第七話 当日

 爬虫類型である飛龍は表情筋をもたない。

 従って内面の変化は顔をいくら見ても分からないものの、飛龍競技会の予選大会が近づくにつれて三匹の様子がそれぞれ変わっていくことに、キインは気づいた。


 まず、カインは次第に無口になった。

 これは緊張しているためではなく、むしろ余計なことを考えずに競技に集中し始めているためだ。

 短距離選手に見られるコンセントレーション――度が過ぎると競技前に疲れてしまうこともある。その点を心配したキインが、

「カイン、あまり思い詰めるのはよくないぞ」

 と、キインが声をかけたところ、

(大丈夫です。むしろ、雑念が消えてすっきりとした気分です。夜もよく眠れますし)

 と、カインは落ち着いた思念で答えた。

 実際、飛龍はとても寝つきの良い生き物だが、最近のカインはさらに凄いことになっている。夜、キインが気がついた時には眠りに落ちているし、短時間であっても身体を休めるために仮眠しているようだ。

 オンとオフの切り換えが上手くいっている。

 野生動物である飛龍は、寝つきが良い一方で眠り自体は浅い。物音がすればすぐに起きてしまう程だ。しかし、最近のカインは多少の物音では決して起きない。

 野生動物としては問題があるものの、競技選手としては望ましい自己管理能力である。

 そして、その点についてキインは、何故か普段の「野生を失った動物」という悩みを感じなかった。

 ――カインのことだから、自分で切り替えることができるのだろう。

 キインはそう考えて、黙って見守ることにした。


 クインはもともと気の長い性格だったが、それがさらに極端になった。

 動きが緩慢になり、ゆったりとして見える。

 こちらは長距離選手の常で、長丁場の競技にあわせて最大の力が発揮できるように調整しているのだろう。それでも飛行訓練の時はいつもと同じ動きだった。

「空を飛んでいる時以外は、まるで寝ているように見えるな」

 と、キインが笑いながら言ったところ、

(はい。普段の生活では頭と身体の半分を休ませていますから)

 と、クインはゆっくりとした思念で答えた。

 暇な時には、エリザが調整したお気に入りの本を何度も時間をかけて読み返している。それがクインにとっては一番リラックスできる方法らしい。

 しかも、普段はさほど時間をかけない水浴びに時間をかけるようになった。といっても、目をつぶってただ水面に浮かんでいるだけのことである。

 それが彼の調整方法なのだ。

 

 ケインは相変らず活発で、動きにはまったく変化が見られない。

 しかし、言葉遣いが微妙に変化していた。

(父さん、今日は左旋回のきれがいつもよりも良かったような気がするんだ)

 と、飛行訓練の後でその日の自分の一番気に入った動きを報告するようになった。自己肯定によるセルフ・コントロールである。

 そのことに気づいたキインが、

「ああ、あれは素晴らしかった。お前にしかできない動きだな」

 と、肯定的な答えを返すように心がけると、ケインは、

(そうでしょう? 明日はそれ以上に凄いことができそうな気がするんだ)

 と、自分から気分を持ち上げる様な考え方をした。

 それはキインだけではなく、エリザに対してもそうらしい。昼に食堂であった時、エリザは、

「ケインは随分と競技会に熱心ね。あの移り気でお祭り騒ぎの好きな子が、このところ自分の飛び方のことしか言わない。しかも、プラスのイメージばかり。ねえ、キインさんも気がついているのでしょう?」

 最近、エリザは気安く話しかけてくれるようになっていた。

 キインもそのほうが有り難い。

「ああ、ケインは自分で自分のハードルをあげている。しかもそのハードルを日々更新している。有言実行だね」

 天才肌で気分屋の運動選手に多い行動特性である。


 飛龍達がそれぞれのやり方でコンセントレーションを高めているうちに、予選大会当日はやってきた。

 大会事務局から送られてきた実施要綱には前日の宿泊に関する事項が含まれていたが、キインはアルチンボルトのことが今ひとつ信用し切れない。

 しかし、だからといって当日未明に出発するのも飛龍達にとって負担になるかもしれないと思い、三匹が揃っているところで率直に話をしてみる。

 すると、カインは即座にこう答えた。

(そのくらいのことが負担になるようならば、予選通過は覚束ないと思います。むしろ、準備運動と考えれば適切ですよ)

 クインとケインも同意見らしく、こっくりと頭を縦に振る。それでキインも腹が据わり、念のために大会事務局宛に「当日の朝に会場に向かう」旨の事前連絡をしておいた。


 当日は、往路で焦ることがないように太陽が昇る前から『グリーランド』を出発する。

 カインにはキインが、ケインにはエリザが搭乗することにした。そして、クインはいつものように重しを載せようと思っていたところ、

「俺も一緒に行っていいかな。当日は休みを取る予定なんだ」

 と、シラクが言い出した。そこでクインが念のために操龍士契約を行おうとすると、シラクは苦笑いしながらこう言う。

「いやいや、それには及ばないよ。大事な試合前にいつもと違うことをして調子を崩したら大変だから、いつもの荷物だと思ってくれ」

 確かに乗っているだけならば契約はいらない。そして、野生の飛龍は契約者以外を乗せたがらないものだが、三匹には別に拘りはなかった。

 また、シラクが言うのももっともで、飛龍と心が繋がっていない人間と操龍士契約を結ぶことはやったことがなかった。そこで、今回は少しでもリスクのある行為は避けることにする。

 大会はその日のうちに終了する予定だから、荷物は最小限で充分だ。ただ、食事は提供されることになっていたけれど、飛龍達の分は一応携行する。

 おのおのの背に鞍を固定し、僅かな荷物を括りつけると出発の準備は完了した。


 飼育棟から外に出る。

 一年の中で最も気候が穏やかな季節であるものの、さすがに山間の『グリーランド』であるから、未明は少し肌寒い。

 空気は恐ろしいほどに澄み切っており、大小二つの月と無数の星々が夜空に鮮やかに浮かび上がっていた。それを見たキインは、耳の奥に微かな金属音を感じるが、もちろん実際の音ではない。

 園の裏門から外に出る。

 表門のほうは市街地に続いているから、少しでも飛龍の羽ばたきで安眠を妨げることがないように遠慮したのだ。

 いつもの訓練場所まで移動すると、そこには二つの影があった。ゴドフェル親方とアドミルである。

「アドミル、大丈夫なのか?」

 キインは慌てた。同じ爬虫類型の魔獣でも、飛行するがゆえにさまざまな環境に適応可能な飛龍とは違い、蜥蜴男は基本的に温度および湿度の高いところでしか生きられない。

 だから、年間を通じて平均気温が低いベルンでは、アドミルは養護施設の洞窟から殆ど出ることがなかった。それなのに今日は、何枚も外套を重ねて丸くなりながらも、外に立っていた。

「どうしても出発前の調整がしたいんだとよ。俺も止めたんだが、一度言い出すと決して曲げないやつだからな」

 ゴドフェル親方が溜息をつきながら言った。その割には誇らしげに聞こえるのがおかしい。キインも肩の力を抜くと、アドミルの肩を叩いて言った。

「そうか。とても助かるよ。ただ、手早くやってくれないかな。君のことが心配だ」

「そう、します。やっぱり、表は、殊のほか、寒い」

 アドミルの言葉は震えていた。

 彼は三匹に近付くと、鞍に触れて様子を確認する。そして僅かに革紐を締めたり緩めたりした。寒さによる腕の震えが、紐を持つ時だけ止まる。

(凄いや、今のでほんの少しだけ残っていた違和感が完全になくなっちゃった)

 ケインが歓声を上げた。そのかたわらにはエリザが微妙な顔をして立っている。

 それでキインは思い出した。

 ――そういえばエリザは以前、爬虫類型魔獣は苦手と言っていたな。

 生理的な嫌悪はぬぐい去ることが難しいから、これは仕方があるまい。そんなことをキインが考えていると、エリザはケインの鞍の調整を終えたアドミルに恐る恐る近づいて、

「あの…本当に有り難うございます。それから…今日はまだ馴れていなくて、御免なさい」

 と、微かに声を震わせながらもはっきりと礼と謝罪を口にした。

 アドミルの口の端からしゅっと息が漏れる。笑ったのだ。

 蜥蜴男が苦手な人間は多いので、アドミルは人からどう見られても別に気にしないのだが、わざわざそのことを謝罪されるのは珍しい体験なのだろう。

「どう、致しまして。これから、ゆっくりと、馴れてくれれば、とても、嬉しいです」

 彼は聞き取りづらい発音ながら、少しでも聞きやすくなるようにゆっくりと言った。

 エリザの顔が、強張ってはいるものの微笑みを浮かべる。

 ――今日のところはそれで上出来だ、偉いよエリザ。

 キインは自分のことのように喜んだ。


 その後、カインとクインの鞍の調整も終えたアドミルが、足元をふらつかせながら施設に戻ってゆく姿を最後まで見届けると、

「それでは出発しようか」

 と、キインは全員に告げた。  

「「(((了解)))」」

 三匹と二人の元気な返事が返ってくる。

 キインは微笑みながらカインに近づくと、鞍にまたがった。確かに昨日の訓練の時よりも足を乗せるあぶみの位置が自然なので、余計な力を入れなくても一体感を得ることができる。腰から下をしっかり鞍に預けることも出来る。

「これは……本当に凄いな」

(私のほうも、父さんが乗った時に鞍の肩紐がしっくりと骨の間に納まるようになっています。これなら飛行中の僅かなずれを気にしなくても大丈夫です)

 キインはアドミルが去った方向に、深々と頭を下げた。

「彼には是非優勝の報告がしたいものだ」

(そうですね。必ずそうしましょう)

 

 山の斜面に冷たい風が流れる。朝が近いのだろう。

 東の空はうっすらと黒から群青に変わり始めていた。

(それでは行きます)

 カインがゆっくりと翼を振ると、彼を中心とした半径十メートル以内の草がなびいた。

 キインは後方から来るクインとケインの風を感じる。

 ――随分と大人になったものだな。

 一瞬だけそんな感慨に口元を綻ばせると、キインは再び顔を引き締めて宣言した。

「みんな、それでは行くとしようか!」

 カインがそれに答えるように、翼を振り下ろす。

 その勢いに、斜面を駆け下りる力強い足の運びが加わる。

 訓練場の風景が後方へと流れ、新しい朝へとカインが飛び出す。

 初めてカインと空を飛んだ時とは比べ物にならないほどの、滑らかな加速。 

 規則正しく力みの無い羽ばたきが、カインとキインを即座に空中へと持ち上げてゆく。 

 キインは後ろを振り向かなくても、音だけでクインとケインが同じように空へと飛び出したことが分かった。

 カインは空に向かって急上昇してゆく。それは羽ばたきの音で街の住人を起こさないための配慮だったのだが、その必要がなかったことにキインは気づいた。


 町中の家の窓から明かりが漏れている。

 そこには住民達の姿があり、彼らはキインたちに向かって大きく手を振っていた。

 言葉はない。しかし、思いは伝わってくる。


 誰が伝えたのかは分からないが、キイン達が今朝出発することは町中に知れ渡っているらしい。

 町全体が静かに手を振って見送る中を、三匹は進んでゆく。

「これは、いよいよ優勝しないといけないな」

(そうですね)

 キインとカインは住民達の思いをしっかりと受け止め、そして深く感謝した。

 彼らは、町の住民達よりも少しだけ早く今日の朝日を浴びながら、予選会が開催されるベルン共和国の首都、アストリアに向かうべく翼を振った。


 *


 バルトーシュは競技場に続く道を、眠い目をこすりながら歩いていた。


 予選会場のコンディションを確認するのは、大会事務局長である彼の役目である。

 だから彼は、まだ夜が明けないうちから目を覚まして、誰かがやって来るよりも早く競技場の確認を終えようと考えた。

 ろくでもない出自しゅつじのわりに、バルトーシュは律儀である。だからこそ、この厳しい世界でアルボルトの側近を勤めていられるのだが、その律儀さをもってしても、その日の朝はとても眠かった。

 なにしろ昨日の晩――正確には今日の深夜になるが、彼はアルボルトを自宅に送り届けてから家に帰ったからである。


 昨日は夕方から同業者の会合があり、アルボルトはそれに出席していた。

 欠席しても会社経営に何の支障もないのだが、それでもアルボルトは業界団体の会合を大切にしていた。少ないとはいえ、彼の味方をしてくれる者がいたからである。

 しかしながら、敵対する勢力もいまだ相当数いたから、会議中もその後の懇親会の間も、あちらこちらからアルボルトに対する中傷や当て擦りが聞こえてくる。

 アルボルトは表向き気にしていないような顔をしているものの、聞いていないわけではない。むしろ、その中に部下に対する誹謗中傷ひぼうちゅうしょうが含まれていないかどうかを常に気にしていた。

 だから会合が終わった後、彼はすっかり疲れ果てていることが多かった。

 バルトーシュが待機させていたキラ車に乗り込むまではにこやかに微笑んでいるものの、車の扉を閉じた途端にアルベルトは倒れるように座席に身を預ける。

 昨日は会合の後に懇親のための酒宴も用意されていたから、アルボルトは顔を真っ赤にしながらすぐに眠りに落ちた。そのまま自宅の前に着くまで一度も目を覚ますことはなかったから、よほど疲れていたのだろう。

 バルトーシュは、揺れる車内で荒い呼吸をしながら眠るあるじの顔を見つめながら、

 ――最近は落差が激しくなっているような気がするな。

 と、眉を潜めた。ただし、これは主の醜態を嫌悪したからではない。

 そうまでして鉱山労働者の地位を守ろうと懸命の努力を続けている主を、理解しようとしない同業者達を嫌悪したのだ。しかし、アルボルトはそんな感情を一番嫌うから。バルトーシュもすぐに真顔に戻る。

 ――この様子だと、予選会は昼過ぎからの出席になるかもしれないな。

 アルボルトが不在の間は、バルトーシュが大会を仕切らなければならない。

 そんな昨晩の出来事を思い出した途端、バルトーシュの背筋が真っ直ぐに伸びた。やはり彼は律儀である。


 グリーランドのある山間のアルツヘルムとは違い、競技場のあるベルン共和国首都のベルンリンクは早朝から気温が穏やかに上昇している。そのため、広い競技場全体が朝靄あさもやで覆われていた。 

 白い布地をかき分けるようにして、バルトーシュは競技場に足を踏み入れる。

 おりしも穏やかな風が競技場を吹き渡り、靄はかれたように晴れていった。


 そして――バルトーシュは一瞬、自分の目を疑った。


 靄の向こうから現れたのは、見慣れた後姿だった。

 競技場の真ん中に、両足を肩幅より僅かに広めに開いて、腰に手を当てて立っている男の後姿だった。

 バルトーシュは擦れた声で言った。

「親方……こんな朝早くから、どうかなさったんですか……」

 アルボルトは振り向くと、昨日の晩の疲れをまったく感じさせない笑みを浮かべて言った。

「おう、バルトーシュか。昨日は夜遅くまで済まなかったな。しかも、すっかり酔っていて礼も言えなかった」

「いえ、そんなことは……親方を無事に家まで送り届けるのが私の役目ですから、全然構いませんが……それにしても、今朝はよく起きることができましたね」

「それがよ――」

 アルボルトが恥ずかしそうな顔をする。

 長い付き合いのバルトーシュも、そんなアルボルトの顔は今まで見たことがなかった。

「――朝、太陽が出る前に目が覚めたんだけどよ。なんだか自分の表面から皮が一枚、がれ落ちたんじゃないかと思ったぐらい、気分が良かったんだよ。そして、それからは心が躍ってしまって全然眠れなかった」

 そこでアルボルトはいったん言葉を切ると、靄の晴れた競技場を目を細めて見つめながら、こう話を続けた。

「ところで、お前はエリーゼのことを知っているか?」

「あ、はい。それはもちろん聞いておりますが、その……」

 バルトーシュは慌てた。

 エリーゼというのは、アルボルトが今までの生涯の中でただ一人愛した女性の名前だと聞いている。

 バルトーシュは例の鉱山事故の後からアルボルトと行動を共にしたから、彼女に直接会ったことはなかったが、彼女の話は古参の仲間達から何度も聞かされていた。

 彼女は、アルボルトの親のところで働いていた鉱山労働者の一人娘で、アルボルトが幼い頃からの知り合いである。

 そして、彼が親の後をついで鉱山経営に乗り出した頃、多忙な彼の生活を陰ながら支えて、ともすれば血みどろの抗争の中ですさみそうになるアルボルトの心を支え続けたと聞いている。

 彼女のことを知る老人達は、全員が口々に同じ事を言う。

「決して目を見張るほどの美人じゃないんだがよ。こう、背筋が真っ直ぐに伸びた優しい女でよ。話していると、なんだか疲れがどこかにいってしまうほどに明るくてよ。もう、女神かなんかだと思ったよ」

 アルボルトと彼女が結婚するのは時間の問題だと思われていたし、アルボルト自身も鉱山労働者の組織化が終わったら、きちんとけじめをつけようと考えていたらしい。


 ところが――それは上手くいかなかった。


 アルボルトは、相変わらず競技場を見渡しながら言った。

「実は今朝、本当に久しぶりにエリーゼのことを思い出したんだよ」

「……はあ」

 バルトーシュは、昨夜とはうってかわって晴れ晴れとしたアルボルトの顔を見て、普段ならば決してしない気の抜けた返事をした。

 そのことに自分で気がついて、バルトーシュは慌てて取り繕おうとしたが、アルボルトが自分を見つめていることに気がついて、息を呑む。

 怒られると思ったからではない。アルボルトの瞳が驚くほど澄んでいたからである。彼は落ち着いた声で言った。

「そして、その時の彼女はとても楽しそうに笑っていたんだ」

「それは、その――よかったですね」

「ああ、バルトーシュ。本当に嬉しかったよ」

 そう言うと、アルボルトはまた遠くを見つめる。

 そして、バルトーシュはそんな主の姿を見て、胸が痛くなる。


 バルトーシュが聞いた話では、こうだった。


 *


 鉱山労働者の組織化工作が大詰めを迎え、その用事でアルボルトが自宅を留守にしていた時、抵抗勢力の最右翼と目されていた同業者達がそこを急襲した。

 そして、たまたま掃除に来ていたエリーゼをほしいままにした。

 それはとても悲惨な出来事だったという。

 その話をバルトーシュにした老人は、

「最低だった!」

 と、短く吐き捨てるように言うと、それ以上のことを決して語ろうとはしなかった。

 だからこそ、その時の凄惨な情景がバルトーシュにも何となく想像できたほどである。


 帰宅したアルボルトは、変わり果てた彼女の姿を直視した。


 そして、その後二時間近く彼の叫び声が辺りに響き渡り、それから二日間、彼は自宅から一歩も外に出なかった。

 噂では、エリーゼの姿を少しでも取り戻そうと試みていたという。

 しかし、それが叶わず憔悴しきった姿を人前に現したアルボルトは、部下に向かって申し訳なさそうにこう言った。

「すまない。俺の我侭わがままを一つだけ聞いてくれないか……」

 無論、部下達は始めからそのつもりである。

 即座に犯人探しが始まり、優秀な彼の部下達は速やかに同業者の一派を突き止めた。

 その進捗をアルボルトは、何も言わず見つめていた。

 そして、紐で後ろ手を括られて彼の前に引き出された同業者達五人を、彼は暗い目で三十分近く眺め回した。

 その目は、その場に居合わせた男達全員の喉から声を奪うほどに、冷たかったという。

 そして、やっとアルボルトは言った。


「……お前達、家族はいるか?」


 同業者達は絶句した。

 その姿を黙って見つめていたアルボルトは、やはり黙って腰を上げた。

 その後、急ごしらえの牢に閉じ込められた同業者達は、三日三晩放置された。

 彼らは、自分の家族が受けるであろう過酷な仕打ちを思い、泣き叫んだ。

 自分達が行った悪魔のような所業を悔い、心から許しを請うた。

 口から血を吐きながら請うた。

 自分はどうなっても良いから家族だけは助けてくれと請うた。

 しかし、アルボルトは決して彼らの前に姿を見せることはなく――


 四日目の朝、彼らは釈放された。

 そして、彼らの家族も無事である。


 その間、アルボルトは特に何をするでもなく、呆けたように自宅の一室で外の景色を見つめていたという。

 そして、それから彼がエリーゼの名前を口にすることは、今の今までなかった。


 そのことを知っていたからこそ、バルトーシュには急な主の変化が俄かに信じられなかった。

 彼らの周囲からは、いつのまにか朝靄がすっかり吹き流されていて、太陽が地面を照らし始めている。

 そんな中、アルボルトはいつも以上に地に足をつけて立っていた。靄に濡れた草が陽光を反射する中、背筋を伸ばして大地に屹立していた。昨日の夜の疲れた様子は微塵も残っていない。

 バルトーシュはそんな主の姿を見つめ、小さく息を吐く。

 バルトーシュには依然として主の心境の変化の理由が分からなかった。理由は分からないけれども――それが主にとってプラスであることだけはよく分かる。

 だから彼は、思ったことを単純に口に出した。

「本当に、本当によかったですね、親方」

「ああ、有り難う」

 アルボルトは笑った。それは、バルトーシュが今まで眼にした事がないほど屈託のない笑顔だった。

 そのためバルトーシュは、いつもは不躾だと思って決してやらないことであったが、主の顔をまじまじと見つめてしまった。そして、見つめていたからこそ、彼の表情の変化の一部始終を目の当たりにすることになった。

 最初のうち、アルボルトは明るい笑顔をバルトーシュに向けていたが、途中から何かに気がついたような様子で視線を上にあげた。

 そして、彼の顔からは笑顔が静かに消えてゆき、変わって何かを探るような鋭い視線がバルトーシュの頭の上、遥か向こう側を見つめていた。

 暫く目を細めて遠くを見つめていたアルボルトの顔に、今度は驚きの表情が浮かび始める。

 そこでやっとバルトーシュは後ろを振り向き、主が見ているものと同じものを眺めた。


 空の向こう、町並みの遥か向こう側から黒い影が三つ、競技場に向かって近づいていた。

 翼の動きから、それが飛龍であると分かる。ただ、それらは軍の飛龍のような整然とした飛び方ではなく、三者三様の独特な飛び方をしていた。

 先頭の飛龍の羽ばたきは、遠目でもその力強さが並ではなかった。

 普通、翼を強く激しく振ると胴体部分はそれにつられて大きく上下動する。

 ところが視線の先にある飛龍は、大きく力強く翼を振っているにもかかわらず胴体が上下動している様子はなかった。

 アルボルトのチームに所属している飛龍の中に、あれほど翼をひらめかせながら、姿勢を安定させることのできる者はいない。

 そして、その後方から付き従う飛龍もまた、信じられない動きを見せていた。

 なぜなら、その飛龍は殆ど翼を動かしていなかったのである。

 飛龍の飛び方をよく知らないものにとっては、それは先頭の飛龍に単に追随しているようにしか見えないかもしれないが、日常的に飛龍の飛行を見つめていたアルボルトとバルトーシュには分かった。

 先頭の飛龍の翼の動きからすると、その後方では激しい風が巻き起こっているはずである。

 その中で翼を動かすことなく、それでも追随することが出来るということは、前から来る風の中に僅かに生じる渦上の戻り風を利用しているに違いない。

 それに乗れば、前の飛龍に引かれるようにして飛ぶことが出来るのだが、それは軍の編隊飛行の中でも最高難度の技だと聞いていた。

 前を行く飛龍は、後に従う飛龍の位置を正しく認識していなければならない。

 後に従う飛龍は、先を行く飛龍の翼の動きを正確に見極めなければならない。

 いずれかが僅かでもずれると、あのような見事な飛行は出来ない。

 そして、それに続く飛龍の飛び方は――あまりにも不規則であった。

 整然と並んで進む二匹の周囲を螺旋状に飛んでいたかと思うと、急に急上昇して、次に斜めに下降し、身体をくねらせるようにして反転させる。

 それがまるで兄にじゃれて遊んでいる弟のように、楽しげに見えた。

「ああ――」

 バルトーシュの口から思わず溜息が漏れる。

 三匹はアルボルトとバルトーシュが立っている頭上を通り過ぎると、それから二人に気がついたかのように旋回して、競技場の芝生に着陸していった。

 先頭の飛龍は王者のように力強く。

 二匹目の飛龍は姫君のように華麗に。

 三匹目の飛龍は踊り子のように軽やかに。

 芝生の上を滑走してゆく。

 そして、三匹はアルボルトとバルトーシュが凝視する中で、ゆっくりと動きを止めた。


 先頭の飛龍から男性が降りてくる。

 飛行帽とゴーグルの下から現れたのは、日に焼けた中年男性の顔だった。

「あの、こちらは飛龍競技の予選会場で宜しかったでしょうか?」

 穏やかな男性の声に、バルトーシュは我に返って言った。

「あ、はい。その通りですよ。ここが予選会の会場で間違いありません」

「そうですか。いや、ちょっと速く着き過ぎましてね。このあたりにはお二人の姿しか見えなかったものですから、申し訳ございませんが散歩のお時間を邪魔してしまいました」

「あ、いや、散歩ではありません。我々は運営側ですからお気になさらず。私は事務局を担当しておりますバルトーシュと申しまして、こちらにいらっしゃるのが――」

 そこで、アルボルトのほうを向いたバルトーシュは、主の表情の変化に再び驚かされた。

 アルボルトは、他の飛龍から降りてきた人物のほうを凝視していた。

 バルトーシュがその視線の先を見ると、飛龍から降りたばかりの若い女性がおり――

 そこでバルトーシュは、アルボルトの震えるような呟き声を聞いた。


「エリーゼ……」

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