第57話「迷い猫」
猫の縫いぐるみだらけの応接間は、やはり現実離れした異様性に満ちていた。
整然と並べられた家具や壁に掛けられた絵画、調度品の
病的な興奮で積み上げられた応接室の矛盾。といった存在感がある。
「まだ曲の途中なのに、最後まで聴かないのですか?」
「ええ。お互い邪魔になるだけでしょう?」
小夜子は表情の無い声で、音盤を棚へと押し込む。
「僕は好きなんだけどな。それにサティが
「先生!」
小夜子が亜緒の言葉を強い調子で
「私は音楽というものを、
「はい、はい」と、亜緒は軽く手を振って
もっとも、亜緒は初めから遊びに来たつもりは無い。小夜子が自分をどう思おうと、本当にどうでも良いのだった。
飾り時計が午後六時の報を知らせると、小夜子はお茶を挟んで亜緒と差し向かいに座った。
とても静かだ。ランプのように薄暗い
亜緒はふとノコギリのことを考えた。それは妹の無事を心配するという思いからではなく、そう簡単には死なないだろうという勝手な
しかし今の
助けるにしても、目の前の
「
亜緒は
「それは見方を変えれば、貴方から私に出した条件とも取れるわけです」
亜緒の仕掛けた勝負は「あげる」などの一種恩着せがましい言葉を相手に押し付けて、かつ屈服させるという言葉遊びだ。
それは小夜子も承知している。
しかし「あげる」「返す」と云っても言葉だけのこと。されど言葉と云っても、どれほどの利害が発生するのか疑わしい。
二人の関係性は、水増しをする必要も無いくらいに薄いのだ。
何より、このやり取りは
「だから、私からも一つ提案をさせていただきたいのです」
「何かな?」
胸の
「質問です」
「質問……ですか」
「お互い交互に順番です。そして――」
ここが最も
「質問には正直に答えることを前提に、一回だけ嘘を混ぜても良い」
「面白いですね」
「ただし質問に質問で返すこと、質問自体をはぐらかすような行為は禁止とします」
小夜子は
「この条件を呑んで
「呑んで
意地の悪い笑顔で青い髪の青年は
「では私から先に。先生の本当の名前を教えていただけますかしら」
小夜子の声が不思議な
アメンボ アイウエオなどと云う
「僕が名乗ったとして、
「質問に質問で返すのは禁止です」
「これは確認ですよ。貴女の質問が無駄にならないように。僕って親切でしょう?」
二人の会話には
「この
「はい。偽名です。ついでに教師でもありません」
亜緒はいつもの
「貴方は本当に嘘ばかりの人なのですね」
「嘘は
亜緒が薄く
「
「雨下石……」
小夜子の
「想像通り、雨下石
「妹さんも偽名なのでしょう?」
「何故そう思うのですか? 妹の名前を疑う心当たりが、貴女にはあるのですね」
「だから質問に質問で答えるのは――」
「貴女だって、質問は交互に順番と言っておきながら」
ルール違反ですよと、亜緒は紫煙をくゆらせながら
小夜子は沈黙して心で舌打ちをする。どうにも、やりにくい相手だ。
「どうやら名前を知ることが、貴女に取っては重要な意味を持つらしい」
亜緒にとって、
最初に猫の鳴き声を聞いた。猫は術士の使い魔であることが多い。
それだけではない。小夜子が応接間を離れた際に確認したオルゴールの中のクローバー。そして彼女の左目に宿る
そして術士は、特に呪術を行なう者は名前を気にする。
亜緒とて術士の
術士同士は必然の癖を感じ取って、同業者の匂いを嗅ぎ取る。
もとより、
「小夜子さんは家族で湖に行ったことを覚えていますか?」
今まで饒舌だった小夜子が言葉を失った。目の前の青年は何故その事実を知っているのか。そもそも、この質問自体、意味があるとも思えない。
「貴女はその湖の
小夜子は心中で
「覚えています」
自身の心の中を覗かれているような錯覚を感じながらも、勤めて冷静に答える。
「貴方は何者なのですか?」
小夜子の質問は当然だった。目の前の青年は
「
「猫……」
小夜子の
「貴女の左目……ずっと気になっていたんですよ。その眼帯の下を見せてくれませんか?」
小夜子は眼帯に細い指で触れながら、青い眼光を見つめた。
「それは質問ではありませんわ」
小夜子の口調が
質問とは疑わしい点について問いただすことだ。亜緒が口にしたのは、ただの願望に過ぎない。
お互い相手の言葉には敏感に反応する。せざるを得ない。
「普通に瞳があるだけですわよ。ただ、今は
それでも小夜子は亜緒の言葉に答えた。次に質問できる権利を得るためだ。
「貴方の妹、雨下石 桜子さんの本名は?」
「ノコギリです。雨下石 ノコギリ。良い名前でしょう」
嘘だ。と、思った。
娘にそんな名前を付ける親など、居るわけがない。しかし、嘘にしては
小夜子の思考に迷いが生まれる。自分が一度だけ許される嘘を使ってしまったから、相手も当然使っているだろうと思い込む先入観念。
『投影』という心理だ。
防衛機制の一種で、自分を正当化して無意識にストレスから心を守る作用のことである。
亜緒は投影心理とノコギリという非常識な妹の名前、それと「自分は嘘に酔うのが好き」という言葉を
これも一つの
雨下石 亜緒に
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