第五話 同期

 軍の訓練を見学後、三匹の飛び方は飛躍的に向上した。

 離陸、上昇、巡航、旋回、下降、着陸――どの段階においても、羽ばたきの力強さと安定性が増してゆく。

 特に、離陸と巡航におけるケインの翼の力強さは目を見張るものがあった。前から飛行速度は三匹の中でも一番だったが、さらにそれがみるみるうちに向上してゆく。

 また、同じ訓練を熟して最後に残る身体の疲労度は、クインが最も軽かった。彼は最も効率良く翼を動かす方法を模索しているようだ。

 そして、ケインは相変わらず無駄な動きが多かったが、そこにキレが加わっていた。上昇や降下の際の微妙な翼のコントロールや、旋回時の小回りの良さにキインは驚かされる。

 身体も次第に大きくなり、軍の飛龍と比べてもさほど見劣りしないほどに成長した。

 そろそろ幼体から成体へと変化する時期である。

 その時期の到来は特に外見上には現れなかったが、ある日突然やってきた。


 *


 いつものようにキインが三匹の飛行訓練を見上げていると、ゴドフェル親方がやってきた。

「キインさん、久し振りだね」

「ああ、ゴドフェル親方。その節は大変お世話になりました」

 キインは親方のほうに顔を向けて礼を言った。

 すると、親方は何も言わずに、じっとキインの顔を見つめた。

 キインは親方の目の真剣さに少しだけ気恥ずかしくなったが、目を逸らさずに親方を見つめた。

 暫くそうやって見つめあった後、親方は小さく息を吐いて言った。

「迷いがなくなったようだね。そいつはよかった」

「ええ、覚悟が決まりました。親方のお陰です」

「俺のお陰? よせやい、そんなもんで覚悟なんか決まりはしないよ」

 親方は手を振ってその話を脇に逸らすと、

「今日はあんたにいいものを持ってきたんだよ」

 と言いながら、背中に負っていた大きな布製の入れ物を地面にゆっくりと降ろした。

 かなり大きなものであるが、親方が一人でかつげるものだから重量はさほどでもないと分かる。

「いいものですか?」

「ああ、こいつはアドミルがお前さん達のためにわざわざ作ったもんだよ」

 ゴドフェル親方はそう言いながら布を解き始めた。

 キインは「お前さん達」という言葉に引っ掛かりを覚えて、その作業を見つめた。

 布が開かれる。

 中からは木で作られた飛龍の鞍が一つ出てきた。

「とりあえず一つだけだけどよ。もう二つも作成中だから、出来たら持ってくるよ」

「こいつは――凄い!」

 キインはその鞍の出来栄えに驚いた。

 座面があるのは当然として、そこから操龍士が高速飛行中に握るハンドルが、優美な曲線を描きながら伸びていた。

 強度を優先したためだろう。表面の装飾は一切施されていなかったが、それがなくても官能的な曲線自体が十分に装飾的である。

 座面の後ろには腰を抑えるための小さな背凭れがある。それは空気抵抗を考えてのことだろう、透かし彫りが施されていた。

「これはカインのために作られたものだ。彼は確か高速飛行が得意だったはずだよな。だから、一般的な鞍よりも操龍士がそれの邪魔にならないように細かい工夫がしてあるそうだ。俺には分からんがな」

 ゴドフェル親方はそう言ったが、その細部に親方のこれまでの経験がすべて反映されていると見て間違いない。

「しかし、これは軍の近衛兵レベルの最高級品じゃないですか。それを買うほどの予算は――」

「安心しな。あんた達を相手に商売をする気はないよ。むしろ、輿の作り方を研究するために実験台をやってほしいだけなんだから、こっちがお金を払いたいぐらいだ」

 ゴドフェル親方はにこやかに笑うと、真顔に戻って言葉を続けた。

「残念だから只働きだけどよ。やってくれるかな」

「もちろんです。本当に有り難うございます」

 キインは深々と頭を下げた。


 ゴドフェル親方が立ち去った後、飛行訓練を終えて地上に戻ってきた三匹は、置かれていた鞍を見るなり瞳を輝かせた。

(これ、すごく格好いい鞍だね。誰のなの?)

 早速ケインが食いついてきたので、キインは苦笑しながら言った。

(残念ながらこれはケインのではない。カイン用の鞍だよ)

(うわあ、いいなあ)

 残念がるかと思いきや、ケインは更に大喜びしてカインを見つめた。そして、キインが思いもよらないことを伝えてきた。

(これでカイン兄さんの長年の夢がかなうじゃないか!)

(長年の夢って、一体何かね?)

 キインは戸惑いを浮かべる。そんな話は今まで聞いたことがなかった。

 カインは落ち着いた思考を伝えてきた。

(これでやっと、父さんと一緒に空を飛ぶことができます)


 キインは言葉を失った。


 その動揺を読み取ったカインは、少しだけ哀しげな思考を滲ませながら伝えてきた。

(あの、駄目でしょうか、父さん?)

(あ、ああ――)

 キインは慌てて思考を切り替える。

(駄目なものか。とても嬉しいよ、カイン。しかし私は操龍なんて全然知らないのだが)

 キインの動揺はひとえに自分が操龍しても大丈夫なのか、という点にかかっていたのだ。

(それでも構いません。僕はずっと前から、父さんに僕達の世界を見てほしかったのですから)

 カインは今度は少しも揺るがなかった。

 キインは考えた。

 確かに、そろそろ三匹は人間と一緒に空を飛ぶことに慣れる必要があるだろう。しかし、魔獣の保護研究施設であるグリーランドには、軍と違って操龍士の経験がある者は一人もいなかったはずである。

 ただ、もしかしたらシラクであれば、過去に飛龍に乗った経験があるかもしれない。三匹が施設に保護された時期の少し後になってここに雇われた彼は、これまで様々な現場で働いてきたと聞いている。

 軍の飛龍部隊に知り合いがいるほどだから、飛龍のそばにいた可能性はあるかもしれない。ただ、彼が三匹と言葉を交わしているようには見えなかったから、同期はできないのだろう。

 その意味ではキインが最も相応しい。彼は決断した。

(よし分かった。それでは明日、この鞍を使って実際に飛んでみようじゃないか)

(はい! 宜しくお願いします)

 カインが眼を輝かせる。いつも冷静な彼にしては予想外の喜びようだった。

 クインはその様子を見つめながら、思考を伝えてきた。

(カイン兄さんの鞍があるということは、いずれ僕とケインにも専用の鞍が頂けるということでしょうか?)

(その通りだよ、クイン。今、ゴドフェル親方とアドミルが大急ぎで作っている最中だ)

(そうですか。でしたら、私も完成した時には最初に父さんと一緒に飛びたいのですが)

(ああ、分かった。そうしようじゃないか、クイン)

 キインはそう言ってクインの頭を撫でる。

(僕のも出来るのか。ああ、楽しみだなあ。カイン兄さんとクイン兄さんが父さんを乗せて飛ぶのだから、僕もぜひそうしたいところだけど、操龍ということは契約が必要になるんだよね)

 ケインの何気ない一言にキインは驚く。

(えっ、そこまでする必要があるのか?)

(当たり前だよ、父さん。そうじゃないと僕達の世界が中途半端にしか伝わらないから)

(それは確かにそうだろうが――)

 ただの試乗だと思っていたキインは、次第に大事になってゆく事態に戸惑う。

 しかし、カインはあくまでも能天気にこう言った。

(じゃあ、僕はエリザさんにお願いしようかな)

(断られても知りませんよ)

 クインがたしなめる。

 しかし、実際にその後ケインがエリザに操龍士をお願いしたと聞いた時には、彼らは驚いた。しかも、彼らは更に驚かされることになる。


 なぜなら、エリザがそれを快諾したからだ。


 *


 翌日は朝から晴れていた。

 午前中の勉強を終え、昼食を終えると、キインと飛龍達は連れ立って山脈の斜面へとやってきた。

 後ろにはエリザとシラクが続いている。

 鞍はキインが背負っていた。大きさの割には軽い。それを革のベルトでカインの肩の位置に固定した。

 カインの準備はそれで完了である。

(父さん、それでは乗って下さい)

 カインが思念を送ってくる。

 キインは鞍から伸びる足を置くためのペダルに左足を乗せると、上体を屈めたカインの肩に跨った。

 右足もペダルに差し込み、腰に巻いた命綱をカインの鞍に接続する。

(よし。こちらも準備が完了した)

(それでは、これから直接同期を行ないます)

(宜しく頼む)


 それは不思議な感覚だった。


 キインは自分の感覚が脳内でぎゅっと小さく萎んでゆく感じを受ける。

 そして、それは一点に集約されたかと思うと、続いて急激に膨張した。

 眼は常よりも広く鮮やかに世界を映しだす。

 風の動きがいつもよりも生々しく感じられる。

 香りも普段より鋭敏に感じられた。

(父さん、聞こえますか)

 カインの声がはっきりと脳内に響く。

(ああ、感度良好だ)

 自分の声がはっきりと脳内に響く。

(それではいきますよ)

 カインは首を曲げて喉の奥に息を溜める。

 その感覚すらキインは共有した。

 カインが首を伸ばしながら溜め込んでいた息を放出する。

 途端にキインの頭の中で世界が色分けされていった。

 反響定位――自分達を中心として青い波が球状に広がってゆく。

 即座に足元の地面が確定されて、それは周囲に広がっていった。

 キインとカインの位置からは見えないはずの岩の裏側までが、知覚される。

 波が過ぎ去ったところは視点を自在に移動することが可能になる。

 キインは山脈の斜面にいながらにして、施設の片隅で愛を語らう若い飼育員と研究者の姿を見た。

 球は蒼穹へと延びてゆく。

 鳥が二羽、山の上を飛んでいくのを感じた。

 しかし、それはキインの後方に位置しており、振り返らなければ肉眼では見えない。

 周囲でキインとカインの様子を見つめている人々の表情が認識できる。

 エリザは僅かに心配そうな顔をしており、シラクは普段の彼と変わらない泰平楽な顔をしていた。

(これは凄いな。お前達はいつもこんな風に世界を感じていたのか)

(――いえ、違います。僕も驚いています。声で世界を認識するのはいつものことですが、いつもよりも広く、はっきり見えます)

(これが人間と飛龍の直接同期が生み出す世界なのだな)

(そうですね。とても気持ちがいい。世界が新しく見えます)

(確かにそうだ)

 風が切り替わるのを感じる。ところどころでそれは渦を巻いていた。

(そろそろ離陸向きの風が来そうです)

 カインの肩に力が籠るのをキインは知覚する。思わずキインの背中までが小刻みに震えた。


(いきます!)


 カインが背中に力を込める。

 キインの項の毛が逆立つ。

 カインの足が地面を蹴る。

 キインはペダルを踏みしめた。

 二人は斜面を滑るように進む。

 翼が大きく、力強く空気を地面に叩きつける。

 身体が僅かに軽くなる。

 更に翼は振られて、その度に身体は重力の楔から解き放たれてゆく。

 そして、ついに身体は空気の上に乗った。

 斜面が眼下を流れ過ぎてゆく。

 景色が眼下を流れ過ぎてゆく。

 身体はぐいぐいと上に向かって段階を追って浮かび上がる。

 施設の中では一番高いところにあるはずの研究棟が、遥か下方を通り過ぎてゆく。

 身体の周囲には空気以外、何もない。

 それでも恐怖は感じなかった。

 むしろ解き放たれた自由を満喫する。

(凄い!)

 キインは素朴な感動を漏らした。

 雲が目の前に近付いてくる。

 いや、自分が雲に近付いてゆく。

 確かな実体のように見えたそれが、触れた途端に実体を失って後方に流れる。

 雲を抜け、風に乗る。

 翼は大きく広げられて、下から支える風に委ねられた。

 羽ばたきの音が止む。

 世界は急に静かになる。

 そしてキインは見た。

 遥か向こう側にある水平線。

 それは僅かに湾曲していた。

(父さん、これが僕達の生きている世界だよ)

 カインの穏やかな思念が伝わってくる。

(本当に美しいな。まるで夢のようだ)

 キインは穏やかな思念を伝える。


 そして二人は暫くの間、世界の真っ只中でその姿を在るがままに見つめていた。


 暫くすると大きな鳥が一羽、二人に近付いてきた。

 この付近を縄張りとする猛禽類である。

 彼は二人の傍らを通り過ぎると、急に降下した。

 キインはその進行方向を見つめる。

 そこには白い小動物がいて、頻りに周囲を嗅ぎまわっていた。

 鳥はその背後から静かに降下してゆくと、右足を伸ばす。

 そして、しっかりと小動物の項あたりを捉え、激しく翼を羽ばたかせた。

 小動物はなすすべもない。

 激しく身体を揺らすが、項に差し込まれた爪はびくともしなかった。

 鳥は悠々と翼を振りながらどこかに飛び去ってゆく。

 辺りは再び何事もなかったように静まり返った。

 生と死の束の間の交錯である。

 キインはその一部始終を眺めて、溜息をついた。

(ここは人間の世界ではないのだな)

(確かに。ここは翼ある者の世界です。しかし、僕と父さんが一緒に来れば、ここは父さんの世界にもなります)

(確かにそうだな)

 キインは目を凝らして蒼穹を見た。

 無限に世界が広がっているような錯覚に陥る。

(世界は広いな)

(世界は広いですね)

 再び二人は在るがままの世界を見つめる。


 そして、同時に山脈の斜面から湧き上がってくる不穏な空気の流れを感じた。


(父さん、しっかり掴まって下さい)

(分かった)

 キインはハンドルを強く握る。

 途端に二人の身体は下からの強い圧力に弄られた。

 キインの腰が僅かに浮く。

 背筋を冷たいものがすうっと撫でてゆく。

 しかし、キインに恐れはなかった。

 カインは落ち着いていたからだ。

 キインはその落ち着きに同期する。

(いきますよ!)

 その思念を合図に、カインは翼を傾けて不穏な空気の斜面を滑り降りていった。

 無理に抵抗することなく、相手の力を受け流す。

 気紛れな山際の風は二人の傍らを過ぎ去ってゆく。

 再びどっしりとした風の流れに乗る。

 キインはふっと息を吐くと思念を送った。

(お前たちはいつもこんな風に飛んでいるのか)

(はい、ここは風の通り道なので、急にあんな乱暴な流れが起きることもあります)

 いつもの訓練では何気なく空を進んでいるように見えていた。

 彼らの苦労を、キインは知った。

(空を飛ぶのは大変なのだな)

(もう慣れました。でも、そろそろ山の機嫌が悪くなりそうですね)

 キインは見た。

 山脈の向こう側から大きな雲が湧き上がってくるのを。

(そろそろ降りましょう)

 カインは翼の後ろを僅かに持ち上げる。

 それだけで二人は世界を駆け下りていった。


 斜面が目の前に迫ってくる。


 地面近くに重い空気。

(これなら楽に降りられそうだ)

 カインは足を延ばす。

 キインは腰を少しだけ浮かす。

 カインの足が地面を捉える。

 キインは膝で僅かな振動を吸収する。

 カインは翼の前側を僅かに上げる。

 重力が身体を引き付ける。

 そのまま、草原を駆け抜ける。

 キインは腰を下ろして上体を起こす。

 前から吹き付けてくる風。

 いや、正しくはキインが空気を押しのけてゆく。

 速度が次第に遅くなり、そして止まる。

(着地しました)

(思ったよりも穏やかなのだな)

 そして二人は人々が待つほうへと進んでいった。


 キインは右脚をペダルから外す。それから左足も少しだけペダルから抜き出す。

 左の爪先に重心を移してカインから降りる。地面の堅い感触。

 微かに身体の重みが増したような気がした。もちろん、ただの気のせいである。

 エリザが、ほっとした顔で近づいてきた。

「キインさん、お疲れ様でした。どうでしたか、初めての飛行は」

 キインは満面の笑みを浮かべて言った。

「こいつは癖になりそうですね」


 *


 その日の晩のことである。


 キインは三匹が住んでいる部屋の中で、カインとの直接同期と飛行訓練についての報告書をまとめていた。

 訓練を終えて飼育棟に戻ってから延々と書き続けているのだが、通常の勤務終了時間を大幅に超過してもそれは書き終わらなかった。何しろ書くべきことが多すぎるのだ。

 軍の操龍士と専任飛龍の契約に関する記録は豊富に残されており、キインもそのうちのいくつを入手して読んでいた。しかし、それと今回のキインの実体験とは微妙に違っているような気がしてならない。

 飛龍と人間が同期できるようになるまでには、その関係に応じて必要となる時間が異なる。

 例えば、ケインとエリザのような友人関係に近い会話のみの同期の場合、思念が伝わるようになるまでに一年近い時間が必要となる。

 しかも、その間は親密な関係が継続していなければならず、それが途切れてしまうと同期は白紙に戻る。

 実際に、エリザの次に三匹と会話できるようになった食事の世話係が、事情があって一ヶ月近く郷里に帰ったことがある。

 彼が施設に戻ってきた時にはすっかり会話が出来なくなっており、再び三匹と会話できるようになるまでにはさらに一年が必要だった。

 これが飛龍と操龍士との契約になると、思念を交わすことができるほどの同期は、即座に達成される。

 しかしながら、戦闘行動を行うのに充分な直接同期まで達成するには、ネットワークの神経節が出来上がるのと同じ時間、つまり一ヶ月近くかかった。

 ところが、どうやら今日のキインとカインは、その戦闘可能なレベルの直接同期まで一気に到達してしまったらしい。親と子の関係というのは、それほど濃密なのだろう。

 報告書を作成しながら、キインは傍らで眠っている三匹の姿を時折眺めた。

 フォルツベルグの飛龍基地で見た個室とは比べものにならないが、それでも広めの一室に巨大な箱状の寝台が三つ並べられている。

 流石に昔のように一つに固まって眠ることはなくなり、おのおの寝台に横たわっている。成体に近い飛龍であるから、全長が三メートル近くになる。

(息子、か)

 随分と大きな息子だなと考えて、キインは思わず微笑む。そして、報告書の執筆を続けた。

 燃焼草から発生したガスが燃え、柔らかな黄色い灯りを放っている。

 甘い香りが室内に漂い、それが濃くなったり薄くなったりしている。

 キインのペンから癖の強い文字が、白い紙の上に生み出されてゆく。

 物を書く作業がキインは嫌いではない。

 思考が澱みなく言語に置き換えられてゆく。

 それに没頭して時間を忘れていたのだが――ふと、背後に視線を感じてキインは筆を止めた。


 振り向くと、カインが寝台から上体を起こしている。


(どうした? 途中で目を覚ますなんて珍しいじゃないか)

 キインはカインに穏やかな思念を送る。

(――お父さん)

 カインは妙に畏まった思念を送り返してきた。

(私はとうとう成体になりました)

 カインはいつも冷静だが、その時は常にも増して落ち着いていた。

(成体になった? 見た目は何も変わっていないが)

(その通りです。外見は何も変わりません。ただ、自己認識が寝る前と随分違います。これまで僕は『僕』でしたが、今の私は『私』だと思っています)

 不思議な言い回しだったが、言わんとするところはキインにもよく分かった。

(人間と直接同期したことが、何か関係しているのかい?)

(それは――多分関係はありません。恐らく、クインとケインも目を覚ました時には、私と同じ自己認識を持っているはずですから)

(どうしてそんなことが分かるんだい?)

(その、上手くは言えないのですが、私達は生まれてからずっと一緒でした。だから、成体になるのも一緒のような気がするのです)

 カインにしては珍しくあやふやな物言いだったが、これも言いたいことがキインにはよく分かる。彼も「実際そうなるだろうな」と素直に思うことができた。そのぐらい、彼らの繋がりは密接だ。

(気分はどうだい、カイン)

(なんだかとても不思議な感じです。身体を大きくするために脱皮を繰り返す生き物がいますが、あれと似たようなことが精神的に起こったような気分です)

 カインは自分の両掌を見つめた。

(今までの自分とは、明らかに何かが違うのです。例えば、空軍基地での喧嘩騒動の時、私は無謀にも飛行を試みました。以前は「それはそれで、決して間違ってはいなかった」と思っていましたが、今は違います)

 そして、顔を上げるとキインの目を見つめた。

(やはり、あれは無謀だし、無意味でした。当時の私には、とてもそれを成し遂げるだけの力はありませんでした。それよりも何よりも、それでは父さんを侮辱したことに対する報復として軽すぎます)

(おいおい、カイン――)

 キインは苦笑しながら窘めようとしたが、カインは真面目な思念を伝えてきた。

(お願いです、最後まで言わせて下さい。やはりあの時はともかく我慢して、次の機会に彼らを完膚なきまでに叩き潰すほうがよかった――今では自然に、そう思えるのです)

 キインは、そんなカインの心境の変化が、軍の飛龍達と同じような「人間一般に対する蔑視」へと向うものかどうかを考える。つまり、成体になる過程で彼らは必然的に尊大となる、という意味だ。

 それが飛龍の倣いならば仕方のないことだが、少し寂しい気もする。

 そんなキインの気持ちが漏れ出したのだろうか、カインが息を吐いた。飛龍には表情筋がないので分かり難いが、彼は笑ったのだ。

(父さん、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。考え方はちょっと変わってしまったかもしれないけれど、それ以外は今まで通りのカインです。父さんの息子であることに変わりはありません)

(そうか)

(また寝ます。お仕事の邪魔をしてすみませんでした)

(ああ、お休み)

 カインは再び身を横たえると、そのまま即座に眠りに落ちる。飛龍の寝つきの良さが、キインにはとても羨ましかった。

 ――父さんの息子、か。

 以前とは違い、キインは自分が彼らの父親であることに疑問を感じなくなっていた。

 また、出来の悪い父親かもしれないが、それでも彼らにとっては大切な存在なのだと、こちらは確信していた。

 ただ、その一方で最近になって考えていることがある。それがキインの成体への移行で、一層現実味を帯びてきた。


 彼らは、いつか大人の飛龍としてキインの元から巣立っていかなければならない。そして、その時は刻一刻と迫っているのだ。


 *


 翌日、カインの予測通り、クインとケインも成体へと移行した。

 もともと穏やかで落ち着きのある性格だったクインは、さらにその性格に深みを増していた。

(父さん、昨日の晩はお仕事で遅かったのではありませんか。あまり無理をなさらないでくださいね)

 彼はキインの顔をじっと見つめながら、そう伝えてくる。その思いが厚みを増しているのだ。

(お前はまるで、私の妻か母親のようだな)

 そう伝えてキインは苦笑する。彼は後になって、この時の発言を思い出すことになるのだが、その時点ではただの冗談に過ぎなかった。


 ケインは相変らずの末っ子気質で、キインには特段変わったようには見えなかったのだが、彼の変化に関する情報はエリザからもたらされた。

 キインは三匹の学習の進捗状況を聞くために、昼食は常にエリザと一緒にとっていた。

 その日も、彼が食堂に着いた時には、エリザがいつもの定位置に座っており、珍しいことに少しばかり悩ましげな表情を浮かべていた。

「どうかしたのか。何だか悩み事がありそうな顔をしているが」

 キインは努めて明るい調子で話しかける。エリザは少し笑ったが、また悩ましげな表情に戻って言った。

「キインさん。昨日、ケインに何かあったのですか?」

「いや、特段のことは」

「……そうですか。じゃあ、気のせいなのかな」

 エリザは溜息をつく。

「おいおい、気になるじゃないか。何が気のせいなのか話してくれないかな」

「……笑わないで下さいね」

「ああ、まあ」

「ケインが優しいんです。昨日まではただのやんちゃ坊主だったんですが、今日はとても紳士的で。例えば、私が荷物を持っていたとするじゃないですか。すると自然に『持つよ』と言ってくれるんです」

 キインは唖然とした。

「なんだ、そっちに出たんですか」

「出たって、何がですか」

「いやね。説明すると長くなりますが、今日から彼らは大人になったんです。それで女性に優しくなるとは、ケインらしいと言えば、らしい」

「ええと、意味がよく分かりませんが、つまりは今日から大人の男性として扱えばよいということですね」

「そういうことです。しかし、それが女性の扱いに出るとはね」

 そう言ってキインは笑ったが、彼はこの件も後になって思い出すことになる。

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