第二話 成長
「今朝、表門に飛龍の幼体が放棄されていた」
という情報は、直ちに施設全体を駆け巡った。
それがいかに珍しいことであるか、魔獣の専門家である彼らは即座に理解したものの、キイン以外の誰もその世話を自ら買って出ようとはしなかった。
それもそのはずである。瀕死に近い彼らの世話が出来るのは、長年爬虫類を専門にしてきたキインぐらいしかいない。
そのため、出勤してきた施設長は即座に判断した。飼育部門長を経由して指示が飛び、キインは飛龍達の世話に専念することになる。自分の作業予定を部下達に割り振ると、彼は飼育室の一角に籠った。
暖房配管のバルブを全開にした蒸し暑い室内で、細かく砕いた昆虫の悪臭に耐えながら、飛龍達に餌を与え続ける。
好奇心から手伝いを買って出た他の飼育員は、その過酷な飼育環境に耐えられず次々と短時間で脱落していったが、キインは我慢し続けた。
ともかく、急いで飛龍達の基礎体力を回復させなければならない。三匹とも餌をなんとか飲み込めるようになってきたが、身動きはしなかった。
ただ、時折口を大きく開く。それと同時に、キインは耳の奥を圧迫されるような感じを受けた。キインには聞こえない音で周囲を探っているのだ。
飛龍が音波による反響定位を行なうことを、キインは軍の研究資料で学んでいたが、実際に体験したのは初めてである。
もちろん誰もそのような状況は経験したことがなく、それが人体にどのような影響を及ぼすのかも分かっていなかった。
軍に所属する成体は不必要な反響定位を絶対にしない。逆に自分の居場所が敵に丸見えになるからである。
誰も手が出せない状況で、誰もが耐え難い環境の中、誰も経験したことがない経験をキインはしていた。
そして、それがいかに危険なことであるか、彼は考えている余裕がなかった。
しばらくすると、断続的な高周波の影響で、キインは頭痛を覚え始めた。しかも、それは次第に強くなってゆく。
飛龍達が代わる代わる口を開くたびに、キインは頭に針を差し込まれるような痛みを感じるようになってきた。
飛龍達は未だ予断を許さない状態にある。しかし、キイン自身も予断を許さない状況に陥っていた。
さすがに耐え切れなくなった彼は、少しの間だけでも外に出ようと立ち上がる。しかし、足が縺れてその場に転がってしまった。
「しまった、我慢しすぎたか!」
そう思った時には既に遅く、彼の三半規管には容易に回復できないほどの混乱が生じていた。
なかなか立ち上がれずにいると、異常を感じたらしい飛龍達はさらに声をあげる。
それによって、更に彼の頭は軋み、足は思った通りに動かなくなった。
鼻の奥に痛みを感じて手をあてると、鼻血が流れ出している。
このような時に限って、飼育員達は現れない。
キインは床に伏せ、そのまま動けない。
飛龍達は更に激しく鳴く。
しかし、全ては無音。
彼は動けない。
このまま死に至るのか、と彼が覚悟しかけた時――
飛龍達の鳴き声が止んだ。
鼓膜に感じていた圧迫が急に消えたことに気づいたキインは、
「まさか!?」
と、咄嗟に最悪の事態を想定した。頭の奥のほうがまだじくじくと膿んだように痛んでいたものの、自由の利かない身体を無理によじって、机の上にある飼育箱を見上げる。
すると箱の縁から、飛龍幼体の丸い顔が三つ覗いていた。
「ふう、無事だったか」
キインは安堵のあまり大きく息を吐く。
すると、飛龍達は彼の真似をして大きく口を開け、聞こえない鳴き声を上げ出したため、
「いや、それはもう止めてくれ!」
と、目を閉じて頭を抑えながらキインは思わず声をあげる。
すると、途端に声はぴたりと止んだ。
キインが再び飼育箱を見上げると、六つの丸々とした緑色の輝く瞳が彼を見下ろしている。
キインは恐る恐る口を開いてみる。すると、飛龍達は同じように口を開いてゆく。次にキインは逆に口を少しずつ閉じてみる。飛龍達も同じように口を閉じてゆく。
つまり、まずは目の前にいる生き物の行動を模倣するところから、生きるための行動様式の学習を始めるらしい。
また、生まれた直後の飛龍に人間の言葉が理解できるはずはない。言葉によって意思伝達が可能になるのはずっと先であるはずなのに、彼らはキインの制止の声に従って鳴き声を止めた。
そのことから類推するに、どうやら飛龍は目の前にいる生き物の心理状態を読み取ることができるようだ。
「こいつはやっかいだな……」
とキインが一瞬考えた途端に、三匹の身体が僅かに震えた。
身構えたのだろう。
「いやいや、君達のことが嫌いなわけじゃない。ただ、そういう状況に私が慣れていないだけだ」
キインが苦笑しながらそう言うと、三匹の身体から無駄な力が抜けた。
頭の痛みが治まり、身体が思うように動くようになるまで、キインは飛龍達の瞳を見つめながら雑談をして過ごした。
*
その時のキインの推定は概ね正しかったのだが、重要な点が欠けており、そのことは直ぐに明らかになった。
飛龍は、目の前の生き物の動きを模倣することから学習を開始する。
そして、その生き物の心理状態がどうなっているのか、もっと正確に言えば「快」と感じているのか「不快」を感じているのか、を認識することが出来る。
この二点についての彼の想定は正しかった。
ただ、飛龍が行動を模倣したり、相手の心理状態を感じ取ったりする対象となるのは、彼らが親あるいはそれに近い存在と認識した相手に限られていたのだ。
具体的な行動で説明するとこうなる。
三匹が生きた昆虫を自ら嚥下できるほどに体力を回復すると、途端に彼らは飼育員や研究者の好奇の眼に晒された。
なにしろ、身体の特徴は不慮の事故で親ともども死亡した幼体の解剖で判明していたものの、今まで誰も生きて動いている飛龍の幼体を見たことがない。
爬虫類専門でなくても、一目見てみたいというのが飼育員や研究者の性であるから、キインが扉を開けて室内に籠っていた悪臭を解消した途端、彼らは集まってきた。
しかし、飛龍達は目の前に現れた飼育員達の表情や行動を模倣しようとする様子を全く見せない。それどころか、大きく口を開けて近づく者に噛みつこうとする様子が見受けられる。
「うわ! 何、俺のことを餌だと思っているの?」
噛まれそうになり、慌てて身を躱した飼育員の一人は、そう言った。その時の飼育員の動揺を、三匹が感じ取った様子もない。
どうやらキインのことは「親だ」と認識して、その行動を模倣し、心の動きに同期しようとするらしい。
そして、同じ形をしてはいても別の個体と認識した相手は、とりあえず食べ物ではないかと仮定するようだ。
ただ、成体となった飛龍が人間を捕食したという話は聞かなかったから、
「これは幼体の時期に一般的に見られる、探索行為の一種なのだろう」
と、キインは結論付けた。
この「生まれて初めて見た、眼の前にいる動く者を親と認識する」という本能は、生物全般に見られるものである。
動物に自分が親であると認識されることは、飼育員を務める者にとって嬉しいことである反面、重い責任を負うことでもある。
なぜなら、人間を親と認識した野生動物は、自分のセルフイメージを「人間」として成長することになるからだ。
そうなると、本来、野生であれば簡単に出来ることが出来なくなったり、野生に戻すことが難しくなったりする。キインは自分の動きを模倣する飛龍達に目を細めながら、心の中ではその責任を痛感していた。
特に、彼らは飛龍である。
空を飛ぶことが彼らの最大の特徴であるのに、キインはそれを彼らに教えることが出来ない。教えたくても彼には翼がないのだ。
これは最初から想定していた困難であり、そしてこれから長い間キインの頭を悩ませることになる。
*
三匹の飛龍は、当初の危機的な状況からようやく脱すると、魔獣らしく速やかに成長を開始した。
「えっ、もう歩き始めているんですか?」
夕方に様子を見に来た同じ班の若い部下が、飼育室の片付けをしていたキインの後ろに並んで歩き回っている三匹を見て、驚いた声を上げた。それを、一緒に来た古手の飼育員が窘める。
「お前何驚いているんだよ。そんなの当たり前だろう。野生の環境では、生育の遅れがそのまま死に直結するんだからな」
「それはそうでしょうが……それにしても早過ぎやしませんか?」
「四足歩行の動物なんか、生まれた直後に立ち上がるじゃないか。あれと同じだって」
古手はそう言って若手の背中を叩いたが、この場合は若手のほうが正しい。
飛龍は、地上では二足歩行する動物である。二足歩行はバランスを取るのが非常に難しいから、四足歩行のように簡単にはいかない。
ところが飛龍達は、その日の午後には二足で立ち上がり始めた。最初は覚束ない足取りだったが、みるみるうちに安定してゆく。
部下たちがやってきた時点では、すっかり慣れた足取りで動き回り、まるで小型のキインのように彼の動きを真似ていた。
そうなって初めて分かったことがある。
三匹は大きさが殆ど同じで、ぱっと見では違いが全く分からないほどによく似ている。しかし、それぞれに性格が異なるらしく、それが行動に表れていた。
まず、ごく僅かな差なのでよく見ないと分からないが、三匹の中で一番大きい幼体は、何事も率先してキインの行動を模倣しようとした。
動きもキインのそれに忠実である。
「お前は随分と積極的なんだな」
そう言いながら、キインは何か他の幼体と見分けるための差異がないか探すために、彼を正面から見つめた。それを模倣するように幼体も正面からキインを見つめる。
すると、彼の瞳は離れていると丸々としているように見えるが、実は僅かに上方に引き上げられたような楕円形であることが分かった。
キインは他の二匹の瞳の形を調べてみることにした。
堂々とした飛龍の後につき従い、その姿を控え目に模倣している幼体を見る。その動きは優雅で、無駄がなかった。どうやらキインと先の飛龍の動きの二つを重ねあわせて模倣しているらしい。
「お前はちゃっかりしたやつだな」
と、キインは苦笑しつつ、彼の目を見つめた。その瞳は、下に引っ張られた楕円形であった。
そして、キインは常に一番最後に従ってキインの動きを模倣していた飛龍を見た。
その動きは概ねキインのものと合っていたのだが、彼は細かい点までは気にしていないようである。どことなくユーモラスな挙動になっており、無駄な動きも多かった。
「お前は独創的なやつだな」
と、キインは微笑しつつ、やはり目を見つめる。彼の瞳は歪みのない丸に思えた。
そのようなことを二人の部下に説明していると、若手のほうが唐突にこう言った。
「じゃあ、この堂々とした釣り目のやつが長男で、カインですね」
キインは眉を潜めて訊ねた。
「なんだよ、そのカインっていうのは?」
「キインさんの息子だからカイン、に決まっているじゃないですか。でもって、この落ち着いた垂れ目のやつが次男のクインですね。そして、真ん丸の眼をしたやんちゃなやつが末っ子のケイン」
随分と安易な名前の付け方である。捻りがまったくない。
「お前、生まれた順番は仕方がないとしても、性別とかちゃんと聞かなくていいのかよ。全部が雄という前提で名前をつけただろう。カイネとかクイナでなくていいのか?」
古手がそう言ったので、キインが苦笑いしながらそれに答える。
「ああ、それもまあ止むを得ないな。飛龍というのは雌雄同体だからね」
成体の研究で、飛龍は基本的に雄であることが分かっている。繁殖のために一部が途中で雌化するのだ。
ともかく個体識別のための名前はこのようにして決まった。若手の部下は満足そうな顔をしていたが、その時点で彼は知らなかった。
この三匹の名前は歴史の中で連綿と語り継がれてゆくことになる。その名付け親になったのである。
名前を貰い、目の前で目を大きく開いて自分を見つめている飛龍達を見つめながら、キインはこれからの責任の重大さを改めて認識していた。
*
飛龍達の翼は、じきに背中から伸び始めた。
最初は背中の突起が瘤のように盛り上がってゆくだけだった。三匹はそれがむず痒いらしく、頻りに背中を地面に擦りつけては気持ちよさそうに目を細めていた。
一週間経つと、それが裂けて中から羽化した蝶のように小さくて透明な羽が現れる。彼らは長い首を後ろに回しては、その小さな羽を物珍しそうに眺めていた。
ここでキインには一つの疑問が生じる。
「何故、飛龍は最初から翼を持っていないのだろう?」
彼らが胎生ならば意味は分かる。出産時の邪魔にならないように、最初のうちは生えてないほうがよいからだ。しかし飛龍は卵生だから、その必要はない。
どうしてこのような迂遠な方法で翼を成長させるのか、いろいろと理由を考えてみたもののよく分からなかった。
この色素の薄い羽は、最初のうちは随意筋と結合できていないらしく背中から飛び出しているだけであったが、色素が沈殿して体表面と同じ深緑色が強まるにつれて、僅かずつ動かせるようになっていった。
飛龍の幼体は全体的に見れば蜥蜴と変わりない。ところが部分部分は曲線で構成されており、成体のような威圧感は全くなかった。
それが短い手足を振りながら一所懸命に動き回っている。更に、身体の大きさと比べて短い羽が時折パタパタと動いているものだから、とても愛嬌がある。
普段、爬虫類系の魔獣は人気がなかったが、彼らは行く先々で飼育員や研究者に喜ばれた。
それに、一週間も過ぎると流石に人間は餌にならないと認識できたのだろう。噛むような仕草も見られなくなったため、余計に歓迎されるようになる。
「私、蛇男や蜥蜴男は苦手だったんですが、彼らなら全然大丈夫」
と、ケインを持ち上げてその顔を見つめながら、若い女性研究者は微笑んだ。
ただ、この状況は飛龍にとって喜ばしいこととキインには思えなかった。
飛龍は愛玩動物ではない。不特定多数の生物から好意を寄せられる生き方というのは、彼らにとっては野生の状態から一番遠いはずである。
そして、この頃になるとキインにはある迷いが生じ始めていた。
彼は結婚したことがない。爬虫類は多くが夜行性なので、その専門家である彼が緊急時に呼び出されるのも夜中であることが多い。
付き合った女性は何人かいたし、親密な雰囲気の中で一夜を過ごしかけた日もあったが、その度に緊急呼び出しで台無しになった。
「私と蜥蜴とどっちが大切なの?」
ある女性は泣きながらそう言ったが、それについて正しい答えを提示できる男性はいない。
「両方とも別な理由で、私にとってはとても大事な物なんだよ」
というのが自分にとっての真実なのだが、それを理解できる人に巡り合ったことはなかった。恐らくは飛龍の幼体以上に稀少な生き物なのだろう。そうキインは観念していた。
結婚したことがない訳であるから、身近に子供がいた経験もない。しかも彼は一人っ子なので兄弟もいなかった。
それが一挙に三匹の子持ちである。
これが普通の魔獣であれば大した問題にはならない。
研究は十分になされており、飼育方法も確立されている。それに、親の感情に同期する生き物は飛龍の他にはいないし、自分で勝手に大きくなってゆくから手間はかからない。
ところが飛龍達は始終、キインを丸々とした緑色の瞳で見上げており、その一挙手一投足を模倣して学習しようと待ち構えている。
周囲の熱狂ぶりが高まる一方で、キインの悩みは一層深まっていった。
*
三匹の飛龍は、爬虫類飼育室の一角に専用の棚を与えられた。
彼らの生活時間帯は人間とほぼ同じで、太陽が沈むと自然に眠くなるようである。その日もキインが飼育記録をつけている間に、いつの間にか三匹並んで眠っていた。別々に寝床を準備されていたにもかかわらず彼らは必ず三匹揃って眠り、そのまま太陽が出るまで起きない。
キインは彼らの様子を見つめて、小さな溜息をついた。人間の親達が同じような気持ちで育児を行なっているのだとすると、育児は飼育に負けず劣らずの重労働だ。キインは消灯して、そっと部屋を出た。
建物の外に出ると、キインはいつもの帰宅経路とは逆方向に歩き出した。今日はこれから訪ねるところがある。数日前に先方には連絡しておいた。
さて、一般的な動物と魔獣の違いは、魔獣のほうが何らかの特殊な能力を有している点である。
それは爪や牙が自在に伸びるといった身体機能の面であったり、火炎や雷を操るなどの魔法能力であったりするが、高い知性があることもその範疇に入る。
そして、知性を有する魔獣の中でも
言葉を理解できる飛龍達は一般の魔獣扱いであるにも関わらず、人型魔獣になると個室を与えられて政府から公的資金による援助が行なわれる。
その点は矛盾しているようにキインには思えるのだが、一飼育員がなんとかできる問題ではなかった。
魔獣保護施設『グリーランド』は、研究施設の他にそのような人型魔獣の養護施設も併設している。キインはそちらに向かって足を進めていた。
養護施設は、外から見ると地上三階建の普通の建物に見える。しかし、実際は地下に十階分の空間を有していた。しかも、天然の洞窟をそのまま転用したものである。
これも魔獣の常で、地上生活よりも地下生活を好む者が多い。特に人型の場合は大半が地下生活を好み、出来るだけ湿度の高い環境が望ましい。
施設の受付で来意を告げると、受付にいた女性が親切に案内を買って出てくれたが、それをキインはやんわりと断った。ここに来るのは久し振りであるものの、彼の部屋への行き方は忘れていなかった。
階下へ通ずる扉を開く。すると、湿った生暖かい空気がキインの顔を打った。温泉がある地域であるから、洞窟も地熱で温められている。
外套を脱いで腕にかけると、キインは湿った洞窟を転ばないように注意しながら進んだ。
洞窟の中には、あちらこちらに照明が置かれているため、明るい。これは、どこにでも生えている燃焼草を使った明かりである。
燃焼草は、密閉した容器に入れて暫く放置しておくと、茎に寄生している微生物が草を分解して、僅かに甘い香りを発する可燃性のガスを発生させるのだ。
さらに、通路が分岐するところには丁寧に行先表示板が取り付けられており、訪問者の便宜を図っている。しかし、複雑に入り組んだ天然の迷宮であるから、初めてここを訪問した時、キインは道に迷った。
それから何度か通ってやっと覚えた道筋を、キインは落ち着いた足取りでゆっくりと進んでゆく。まだ太陽が沈んで間もない時刻だったから、洞窟の中の時間感覚では早朝ということになるのだろう。他に洞窟内を歩いている者はいなかった。
なだらかな斜面を下って地下三層目まで降りた目の前に、彼の部屋はある。木製の扉が僅かに開いており、キインが近づくにつれて中から男達の声が聞こえてきた。
「こいつは凄いや」
男性の重くて渋い声には、心からの賞賛が混じっていた。
「親方の指導のお陰です」
しゅうしゅうと呼吸の漏れる音が混じった聞きづらい声が、それに応じる。
「そう言ってくれるのは嬉しいがよ、ここまで彫れるやつは人間の弟子にはいないぜ。お前さん、やっぱり才能あるよ」
「とても嬉しいです」
キインはそのやりとりを聞いて、口を綻ばせた。
「失礼するよ」
中に一声かけてから扉を開ける。
室内には日に焼けた坊主頭の初老男性と、蜥蜴男がいた。
床には様々な種類の木が転がっており、足の踏み場もないほどに散らかっている。壁には作業用の各種工具が並んでおり、丁寧に手入れがなされているためか、燃焼草の明かりを反射して輝いていた。
「おお、キインさん。久し振りだね」
坊主頭の男が顔を綻ばせる。
「見てくれよ、この細工物を」
男の手元には小さな箱があった。
表面全体に蔦が這い回る意匠が浮き上がる様に施されている。木目が出ているので、木を彫り込んだものであることは明らかなのだが、蔦の質感が絶妙なのでキインは一瞬緑色に見えた。
絶句してその箱を見つめてから、キインはようやく、
「――凄いな」
とだけ言った。他に何も言えないほどに魅了されていた。
「そうだろう。凄いんだよ。正直、最初はどうやって細工を教えたものやら、俺には皆目見当もつかなかった」
そう言って、坊主頭の男は蜥蜴男のほうを満足そうに眺める。
「仕方がないので人間と同じように辛抱強く教えてみたら、この腕前だ。しかも、随分と本人は苦労しただろうに、ちっとも弱音を吐かない。細工も凄いが、そこが一番凄い」
蜥蜴男は表情を変える筋肉を持たないため、顔を見ても感情が分からない。頻りに手を揉みあわせているところから、恥ずかしがっていることが分かる。
「親方の指導のお陰です。僕は教わったことを何回も繰り返しただけなので」
蜥蜴男は呼吸をあちこちから漏らしながら、繰り返しそう言った。
彼の名はアドミルという。この施設で生活を始めてから五年が経過している。
アドミルは、とある貴族の居城で卵から孵化されて、その貴族を親として育った。
途中で、貴族が世話に飽きて彼を森に放棄したため、全身に怪我を負った状態で衰弱死する寸前、身元を確保されたという経緯を持つ。
以前の生活については思い出したくもないらしく、細かい事情が彼の口から語られることはなかった。
野生の魔獣であれば、厳しい自然の中での生存競争により生来の特殊能力に磨きがかかって、単体でも十分生きてゆけるようになる。
魔獣というからには、それぐらいの生命力を最初から備えているものであって、公的資金や施設の援助は本来必要がない。
ところが、幼少時から人間に飼育されていた魔獣の場合、特殊能力の行使を飼い主が抑制したために、成体になった時にはその能力がすっかり失われていることがあった。
勿論、例えば「家の中で始終炎を吐かれても困る」という飼い主側の事情も分かる。
しかし、魔獣から生きるために必要な力を奪った事実も忘れてはならない。それが理解できていれば、安易に放棄出来ないはずだからだ。
その点では、人間に変に可愛がられて大事に育てられるよりも、放置されていた魔物のほうが野生への復帰が容易である。
施設に保護された魔物の中には、野生の状態よりも過酷な環境で育てられたことにより、施設を出てから優秀な戦士として戦場に勇名を轟かした者もいた。
アドミルの場合は、逆の不幸なケースに該当する。
最初のうち、彼は丁寧に面倒を見られたがために、本来備わっているはずの掌と足裏の粘着力を使っての自在な上下左右移動や、体内で生成した毒物の噴射という特殊能力が、保護された時には衰えていた。
しかし、彼は未熟なその能力を、細かい作業を正確に行うための道具の固定と、両手に加えて長い舌も駆使した効率的な作業という能力に変え、細工職人として生計を立てることができそうだった。
彼の手により、全面に細かい細工を施した美しい木工品が生み出される。そして、彼自身はまだ修行中の身ながら、その精緻な作品を愛好する者は少なくなかった。
キインも彼が試作した品を一つ貰ったことがある。花の装飾を施した一輪挿しだったが、部屋に置いておくとその周辺だけが華やかな雰囲気になった。
生計を立てるどころか、彼はきっと大成するに違いない。
キインは決して本人には言わなかったが、不幸中の幸いであると考えていた。暗闇の中に蠢く蜥蜴男としての人生よりも、細工職人としての人生のほうが遥かに豊穣に思えたからだ。
「アドミルに話があるんだったら、俺は失礼しようか?」
坊主頭の男――細工職人の親方であるゴドフェルは遠慮がちにそう言った。
「いや、むしろ同席してもらったほうが助かる。お二人の率直な意見が聞きたいんだ。アドミルに話を聞こうと思って来たのは確かだが、親方がいてくれれば両面の話を聞くことができて有り難い」
ゴドフェル親方とアドミルは顔を見合わせた。
「両面ねえ。噂によると、なんでも飛龍を育てているという話じゃないか。そのあんたに俺が何か意見できることがあるのかね?」
ゴドフェル親方は躊躇いがちに言って、要領を得ない顔をする。
そこにアドミルが、とりなすように口を挟んだ。
「キインさんは、僕に『人間に育てられる側の話が聞きたい』と言っておられました」
キインはばつの悪そうな顔をした。
「彼には辛い思い出だから、大変申し訳ないとは思ったんだが、他に誰も適切な相談相手が思いつかなくてね。そうしたら、すぐに了解の返事が来た」
「ここに保護された時、怪我をしていた僕を親身になって治療してくれたのがキインさんでした。その後も、気持ちが落ち着くまで頻繁に顔を見せてくれました。その時の恩返しです」
「借りを返して貰うつもりではないんだけどね」
キインは苦笑した。
*
キインの当面の悩みを聞いたゴドフェル親方は破顔した。
「何だよ。どんな深刻な相談かと思ったら、子育ての悩みかよ」
「私には深刻な悩みなんだがね」
「いや、悪い。他意はないので気を悪くしないでほしい。それならば確かに俺でもお役に立てそうだ」
ゴドフェル親方は五人の子持ちである。
「つまりは、魔獣であるところの飛龍を人間である自分が育てても問題はないのだろうか、魔獣としては駄目な生き物になりはしまいか、ということだろう?」
簡単に言えばそういうことである。キインは首肯した。
「質問に質問で返して申し訳ないんだが、飛龍達が自分を人間だと思って育ったとして、何か問題はあるのかね」
「え――」
キインは絶句した。今まで「どう育てたら魔獣として正しいか」ということしか考えたことがなかった。
「そりゃあよ、翼があるのに飛べないとなれば大変かもしれないわな。まあ、そこは魔獣なんだから自分でなんとかしてもらうとして、それ以外に何が問題になるのかね」
「それは、野生に戻らなければならない時に、厳しい自然の中で自活する力がなくなるのではないかと――」
そこで親方は手を上げてキインを制した。
「野生に戻す必要はあるのかね?」
「え――」
キインは再び絶句した。
「アドミル、言ってやれよ。お前も分かってんだろ」
ゴドフェル親方から話を振られたアドミルは、頭を撫でながら言った。
「僕は、今のこの状態が最悪とは思いません。蜥蜴男としては未熟ですが、細工職人としては何とか皆さんのお役に立てそうですし。野生のままの自分だったら、こんな世界があることすら知りませんでした」
発声器官が人間の言葉に向いていないため、口の隙間から息が漏れて彼の声は聞き取り辛い。しかし、言葉に気持ちがこもっていた。
「もちろん親だと思っていた人間に裏切られた直後は、とても怨んでいました。しかし、それは親であったはずの人間に対してであって、人間全体に対する呪詛ではありません」
彼は右の眼をキインに、左の眼をゴドフェル親方に向けて言った。
「途中経過はどうあれ、僕は人間に育てられて、これから人間の世界で生きていくことに何の疑問も感じていません。大切な方が二人も出来ましたし」
「まあ、こいつが特別によく出来た優等生の魔獣という可能性はあるけどな」
ゴドフェル親方は笑いながらアドミルの頭を軽く叩く。そして、穏やかな眼のままキインに言った。
「あんた、飼育員として飛龍に接しているんじゃないの? 本当の親になって、最後まで面倒をみる覚悟はあるの?」
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