第九話 開始

 飛龍競技会の本戦は、三つの競技が日を分けて開催される。

 初日に行われるのは長距離競技であるガルティエロ。開始から終了までの所要日数が二日で、早朝から翌日日没前までが競技の制限時間となる

 その後で障害物競技のルウェーロが開催されるが、こちらはガルティエロが終わった翌日の昼前から始まって、日没前には終わる。

 そして短距離競技のフルーが、四日目の午前中のわずかな時間で雌雄を決し、午後には閉会式を開催することになっていた。

 この悠長な日程は、昔の飛龍競技会の名残である。

 昔は競技毎の専門性がそれほど高くはなく、飛龍もまだ専門種目ごとに分化していなかったから、すべての競技に同じ飛龍が出場することもあった。

 今ではそんな多彩な才能を持った飛龍はあり得ないのだが、開催地にとって外貨獲得の絶好の機会であったから、日程短縮は思いも寄らぬことだった。

 ところが、地方予選の場合は少々様子が異なる。予選では観客動員がさほど見込めないので、だいたいの開催日程が二日である。

 ガルティエロのスタート直後にルウェーロが開催されて、その翌日の午前中にフルーが行われるのが普通だった。ガルティエロのゴールはフルーの結果が出た後になる。

 加えて、これまでは実質的にアルボルトのプライベート・チームによる私的な記録会でしかなかったベルン予選は、大会運営が隅々まで合理化されており、実に無駄がなかった。


 *


(うーん、なんだか緊張するなあ)

 ケインが言葉とは裏腹に暢気な思考を送ってきたので、エリザは笑った。

「全然そんな風には見えないわよ」

(えーっ、そんなことないよ。翼の根元がちょっと固くなっているし)

「そうなの? じゃあ揉んで上げるわ」

(背中側のところをお願いします)

 エリザがケインの翼の付け根のところを親指で揉むと、ケインは眼を細めた。

(うう、有り難う、エリザ。そこは自分ではどうしようもないところだから助かるよ)

「どういたしまして」

 その二人のやり取りを見ながら、キインは微笑む。

 ――ケインは緊張を中に溜め込むことはせず、それを即座に認めて発散するタイプだ。

 その右隣ではクインが本を読んでいる。恐らくはケインとエリザの会話は聞こえていないだろう。それでも名前を呼べば答えるから、時間までそのままにしておけばよい。

 クインは上手に自分だけの世界を作り出し、その中でコンセントレーションを高めてゆくタイプである。

 そのさらに右側、窓際にはカインが陣取っていた。彼は外の景色を見つめて、微動だにしない。

 しかし、決して試合前の緊張と無縁ではないことをキインは知っていた。グリーランドからここまでの道中、カインの心の奥底に熱があるのをキインは感じ続けていた。

 今でもそれは彼の奥底にあり、静かに燃え続けている。カインは緊張をコントロールし、それすらも自分の原動力としてしまうタイプだ。

 ほぼ同じ時期に生まれ、似たような環境の中で育ってきたにもかかわらず、三匹がそれぞれ自分の道を歩んでいる。そのことをキインは誇らしく思った。


 ――私の立派な息子達。


 キインは椅子から立ち上がると、部屋の中央まで歩き、そこで立ち止まった。

「カイン、クイン、ケイン」

 名を呼ぶと三匹はキインのほうを真っ直ぐに見つめてくる。その瞳を見つめていると、キインは初めて彼らと目が会った瞬間のことを思い出した。

 思わず鼻の奥に刺激が走る。キインは鼻柱を揉むと、ゆっくりと話し始めた。

「今日はお前達が初めて他の飛龍と競争をする日だ。フォルツベルグの空軍基地を訪問した時はまだ未熟だったが、それからの成長を見守ってきて、今日は自信を持ってお前達を送り出せる」

 そこでキインはいったん言葉を切り、三匹の瞳をもう一度見回す。そして微笑みながら話を続けた。

「今朝起きた時、私はこう考えていた。ここまで成長できたことに感謝している。結果がどうあれ、それだけでもう充分に満足だ、と。しかし、今は別なことを考えている――」

 そしてキインは苦笑した。

「――お前達の実力を遺憾なく発揮して、必ず勝ちなさい。私はそれが出来ると確信している」

(((はい!)))

 三匹の思考が重なる。

 それと同時に天幕の外から声が聞こえてきた。

「グリーランドの皆さん、ガルティエロの開始時刻となりましたので、ご準備をお願い致します」


 係員の後ろに従って天幕を出て、前方にある予選競技会場まで進む。

 空はすっかり晴れ上がり、風は東から西へと穏やかに吹いている。

 通路脇に咲いた花に蝶が戯れており、草むらの中からは虫の鳴き声がしていた。

 グリーランドの飛行練習場に似た風景――しかし、その景色が大勢の観客達によって取り囲まれていた。

 彼らが天幕から出てきた時、空気が一瞬にして静へと切り替わり、視線が明確な圧力を伴って注がれる。

 それがキインの肌を振るわせた。

 彼らが歩みを進めるに従って、観客席に漣のように言葉が生まれてゆく。

 それは好意かもしれないし、悪意かもしれないし、単なる好奇心かもしれない。

 いずれにしても、何らかの関心が一点に集中している。

 キインには初めての経験だった。学会での発表はこれに比べると、気楽なお茶会のようなものだ。

 思わずキインの目が険しくなりそうになったところで、

(父さん、今日はとても飛ぶのが気持ちよい日ですね)

 という、クインの思考が入ってきた。

「あ――」

 キインは思わず空を仰ぐ。

 随分上のほうに鳥がいて、羽ばたきもせずに悠々と飛んでいた。

「――本当にそうだな、クイン。これは実に気持ちが良さそうな空だ」

(本当は父さんとゆっくり飛びたいところですが、先にやることがありますので、ちょっと待っていて頂けますか)

「もちろんだよ、クイン。後でゆっくりと空を楽しもうじゃないか」

 進行方向は彼らのために大きく開けられており、その先にはガルティエロに出場する飛龍が五匹、既に待ち構えていた。すべてアルボルト配下の飛龍チームだろう。

 飛龍が放つ思考は、観客席の人間達が放つものとは異質で、そこには明確な意思が込められている。キインはそれをカインを通じて感じ取った。エリザもケインとの繋がりで感じ取ったのだろう。

「なんだか随分と気合が入っていますね」

 と、彼女はキインの耳元で囁く。

「無理もない。私達は急に大会に入り込んできた新参者だからね」

 キインは苦笑しながら囁いた。


 予選競技会場は東向きに滑走路が設けられている。

 南側には階段状の観覧席が設けられていて、その上のほうにはアルボルトとバルトーシュの姿があった。

 貴賓席ということだろう。その下に誰も座っていない席があることにキインは気がついた。

「ガルティエロ参加者以外の方は、観覧席にて待機をお願い致します」

 係員が丁寧な仕草で、その開いている席のほうを手で示す。キインはクインのほうに視線を向けると、笑顔で言った。

「じゃあ、頑張るんだぞ」

(分かりました、父さん)

 クインの相変わらずのんびりとした思考が伝わってくる。キインは眼を細めると、続いてシラクのほうを見た。

「シラク、長丁場で悪いがクインのことを宜しく頼む」

「もちらんだ――と言いたいところだが、言い方がちょっと間違っているぜ、キインさん。むしろクインにちゃんと言っておいてくれよ。俺を宜しく頼む、と」

 シラクは笑いながら彼特有の気安い言い方をした。

 キインは苦笑すると、右手を挙げて観覧席のほうに向かう。

「さてと、それじゃあ宜しく頼むわ、クイン」

 シラクがクインの首筋を軽く叩くと、クインは少し下がった楕円形の瞳を細める。

 その様子を見ていたアルボルトのチームの飛龍が、クインに向かって思考を投げてきた。予選大会専用に設定されたネットワークである。

(おい、その人間なんだが、もしかして操龍士の資格を持っていないんじゃないか?)

 アルタイだった。

 彼があきれたようにそう考えると、それに加えてミルヒが言った。

「まあ、競技規則に『操龍士の資格を持つ者に限る』と書かれてはいないがな」

 そのミルヒの言葉にシラクが反応する。

「あ、そうなんですよ。私は操龍士じゃなくて飼育員でしてね。なにぶんにも人手が足りないもので」

 シラクの開けっぴろげな態度に、アルタイとミルヒは顔を見合わせる。彼らは私的な回線に切り替えると、こう思考を送りあった。

(アルタイ、これは相手にならないんじゃないか?)

(ああ、まったくだよ、ミルヒ。期待はずれだ)


 *


「それでは只今より飛龍競技会ベルン予選大会第一種目のガルティエロを始めます」

 審査委員長と名乗った人物がそう宣言すると、その後ろから一匹の飛龍が前に進み出た。

 その飛龍は、首をいったん曲げて力を溜めると、真っ直ぐに伸ばしながら同時に口を大きく開く。

 反響定位――会場にいた飛龍に馴染みのない観客達は思わず耳を押さえる。

 しかし、飛龍および操龍士資格を持つ者の頭の中には半球状の世界が広がっていた。

 それは世界の輪郭を明らかにしながら拡大し、随分と先まで広がったところで、そこにあった一点を目標物として指し示す。

 赤い点――遥か西側の海上にある島の最高峰の頂上である。

「それでは出発位置に並んで下さい」

 審査委員長の声で、六匹の飛龍が地面に描かれた白い線の手前に立つ。

「準備は宜しいですか。それでは合図と共に出発して下さい」

 そして審査委員長は、今度は隣に控えていた男に声をかけた。

 男は頷くと、三歩前に出る。

 そして口の中で何かを唱えると、おもむろに右腕を大きく上に振り上げて――振り下ろした。

 途端に雷撃が予選会場の真ん中に大音響と共に落ちる。

 それを合図として六匹の飛龍が離陸のために走り出した。

 飛龍の羽ばたきで土煙が舞い上がる。

 それが観客席を直撃して、いくつかの帽子を吹き飛ばす。

 アルボルトのチームに所属する五匹が前に出て、クインだけが残される。

 先行する五匹の力強い翼の動きに比べて、クインのそれは緩慢に見えた。

 五匹の中から一匹だけが先に空に浮かび上がる。

 アルタイである。

 彼は力強い羽ばたきを維持しながら、急角度で上昇し始めた。

 他の四匹が追随する。

 クインはそれに遅れ、なかなか上昇する気配がない。

 相変わらずの緩やかな翼の動きに、観客席のあちらこちらからどよめきが湧き上がった。

 アルボルト配下の五匹が急上昇してゆく。

 その後を、やっとクインが緩やかな角度で空へと舞い上がってゆく。

 先行する五匹の姿が見えなくなった時にはまだ、クインの姿は観客の目にはっきりと見えていた。


 *


 その一部始終を見ていた観客の間から、おかしな溜息が漏れた。

 期待したことが期待はずれに終わった時の、失望と若干の哀れみを含んだ吐息である。素人の観客にはそれが歴然とした力の差のように思われたのだ。

「やっぱり温室育ちは全然駄目だね、離陸に全然力がない」

 そんな声があちらこちらで囁かれている。


 そんな中で――ルミルは仰天していた。


 先行したアルボルト・チームの力強さにではない。彼が驚いたのはクインの何気ない離陸のほうである。

 クインの動きには流体力学的に全く無駄なところがなかった。

 先行したアルボルトの飛龍は確かに豪快だったが、翼が安定せず、空気を効果的に押し出せていない。翼の傾きにムラがあり、少なからず力が分散していた。それを瞬発力でごまかしただけのことである。

 ところがクインは違った。大きく翼を動かし、空気をしっかりと翼の中に押さえ込みながら、ロスを抑えて離陸した。動きが緩慢に見えたのは、そのためである。力がないどころか、あれは――

「綺麗……」

 ルミルは自分が今ちょうど考えていたことを耳元で呟かれて驚いた。声のほうを見ると、ミルダが上空を見つめてうっとりとしている。

 そんな表情を浮かべているのは、ルミルの周囲には彼女しかいなかった。他の知人連中は僅かに失望した表情をしている。

 加えてハミルがこんなことを言い出した。

「ああ、これは賭けにならないな。アルボルトさんのところの圧勝じゃないか」

 それでルミルは頭にきた。

「……そんなことはないよ」

「えっ、お前、今の見てなかったの?」

 ハミルが意外そうな顔をしたので、ルミルは少しだけ怯んだ。なにしろハミルの賭けの強さは異常である。ルミルが気がついていない点に気がついていて――


「私も、そんなことはないと思います! ハミルさんこそ全然見ていなかったんじゃないですか?」


 強い口調でそう言われたので、ハミルとルミルは声の方向を見た。するとミルダが眉を吊り上げている。

 それでルミルもやっと踏ん切りがついた。

 今回のこれは、むしろ自分の専門分野での勝負だから、負けるはずがない。

「俺もそう思う。アルボルトさんは負けるよ」

 ミルダとルミルの共闘宣言に、ハミルは怪訝そうな表情を一瞬だけ見せたが、即座に明るい笑顔になった。

「ふーん、そうかい? じゃあ、僕はアルボルトさんに賭ける。負けたら今晩の飲み会はルミル持ちだからな」

「分かった。受けて立つ」

 ルミルは即答する。

 そして、彼はミルダのほうに向き直ると、小声で言った。

「ミルダさんも気がついたんですか、あのグリーランドの飛龍の動きに」

「もちろん」

 ミルダが晴れ晴れとした自慢げな顔をしたので、ルミルはとても嬉しくなった。

「美しかったですよね、あの飛龍の羽ばたき」

「そうそう、まるでダンスのようだった」

 ルミルとミルダは二人だけの秘密を共有しあった者同士の親しさで、話し始める。


 二人が楽しそうになにやら話を始めたので、ハミルはおかしくて仕方がなかった。

 ――なんだよ、二人ともやればできるじゃん。

 彼らが断言する根拠がハミルには全く分からなかったが、

 ――これは今晩の飲み会費用を調達しておかないといけないな。

 と腹を括る。

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