第58話「眠り猫」

「どうやら霧が出てきたようだ」


 椅子いすに座ったまま、外を見ずに亜緒あおは断定した。


 小夜子さよこは、まるで借りてきた猫のように大人しくうつむいている。


 青年の嘘を見破る自信はあった。いや、今だってある。


 まだ勝負が付いたわけではない。ただ、つつましく静かに相手の質問を待っているのだ。しかし、小夜子はどんな質問にも正直に答えることしか出来ない。


 嫌な予感をぬぐいきれない。とうとう彼の口から決定的な質問が飛び出して、小夜子自身の存在を消し飛ばしてしまうような不安。恐怖とった方が、今の小夜子にはシックリと来るものがあった。


貴女あなたは――」


 少女の体がビクリと跳ねて、ティーカップが小さな音を立てた。


「貴女はまぎれている一つの嘘を見破ることが醍醐味だいごみだと言った。それはつまり、この遊戯ゲームは嘘の答えを言い当てられた方が負けという決まりなんだ」


 亜緒は二本目の煙草に火をつけた。足を組み替えてから、しばしの間を置く。


「僕には貴女のついた嘘がどれなのか分かります。すぐに当ててみせても良い」


 物事の本質を見抜く慧眼けいがん雨下石しずくいし家の殆どの者が生まれながらに持つ魔眼だ。瞳の青が深いほど、持ち主に人知を超えた様々さまざまを見せる。


「でも、貴女に僕の嘘が見抜けますか?」


 見抜けるはずが無い。亜緒は嘘など一つもついていないのだから。


 ここで正直に「見抜けません」と答えれば、小夜子の負けになる。「見抜ける」と答えても嘘を二回ついたことになり、やはり負ける。


 だから沈黙するしかない。小夜子は言葉を、言霊ことだまをも封じられてしまった。


 遊戯は亜緒の勝ちだ。小夜子はいまだ、迷宮を彷徨さまよっている。


 当然フェアな勝負ではないから、亜緒は大人しく悄気しょげている小さな体に何やら申し訳ない視線を送った。


 しかし、を感じている暇は無い。拘束こうそくされているノコギリだって、助けなければならないのだ。


 丁度、煙草も吸い終えた。


 手も足も、口さえ出すことが出来なくなった小夜子に話を聞かせるには頃合いだ。


「今から話すことが果たして現実に起こったのかは、さて置くこととします。もしもの話。まさかの話として聞いてもらいます」


 『もらう』や『あげる』という危険な言葉を使った会話。


 取りえず言葉を失った小夜子にジョーカーを押し付けてから、亜緒は話し始めた。


「少し前に、と言っても二、三年は経っていると思いますが、この家の前で猫を抱いた一人の少女が馬車にかれました」


 それがそもそもの始まりです。と、亜緒は神妙な表情と声で小夜子に言葉を落としてゆく。


「医者に連れて行っても手遅れだと判断した父親は、娘に反魂はんごんの術を使ってしまった」


「反魂の術?」


 耳慣れない言葉に、弱々しい声で小夜子が聞き返す。


「簡単に言うと、死んだ者をよみがえらせる術です。条件が厳しい上に、成功率も恐ろしく低い。僕が知っている限り、成功例は一件だけだ」


 無表情で身構えるように、目を細めて上目遣うわめづかい。能面のうめんのような、それが小夜子の素顔だった。


「けれど、父親の選択も無理からぬことだったのかもしれない。して娘の死を待つよりはと、自分の術士としての可能性に賭けたのでしょう」


「それで、成功したのですか?」


 小夜子の声は投げやりだ。最早もはや、彼女の興味は唯一つ。自分の魂のにしか無い。


「当然、失敗しました。けれど娘が死んで間も無いことと、魔具や魔草の影響もあって念のようなものは残った」


「念?」


残留思念ざんりゅうしねん。例えて云うなら影絵のようなものです。形は見えるが、本体は離れた場所にある」


 亜緒は両手を重ねてテエブルの上に猫の影絵を作り出した。


 満月灯まんげつとうに照らされた影は器用に焼き菓子をかじり、紅茶をめる。


「まるで猫に見える影の正体は、僕の両手が見せているまやかし・・・・だ」


 不吉な音をともなって、カップにヒビが入った。中の紅茶が涙程度に零れ始める。


「小夜子さん、貴女は影なのです」


 突然、少女が可笑おかしそうに笑った。その声は床に落ちると弾むどころか、染みのように重みを持ってひろがってゆく。


「いくら何でもそれは、あまりに突飛とっぴなことですわ」


 小夜子は可笑しい可笑しいと、呆れたわらいを亜緒にぶつけた。


「だから、もしかしたらの話と言ったじゃないですか。貴女が出鱈目でたらめと思えば出鱈目になる。しかし、真実と思ってしまえば――」


 ――小夜子は存在しなくなる。


 亜緒はいつの間にやら手にした四つ葉のクローバーをもてあそんでいた。


「そのクローバー……」


 小夜子はオルゴールを確認する。当然、中はからだ。


貴方あなたのやっていることは泥棒です!」


 少女の声に力が戻った。


「泥棒とは失礼な。これは、さっき床に落ちていたのを拾ったものです」


 当然、嘘である。小夜子が部屋を出たすきくすねた・・・・ものだ。


 亜緒は椅子から立ち上がると、クローバーを持って廊下へと続く扉の取っ手をひねった。


「さて、落し物は本人に届けてあげるのが人として当然の行為ですよね」


 足早に応接室を出てゆく。小夜子はクローバーを取り返そうと亜緒の後姿を追った。


 短い追いかけっこの果てに二人が着いた先はホールだった。このやかたで一番沢山たくさんの縫いぐるみが転がる場所だ。


 寂しげにたたずむ黒いグランドピアノの先に、亜緒はそっと四つ葉のクローバーを置いた。それからおごそかに手を合わせる。


 小夜子はクローバーに近づくのを途中でめた。否、どうしても近づくことが出来ない。


「貴女はこの場所に、例えようも無いほどの不安を感じていたはずです」


 亜緒は小夜子の手を取った。白く冷たく震えている。


「何故なら、此処ここには貴女の見たくないもの。最も認めたくないものが在るからだ」


 亜緒の言葉に釣られる様に、縫いぐるみの山から一つ、また一つと猫たちが転がってゆく。


「怖がることはない。悲しむこともありません。ほら、抱いてやるから」


 優しい抱擁ほうようが小夜子を包むと、積み上げられた縫いぐるみ達がせきを切ったように崩れだす。


 其処そこには沢山の縫いぐるみに囲まれるようにして、小夜子のむくろがあった。


「縫いぐるみを使って貴女が隠したかったモノこそ、貴女の魂の在り処そのものだったのです」


 小夜子の骸には亜緒が手向たむけた四つ葉のクローバー。そして白骨化した左目の位置には、黄金に光るキャッツ・アイが寂しそうに揺れている。


「違う! あれは私じゃない。あんな寂しいモノが私であるはずがない!」


 小夜子は眼帯を外して亜緒をにらんだ。しかし、そこには自分の姿があった。


 亜緒が屋敷の何処どこかから拝借はいしゃくした手鏡を持って、小夜子に向けている。


 鏡面に映る彼女の影は心許無こころもとなはかなげで、今にも消えてしまいそうにおぼろげだ。


「小夜子さん、貴女は言いましたね。幽霊なんて存在しないと。その通り、貴女は何処にも存在しないのです。否、本当はこの場所にしか居なかった」


 言いながら持っていた鏡の角度を変えると、亜緒は小夜子に骸を見せた。


「小夜子はいない」


 声が、言葉が、少女の動きを縛ったように止めた。痙攣けいれんするように振り向くと、声の主がよろめきながら近づいて来るところだった。手には一冊の手帳を持っている。


「桜子さん? どうして……」


 どうやって? と、言いたかったのかもしれない。


「ナイフを一本、貴女が仏間に置き忘れたままで助かりました」


 小夜子がノコギリの腕に傷を付けたナイフは、そのまま活路かつろへのしるべとなったのだ。


 再び手に持った手帳を読み上げる。


「小夜子はいない。

 小夜子はからの小箱になった。

 美しい小夜子はもういない。

 優しい音の葉、小夜子に響け。

 むなしいことの葉、小夜子につどえ。

 響き集って小夜子にまわれ」


 応接室ではとうとうカップが割れて、紅茶が白いテエブルクロスを淡い色に染め上げてゆく。館中の縫いぐるみたちがバラバラと崩れだす。


「これは貴女の父上の日記、というより覚え書きのようなものですわね。仏間の引き出しの中にありました」


 遺影いえいの中の猫の視線が、手帳の在り処を教えてくれた。猫は小夜子に真実を伝えようと懸命けんめいに鳴いていたのだ。


 床に膝を突いた小夜子の体が縫いぐるみに埋もれてゆくと、不意に亜緒は平衡へいこう感覚に違和感を感じた。


 館全体が地震のように揺れ始めて、ノコギリの足元をより不安定にさせる。銀の髪飾りが頼りない音を立てて落ちた。


 すぐさまノコギリを抱きかかえると、亜緒は玄関を走り抜けてポーチから外へ出る。


 夜を背に振り返ると廃屋はいおくのようにいたんだ館が一邸いってい墓標ぼひょうのような静謐せいひつをもってたたずんでいた。


 それは夢の浮き橋のように呆気あっけない光景で、二人は暫く沈黙とともにその場所を離れなかった。


「兄様……小夜子さんは幽霊だったのですか?」


 ノコギリが静かに沈黙を破る。そでからのそく、腕の傷が痛々しい。


「死にながら生きていたのか。または、生きながら死んでいたのか。どのみち彼女は、最初から無意識に自分の正体を疑っていたんじゃないかな。上目遣いは自身に対する深い猜疑心さいぎしんの現れだからね」


 小夜子の瞳がノコギリの脳裏のうりに浮かんだ。あの、生活感のない不安そうな視線の運び。


「でも私に限らず、小夜子さんはクラスの人たち誰からも認識されているようでした」


「皆、化かされていたのさ。可愛い白猫に」


 そういうことで、良いのではないか。


 黒く輝く太陽の下では、皆が影の中に居るようなものだ。影は変幻自在。幻の一つも見ることだってある。


「兄様は此処に来て、すぐにかったのですか?」


 鍋島なべしま 小夜子の正体が。事の真相が。走馬灯そうまとうの如く一瞬に。


 雨下石家次期当主は、ただ黙って頷いた。


「私、やっぱり兄様のことが嫌いです」


 父と同じ、物事の本質を見抜く瞳が鮮やかに闇に光っている。その輝きは、やはり異質なのだ。


「そうだね。ノン子はそれでいいよ」


 柔らかい声音こわねが兄から流れてつたうと、妹は何やらくすぐったい気持ちになって首をすくめた。


 亜緒はノコギリを抱きかかえたまま、廃墟になった洋館を後に歩き出す。


「それでも、居なくならないでくださいまし……」


 耳元でささやく声は、頼りなく零れて夜霧に溶けた。


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