻きにされ、黄泉の坂道を転がり落ちた俺は、非現実的な空間にいるのだった。
「もうやだあああああ」
「お兄さんお名前は?」
「ちあらいじまあああ」
夢空に背中を撫でつけられながら、おいおいと泣きすがった。もはや精神を律する柱など折れた。粉々である。情けなく決壊した涙腺のせいで再建も不可能となっている。俺は美少女の胸に抱かれながら、すんすんと鼻を啜った。久左衛門は身体を震わせている。茣蓙を叩きつけて笑っている。夢空だけが至極冷静でありつづけた。
「血洗島さん落ちついてください。脱出の算段はついています。
後々ちゃんと説明しますから」
「おい夢空、
ほらみろ川床が消えてる」
久左衛門は言うやいな長襦袢を整えて、あばら屋の外を顎でしゃくる。
渓谷から暴風が吹きこんできた。簾越しの霧雨が荒れている。隙間を抜けてびゅうびゅう暴れながら、俺達の身体を横殴りに濡らしていった。はっと気がつけば簾に人影があった。女であった。
女は薄汚れた打ちかけの着物を装っていた。蜘蛛の巣のように悍ましく乱れた黒髪。淡い唇には赤い涎が浮いている。その喀血した跡が顎から首筋まで垂れていて、さながら流水模様のように流れこみ、べったりと染めている。しかし皮膚は満遍なく青白かった。女は睨むような視線であばら屋を見つめている。何処ぞで見覚えがあった。これぞ幽霊である。
母親が所蔵していた複製品、上村松園の幽霊画は身の毛がよだつほど美しかった。モデルは源氏物語の六条御息所であったが、幾度眺めても恨みつらみなど感じられなかった。ところで俺は女を見てある幽霊画を思い出したわけだ。清水節堂の傑作である幽霊画だ。風に揺れるさまを見れば、ひと目で震えあがるほどおどろおどろしい。まるで掛け軸から抜けでてきた、いや抜けでてきたのだと断言できる。それほどに女は恐ろしかった。
乱れた黒髪を透かして行灯の明かりがのぞいている。宴台の篝火ではなく行灯である。これはおかしいぞ。と考えながらも身じろぐことはできない。久左衛門がビビってんのかと囁きかけてきたが、みんなビビっていたので沈黙を貫いた。
「北条様、こんばんは」
そこで夢空が声をあげる。決死の挨拶であった。なるほど六条ではなく北条。俺は震えながら少々惜しかったなと内心舌を打つ。
女は血の泡を吐きながら口をひらいた。声まで恐ろしかった。
「そなたら……そこな男に話したか……」
「いえ、まだ混乱していたようなので落ちついてからと」
「ならば話せばならんな……御館様がくる前に……」
幽霊である北条は小首を傾げながら、簾を越えて中に踏みこむ。その簾が除かれてみれば、外の様子は一変していた。宴台は八畳二間の和室であった。ありていに言えば室外から室内に変わっている。黒髪越しに見えた行灯は室内の四隅をおぼろに照らしていた。火皿から生臭い煙があがっている。魚のような油が蒸発している。囲いがないので行灯ではなく燭台である。
遠目に閉じられた襖は一面朱塗りであった。薄らと山間に屯する武士の絵が描かれている。
北条は俺の袂に腰をおろして、その
「そなたには申しわけないことをする」
と言いながら俺を蹴り倒して跨るので、恥じらいの文化は死滅したのだとわかる。腹をあわせて精気を貪られている。北条は鬼婆のように若返りはしなかった。死人であるためだろう。しかし改めて生気を宿した姿は、掛け軸の幽霊からあの源氏物語の六条御息所に様変わりしていた。
薄汚れていた打ちかけも蘇っている。
「口惜しや……これでも生前の姿は半日も持たなんだ……」
大仰に小袖を引いてよよよと嘆かれる。高貴な女が声にだして態とらしく嘆くものだから、時代劇じゃねえかと内心驚いた。暇も与えられず愚痴を聞かされるので茫然自失になる。そうして俺は下着姿のまま話とやらを聞くことになった。
「我らは完膚なきまでに攻め滅ぼされ、今はこうして霊界を彷徨っておる。織田信長の首をここへ持ってまいれと言えぬのも世が過ぎたからこそ。詮なきことだが。されどそう悠長に構えてはおられんのよ。こうして処るのは恨みつらみのせいだけではないのだ。悲しきかな、わらわも自死した手前、殿に強く言えなんだ。おなごに救いを求めるのはやめろと言えぬのよ……」
北条は俺を睨みつけると嘲笑するように溜息をついた。
「かように胸の小さきおなごも処るのだ。身の丈にあった胸が膨らむというものだ。ないものねだりの我殿にそなたから言っておくれ。女が男になれば紅顔の男子。男が女になればそれ見たことか……」
「ううう……う~ん」
「久左衛門と夢空は思えば、都を騒がせるような
「ううう……う~ん」
俺は唸りながら知恵を絞る。武田家って武田信玄だろうか。織田信長って織田信長だろうか。もはや熟考する気力すらない。先ほどおいおいと泣きすがってから現実逃避しているのだ。
そもそも女体にする意味がない。現物を用意すればいいのだ。マイクロバスには男女が数名着席していた。北条は選べる立場にいたばずだ。俺は視界がひらける思いだった。パズルのピースが、照明のスイッチが、カチッと押された。
「そもそも男を女にしなくても、はじめから女をあてがえば宜しかったのでは……」
「わらわの立つ瀬がないだろう……生きたおなごがいいとなれば尚のこと……」
北条は至極真面目な顔でありながら、やはり眦を細めながら微笑んだ。
「それに生きていたのは、そなただけであっただろう……」
幽霊である女に逃避したはずの現実を突きつけられて、俺はショック状態におちいった。やはり死んでいたのだ。東京湾に沈められる人間ですらコンクリートに鎖を巻いて厳重に処分されるものを、ロクデナシの若者は万歳三唱で簀巻きにされて放られた。適当すぎる末路である。土すらかけない。大昔には死を確認するために、そのまま腐敗させるという葬儀があった。
山奥であっても大量に放置すればいずれ問題にあがるだろう。国の方針を疑わざるを得なかった。
北条はこちらに憐憫の情を抱いている。俺は震える拳を太腿にあてて俯いた。その時だった。
地鳴りがした。途端に床が揺れて畳が浮きあがった。天井から土壁の端が粉吹いて落ちてくる。そのうちに朱塗りの襖がひらかれる。紐で引かれるように、すうっとひらいたので気づかなかったが、暗闇から体躯の大きな武士が現れて、俺は甲高い悲鳴をあげた。
姫や、と呼ぶ声がする。
「姫や、男をひっぱりこんで何をしている」
「殿、これは男ではございません……」
「しかしおなごの顔ではないだろう」
「かように男顔のおなごも処るのです……」
「しかしおなごの胸ではないだろう」
「かように小さき胸のおなごも処るのです……」
大きな武士は大鎧を鳴らしながら二間を歩いてきた。泥まみれの革足袋は所々破れている。しかし兜や大袖は素晴らしい状態だった。黒漆塗りである。燭台に照らされてぬらぬらと反射している。只管に足元ばかりが汚れていた。畳に残された足跡は血反吐を踏んだようで、歩くほど赤黒い痕跡が残されていく。
武士は身体を縮めた俺の腕を掴みあげ、胸部を露わにすると、ふむと悩ましげに唸る。そうして徐ろに、あろうことか男の乳房を見分しはじめた。狂気の沙汰である。ふと久左衛門の言葉を思いかえした。今さら胸もまれたぐらいで――。俺は相まって白目を剥いた。
「おなごでありましょう……」
「まっこと男顔のおなごよのう」
「今宵の戦では重宝しましょうな……」
「してその戦、相手は何処の者であったか」
「織田……にございます……御館様」
北条は大鎧に指を添えると静かに涙した。武士は大層機嫌宜しく笑う。やがて地鳴りが治まれば、大鎧の武士は姿を消した。北条もひとつ言葉を残して掻き消える。
「そなたらに、我が殿を任せるぞ……」
さらさらと風が吹いた。いつの間にやら北条の抜けた黒髪が腰骨を撫でている。霧雨の宴台で篝火が揺れていた。簾の外は朱塗りの襖ではない。渓谷の川床である。
これは幽霊どころの話ではない。奴らは戦国時代の怨霊である。彷徨える怨霊である。役所は足を踏み入れてはならぬ場所に踏みこんでしまったのか。はたまた両者の希望が合致した結果なのか。やはり失神するほかに術はなさそうだった。生真面目に考えても打破などできるか。
「ううう……勘弁してくれええ……」
俺達は憑かれているのだ。よって匙を投げた。茣蓙に寝転んで瞼を閉じる。家に帰りたい。それが切なる願いであった。
***
俺の知識によれば、武田家は甲斐(山梨県周辺)を所領していた武田信玄公、その息子の自死諸々含めて断絶したといえる。世は戦国時代であり養子なんてざらである。婚姻で結ばれた親戚筋は敵軍にもいただろう。記述のない庶子も大勢いただろう。武田信玄公亡き後、当主として武田家を継いだ息子勝頼は庶子である。そういう出自であったから当主陣代説まで持たれている人物だ。
武田勝頼といえば甲斐武田家を滅亡に導いた男として知れているが、まず以って敵方である織田信長の養女を正室にした過去がある。その同盟を反故にしたのは風林火山を御旗に掲げた信玄公にほかならない。そういう時代。織田と武田は対立関係であった徳川家を挟んで敵方になったのだ。
勝頼は棚から牡丹餅の法則で当主になった。結果だけみれば要するに貧乏くじを引いたようなものだった。それから領土を広げて負けに負けて朝敵にされて梟首にされる。とりあえず自害はできたはずだ。
武田家についてだが、実際は信玄公の血統は途絶えていないし、武田家は現代までつづいている。滅亡だ断絶だと言われるが、信玄公の何人目かの息子が生きていたのだ。その子孫は島流しを経験して、大河ドラマを観るまでに至っている。
勝頼の存在ってなんだったのか。勝てば官軍負ければ賊軍。さぞ無念だろう。無念すぎるだろう。現に無念すぎて怨霊になっていた。俺は用意された戦鎧から目をそらして、夢なら覚めろと念じたが、土台無理な話であった。ここは霊界で俺達は憑かれているのだ。
「やだやだ着たくない……俺は着ないぞ」
「でも着なきゃ。血洗島さん家に帰りたいんですよね」
夢空に戦鎧を押しつけられる。それを弾き飛ばせば、久左衛門に頭頂部を殴られた。
「俺達は女の身体で接待係だからな。お前だって何かしら接待すんだよ」
「それは理解してます。でもなんで武士コスプレなんてしなきゃならんのか」
「お前、じゃあひらひらの着物で馬に乗れんのか、人殺せんのかって話だよ」
茣蓙に投げだされた俺は伏せたまま戦場を想像した。俺が霊界で死んだ場合どうなる。戦国時代の死体処理はどうだ。野晒しで獣の餌。想像に難くない。一緒くたに埋葬すれば楽だろう。遺族の供養は当てにならず農民によっての供養される。穴掘って埋められる。そこらへんの雑兵の骨と混じりあう。徳の高い僧侶が拝んで石碑が残される。俺もまた奴らの仲間になるのだろうか。
「しかし死んでまで戦うってどうなんだよ……さっさと成仏しろ」
「たぶん無念だったからのひと言につきるんじゃないんですかね」
「そりゃあいつか勝ちたいんだろ。奴ら信長畜生の勢いだからな」
勝つまで戦いつづける。その地獄に陥り、無限に繰りかえされる賊軍の因縁、これを断ち切るために俺は慰めなければならない。賊軍棟梁である武田勝頼を。しかし俺の身体は女の身体に変じてはいなかった。ならば先人達にできなかったことをしろというのだ。ロクデナシ浪人生である俺に何ができる。求められた事といえば戦場に立つことだ。そう考察しながら、俺達は準備を終えて暗闇の宴台を抜けて橋を越えるのだった。
***
幾万回の負け戦。なれど霊界の戦は祭りである。だって幽霊だから。死んでるから死は意味を成さないのである。俺は小高い丘から荒野を望んでいた。女達は遊女となり、宴の支度に狩りだされて不在である。隣には精気に満ちた北条がおり、背後には生半可に腐敗した骸が従っていた。
「わらわは
北条は暗闇の丘陵地帯を袖で払うように腕を伸ばす。指差した霊界の戦場は狭かった。葦が茂った野原に水深の浅そうな小川があって、丘のうねる谷間があった。武田軍は近場の高台に陣を敷いている。どんちゃん騒ぎの酒の席である。俺は背後を顧みながら口をひらいた。
「織田信長関連の戦なら沢山ありますし……なにぶん学がないものでわからないんですが、両軍にとって重要な局面だったんですね……いやはや」
俺は震える舌で詳しくは知らないとのたまった。むろん嘘である。長篠の戦いに聞き覚えがないって未就学児童か。記憶にないなら歴史教師の怠慢だ。しかし地元民や歴史マニアじゃあるまいし。詳細まで知識にあるのは試験前の学生だ。
長篠の戦いといえば、設楽原に敷かれた織田陣営に武田勝頼が猛襲して、信長の戦略にはまり、前から後ろから攻められて敗退した戦いである。長篠の名前は長篠城からきている。武田から奪取した徳川の城だ。この戦は武田に包囲された長篠城からはじまっている。
援軍に駆けつけた信長の策にはまり、設楽原に進軍した武田は選択ミスを冒した。
長篠城包囲に残された軍は奇襲によって総崩れ、勝頼は敵軍に後ろから挟みこまれてしまった。からの前には見事な馬防柵が築かれていた。
武田軍といえば騎馬兵。猫じゃないので馬は防柵を越えられなかった。あえて堀まで準備されていたので、武田は采配の先を間違えたと言える。
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