飛龍戦記(ワイバーン・ストーリーズ)

阿井上夫

序章

光と戯れる者

 視線の遥か向こう側に、ゆるやかに弧を描く空の切れ目があった。

 群青色の海と乳白色の雲の上に、紺色の帯がかかっている。

 さらに、その帯を重苦しい闇が押し潰すかのように覆い、その闇の中では星々がまたたいていた。


 人間の世界の外側、生物の世界の瀬戸際にあたる高高度の世界――そこでアルテイシアとケインは、地表面と平行に大きな円軌道を描きつつ、進行方向を軸にしてゆっくりと身体を回転させていた。

 身体の一定方向だけを太陽に向けていると、そこだけがねっせられて熱くなり、影となる部分は熱を奪われて凍りつく。その不均衡を避けるための軌道と回転である。

 しかし、万遍なく太陽に身体を向け続けたとしても、高高度では僅かな温もりすら期待することはできなかった。

 二人の周囲には何もなく、誰もいない。

 それも当然のことで、自力でここまで来ることができる生き物はケインぐらいである。

 彼の種族の中にもここまで高く飛べる者はいないし、アルテイシアはケインに頼み込んで、ようやくここまで連れてきてもらったのだ。従って、ここは本来アルテイシアが来てもよい世界ではない。

 そして、自力で来ることもできない者に対して、世界は厳しく無慈悲になる。

 彼女が王国の工房に無理を言って作らせた、高高度専用の特殊飛行服は限界まで膨らみ、関節部分に巻かれた革の帯が肌に食い込んで痛い。しかし、飛行服の可動性を保つためには絶対必要なものだ。

 彼女は奥歯を噛みしめて、それに堪えた。

 背中に負った空気嚢くうきのうも張り切っており、強く吸わないと息が出来なかった。しかも、送り込まれてくるのは冷え切った空気だから、肺が少しだけ痛んだ。

 しかし、彼女はそれも我慢する。

(アルテイシア、寒くないかい?)

 そう、ケインが優しくアルテイシアに尋ねる。

(有り難う、まだ大丈夫だよ。それにもう少しの辛抱だから)

 そう、アルテイシアは言葉とは裏腹な弱々しい声で、ケインに答える。と同時に、実際はケインのほうが遥かに寒いに違いない、と彼女は思っていた。

 彼女の特殊飛行服の内側には起毛した素材が隙間なく貼られており、一応の保温措置が施されていた。

 ケインにはそれがない。彼女の目の前にある彼の落ち着いた深緑色の鱗の表面には、びっしりと霜が貼り付いており、それが太陽光を反射して輝いていた。大きく広げられた彼の翼は結氷して白くなっている。

(ごめんね、ケイン。こんなところまで貴方を付き合わせてしまって)

 アルテイシアは、今まで何度言ったか分からない、謝罪の言葉を口にする。

(いいんだよ、アルテイシア。君が夢を叶えるところをそばで見ていたいという自分勝手な理由で、僕はこうやって一緒にいるんだから)

 ケインは、今まで何度言ったか分からない、慰めの言葉を口にする。

 しかし、そろそろ頃合いだ。これ以上は二人とももたないだろう。そう考えたケインは、円運動を継続して、回転運動を停止した。

 視界の急激な変化に追いつくことが出来ず、アルテイシアは眩暈めまいを感じた。

 しかし、それは僅かの時間で収まる。彼女は頭を傾けて、ケインの大きな身体越しに、その下にある世界を覗き込んだ。

 円軌道の中心点では、無数の光がきらめいていた。そして、それが煌めく度に確実に何かが失われ、馬鹿げた戦争の被害者が刻一刻と増えていくのだ。

(ケイン、そろそろ行こうか)

 アルテイシアは命綱の端を強く引いた。伏臥姿勢で更にケインに密着する。

 暖かくないはずの彼の身体から温もりを感じた。多分、自分自身の体温なのだろうが、それでも彼女は「ケインの温もりなんだ」と考えた。

(了解、アルテイシア)

 ケインの両翼が力強く振られて、二人は先程までの円軌道の中心点へと移動した。

 そこに着くと彼は一旦首をすくめ、それを伸ばしつつ腹の奥底から声を絞り出した。人間の可聴域を超えた超音波が発せられる。

 ケインの種族には、

「ギィイイイイイイイイ――」

 と聞こえるらしいが、アルテイシアには何も聞こえなかった。ただ、彼女の鼓膜に何かが染み込むような鈍い感じがしただけである。

 同時に、アルテイシアの脳裡に二人を中心とした球状の空間が浮かびあがってゆく。反響定位――音波による空間認識。

 彼の声を反射した物体が次々に浮かび上がり、最後には地表面まで到達して、その反響が戻ってきた。

 これで全軍の飛龍に二人の位置が伝わってしまったことになる。もはや後戻りは出来ない。


 ケインは腕と足を身体にぴたりと添わせて、長い首と長い尾を一直線に伸ばす。

 大きな翼は小さく折り畳まれて、姿勢制御のために先端だけが僅かに残される。

 そのまま二人は放たれた矢のように降下してゆく。

 ケインの身体を覆っていた氷と霜が剥がれ、消え去る。

 きっと二人の後ろには光輝く航跡が残されていることだろう。

 見ることが出来なくて残念だが、それを考えている暇はない。

 アルテイシアの身体を引き剥がそうとする猛烈な力に、彼女は耐える。

 命綱が食い込む。

 しばらくあざが残るかもしれないが、仕方がない。

 アルテイシアの視界は急激に狭くなる。

 続いてゴーグルが曇り、見え難くなるが、これは自然に晴れるので放置。

 アルテイシアはケインの背中に据えた大砲おおづつの引金に手を添える。

 これを見た兵達は陰で笑っていたが、今に分かる。

 これで今回の戦を終わらせるのだ。

 アルテイシアは数を数える。

 降下時間は二十三秒。

 十五秒後に視界が晴れ、二十秒後に雲を抜ける。

 その三秒後に発射。

 そう考えている間に視界が晴れる。

 雲の上。

 抜ける。

 その下に広がる軍勢を見る。

 しかし狙うはその中の一点のみ。

 ケインが翼を大きく広げて急制動をかける。

 タイミングはアルテイシアの想定通りだ。

 胃が跳ね返って吐き気を催すが、それどころではない。

 目の前には、巨大な飛龍の上に据えられた輿こしがある。


 それを狙って、彼女は息を吐きながら大砲の引金を引いた。

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