第一章 棄龍

第一話 発端

 その日の空はどこまでも高く、青く澄み切っていた。

 昨晩遅くから降り出した雨が、空を舞っていたちりをすっかり洗い流したのだろう。その雨は夜明け前に止んで、今は午前の陽光が燦々と降りそそいでいた。

 同じく雨に洗われた山の木々は、新緑が若々しく、目に優しい。寒くも暑くもない過ごしやすい季節である。

 その穏やかな風景の中で、キインは目を細めて上空を見つめていた。彼の視線の遥か先を、三つの黒い点が移動してゆく。

「おや、飛行訓練の時間ですか」

 通りかかった同僚のシラクが、そう言って笑いながらキインのそばによってきた。

 彼はキインの隣に立つと、同じように目を細めて空を見上げる。そして、楽しそうな声で言った。

「おや、私がしばらく見ないうちにやつらの飛び方が様になってきましたね」

「やっとだがな。野生に生まれていれば、半年もしないうちに思った通り自由に飛ぶことができるというのに、彼らは三年もかかってしまった」

「そいつは仕方のないことでしょうよ。何しろ飛び方を学ぶためのお手本がここにはいなかったんだから」

「それはそうなんだが……」

 そう言葉を濁したキインの眉は、心配そうにひそめられている。

 シラクは溜息をついた。

「やれやれ。やつらが生き残っただけでも幸運だったんですからね。贅沢言っちゃいけませんや。やつらだってそれは分かっているんでしょう?」

「ああ、口には出さないが俺には感謝していると思う」

「そうでしょうとも。本当にあんたはよく頑張ったからね。全く、人の親でもあそこまで親身にはやらないと思うよ」

「……」

 ――そうなのだろうか。そうかもしれない。

 ――でも、そうなのだろうか。いや、そうかもしれない。

 キインの心の中に、相反する思いがさざなみのように交互に押し寄せてくる。それはなかなか消えなかった。

 ――野生動物を人間の手で育てることに、本当に無理はなかったのだろうか。

 最近、その言葉が彼の脳裏を頻繁に通り過ぎてゆく。

 その懊悩おうのうを知ってか知らずか、シラクは太平楽に言った。

「まあ、あそこまで飛べるようになっただけでも立派だよ。ところで、どれがどいつか、キインさんには分かるんですか?」

「ああ、分かるとも。先頭で悠々と大きく翼を振っているのがカインだ。その後ろについて正面からの風を避けて、翼の動きを最小限に抑えているのがクイン。そして、一番後ろでちょこまかと無駄に動き回っているのがケインだよ」

「ふうん、そんなところまでよく分かるねえ。俺でもさすがにケインは分かるけど、後のやつらは区別がつかないや。翼の動きまで見えているんですか?」

「見えているよ。それに彼らの心の動きも手に取るように分かる」

「まったく、親心だねえ。それじゃあ、俺は他にやることがあるんで、これで」

 シラクはそう言って、手を振りながら去っていった。

 そして、その間もキインの目は相変わらず上空に向けられたままだった。


 *


 彼らが施設に保護されたのは、一年で一番寒い季節の、一番寒い日の、一番寒い夜明け前のことだった。

 魔獣保護研究施設『グリーランド』は、怪我などで身動きが出来なくなった魔獣を保護し、飼育してその生態を研究しつつ、最終的に野生に戻すことを目的とした施設である。

 キインはそこで長年、魔獣の飼育員をしていた。

 飼育部門には合計十八名の飼育員が所属しており、六人で一つの班を組んで、十二時間単位の三班二交替勤務を行なっている。

 十二時間勤務は、日の出と日の入りの時間を勤務の交替時間として、昼側の勤務を日勤、夜側の勤務を夜勤と呼ぶ。

 そして、夜勤のほうが仕事量が格段に多かった。何故なら魔獣は夜行性や暗闇を好む性質のものが多く、夜間にやらなければならない世話のほうが多いからだ。

 また、朝一番に飼料業者による餌の搬入作業があるため、誰かがその前に表門を開錠しておかなければならない。夜勤の者が担当すれば話は簡単なのだが、前述の通りの激務である。

 そこで、日勤の者が早めに出てきて対応することになっていた。


 その日、表門を開錠する当番にあたっていたキインは、寒さに身を縮めながら表門に向かっていた。

 施設勤務者の宿舎は施設の裏口側にあったから、表門までは施設全体を横切って行かなければならない。その上、彼は急病で休んだ同僚の代わりに、前々日の夜勤から日勤までを連続で勤務していた。

 しかも、夕方にちょっとした騒ぎがあって帰宅時間が遅れてしまった。最も寒い時期であったから、夜勤の勤務時間のほうが長いものの、これはかなりきつい。 

「さすがに連続勤務に加えて残業じゃあ、明日の開錠担当は大変でしょう。俺が変わりましょうか?」

 そう夜勤の者が好意で言ってくれたのだが、キインは何故かそれをやんわりと断ってしまった。理由は自分でもよく分からなかったが、虫の報せというやつかもしれない。

 キインは寝不足でほうけた頭をぐるりと大きく回した。

 周囲は薄暗く、夜は未だ明け切っていなかったが、雲一つない快晴であることだけは分かった。なぜなら、放射冷却により外気が堅く冷え切っていたからだ。

 施設は山の斜面に沿って整然と並んでおり、裏口側が最も高く、表門側が最も低い位置となる。キインが緩やかに下る道を降りていると、背中の方から朝の風が吹きつけてきた。

 斜面を吹き下ろす風は途中で熱をすべて放出するから、温もりの欠片も残っていなかった。それどころか、堅く、鋭く、冷徹な刃物のように、キインの背中やうなじを斬り刻もうとする。

 彼は外套の襟を立てて、両の手をほぐしつつ、歩いた。


 キインは施設に勤務する飼育員の中でも、最古参の部類に入る。また、飼育員の指導を行なう立場であり、一つの班の長でもある。

 従って、開錠担当のような厳しい仕事は若手の部下に割り振り、自分はこの時間、自宅の布団にくるまって寝ていることもできるのだか、彼はそうしなかった。

「誰もが嫌がる厳しい作業ほど、経験や年齢に関係なく全員で平等に分担すべし」

 それが、彼の班長としての方針である。

 勿論、彼は「責任ある立場になれば雑務から解放される」という動機づけで、若手の上昇志向をあおるやり方を間違いだとは思っていないし、実際にそのような方針を取っている部門を批判する気もない。

 単に、キインが「率先して手本を示してこそ責任者であり管理者だ」と考えているだけのことである。

 それによって割を食うのは、同じ班に所属する年配の部下達なのだが、彼らは苦笑しつつキインの信念に従ってくれた。


 施設の周囲は高い塀に囲まれており、表門と裏門しか外部との接点はない。

 表門から中を覗くと、正面に冬でも枯れることのない背の高い北方原産の木々が密集して立ち並んでいるのが見える。毎年この寒い時期には、寒さを避けるために木々が寄り添っているかのように見えた。

 太い幹と針のように細い葉の陰になって、木立の向こう側は見えない。木立を回り込むように両側に小道が設けられていて、それは表門と反対側にある飼育員控室まで続いていた。

 その時、キインは裏門側から進行方向左側の小道を通って表門に向かっていた。

 右方向にゆるやかに湾曲している小道を半ばまで進んだところで、武骨な鋼鉄の棒を縦と横に組んだだけの素朴な表門が前方に見えてくる。

 そこで彼は気が付いた。

 表門の上部に、白い布袋が園内に向けて括りつけられている。それは朝の冷たい風で、ゆらりゆらりと心細げに揺れていた。

 キインは棒立ちになった。そして、寒さと無関係な身体の震えに襲われた。

「こんな日にやるなんて……これじゃあまるで、死ねと言わんばかりだ」

 彼は大きく息を吐く。すると、白い呼気が周囲に拡散した。これだけ外気温が下がってしまったら、中のものが何であれとても無事とは思えない。キインは腹を立てた。


 グリーランドは確かに動物を飼育するための設備を有した施設である。

 そして、そういう性格の施設であるために「安易な気持ちで魔獣を飼い始め、途中で手に余って、施設の門の前に棄ててゆく輩」が後を絶たないのだ。

 昔はそれでも、ちゃんと置手紙や当座の飼育料や餌が添えられており、大事そうに毛布で丁寧にくるまれている場合が殆どだったが、最近は状況がすっかり変わっていた。

 深夜にやってきて、人気がないことを確認し、門の外に置き去りして姿を消す者が殆どである。酷い者になると、生まれたばかりの幼体を袋に放り込んだだけで、門の前に置き去りにする。

 そうなると温暖な季節であっても、翌朝になって飼育員が発見した時には大半が死んでいた。

 飼い主の仕業とはいえ飼育員も心穏やかではいられないから、ある時、業を煮やした飼育員の一人が門を監視したことがある。

 それが功を奏して、数週間後に置き去り寸前の現場を抑えた。彼が詰め寄って飼い主を問い質したところ、飼い主から返ってきた答えはこうだった。

「他にもいっぱい動物がいるんだから、少しぐらい増えても何てことはないでしょう? それに、専門家が大勢いるんだから、ちゃんと面倒を見てもらえるだろうし」

 それを聞いた飼育員は、開いた口がふさがらなかった。目の前で、

如何いかにも当然のことを言ったまでだが、何か問題でも?」

 という顔をしている飼い主を見ていると、怒る気すら失せた。

 これでは何を言っても通じない。それに、施設の前に置き去りにすることをここで止めさせたとしても、他の場所に行ってこっそり放棄するだけのことである。それこそ救いようがない。

 いくら魔獣といえども、飼われていた動物を何の訓練も施さずに野に放った場合、七十二時間以内に確実にその動物は死に至る。自然はそれほど過酷な世界なのだ。

 その一件以降、わざわざ門の前で監視する者はいなくなったが、無論それで置き去りが止む訳ではなかった。


 それに、ここは一般人が考えているような「動物を育てるための施設」ではない。

 稀少な魔物を保護し、その生態を詳しく研究するための施設であるから、どこにでもいるような愛玩動物はその保護対象ではないのだ。収容する場所は限られており、飼育のための費用も限られている。

 愛玩動物であっても一応は捨てられてから二ヶ月間、引き取り手を探す努力をするものの、それ以降については園でも面倒をみることは出来ない。そうなると殺処分することになる。

 その事実を知った住民や団体から、

「どうして動物の飼育を目的とした施設が、無情に動物を殺すのか?」

 という感情的な意見をぶつけられることがある。

 しかし、それは自分で責任を取れない飼い主に向けるべき非難であって、その責任を押し付けられた施設を非難するのは筋違いである。

 それに、仮とはいえ二ヶ月の間飼育を続ければ飼育員も情が沸くから、彼らもかなりの自己矛盾を感じることになるのだ。

「命を大切にしよう」

 それは重要なことだと思う。しかし、それは全員が命を守ろうと努力をしている場合に限って意味を持つことだ。誰かがその責任を放棄した途端、命ある者は死にゆく定めと共に行く先に手渡されるのだ。

 観念だけで守れる命はない。

 ここしばらくは冷え込みがきつかったので、流石に施設前への放置は止んでいたのだが、よりにもよって今日のような厳寒の朝にやられるとは思ってもみなかった。

 しかも、近づくにつれて袋が結構嵩張っていることにキインは気づく。ということは、複数か、大き目のやつに違いない。

 明け方なので、空気は堅く冷え切っていた。これでは中の魔獣は生きてはいまい。

「他の飼育員が担当でなくて良かったよ」

 キインは、今度は小さく溜息をついた。

 寒い朝に早起きすることだけでも辛いのに、その上、悲惨な現実を直視しなければならないのでは、とても辛い。

 彼は両足に力を込めると、ゆらゆらと頼りなく揺れている白い袋に近づいた。

 袋を門から外して、悲惨な結末を覚悟しながら、口を開く。


 中には、蜥蜴とかげに似た深緑色の爬虫類が三匹入っていた。


 三匹ともほぼ同じ大きさである。頭部から突き出している角の先から尻尾の先端までが、キインの拳二つ分に近い。

 うろこの具合から、卵から孵化ふかしたばかりの幼体だろうと彼は推測した。生後しばらくたった野生動物ならば、体表面に必ず傷があるからだ。

「森で珍しい卵を拾った者が、単なる好奇心からそれを孵化させてみたところ、中から出てきたのが何の変哲もない蜥蜴であったため、興味を失って棄ててしまった」

 ここに至るまでの流れは、そんなところだろうか。

 大きさが似通っているということから、三匹ともほぼ同時に卵から孵化したことが推測される。絶対にないとは思わないが、極めて珍しいケースだ。

 三匹は、鱗に覆われたお互いの身体を絡めあって丸くなっていた。それは、決して伝わらないはずの体温を使って、少しでも相手に暖を与えようとしているかのように見えた。

 しかも、まだ息がある。薄い赤色をした腹部が規則的に上下していた。ただ、それは弱々しい。

 そして、

「こいつは!?」

 さらにキインが驚いたことがある。


 三匹の背中のところに、ごく僅かな突起が二つある。


 爬虫類や、それに近い魔獣の飼育を専門とするキインだからこそ気がついた、微細な特徴である。

 即座に彼は、裏地が起毛している厚手の外套の胸を広げて、その袋を押し込んだ。袋の冷たさが腹に沁みる。キインは身体を丸めて袋を覆うようにしながら、飼育員控室目がけて全力で走り出した。

 真冬の深夜に、森の中ではなく施設の表門に、袋に入れてではあるがわざわざ持ってきて、括りつけたことだけでも評価したい。そうでなければ、この貴重な機会が失われるところだった。

 事実を知ったら、三匹を遺棄した彼あるいは彼女は仰天するだろう。きっと自分が何をしているのか分かっていなかったに違いない。

 分かっていればこんなことはせずに、市場で売り払ったはずだ。そうすれば高値で買い取られただろう。

 彼の眼に間違いがなければ、この三匹はただの蜥蜴ではない。爬虫類の専門家でなければ分からない、背中の微妙な突起物。


 それは、飛龍ワイバーンの証しだ。


 しかもまだ生まれてから目を開いていない幼体のように思われる。今まで、こんな状態で人の手に渡った飛龍はいない。

 なぜなら、飛龍は親子の情が深いので、親龍が卵を決して身体から離そうとしないからだ。この三匹の親龍は、何かのトラブルで孵化寸前に死亡したのだろう。

 飛龍の卵と知っていて手離す者はいないだろうから、親龍の姿が見えなくなった後で事情を知らない者が卵を拾い、興味本位で卵を孵化させたのだ。

 稀少動物の稀少な状態である。絶対に死なせてはいけない。

 生き物全般に言えることだが、「生まれて最初に目を開けた時に、目の前にいた動く物」を親と認識するようになっている。

 そして、今まで人間が親代わりとなって、飛龍を育てた例は皆無なのだ。


 飛龍は高い知性を持ち、運動能力も桁違いに高い。とりわけ飛龍と操龍士の心が完全に同期すると、誰もそれを押し留めることが出来ないほどの圧倒的な力を発揮すると言われていた。

 しかし、過去にそれを成すことが出来たのは、飛龍王と呼ばれたクロフォードとその専任飛龍であったエルドリエのみである。それほど、飛龍が人間に心を許すことは有り得ないことなのだ。

 操龍は許したとしても、あるじは自分のほうだと思っている。それが飛龍なのだ。

 しかし、生まれてからずっと人間に育てられた飛龍ならば、どうなるのだろうか。人間に育てられて、人間に慣れた飛龍ならば、操龍士に速やかに同期してくれるのではなかろうか。

 それを成し遂げることが出来たならば、飛龍王クロフォードのように後世まで名が残るかもしれない。

 ただ、その時のキインの頭の中には、そんな名誉欲はまったく浮かんでいなかった。ただ「彼らを死なせてはいけない」という純粋な思いしかなかった。

 彼は白い息を盛大に吐きながら、入口中央にある木立を真っ直ぐに突っ切った。迂回している間も惜しかったからだ。

 細かい針のような葉が顔に刺さったが、それを気にしている場合ではなかった。表門の開錠をすっかり忘れていたが、それどころではなかった。

 キインは顔中に引っ掻き傷を作りながらも、ただ一心不乱に走り続けた。


 その時のキインは、その先に待ち構えている己の運命の過酷さを、まだ知らなかった。


 飼育員控室に飛び込んだキインは、すぐさま傍らに積み上げてある毛布を抜き取ると、それで袋から取り出した三匹の飛龍を包んだ。

 そもそも変温動物の飛龍とはいえ、体内温度が下がり切ってしまえば死ぬ。むしろ、暑い地域でないと生きられない、とも言える。

 そこまで考えて、キインはふとおかしなことに気がついた。

『グリーランド』がある地方は、只今、冬真っ盛りである。

 従って、親龍が托卵するような地域でも時期でもない。つまり、表門に彼らを放棄した人物は暑い地方で手に入れた卵を孵化させるために保温しつつ、この地域まで持ち帰ったことになる。

 そこまでの手間をかけたにも拘らず、孵化後にあっさり放棄した理由が分からない。どこかの森に棄てずに、保護施設までわざわざ持ってきたこともそうだ。全然つじつまがあっていない。

 キインの手は一瞬止まった。

 しかし、その直後に「そんなことを考えている暇はない」のを思い出す。彼は頭を振ると、毛布に包んだ飛龍達を木箱に入れて、それを控室の窓際にあった長椅子の上に置いた。

 続いて、窓の下に設置されていた蒸気配管のバルブを全開にする。鉄管がぶるりと軽く振動して、室温が急激に上昇していった。

 地下から湧き出る蒸気を利用した暖房設備で、冬場の冷え込みが厳しいこの国のこの場所に、『グリーランド』が立地している最大の理由だった。

 さて、取り急ぎ住環境を整備した次に必要になるのは、食料確保である。これがまた難題だった。


 飛龍は各国空軍の要である。

 従って、飼育員も空軍には必ずいる。彼らからの情報で、飛龍が何を常食にしているかは分かっていた。

 しかし、それは成体についてであって、幼体に関しては殆ど何も分かっていない。それは、彼らは彼ら自身のことを全く語らないからだ。

 人間と飛龍は話をすることが出来る。飛龍の発声器官は人間の言葉に適していないため、音声による会話は無理であったが、意識を同期することで思いを伝えあうことは出来た。

 これは、飛龍王クロフォードが専任飛龍エルドリエと意識を同期して以降、可能になったことである。

 伝説によれば、

「幼少期の飛龍王が森で怪我をした野生の飛龍と出会い、治療を施しながら人間の言葉を教えた」

 と言われていたが、この手の言い伝えと同様に真偽のほどは定かではない。捕獲した飛龍の調教を試みる過程で、無理矢理に言葉を教え込んだのかもしれない。

 ただ、下地がなければいくら一所懸命に水を与えても植物は育たないから、飛龍のほうにも言葉を受け入れられるだけの素地があったことになる。そして、事実そうだった。

 飛龍の頭部には一本の角がある。

 この角の内部は空洞になっており、自ら発した超音波の鳴き声がそこに反響する時間差を感じ取って、反響定位による空間認識を行なっている。

 その際の情報処理は高度なものであったから、飛龍独自の言語体系を有するまでには至らなかったものの、脳の基本的な機能は発達していたのである。


 飛龍王の死後、他の者に従うことを良しとしなかった飛龍エルドリエは、元の生息地に戻った。ただ、今後飛龍が生き残っていくために人間の言葉が役立つと考えた彼は、言葉を種族内に広めた。

 現在では、野生の状態にある飛龍同士であっても人間の言葉を使って会話している。そのため、捕獲して強制的に従属させることは出来なくなってしまった。彼らが納得しないからだ。

 今日、操龍士を志す者は飛龍の生息地に出向き、意識の同期に応じた飛龍と正式な契約を締結しなければならない。同期できる飛龍がいなければ、なりたくても操龍士にはなれない。

 選択権は完全に飛龍の側にあった。

 従って、軍には契約が締結できるほどに成長した飛龍しかいない。

 また、飛龍は人間と行動を共にしている間、決して繁殖行為を行わなかった。

 そもそも、飛龍の繁殖は難しい。彼らの親子の情の深さは、その繁殖の困難さが原因であると思われる。

 外的なストレス要因が受精に大きな影響を及ぼすのではないかと言われており、実際、言葉を知らなかった時代の飛龍は強制捕獲された上に調教されていたから、繁殖に成功した例はなかった。

 また、従軍した飛龍から卵や幼体を取り上げようと画策した悪辣な者がいたため、余計に困難になった。彼らは今でもそのことを決して忘れていない。野生の飛龍でも、人間が近づくと卵や幼体を隠すほどだ。

 従って、軍に属する飛龍が幼体を産むことはないし、人目につく場所に幼体はいなかった。


 キインは、空軍で勤務した経験を持つ同僚から、

「飛龍というやつは基本的に肉食なんだが、野菜や果実も好んで食べるんだよ」

 と聞いたことがあった。空軍所属の飛龍だから、成体のことに違いない。

 それでは幼体も同じものを食べるのかというと、必ずしもそうとは限らないのだ。幼体の時は野菜や果物しか食べない、ということは有り得る。

 また、身体の大きさや動きの速さにより捕食可能な獲物が限られるために、結果として餌の種類が異なる場合もある。その場合は、成体と同じものを小さく切り分けてから食べさせればよい。

 また、卵で生まれるからといって哺乳によって成長しないとは限らない。ごくわずかながら、卵から生まれた幼体に哺乳を施す動物は存在するし、飛龍の親子関係からすればむしろそのほうが自然ではないかとも思われる。ともかく、幼体が何を食べて成長するのか、誰も見たことも聞いたこともなかった。

 キインは爬虫類飼育室に駆け込んで、とりあえず生きた昆虫を何種類か準備して戻ってきた。

 蜥蜴の幼体であれば、餌はこれである。しかも、生きているものか死んでからさほど時間が経っていない新鮮なものしか食べない。

 それを飛龍の幼体の口に入れてみたものの、彼らは極度に衰弱しているためかなかなか咀嚼することが出来ず、口から昆虫が逃げ出してしまった。

 食べるのを嫌がっている様子はないので、昆虫は餌として正しいのだろうが、物を噛むだけの力が残っていないのだ。このままでは衰弱する一方であり、しかも時間的な余裕はほとんどない。

 小さくした昆虫を口に入れれば、そのまま食べてくれるかもしれないのだが、あいにく飼育員控室は事務処理を行なうための場所だったので、そのような道具は常備されていなかった。他の場所を探し回る時間的な余裕はないかもしれない。

 キインは心理的に追い込まれた。

「こういう時、飛龍の親ならば一体どうするんだろうか?」

 彼は基本に戻って、そう考えてみる。

 すると、答えは簡単に出てきた。


 *


 それから一時間後のことである。

 出勤したキインと同じ班に所属する同僚が、飼育員控室の外にある流し台の片隅で、熱心に口をすすいでいるキインの姿を目にした。

「どうかしたんですか、そんなに勢いよく口をゆすいだりして」

 と同僚が尋ねると、キインはその問いには答えずに、

擂鉢すりばち擂粉木すりこぎはどこに保管されているんだ?」

 と、逆に尋ねてきた。

 それが普段のキインとは異なる剣幕だったので、同僚は気圧されつつ、

「あ、それならば鳥類飼育室にありますが。穀物をすり潰すのに使っているので……」

 と答える。

 すると、キインはいかにも残念そうな顔をして言った。

「ああ、あそこかあ。そういえばそうだな。分かっていれば口を使わなくてすんだのに――」

 そのまま彼は踵を返して、鳥類飼育室のある方向に走ってゆく。

 その場に残された同僚は呆気にとられ、しばらく立ちすくんでいた。

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