そこそこ怪談話

hana

姫ヶ淵の宴

第1話 血洗島蛍、山に捨てられる

 そこそこ怖い話である。


 俺は舞台袖に倒れこんでいた一体の遊女から、その豪奢な羽織はおりをひったくり身にまとった。


 そうやって人生の岐路きろに立たされても尚、俺の浪人生としての価値観は変わらなかった。闇夜に浮かぶ摩訶不思議な宴台で、老婆が豪奢な羽織をひるがえし、お酌に奔走する姿を見ても尚。浮草の人生のまま。


 宴台の客席には厳しい武士と薄汚れた鉱山労働者。のべ数十人の怨霊が遊女を相手に愚痴をこぼしていた。その遊女という遊女が老婆だった。


 老婆達は額に汗かきながら、骨粗鬆症ゆえの変形か筋力のなさか、中腰に折れた腰を撫でつつ懸命に相手を務めている。俺は彼女達の苦渋を前に、怨霊だとか老婆だとか問題にするのも烏滸がましいと思ったし、尊い奉仕活動を見せつけられて驚きもした。とんでもない暇人揃いだなと。


 俺は老婆から譲られた鮮やかな口紅をさして舞台袖に立つ。関節接吻だとか、決して精神的苦痛に苛まれようが悲鳴をあげたりはしない。ありていなる思考は現実を拒否していたが、只管ひたすらに口紅を厚塗りして白粉をはたき鉄壁の仮面とする。ここから逃げだす道は後にも先にも宴台の舞台上に立つことのみだった。



***



 事のはじまりである俺というロクデナシの誕生は、母親が父親にプロポーズされて安易に給料三ヶ月分のセオリーを左指にはめたことにある。それについては数年後に誕生した俺に一切の責任はなく、花嫁衣装を脱いだら最後、輝かしい人生に暗幕がおろされる、という結果論など知るよしもなかった。母親は子育て運がなかった。まさか息子が浪人生になるなんて。結婚旅行中に少しでも考えただろうか。考えるわけなかった馬鹿野郎。


 ある朝、ボランティア人材の案内が役所から届けられた。それを見るやいなや母親は歓喜した。「これからが私の第二の人生だ」とばかりに厚化粧に興じて銀座に飛びだすほどだった。エナメルのヒールを玄関タイルに叩きつけ、歌謡曲を熱唱しながらハンドバッグを振り回してタクシーに乗りこむ。恐ろしいことに頭の中ではファンファーレの幻聴が鳴り響いていたそうだ。ついに頭がおかしくなったのだ。


 俺は母親に連れられて役所のロビーに立っていた。ボランティア人材バンクなる説明を受けたが果たして理解できたか自戒する。しからば諸々の契約書類に判を押した直後、早速現場に向かうというマイクロバスに詰めこまれた。車内には生気の感じられない年頃若い男女が数名着席していた。駐車場は万歳三唱の嵐。大手を振りあげる家族達。かくいう俺も狂喜に満ちた母親に見送られ、マイクロバスに運ばれながら役所を後にした。


 マイクロバスには添乗員ないし乗務員という公務員がついていた。中年期の肥満に悩まされる汗ばんだ男だった。安かろう悪かろうのワイシャツは破裂寸前だった。対して言動は謙虚そのもので、同乗者の健康チェックはぬかりなく「ゲロ袋ありますから吐きそうだったら言ってくださいね」と俺の胃腸にも優しかった。


 ズボンの常備薬である痛み止めと酔い止めをちゃんぽんにして飲んでおく。ストレスに曝されて頭痛と嘔吐が連続でおとずれることは避けたかった。マイクロバスに詰められた男女は、それぞれペットボトルのミネラルウォーターを受け取っていた。しかし俺は常備薬にはこの水しか飲まないと決めこんでいる質だったので、トートカバンから自前の水筒を取りだした。



***



 気がつけば寝入っていた。窓から見える景色は鬱蒼とした森で、周囲は混沌とした暗闇だった。重なりあう木樹の隙間から薄らぼやけた月が見える。座席から身を乗りだして前方をのぞけば、道なき道のような、雑木林の斜面をヘッドライトが照らしていた。マイクロバスは錆びたガードレールに沿うような形で停車していたのだ。車内には乗務員の姿はなく、運転座席も空になっていた。マイクロバスの扉はあけ放たれていて、それを陣取るように黒い影が佇んでいる。俺は冷や汗をかいた。臓腑がぎゅっと縮こまり喉を狭めながら迫りあがってくる。そんな心地で息を凝らした。しかしよく見れば、まあ美しい妙齢の女だったので、嘔吐には至らずにすんだのだった。眼福眼福と眺めていると。


「あ、起きちゃったのかい。ぐっすり寝てたから後回しにしてたのにねえ」


 そんな俺に背後から声がかかる。乗務員の男だった。顧みればマイクロバスのバックドアがあいていて、運転手であった公務員含めた男二人が荷物を担ぎだしていた。足元には簀巻きにされた塊が放られている。俺は心の中で怒号をあげた。気づきたくなかったが簀巻きが蠢いている。感づきたくなかったが、多分に漏れず俺は姥捨てならぬ若者捨てに直面しているのだ。


 足蹴に転がされる簀巻きをじっと見つめて、即座に駆けだした俺であった。美しい女が陣取っていた扉から抜けだして、逃げればいいものを中年期の肥満に戦いを挑み、その腹にジャンプキックをかましていた。冷静ではなかったが殺されるくらいなら殺しておこうと本能が判断したのだ。しかし役所も馬鹿ではなかった。運転手の男は腕っ節の強そうな、ようするにジムにいる特定の男達のような体作りをしていた。俺は抵抗むなしくお縄になり、適当に簀巻きにされて暗闇に放られた。



***



 ヘッドライトに照らされた斜面は黄泉の坂道ならぬ人里離れた郊外の山奥であった。急勾配で途中から崖になっている。その斜面を転がり落ちた俺は非人道的な裏社会にむせび泣いた。いくら役に立たないロクデナシであっても山に捨てていい道理はないのだ。親が子を見捨てるのに万歳三唱なんてあってはならぬ。訴えて社会的に責めてやる。と息巻いて立ちあがる。幸運にも先んじて簀巻きにされていた者のおかげで俺は死に損なったのだ。死体は川州に積まれて山になっている。俺は沈むことも溺れることもなかった。簀巻きは数日間で築かれたのか腐敗臭がした。季節が悪かった。後々処分するつもりなのか。目論見虚しく俺は生きている。問題の簀巻きは転げ落ちる摩擦の刺激やらで解かれていて、俺は慄きつつも足早にその場を離れることにした。


 遅まきながら察したが、くだんの美女は人間ではなかったのだ。考えればどうして殺人現場に美女がいる。加害者側でないならなおのこと人間ではない。案の定、森の中を駆けていた俺を捕まえたのが件の美女であった。美女は豪奢な羽織を肩にかけて、妖艶ながら気怠い表情で、柳の木さながらに佇んでいた。夜風になびいた黒髪が蜘蛛の巣のように飛んできて、こちらの顔にまとわりついてくる。まあ美女なので期待半分の心持ちであったのだが、しかし俺は恐怖のあまり失神してしまった。ホラー映画特有の過剰な効果音に驚かされたわけではなく、美女の生気のない顔をみた瞬間に気力が吸い取られた。という流れである。



***



 あばら屋の茣蓙ござに転がされていた俺は、柔らかな肉体に添い寝をされていた。あられもなく乱れた長襦袢から、豊満なる乳房、極めてみずみずしい桜色の乳輪が見えていた。それに視線を注いだまま身体を起こせば、あばら屋の外から聞こえるちゃらんぽらんな雅楽の音頭に興味を惹かれた。土間に垂らされたすだれから顔をのぞかせて様子をうかがう。


 すると背後から肩を引かれて茣蓙に押し倒された。何処ぞの生暖かな裸体が腹ばいになって俺を潰しにかかる。冷えていた腹がくっつきあうと五臓六腑ではない熱源があがった。俺は下着姿であった。


「おい、兄さんここが何処だか理解してるか?」

「理解って、えっと夢の中とか……」

「なわけないだろうがボケナスが」


 絶妙な力加減でぽこすかぽこすか叩かれた。振りあげられる腕にあわせて乳房が揺れている。そのうちに拳で頬を殴られた。


「心臓に毛が生えて、いや心臓が亀の子束子たわしだな」

「ちょっと待てさっきから妙におかしいと思ったんだが――」


 俺は両手で豊満なたわわを鷲掴んだ。二山からなる巨峰をそっと撫でる。手に収まった肉塊は汗ばんでいた。霧雨に濡れる乳房だった。宝石だった。夜の中で桜色の乳輪が輝いている。


 改めて顔を拝めば件の美女だった。


「生きてるのか幽霊かと思った」

「この状況でよくもまあな」


 しばらく無言で身体を重ねていたが、ちゃらんぽらんな音頭が途絶えると、美女は腹ばいから起きあがってしまった。怪訝な表情で首を傾げては耳を澄ませている。外を警戒しているようだった。簾向こうは静まりかえり、ただ虫の声だけが響いている。美女は俺と向かいあうと、美女らしからぬへらへらとした笑い顔を浮かべた。


「とりあえず物臭なかっこうですまねえな」

「いや、それなら俺のほうが謝るべきではないかと……」


 手に残された感触は至高のものだった。指先の厚皮から侵蝕して広がっていく。恐怖にも似た実感から身体が震えはじめる。思えば巨乳を揉んだ経験などなかった。いな一生一度だろう。


「今さら胸もまれたぐらいで、どーってことないしな」

「その言い草、その格好、もしやお姉さん……」


 美女が身体を売るほど困窮しているなんて世も末だ。必然に頭はお察しだろう。生きる術は男女関係にある。遊びほうけたつけが美女の人生に陰を差したのだろうか。乱暴な物言いが痛々しい。周囲の口調が伝染ったのだろう。イヤダイヤダ。オラオラ系の男の気配がする。


「ああ気づいちまったか、まあ元男だから細かいところしゃーねえよな」

「もとおとこ……」


 美女は言うやいなや胡座をかいて、カモシカのごとき御御足を叩きながら、ガハハと声を荒げる。大っぴらに捲くれた長襦袢から内転筋なる部位が見えている。秘宝館の扉がひらかれた。螺鈿細工らでんざいくか。太腿が魚の腹のように青白い。俺は錯乱していた。成人前の男だから。


「お名前は……」

「久左衛門だ」

「きゅうざえもん……」


 聞くも涙、語るも涙、久左衛門は若者捨ての被害者であった。競馬から帰宅した夜、深酔いして寝ゲロした。気がつけばマイクロバスに詰められて簀巻き状態であった。売られた捨てられたあのスケめ。訴えて社会的に責めてやる。と恨みで心身を強化した久左衛門は、崖である斜面を転げてもなお川洲で生きながらえた。そうして豊満なる乳房を実らせた。一物も消えた。


「しかし、どうして女になんて」

「さあな気づいたら女だよ」


 俺は絶句した。存在がファンタジーだった。悲壮感を漂わせた美女は黒髪をかきあげて溜息をついている。女体のすべてが鬱陶しげで持て余しているようだった。その円やかな肉体が悩ましい。腰を据えた姿勢の黄金比が、雄の本能に完璧とは何かを説いている。大きな胸が二つ。くの字の脇腹、下腹部の贅肉。太腿。噛み千切れそうな肉体。なれど男だ。


「そもそも女になっちまったことよりも、ここから抜けだすことのが問題だからな」

「ここから抜けだす……もしかして俺達はタコ部屋かなにかに居るんですか」

「タコ部屋ねえ……まあタコ部屋っていえばタコ部屋だろうな。女だけの」



***



 俺は改めて簾から顔をのぞかせた。幾度も様子をうかがった。あばら屋の外は暗闇だった。篝火かがりびに照らされた地面は、板張りの床に茣蓙、薄い敷物が広げられている質素なもので、見れば空中に吊るされているではないか。京都の川床の大規模バージョである。さらに言えば高所にあった。蔓草でくくられているので風が吹けば揺れるだろう。板で組まれた心許ない川床である。


 これらは人をあげる宴台であった。肥満度が高ければ底に落ちる。筋肉質の男を集めれば落下は間違いない。いな女も落ちるのだ。


 篝火の袂に黒い影がうずくまっていた。久左衛門が俺の肩越しに声をあげる。


「おーい夢空、大丈夫か」

「え、今なんていいました?」

「いやムンクって言ったけど」

「むんく……」


 久左衛門は羽織をひるがえして宴台に進みでた。夢空と呼ばれた黒い影に肩をかして抱き起こす。夢空は久左衛門同様、豪奢な羽織を肩にかけていた。艶やかな錦鯉の染め物で、水流の曲線が袖から裾まで美しく描かれている。その袖から伸ばされた腕は、骨の浮いた乾魚そのものである。ありていに言えば木乃伊の老婆だ。垂れた胸部の皮膚をたぷたぷ揺らしながらあばら屋に入ってきた。


「夢空、こいつもはめられて捨てられたらしい」

「そうですか……でも人がふえるのは嬉しいですね」

「おう、先に食わせてもらったからお前も食っとけ」


 何言ってんだこいつら。


「ちょっと待ってください。俺に婆趣味はないですよ」

「心配いらねえよ夢空も元男だからな」

「そっちの趣味もないんですが……」


 俺達は笠連判状さながら円になって腰を据えた。久左衛門は脱出の機会をうかがい、マイクロバスの気配を察して斜面ならぬ黄泉の坂道を這いあがってきた。そこには作業におわれる公務員がいて、睡眠ガスを物ともせず意識があった俺に目をつけた。いわく「強運があるやつは生きながらえる」ということで生還するまで逐一見ていたのだと。


 失神した俺を運びこんだ久左衛門は、しめしめと茣蓙に横たわり添い寝をした。肌を重ねて精気を吸い取ること、それは中国古来の陰陽五行を用いた養生の術であった。房中術である。


「ぼうちゅうじゅつって、あんな俺に何したんだよ!?」

「いちいちうっせーな、だから気を巡らせたんだよ」


 思えば十数年、貞操の危機に貧したことはなかった。昏倒している最中に卒業となれば、これほどに悲しいこともなかった。嘆きにむせび泣いている傍らで久左衛門は豪快に笑う。やるわけない。肌を重ねたというのは皮膚同士を密着させただけだ。この巨乳で肋骨を押しつぶしてやった。と長襦袢のバチ襟をかばりとひらいてみせた。零れた乳房が艶めいている。俺は慰められた。


「こちとら漢方薬剤師を目指して大学いってんだ」

「それで気を巡らせて、一体どうしたんですか……」

「疲れると婆になるんだよ。それで精気で若返った」


 房中術は東洋の男女の閨事である。また西洋ではダビデ王に仕えた美女アビシャグの養生術がある。これもまた閨事であったが性行為には属さず、清らかな処女の柔肌に身体を温められる作法であった。シュナミティズムと呼ばれる回春術である。久左衛門は房中術ではない、正せば回春術を行ったと言える。


 久左衛門は将来有望な大学生であった。その現実に打ちのめされながら弱々しげに相槌を打つ。


 ものは試しとして夢空の若返りに貢献することになった。老婆を腹ばいにした姿の虚しいこと。俺は暗闇の天井を見つめながら無心を装った。萎びた木乃伊の皮膚から血流の音が響いている。衰えた血管に吸いこまれた濁流のごとき若々しい精気が流れている。


 蛭に血を吸われるような、蛞蝓なめくじに身体を貪られるような感覚だった。老婆の萎んだ乳袋など気持ちのいいものではない。俺は悪寒に関節が震わせながらろくすっぽ抵抗もできず、なすがまま老婆に精気を吸われている。そうして確信した。これは回春術にあらず房中術でもない。こいつら鬼婆だ。吸われているのは若さ。つまり精気とは生命の気力のことだ。


 老婆はみるみる若返っていく。萎んでいた乳袋が息吹くように、艶やかな錦鯉の羽織が浮かびあがった。円やかに膨らみはじめた肉体は霧雨すら弾いている。やがて老婆は年若い女になった。げに恐ろしきは美少女。贅肉の落とされた細い身体が腹ばいになっている。扇状に広がった黒髪は濡羽色である。夢空は妖艶な眦で俺を見ていた。上目遣いで見ていた。施しを求めるアイドル然とした表情。如何にも哀れっぽい。


 俺は四肢をばたつかせて茣蓙から逃げだした。異性愛者として踏みとどまるためだった。夢空を蹴りあげて土間に転げ落ちるやいなや、あばら屋の外に駆けだす。暗闇の中をもがいて宴台の篝火に抱きついた。追いかけてきた久左衛門はこの世成らざる狂人を相手にしている、さもそう言った表情で俺を見ていた。捕まれば無慈悲に精気を吸われるだろう。俺は獣のごとき悲鳴をあげた。


「うぼおおおおお!」

「おい少し落ちつけ!」

「さわるなカマやろう!」

「好きでカマやってんじゃねえぞ!」


 久左衛門は拳を握りしめてしたたかに頭頂部を殴りつけた。俺は篝火を抱えたまま宴台に倒れこむ。橙色の種火が弾ける音がした。途端、佇んでいた久左衛門が尻餅をついた。見れば橋をかけていた蔓草が燃えだしている。俺は床板の落下に身震いした。這わせていた身体が斜めにずり落ちていく。がくりがくりと音を立てて、絶叫マシンの上昇音さながらに心臓に響いた。


 暗闇の渓谷に燃え落ちた蔓草が飛んでいく。俺達は野太い悲鳴をあげながら、宴台に身を委ねるほかはなく、無様な姿勢のまま奈落の底に落ちていった。吹きあがる突風に四肢が散らばる思いだった。そうして俺は失神した。

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