第八話 待機

『ベルン予選大会の運営責任者』と名乗ったバルトーシュに案内されて、選手控え室に向かったキインは、

「開会式が始まるまで、ここでしばらくお待ち下さい」

 と言いながらバルトーシュが右手で示した先を見て、驚いた。

 そこには、仮設ながらも実に堂々とした天幕が張られている。

「さあどうぞ」

 と、バルトーシュにうながされてその中に足を踏み入れてみると、予想以上に広々とした空間があった。

 グリーランドの三匹の飼育室は、大型魔獣用の一番大きな部屋である。ところが、仮設であるにもかかわらず、ここはその三倍、いや四倍近い余裕がある。

 しかも天幕内には休憩用に椅子と机が置かれていたが、人間用はもちろんのこと、驚いたことに飛龍用に設計された尻尾用の穴のある椅子まで準備されていた。

 それを見たケインが即座に眼を輝かせる。

(うわ、これ、すごくいいね!)

 ケインは、三匹の中に少なからずある「人間と同じ生活がしたい」という欲求が一番強い。 彼らはキインのことを親と認識しているものの、さすがにキインと自分達との身体の構造の違いも既に認識していた。

 つまり、自分達は飛龍ワイバーンであり、キインと同じ人間ではないことも既に理解していたのである。

 しかしながら、それでもケインは、

 ――出来ることならば人間のように椅子に座って、机に向かってみたい。

 と常々考えていたから、この椅子はえらく気に入ったらしい。早速座って、エリザにその感想を伝えている。グリーランドに戻ったらゴドフェル親方とアドミルに作成のお願いをするつもりに違いない。

 愉しそうにケインの話を聞いているエリザの横顔を見つめながら、キインはふと先ほどの出来事を思い出していた。


 彼らが到着した時、アルチンボルトはエリザを見て明らかに動揺した。


 巷の噂によれば、アルチンボルトは「冷酷・残忍・非情な男で、金のためならば顔色一つ変えることなく人を殺すことが出来る」と言われていた。

 無論、その手の噂を鵜呑みにするほどキインも世間を知らない訳ではない。ではないものの、世の中には「全く根拠のない噂」というものも少ないことは認識している。

 つまり、アルチンボルトがそれなりの危険人物であることは確かであり、その男がエリザを見て慌てていたという事実が、キインにはどうにも解せなかった。

 それに、自分でも即座に自覚したほどにキインはむっとした。

 元来、彼は極めて温和な性格である。第一印象で人を判断し、さらにはその人物に対して嫌悪感を抱くというのは、彼のこれまでの経験の中では考えられないことだった。

 ――彼女をここに連れてくるべきではなかったのかもしれない。

 ケインと談笑するエリザを見つめながら思わずそう考えて、キインは少し動揺した。

 ケインの操龍士として、エリザは不可欠である。キインが搭乗した時とエリザが搭乗した時とでは、ケインの敏捷さが明らかに違う。まるで別な飛龍ではないのかと目を疑うほど、ケインとエリザのコンビは変則的な動きを得意とした。

 キインはエリザに尋ねたことがある。

「ケインのあの無茶な動きが怖くはないのかい?」

 するとエリザは、顔全体をほころばせてこう答えた。

「全然! とはいっても最初のうちは怖かったんですが、だんだん慣れました。なにしろどんなに変則的な動きをする時でも、ケインは必ず私の身体に負担がかからないように最大限の努力をするんです。例えば、急上昇から身体を翻しての急降下ですけど――」

「ああ、あれね」

 ケインが最も得意とする飛び方で、その動きの切れの良さにはカインも追随できない。

「あれをする時、ケインは必ず『行くよ』って小さく合図をしてから、私の身体の軸線に沿って回転してくれるんです」

「身体の軸線?」

「そうなんです。私の身体が彼の急な動きによって、上下で逆方向に強い力を受けることがないように、旋回する方向を制御してくれるんですよ。他の動きの時も同じで、どんなに激しい挙動であっても、私の身体にかかる負担は最小限に抑えられているんです」

「――言われてみればそうかもしれない。いままで全然気がつかなかったが」

 キインはケインの飛び方の一つ一つを思い出してみる。

 急上昇。

 急旋回。

 急降下。

 いずれの場合であっても、よくよく考えてみるとケインはエリザの身体の縦の軸線を保ったままで行っているような気がする。

「ですから、私はどんな時でも安心してケインに乗っていられるんです。絶対に彼が私を危険にさらすことはないんだって分かっていますから。だから、むしろ彼の自由奔放な飛び方が愉しくて仕方がないんですよ」

 そう言いながら実に愉しそうに微笑むエリザを見ていると、キインは胸が温かくなる。

 だから、この大会に出場するにあたってケインの操龍士としてエリザ以外は考えられなかった。そんなことは十分承知していたにもかかわらず、一方でエリザを同行させたことを悔やんでいる自分がいる。

 ――保護者気分、かな。

 飛龍の親代わりという点だけでも相当変わっているのに、さらにはエリザに対しても親のような気分になっているのだろう。そうだとしたら、相当自分は過保護に違いない。


 それで、キインはそれ以上考えないことにした。


 *


「今年の予選会にはグリーランドの飛龍が出場する」

 その噂はベルン共和国の隅々まで行き渡っていたらしい。

 そもそもベルン市民の大半を占める研究者という生き物は、珍しいことが三度の飯よりも好きな人種であるから、「人に育てられた飛龍」というのは格好の獲物である。そのため、その年の予選会には例年以上に観客が押しかけてきた。

「どんどん入場待ちの列が長くなっています。これでは観客席が全然足りません」

 青くなって想定外の事態を訴える役員に対して、バルトーシュは、

「落ち着け。なんとかする」

 と、落ち着いた声で短く答えると、大会事務局の控え室の窓際を見た。

 ――とはいえ、なあ。

 内心、バルトーシュも困惑していた。

 こんな時、常に明快かつ的確な指示で事態を収拾してしまうのが、アルボルトの得意とするところである。ところが今は、黙り込んで窓の外を見つめていた。

 バルトーシュにはその理由が痛いほど分かっている。

 あのエリーゼに似ていると彼が呟いた、グリーランドの女性研究員だろう。バルトーシュ自身はエリーゼを知らぬので、先刻、控え室に案内した後で古参の者に遠くからあの女の姿を見せた。

「な……」

 古参の男は絶句し、それを見たバルトーシュは事態の深刻さを知る。どうやら他人の空似を通り越して、エリーゼが蘇ったようにしか見えないほどに似ているらしい。

 このまま大会が開催されてしまった場合、事情を知らないアルボルトの配下は混乱するに違いなかったから、バルトーシュは早速手を打った。

 あの女性研究者は飛龍の乗り手の一人だという。

 であれば、今更お引き取り願うことは出来ない。

 彼女の存在を隠せない以上、取り得る手段は一つ――正確な情報を可及的速やかに伝達するに限る。

「グリーランドの操龍士にエリーゼと瓜二つの者がいる」

 むしろ積極的に情報開示した結果、大きな騒ぎにはならなかったが、古手の配下の者達がこぞって控え室を覗き込むことになった。しかも、涙ぐんで手を合わせる者が少なくない。

 生前のエリーゼがどれほどみんなから愛されていたのかが理解できる出来事だったが、それがかえってバルトーシュを不安にさせた。

 アルボルトは繊細な男である。

 外見がどう見えようとも、時には冷酷な指示を下すことがあったにしても、彼の内面には驚くほどの繊細さが隠されている。

 どれだけの悪党であっても、暗殺を指示した後のアルボルトは一週間近くそのことを引きずっている。

 それは会話の微妙な間合いや視線の曖昧さなど、日頃から彼のそばに従っているバルトーシュにしか分からないほどの違いであったが、要するにそういう男なのだ。

 その男が、(他の者は決してそうは思わなかったが)過去に自分の稼業の流れ弾に当たって亡くなった最愛の女性の、瓜二つの姿を目にして動揺している。

 バルトーシュは溜息をつきながら考えた。

 ――さすがにこれで無事に済むはずが……


「バルトーシュ、何をぐずぐずしているんだ」


 アルボルトの穏やかな声にバルトーシュの背筋が伸びる。

 バルトーシュの方に向きを変えたアルボルトは、明け方に見たのと同じ、とても澄んだ瞳をしていた。

「早く天幕の予備を出して設置しろ。メイン会場から少し離れたところに予備の土地があるだろう? 少々見えにくいから入場料は半額にして、これからの客はそっちに誘導するように、案内係全員に通達してくれ」

「あ、はい、分かりました」

 慌てて退出しようとしたバルトーシュに、

「あ、それから」

 とアルボルトが声をかける。

 バルトーシュが振り返ってみると、彼は今度は苦笑いをしていた。

「お前にはずいぶんと心配をかけたようだな。すまない。いやね、今朝のエリーゼの夢はこういうことだったんだと、柄にもなく感慨にふけってしまったんだ。彼女が生き返るわけはない。そんなことは分かっている。だが、なんだか彼女が俺のことを許してくれたような気がしてな。そのことを示すために使いの者を送ってきたと、そう考えた。あのグリーランドの子は別人だよ」

 そう言って、アルボルトは屈託なく笑う。

「……急ぎ準備に入ります」

 バルトーシュはそっけなくそう言うと、無表情で踵を返して部屋を出た。

 薄暗い廊下を大股で進む。

 その前方からやってきた係の者がぎょっとして立ちすくむ横を、バルトーシュは何も言わずに歩きすぎた。

 いや――正確に言うと彼は何も言えなくなっていたのだ。

 なにしろ涙が次から次へとあふれてくる。

 バルトーシュは嬉しかった。

 アルボルトが決して自分の仕事をおざなりにしなかったことが、理由の一つ。

 そして、過去のことは過去のことと完全に割り切ることが出来ていたのが、一つ。

 しかし、彼が最も嬉しかったのは、アルボルトの顔から最近までの憂いや疲れがきれいさっぱり消え去っていたことだった。

 ――ありがとう。本当にありがとう。

 自分でも何に礼を言っているのかよく分からないまま、バルトーシュは先を急いだ。


 *


 その時、アルボルト配下の飛龍チームは、控え室の中で例年と異なる大会の雰囲気に苛だちを隠せずにいた。


(なんだか周りがわさわさして落ち着かないぜ)

 ガルティエロを得意とするアルタイが、操龍士のミルヒに向かって思考を送る。

(ああ、分かってる。俺にもお前の角が感じ取った気配が伝わってくるからな)

 飛龍は契約した相手とは直接接続で、飛龍ネットワークに接続可能な者とは回線を通じて、思考のやりとりが出来る。

 そして反響定位のための角で、周辺に漂う思考をさざ波のように感じ取ることも出来る。

 その思考の波は内容のない揺らぎのようなものだったが、数が多かった。

 また、アルタイとミルヒは契約を結んで四十年になる。これは現役の飛龍と操龍士の中では格別に長い方だった。そのため両者の結びつきは強固で、ミルヒもアルタイの感じている波を感じ取ることが出来る。

 ミルヒはアルタイの首筋を撫でながら考えた。

(ここに来てから、ここまで観客が来た予選会はなかった)

 彼らが軍をお払い箱になったのは十年前。

 それでも飛ぶこと以外に何の取り柄もなかった彼らは、話に聞いていたアルボルトのチームに入った。昨年まではアルボルトの内輪の大会でしかなかった予選会で、十年連続のトップを獲得している。

 心の結びつきは他の者と比較しても後れを取ることはないと考えていたが、さすがに年には勝てない。人間に比べて遙かに長命な飛龍といえども、アルタイは既に二百歳を超えていたから、青年期の勢いはない。

 それでもこれまでに培った老練なテクニックはまだ健在で、全国大会でも真ん中よりは上に位置していた。

(じいさんが落ち着かないとはね。もう何度も出てるんだろ?)

 横からルウェーロに出場するギリが思考を挟んだ。

 アルタイに比べると遙かに若い六十歳。まだまだこれからのはずが、短気なために軍の規律になじめず、今年になって軍から追い出されてチームに加わった。

(若造には分かるまいよ)

 アルタイがさらりと言うと、ギリは食ってかかった。

(若造!? まあ、あんたから見たらそうかもしれないがな。これでも本選には十回ほど出場してるんだよ。直近はトップファイブの成績だ。あんたとは違う)

 その思考の癖が喧嘩の種であることをギリも承知しているが、どうしてもやめられない。

 そこにギリの操龍士であるマルドが思考を挟んだ。

(ギリ、そういう失礼なことを言っちゃ――)

(失礼? どこが? 俺は事実を述べただけだろ? それのどこが失礼なんだよ?)

(……)

(だいたいお前は何でいつもそう弱気なんだ? 前回の大会、お前が弱気にならなければもっと上に行けただろ? 違うか?)

(……)

 マルドがうつむく。

 それを見てアルタイは溜息をついた。

 この二人はいつもこうだった。ギリが疑問形で畳みかけ、マルドが口をつぐむ。

 実際のところ、ギリはマルドの弱腰なところが歯がゆいためにそんな言い方になっているようにアルタイには思えた。

 また、マルドはゆっくりと考えて言葉を口に出す傾向があるから弱気に見えるだけで、内心は結構負けず嫌いであることにもアルタイは気がついていた。

 ところがそれが肝心の当事者同士に共有されていない。

 理解し合うための言葉がお互いを遠ざけているからだ。

 そして、仮にアルタイがそのことを両者に告げたとしても、それを信じてもらうことが出来るとは思えなかった。彼らの関係の間にはそこまで相互不信の壁が築かれてしまっている。

 それでも契約解除に至っていなかったのは、お互いに能力を認め合っている証拠ではあるのだが、端で見ていてそれで関係が長続きするとは思えなかった。

(昨日の練習の時だってそうじゃなかったか? お前、最後の最後で尻込みしなかったか? だから無様な格好で――)

 ギリがさらにマルドを追い詰めようとすると、


(もうよせ、ギリ。お前のその声を聞いていると集中が途切れる)


 という太い思考が控え室内に満ちた。

 ギリの思考が押しのけられるようにして、切れる。

 控え室の奥、寝台に横たわっていた飛龍がゆっくりと首をもたげると、

(二人の問題は二人の間で解決してくれ。俺とエドを巻き込むな)

 と、さらに太い思考を押さえ込むように伝えてきた。

 その隣で胡座をかきながら瞑想していた男――エドが目を開く。

(ダリウス、さすがにギリも分かっただろうから許してやりな)

 それはダリウスとよく似た太い思考だった。

 ギリが微妙に震える思考で謝罪する。

(あ、そいつはすまなかった、ダリウスさん。決してあんたの邪魔をするつもりは――)

 そこで急に切れる。ダリウスが黙ってギリを見つめたからだった。

 ギリは首をすくめ、マルドの方をちらりと見てから、その逆方向を向く。

 一気に重くなった室内の雰囲気の中、ダリウスとエドだけが超然としていた。

 マルドは息を吐いて、ダリウスのほうを眺める。先ほどまでの諍いの余波を全く感じさせない姿に、

(さすがはダリウス。だが、チームメイトにそれは厳しすぎやしないか)

 と、ネットワークに漏れないように遮断した思考を浮かべる。それでもミルヒには伝わる。

(まあ、仕方がないことだがな)

 ミルヒは再びアルタイの首筋を撫でた。

 ダリウスは、ゴルトベルク王子がガランを専任飛龍として大会に参加するまで、フルーの王者の座をフォルツベルグ王国代表として三回連続で獲得していた。

 また、ガランさえ現れなければ、さらに連勝記録は続いていたと考えられていた。

 ところが彼が現れ、圧倒的な力でダリウスを予選で破ってしまうと、フォルツベルグ王国軍に彼らの居場所はなくなってしまった。

 残ろうと思えば残れたのかもしれないが、実力主義が重んじられる軍組織の中にあって、敗残者の末路は限られている。

 それに飛龍は自尊心が強い生き物であったから、彼らは二番手の位置づけに甘んじるつもりもない。

 ただ、各国の空軍は実力が高いがゆえにダリウスの移籍を受け入れることが出来なかったから、必然的にアルボルトのチームしか移籍先はなかった。

 それから五年たつが、ダリウスがガランを破ることはなく、逆に三位との差がじりじりと狭まっているところである。だから、飛龍競技関係者の間では、

「もうダリウスは終わった」

 という評価が固定しかけていた。無論、いくら考えの浅いギリといえども、今のダリウスにそんな思考を送ることはない――あくまでも「今のところは」だが。

(とはいえ、グリーランドの飛龍に後れを取ることはあるまい)

 アルタイはそう考えると、ミルヒを見つめる。

 そして、ミルヒも同じことを考えていると悟った。


((俺達もそうだけどな))


 *


 その時、ルミルは苦虫を噛み潰したような顔で長蛇の列に並んでいた。


 そもそも彼は行列というのが苦手である。

 最終目的を達成するために時間を浪費しなければならない、というその構造が気に入らない。それに見合うほどの最終目的であればまだしも、今日は飛龍競技の予選会だという。

 グリーランドの『人間に育てられた飛龍ワイバーン』が初出場するという点には多少興味が惹かれたが、別にわざわざ並んでまで見学するほどのものとも思えなかった。

 生き物というのは野生の状態に置かれているほうが生命力が強くなる、と彼は考えている。だから、家畜に等しい恵まれた環境で育った飛龍に期待するところは何もなかった。

 ただ、兄のハミルとの賭けに敗れたものだから、その際の約束を果たすために嫌々ながら並んでいたに過ぎない。

 その元凶である兄のハミルは、前方で知人と談笑しながら実に愉しそうに時間をつぶしている。そして、時折ルミルの様子を伺っては苦笑していた。それが彼には気に触って仕方がないのだが、ハミルに何を言っても無駄である。


 兄は生来外交的で明るく、多少の嫌みではびくともしない自己肯定型の性格だった。

 それに比べて(と、そう考えること自体が自己否定型なのだが)ルミルは内向的で、多少のことで容易に動揺するたちであったから、人付き合いは苦手だった。

 産んだ母親自身が、

「一卵性双生児なのに、まるでお腹の中にいる時にハミルが全部持っていったように違うわね」

 と表現したほどである。母親に他意があったわけではないのだろうが、その言葉を聞いた時、ルミルはかなり傷ついた。それ以来、ハミルと行動を共にすることを避けているぐらいである。

 そのことはハミルも薄々了解していたようで、あまり外出の誘いを受けることがなかったのだが、今回は違った。

 ところでルミルは物理学の、しかも「水や空気の流れ方と、その影響を考える」という何の役に立つのか分からない理論的な学問をやっているのに比べて、ハミルは経済学のなかでも現実的かつ具体的な事象を扱う学問を志向している。

 地に足をつけた実学の徒は、いちいち現実の諸問題の検討に余念がない。今しがたもきっとハミルは、この「行列」という行為そのものに関する考察を巡らしていたのだろう。

 ルミルも群集を水または空気の分子と考えて、行列という方向性をもった力場の流れを解析しようとしたが、不確定要素が多すぎて思考がまとまらなかった。

 ハミルは至極現実的である一方で、「賭け」という専ら不確定要素でしかない事象にも興味を持っており、しかもそこに何らかの蓋然性を見出したらしい。ハミルの賭け好きと、その引きの強さは有名である。

 そして、ルミルはハミルとの賭けに勝ったためしがなかった。


 今回もそうだ。


 二週間も前から「飛龍競技会を見にいこう」と頻りに誘う兄に、ルミルがずっと頭を縦に振らずにいたら、昨日の昼食時に急に、

「それでは、次にこの食堂に入ってくる人物の性別を僕が当てたら、素直に言うことを聞くというのはどうだい?」

 という条件を飲まされていた。しかし、「性別をあてる」ということは確率は二分の一であり、そこに他の要素が含まれないことは、さすがに物理学者でなくとも分かる。

 しかも、ハミルは自分が当てるだけではなく、ルミルが先にいずれかを選んでも構わないという。その条件だったので、ルミルは即座にこう答えた。

「いいよ。じゃあ、私は男のほうに賭けようじゃないか」

 その時、彼らがいたのは物理学研究所の食堂のテラスで、この研究所の男女比は男が九に対して女が一だった。だから、さらに確率はルミルのほうに有利になる。

 しかも、その日はそんな希少な存在である女性の半数近くが、ワークショップのために終日外出していることをルミルは知っていた。これは数日前に急に決まったことなので、ハミルは知る由もない。

 ほぼルミルが賭けに勝つことは保証されていたのだが、その時も何故か幸運の女神はルミルのほうを向いていなかった。

 暫くして食堂に現れたのは女性で、しかも彼がそこで目にしたことのない物理学研究所以外のところの人だった。

「僕の勝ちだね」

 そう言って笑ったハミルの顔が今でも目の前に浮かんでくる。ルミルは実に不本意だった。


 しかも今日、その時食堂に現れた女性が、無言でルミルの後ろに並んでいる。


 彼女が悪いわけではないことぐらい分かっているのだが、自分がここにいる原因が彼女にあるような気がしてならないルミルは、声をかけなかった。

 しかしながら、実のところ彼は女性に声をかけることを苦手としていたから、これは言い訳に過ぎない。


 *


 仏頂面で列に並ぶルミルを時折見ながら、ハミルは苦笑していた。

 ――まったくルミルときたら。

 思っていることがすっかり顔に出ている。

 不本意だが賭けに負けた以上、約束は守る。後ろにいる少女のことは気になるが、声をかけるつもりはない。しかし、気にはなる。そんな顔をしている。

 全く人を疑うことをしない弟に、ハミルは苦笑と共に微かな羨望を覚えていた。

 彼のようなまっさらな生き方は自分には到底出来ない。そして、それがルミルの最大の美点であることを当人は知らないのだ。

 確かにルミルは人に騙されやすい。先日の賭けにしても、最初から仕掛けられていたものであることなぞ、思いつきもしないだろう。男だろうが女だろうが、最初からルミルが選択したのとは逆の人間が現れるように仕組んであったのだ。

 男を選択してくれたことで、彼女に出番を与えることが出来たのは、副次的なものに過ぎない。どちらにしても今日、ルミルには彼女を紹介するつもりだった。

 飛龍競技の予選大会になったのも、直近で人が集まるイベントがこれだったからに過ぎない。人ごみが苦手なルミルにとっては災難かもしれないが、まあ、今日が終わることには気分が変わることを祈ろう。

 彼の正直さ、裏表のなさは、世知辛い世の中を生きてゆくには弱点にしかならないものだが、良い点もある。ルミルのことを本当に理解した人間にとって、彼はとても大切な存在に思えるからだ。


 例えば――ルミルはすっかり忘れているだろうが、今、彼の後ろを歩いている少女は、ルミルが三年前に落し物で困っていたところを助けた女性である。


 道端で困っていた、全く面識もない彼女のために、ルミルはそれはもう真面目な顔をして三時間かけて彼女の落し物を探し回った。

 結局のところ、落し物というのは彼女の思い過ごしで、実際には彼女の家に置き去りにされていたので見つかるはずがなかったのだが、最後の最後にルミルが、

「本当に御免なさい」

 と言いながら見せた、それはもう申し訳なさそうな顔の純粋さに、彼女は即座に恋に落ちていた。

 今回、ルミルをこの大会に引っ張り出さなければならなかったのは、彼女――ミルダの純粋な恋心を叶えるためである。

 そして、ハミルが知る限りミルダもまだ素直で純粋な女性であったから、この組み合わせの化学反応がハミルには楽しみで仕方がなかった。

 ――さて、いつになったら反応が起こるかな?


 ハミルは心が躍って仕方がない。

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