第二章 競龍

第六話 予選

 幼体から成体に移行した後、三匹の意識は次第に複雑さを増していった。

 その影響は空を飛ぶ姿にも現れ始める。彼らは飛ぶことと自分の身体の動きや周囲の環境の変化を、論理的に関連付けるようになった。

 幼体の頃、彼らの飛び方は「ともかく力強く速く羽ばたいて空間を切り裂き、急激な環境変化が生じた時には流れに任せる」というスタイルだった。

 それが最近では「最小限の効率の良い動きから最大の効果を得る方法や、急激な環境変化が起きる前の予測、起きた時の場面(単独か、操龍士と一緒かなど)に応じた対応策を考える」ものに変わっている。

 そうやって蓄積された経験は「飛ぶ技術」として三匹の間で体系化されてゆく。その様子をキインは、驚嘆の眼差しで眺めていた。


 さらに、人間と一緒に飛ぶことに慣れるにつれて、三匹の意識は「自分がどう飛ぶか」ではなく「自分と操龍士がどう飛ぶか」に変わっていった。

 例えば、カインは高速飛翔能力に優れていたから、操龍士の鞍は「前屈みになって騎乗する」形になっている。ただ、その姿勢で騎乗すると両腕に疲労が蓄積するので、長時間の訓練は難しかった。

 そこでカインは親方にお願いして、軍の飛龍の鞍としては一般的な「足を差し込む紐状のペダル」ではなく、「前屈時に足の先を架けて固定できるような棒状のステップ」に変更してもらった。

 これによって、腰から下がカインの身体に固定されるようになる。また、両腕が疲れた時には、足で身体を支えて腕を休ませることが出来るようになる。

 何より、カインの持ち味である急加速に対して、操龍士は腕だけでなく足腰で対抗することができるようになった。

 続いて、クインの持ち味は長時間かつ長距離の安定飛翔であったから、最初に作られた鞍は「背筋を伸ばして座る」形状になっていた。

 ところが、その姿勢だと腰に負担が集中するので、時間が経過するにつれて腰の痛みが耐え難くなる。

 そこで、クインの鞍には長めの背もたれが設けられて、操龍士はそこに背中を付けた姿勢で騎乗することになった。

 足の位置も位置も工夫されて、力を抜いて前に投げ出したところに台が設けられる。すると、上半身を固定してしまえば、寝ている状態でも騎乗することが出来るようになった。

 最後の問題は、ケインの鞍である。トリッキーな曲芸飛行と急上昇および急降下を得意とするケインの場合、座った姿勢で騎乗するのは自殺行為に近い。

 そう考えたアドミルは、最初からスタンダードな鞍を放棄した。彼が準備したのは、ケインの背中の上に俯せになるスタイルである。

 操龍士の肩と腰が革の紐で完全にケインと結び付けられ、腰から下は革袋の中に収まるようになっていた。これで、どんな急激な動きが生じても振り落されることはなくなる。

 ただ、操龍士が身体を動かすことが出来る範囲も制限されてしまうことから、手を伸ばせば届くところに細かい収納が準備された。

 また、最初のうちカインとクインの騎乗訓練はキインの担当だったが、その度に操龍士契約のやり直しが発生する。

 そこでクインが、

(私の場合、操龍士が実際に乗っている状態と、同じ重さの荷物が乗っている状態とで、さほど違いはないように思うのですが)

 と言い出し、結局、キインはカインの専属操龍士ということになった。

 そして、クインには別途、背中の上に固定する大きな荷物を詰め込むことも可能な箱が準備された。ギガンティスの輿の簡易版である。練習の際、そこには人間とほぼ同じ重さの砂袋が入れられた。

 野生の飛龍とは違って、彼らは昔からのやり方を知らない。だから自分達ですべてを作り上げていかなければならない。その環境が、逆に彼らの発想を柔軟なものにしていた。


 また、空軍基地でリードマンが言ったように、『グリーランド』がある山脈沿いは、飛龍にとって恐ろしく飛びにくい空域だった。

 資金力には何の問題もないベルン共和国に、空軍飛龍部隊が存在せず、民間飛龍便の運用すら活発ではない理由は、そこにある。

 しかし、三匹には他の選択肢がなかったから、この過酷な環境に慣れるしかなかった。

 いつ向きが変わるか誰にも分からない、山の風。

 いつ降り出すか誰にも分からない、山の雨。

 それらの変数を前提として、彼らは自分達の飛行スタイルを考え続ける。

 最初のうち、彼らが満足に飛ぶことすらできなかったのは、彼らが人間に育てられたためではない。この過酷な環境が、彼らの成長を妨げていたのである。

 しかし、彼らはそれにすっかり慣れていた。そして、そのことがどのような結果を生み出すことになるのか、彼らは全く知らなかった。

 常に想定外のことが発生しかねない状況を、想定する。

 緊急事態を内包した通常訓練が、日課となる。 

 彼らはそれを許容しなければならず、その対応策について考えることになる。そして、彼らに言葉を教えたのが研究者であるエリザだったことも、彼らに良い影響を与えていた。

 まずは出来事を詳しくありのままに観察する。

 そこから、前例にとらわれない思考により、正しい解を自ら導き出す。

 それは知識となって、さらに新たな問題を解く際の助けとなる。

 野生の飛龍達が自覚することなく経験を通じて取得していった飛行技術を、彼らは理論として学習してゆく。それゆえ、改善の必要が生じた場合も論理的にそれに対処した。

 彼らの飛び方は、最小限の労力で最大限の効果を発揮するものとなり、さらには洗練されたものになってゆく。

 しかし、他の飛龍のそれと比較することが出来ない環境では、どれほど凄いことになっているのか、彼らには全く分からなかった。

 キインにしても、

「なんだか最近は飛びが安定してきたな」

 と思っただけである。


 *


 ある日の午前中、キインが三匹の身体測定をやっているところに、シラクが何やら笑いながらやってきた。

 彼の右手には封筒が握られている。

「リードマンから連絡があったよ」

 そう言って彼は、持っていた封筒から紙を取り出して、部屋の真ん中にあった机の上に広げた。


 それは飛龍競技会の開催要項だった。


 各国の予選会場とその日時、本大会の会場とその日時が網羅されている。

 当然のことながらベルン共和国の予選会場と開催日程もあり、参加の申し込み方法についても書かれていた。

 三匹はまだ複雑な文章になると、読むことはできない。そこで、キインは開催要項を読み上げることにする。

「ええっと何々――本大会参加希望者は必ず予選からエントリーすること。これは当然だな。で、参加申し込みを行なう窓口が……」

 キインの目の動きが急に止まる。彼の動揺を感じ取ったカインは、

(父さん、どうかしましたか?)

 と訊ねたが、キインは答えない。その様子を訝しんだシラクが、キインの視線の先にある文字を眺める。

 そして同じように硬直した。

「――おい、キイン。こいつは不味いんじゃないのか」

 シラクが彼にしては珍しく、切羽詰まった声を上げる。

「ああ、こいつは確かに不味い。よりにもよって、ベルンの飛龍予選会の元締めが、あの男とはね」

 キインが、喉の奥に何かが詰まったかのような声で答える。

 二人が見つめる開催要項には、ベルン共和国の連絡先として以下の名前が記載されていた。


「アルボルト・アルチンボルト」


 ベルンで彼の名を知らない者は、まずいない。

 まず、彼はベルンの国力を支えている地下資源を採掘する、採掘会社の経営者である。当然、大金持ちだ。

 そして、彼はその資産力によって共和国を影から牛耳っている、裏社会のリーダーだ。当然、大悪人である。


 *


 その時、アルボルト・アルチンボルトは激しく憤っていた。

 彼はつい先程まで、三大国家の一つであるバルドナル王国の財務担当と会談していたところである。

 彼の目の前に四つも並んだ、色白の整った感情の見えない顔。

 筆記用具以上の重いものを持ったことがなさそうな、細い指。

 一日に何度も着替えをしているのではないか、と思うほど綺麗な服。

 そして、相手を完全に見下した態度。

 そのような「貴族出身」であることを示す特徴の一つ一つに神経を逆撫でされながらも、アルボルトは笑顔で応対し続けた。

 その反動で、彼は自分の執務室に戻るやいなや、

「どうして貴族というのはあんなに高飛車なんだ!」

 と、大声で喚く。

 これは毎度のことなので、すっかり慣れていた側近のバルトーシュは、

「いっそのこと帰り道の途中で、闇に葬りましょうか」

 と、笑いながら怖いことを言った。

 それを聞いたアルボルトは、鼻から勢いよく息を吐き出す。

「馬鹿言え、あれでも上得意だ」

 そして、革張りの椅子に腰を下ろした。

「それに、俺達を教養のない山師だと完全に見下しているからこそ、碌に実態も知らずに三十年以上前に結んだ契約に基づいて、黙って手間賃を払ってくれるんだ」

 アルボルトはバルトーシュを見て、にやりと笑う。

「まあ、こっちも始終、やれ人件費の高騰だ、燃料代の高騰だ、と値上げを吹っかけてきたけどな。まさか、俺達が自力で技術革新やコストダウンをやり遂げるとは、思ってもいないのだろうよ」


 *


 確かにアルボルトの父親が「親方」と呼ばれていた時代までは、それは事実だった。

 鉱山労働者は管理業者から入山許可を得ると、自力で地下の奥深くまで潜り込み、自力で一日中掘り進み、掘った分を自力で地上まで持ち上げて、そこから売れる石を自力で選り分けていた。

 当時の鉱山労働者は完全な個人事業主で、管理業者である親方の取り分は鉱山への出入りを許可する際の登録料だけであった。

 しかも、その許可は鉱山単位であったから、有望な石を見つけて売り抜けられれば大金を手に出来るが、その前に地下資源が尽きたらそれで共倒れである。

 実際、一攫千金狙いで、普段はその日限りの刹那的な生活をしている者が山師には多かった。

 その在り方にかねてから疑問を抱いていたアルボルトは、父親から親方業を引き継ぐやいなや、鉱山労働者をまとめて組織化することに着手した。

 採掘、搬出、分別はもとより、さらに精錬までを分業化することによって、効率的な地下資源の確保と高値での売却を図る。

 歩合給制を固定給制とする代わりに、怪我や病気で急に働けなくなった時の一時金や、老後の補償などを手厚くし、不安定だった鉱山労働者の生活を安定させる。

 更には地下資源が枯渇する前に、組織として蓄えた富を他の鉱山開発に注ぎ込んだ。

 組織化の過程で多くの反対者が出たが、それは実力行使で薙ぎ払ってきた。彼の悪名の多くは、この組織化の段階で生じたものである。

 会社の形態をとってからというもの、妖しげな出自と刹那的な生活で蔑まれていた鉱山労働者の地位は向上し、社会的に認知されていった。

 鉱山周辺の住民も、それまで得体の知れない流れ者の犯罪に怯えていたのが、組織の一員として労働者が秩序ある行動をとるようになったために治安が安定したために、大喜びだった。

 その上、何か鉱山労働者絡みの問題が生じると、アルボルトの配下の者が迅速に処理する。時には理詰めで、時には力づくで、彼らは治安を即座に回復していった。

 お陰で、組織に属する者と周辺住民はアルボルトを心から信頼していた。

 過去に遺恨のある者や組織化の恩恵を蒙らなかった者が彼の悪名を吹聴していたが、アルボルトは強いて否定しなかった。

 なぜなら、組織運営上および対外折衝上、アルボルトが「恐ろしげな人物」であったほうが、実に都合がよかったからである。

 それに、彼らの悪口には事実も数多く含まれていたから、アルボルトは反論のしようがなかった。

「まあ、本当のことだから仕方ないけどな」

 自分自身に関する悪口について、アルボルトはそう言いながら苦笑して受け流すのが常であった。

 加えてアルボルトは、自分に関する悪い噂を配下の者が揉み消さないように、きつく命じた。それをすると不満が内に籠り、余計に陰湿なものに変わってしまうと考えたからだ。

 そのため、彼を知らない人が持つ一般的なアルボルトのイメージは「成り上がり者の極悪人、裏で不当なことをして利益を得ている金の亡者」という線で固定されていった。

 一方、配下の者に対して非難が及ぶと、アルボルトは、

「そいつは俺が指示してやらせていることだ。文句があるなら俺に直接言え。それに、こいつは正しいことをやっただけだよ」

 と、徹底して配下の者を擁護した。それが仮に、彼の全く預り知らないことであったとしても、彼も正しいと感じたことであればやはり擁護した。

 ミスを叱る前に、ともかく部下の立場を理解してそれを守ろうとしてくれる上司に、部下は弱い。

 また、山の男達は「事故が起これば一瞬であの世行き」という過酷な現場で働いている。従って、何かあった時には必ず助けてくれる相手に弱い。

 例えば、鉱山労働者の中では有名な事故がある。それは、アルボルトが鉱山労働者の組織化に着手し始めた直後、二十五年前に起きた

 とある鉱山で急に落盤事故が発生し、坑道の奥に相当数の鉱山労働者が閉じ込められしまったのだ。

 空気が尽きるのは時間の問題である。そこにアルボルトが駆けつけて、状況を聞くやいなや即座にこう言い放った。

「アルト、ミスト、ボルト、さっさと山を吹き飛ばせ!」

 アルト、ミスト、ボルトというのは、アルボルト配下の魔法使いである。三つ子の兄妹で、長男のアルトが火炎属性、長女のミストが氷結属性、二男のボルトが雷撃属性を備えていた。

 兄妹は躊躇った。当時はまだ会社の形すら整っていない時期であり、労働者の力は圧倒的に弱い。そして、殆どが国の所有物であった炭鉱を勝手に破壊することは、誰も考えつかなかった。

 長男のアルトが、慌てながらアルボルトに言った。

「親方、本当にいいんですか? 政府に高いペナルティを支払うことになりは――」

「責任は全部、俺がとる! いいからさっさとやれ!!」

 アルボルトに躊躇いは全くない。観念したアルトは火炎で岩を溶かす。そこをボルトが雷撃で削ぎ落とし、ミストが急速冷却して、山の半分ほどを粉々に吹き飛ばした挙句、閉じ込められた者全員を救出した。

 アルボルトはその結果、途方もないペナルティを政府から背負わされたらしい。ところが彼は、決してそのことを口にしなかった。聞かれても、

「そんなことはどうだっていいじゃないか。お前達が助かったんだから」

 と言って、相手にしなかった。アルボルトの周囲に「彼のためならば命を捨てても構わない」という男達が集まっていったのは、それ以降のことである。


 *


 執務室の机に脚を載せて、革張りの椅子の上で反り返っているアルボルトを眺めながら、バルトーシュは思った。

 ――そろそろ親方にも、何か楽しいことが起こらないものかね。

 会社組織となった『アルチンボルト鉱山開発』の社長であるから、アルボルトは昔からの配下の者にも、自分のことを必ず「社長」と呼ぶように言っていた。

 しかし、配下の者にとって、アルボルトは相変らず「親方」である。面と向かって言うと怒られるので言わなかったが、仲間内では「親方」と言っていた。

 社長としてのアルボルトは極めて多忙である。

 三大国家の間に近年不穏な空気が流れており、戦争勃発による経済への悪影響を懸念した各国の財務担当者は、価値が急に下落しない貴金属の購入を加速していた。

 そのため貴金属の時価は高騰し、その皺寄せが採掘業者にも現れている。いくら掘っても需要に対して供給が追いつかないのだ。

 各国の財務担当者は総元締めであるアルボルトの元を訪れては、「必要な量の貴金属を供給してくれないか」と、時には丁寧な口調で、時には恫喝にも等しい言い方で迫ってくる。

 それを捌くだけでもかなりの労力が必要であった。さらに、本業以外にも彼の人望を頼ってくる者は多いから、アルボルトは始終飛び回っている。

 そんな彼の唯一の道楽といえるのが飛龍競技で、これは彼が子供の頃、野山を走り回っていた時期に見た光景が影響しているらしいが、バルトーシュも詳しくは知らない。

「本当は自分が操龍士になりたいのではないか」

 そうバルトーシュは睨んでいたが、時間的な余裕のないアルボルトには生育地でゆっくり飛龍と語らう時間をもつことなど夢でしかない。

 そこで、彼は軍を退役した飛龍と操龍士に声をかけて、飛龍競技会で入賞することを目的にベルン代表チームを育成していたが、その成果は散々だった。

 若い飛龍と操龍士を育成したくても、所詮は競技用でしかないアルボルトのチームに入りたがる者はいない。

 そして、気候的に飛龍の飛行に向かないベルンにわざわざやってくる退役した飛龍と操龍士には、ろくな連中がいなかった。

 それでもなんとか毎年代表選手を飛球競技会に送り出していたのだが、近頃はアルボルトの熱も冷めかけているようにバルトーシュには見える。

 ――これもなくなると、いよいよ親方には仕事しか残らない。

 自分達の地位向上と待遇改善を果たしてくれた恩人である。しかも、バルトーシュは鉱山事故の時に救助された中の一人だったから、命の恩人でもある。

 その親方が、若い頃のように血を滾らせる何かが起きないものかと考えながら、バルトーシュはアルボルト宛に届いた手紙を整理していた。

 手紙は毎日大量に届く。

 その七割はアルボルトへの頼みごとであり、これは必ずアルボルトに手渡している。彼はどんな些細な頼みごとであっても、必ず「できる、できない」をはっきりと依頼人に告げることにしていたからだ。

 また、二割は「儲け話」への勧誘の手紙で、こちらは基本的にバルトーシュが処分する。アルボルトは、新しい事業への投資には積極的だが、実労働を伴わない金儲けは非常に嫌がるからだ。

 そして、残りの一割は脅迫状の類である。これはアルボルトに渡さずにバルトーシュが目を通していた。大半は噂を信じた者からの非難の手紙なので、こちらはアルボルトの指示に従い、無視する。

 中には本気でアルボルトの命を狙っているらしい手紙があり、そちらは別働隊が丁寧に差出人にご挨拶を言いに行って、心理的あるいは物理的に黙らせていた。

 そうしていることをアルボルトも薄々気がついているはずだが、彼は何も言わない。部下の心情に配慮しているのだろう。

 バルトーシュは山積みされた手紙の表書きを一瞥しては、三種類の山に分類してゆく。アルボルトの名前を書く筆跡で、中身がだいたい想像できるようになっていた。

 前日に届いた手紙が半分ぐらいまで減った時のことである。それまで流れるように手紙を捌いていたバルトーシュの手が、急に止まった。

 彼は一通の手紙を怪訝な顔で見つめる。

 その手紙には「飛龍競技会ベルン予選大会参加申込書在住」と書かれていた。

 今までそのような酔狂なものは見たことがなかったので、バルトーシュは裏返して差出人を改める。

 すると、そこには「『グリーランド』所属 キイン・アルベルト」という署名があった。

 ――ほう、これは実に面白い。

 バルトーシュは、魔獣研究保護施設である『グリーランド』に飛龍の幼体が保護されたことを知ってはいたものの、「人に育てられた飛龍なんか、どうせ大したことはあるまい」と考えていた。彼自身が過酷な人生を生き抜いてきた男であるから、保護という言葉には自然に反感を覚える。

 ――それで飛龍競技会に出場したい、とはね。

 余興として実に面白い。バルトーシュの頬が楽しそうに歪む。

「どうした? 妙に楽しそうな顔をしているが」

 人の心を見るのに敏なアルボルトが、バルトーシュの様子がいつもと違うことに早速気がついてそう言ったので、バルトーシュは苦笑いしながら答えた。

「いえね、大胆にも社長に挑戦状を叩きつけてきた奴がいましてね」

 そして、その封筒はアルボルトに手渡された。


 *


 飛龍競技会のベルン予選開催案内は、キインが参加申込書を事務担当者に手渡した三日後に届いた。

 前述の通り、飛龍便はベルン国内にはない。無線は実験段階であり、長距離魔法通信は術者が限られる上に極めて高価だ。どのみち、今回は参加申込書があったので手紙で送るしかなかった。そして、手紙は普通ならばベルン国内の配送でも、少なくても片道二日程度かかる。

 日数があわないので、キインが件の事務担当者にそのことを訊ねてみたところ、返事をわざわざ持ってきた者がいるという。

「なんだか柄の悪そうな人でしたけど」

 事務担当者は、そう気味が悪そうに言っていた。

 しかし、返信の内容は至って丁寧である。

「この度は飛龍競技会ベルン共和国予選会の参加申込書をご提出頂きまして、誠に有り難うございます」

 そのような挨拶から始まる手紙には、予選会の開催日程と時間、大会会場までの詳細な経路案内はもちろん、大会中の宿泊に関する注意事項や予選会で運営から提供されるサービスまでが整然と記述されていた。

 それによると予選会の開催日は今から一週間後。

 場所はベルン共和国の中では比較的平たんな場所である、首都近郊の競技場。

 競技種目は三つ。

 障害物競技の「ルウェーロ」。

 長距離競技の「ガルティエロ」。

 短距離競技の「フルー」。

 本大会では日程を分けて開催されるそれらの競技が、二日に詰め込まれていた。まず、ガルティエロがスタートし、そのゴールを待つ間にルウェーロとフルーが行われる。同じ飛龍が複数競技に出ることは最初から考慮されていない。

 ーーそんな選手はいない、ということだろうか。

 日程が詰められている点から、予選会は形式的なもののように見える。ところが、手紙には飛龍競技会の競技規定と予選会が行われる地域の詳細な地図が補足資料として添付されており、そこからは主催者側の意気込みが十分に感じられた。

 ――意気込みというか、これではまるで挑戦状のようだな。

 全ての手の内を曝け出している。尋常に勝負しようということらしい。

 しかし、キインはむしろそこに違和感を受けていた。

 宿泊などの費用はすべて運営側で持つという。施設のかつかつの予算に頭を悩ませていたキインには嬉しいことだったが、そこまでして迎えようという運営側の心意気が、妙に重く感じられた。

 キインもアルボルトの悪名は知っている。見ず知らずの人物について、噂だけで悪感情を持つような性根をキインは持ち合わせていないが、根拠もないのに噂だけが聞こえてくることもないとは思っていた。従って、アルボルトは穏当ではない手段を使うことを躊躇しない人物である、とキインは推測している。

 それに、これまでベルン代表を育成してきた自負もあるだろう。彼が本気で勝負するつもりならば、むしろ情報は極力出し渋るだろうし、宿舎などは参加者が自力でなんとかしなければならないはずだ。競技だからそのほうが自然である。

 ところが、逆に情報を詳らかにして、賓客を迎えるように準備万端整えている。つまり、挑戦状というよりは、「客として迎えてやるからせいぜい頑張れ」という意味だろう。

 ーーお客様扱いか。

 キインは眉を顰めた。そのことを知ったら、子供達は憤るに違いない。

 それと同時に、キインは子供達の実力について考える。 

 彼の子供達は、最近になって飛ぶことが様になってきた。しかし、それがどれほどのレベルなのかキインには分からない。結果的にお客様扱いとなる可能性もある。

 そして、競技自体がどのレベルで争われているのかが分からない。これまでの大会記録をなんとか取り寄せてみたものの、短距離競技のフルーですら年によって優勝者の飛行時間がばらばらである。

 恐らく、競技条件が一律ではないのだろう。戦場を選べないのと同じだ。

 それに、手紙にも競技規定にも「当日、どんなコンディションであっても、競技は行ないます」と明記されていた。

 さすがは軍関係者が集う競技会である。実戦に近い。

「彼らは従軍飛龍ではないのだが」

 キインは思わず独り言を洩らす。

 この時点で彼はまだ「飛龍競技会に出場する」ことの意味を、完全には理解できていなかった。

 後年、キインはこの「彼らの人生の転換点」を苦々しく思い返すことになる。

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