第57話「迷い猫」

 猫の縫いぐるみだらけの応接間は、やはり現実離れした異様性に満ちていた。


 整然と並べられた家具や壁に掛けられた絵画、調度品のたぐいに反して無秩序に散らばった縫いぐるみ達は平穏を拒否し、落ち着くことを許さない。


 病的な興奮で積み上げられた応接室の矛盾。といった存在感がある。


 小夜子さよこは針を上げて音楽を止めると、慣れた手つきでレコオドを仕舞しまい始めた。その仕草は慎重で、盤に傷や汚れが付かないよう大事に扱っているのが分かる。


 音盤おんばんは彼女に取って、余程大切なものなのだろう。


「まだ曲の途中なのに、最後まで聴かないのですか?」


 亜緒あおは残念そうに頬杖ほおづえを突いた。


「ええ。お互い邪魔になるだけでしょう?」


 小夜子は表情の無い声で、音盤を棚へと押し込む。


「僕は好きなんだけどな。それにサティがう『意識的に聴かれない音楽』というのは、会話の中に溶け込む音楽という意味なんだ。実際、演奏会の幕には――」


「先生!」


 小夜子が亜緒の言葉を強い調子でさえぎる。声には苛苛いらいらとした鋭さが含まれていた。


「私は音楽というものを、真摯しんしに向き合うべき芸術だと思っております」


 「はい、はい」と、亜緒は軽く手を振ってなだめた。そんなのは、どっちでもいいよと云った態度である。


 最早もはやなごやかと云う雰囲気ではなくなっているし、これから先は一言一句、気が抜けない時間になるかもしれない。


 もっとも、亜緒は初めから遊びに来たつもりは無い。小夜子が自分をどう思おうと、本当にどうでも良いのだった。


 飾り時計が午後六時の報を知らせると、小夜子はお茶を挟んで亜緒と差し向かいに座った。


 とても静かだ。ランプのように薄暗い満月灯まんげつとうの明かりが、存在感を増した気さえするほどに閑寂かんじゃく


 亜緒はふとノコギリのことを考えた。それは妹の無事を心配するという思いからではなく、そう簡単には死なないだろうという勝手な憶測おくそくだった。助太刀すけだち、救出に来たはずであるのに無責任なものである。


 しかし今のところノコギリの『響き』はまだハッキリと感じ取れるし、自分が出るまでも無いかもしれないとさえ思うのだ。


 助けるにしても、目の前の瑣末事さまつごとを先に片付けてしまいたい。小夜子といういびつな少女の存在が、亜緒には何やら面白くないのだった。


 夜気やきが窓枠を叩く。少し、風が出てきたのかもしれない。


貴方あなたは私に話を一つ聞かせたいとおっしゃいました。それが魂のを教える対価であると」


 亜緒はもくして語らず、小夜子の花を散らしたような声だけが二人の影をわずかに揺らしてゆく。


「それは見方を変えれば、貴方から私に出した条件とも取れるわけです」


 亜緒の仕掛けた勝負は「あげる」などの一種恩着せがましい言葉を相手に押し付けて、かつ屈服させるという言葉遊びだ。


 それは小夜子も承知している。


 しかし「あげる」「返す」と云っても言葉だけのこと。されど言葉と云っても、どれほどの利害が発生するのか疑わしい。


 二人の関係性は、水増しをする必要も無いくらいに薄いのだ。


 何より、このやり取りは土俵どひょうを用意した亜緒側が圧倒的に有利である気もする。


「だから、私からも一つ提案をさせていただきたいのです」


「何かな?」


 胸の隠しポケットから紙巻煙草を一本抜くと、亜緒はマッチを擦った。りんの燃える匂いが辺りを包んでぐに消える。


「質問です」


「質問……ですか」


 紫煙しえんが幻の橋となって二人の距離を渡った。


「お互い交互に順番です。そして――」


 ここが最も肝心かんじんなのですが。と、小夜子は一呼吸置いてから再び言葉を繋いだ。


「質問には正直に答えることを前提に、一回だけ嘘を混ぜても良い」


「面白いですね」


「ただし質問に質問で返すこと、質問自体をはぐらかすような行為は禁止とします」


 小夜子は饒舌じょうぜつだ。比べて亜緒は寡黙かもくな態度で気のない返事をしている。


「この条件を呑んでくれますか・・・・・?」


「呑んであげましょう・・・・・・


 意地の悪い笑顔で青い髪の青年は承諾しょうだくした。


「では私から先に。先生の本当の名前を教えていただけますかしら」


 小夜子の声が不思議なあやしさにたゆたう・・・・


 アメンボ アイウエオなどと云う巫山戯ふざけた名前が実名であるはずがない。どのみち本名を聞き出すつもりでいたのだ。それに最初の質問から嘘のふだを切る可能性は極めて少ない。


「僕が名乗ったとして、貴女あなたは信じてくれますか? 本名かどうかを確認するすべも無いんですよ?」


「質問に質問で返すのは禁止です」


「これは確認ですよ。貴女の質問が無駄にならないように。僕って親切でしょう?」


 二人の会話には抑揚よくようと云うものがとぼしい。どこか機械的で予定調和のように味気なく、無機質だ。


「この遊戯ゲームは相手の答えのうちにある一つの嘘を見破ることが醍醐味だいごみなのですわ。でも、そんなことを仰るからには、やはり偽名……ですのね」


「はい。偽名です。ついでに教師でもありません」


 亜緒はいつものとぼけた調子で、あっさりと肯定こうていしてみせた。


「貴方は本当に嘘ばかりの人なのですね」


「嘘は甘美かんびな猛毒です。僕は毒に酔うのが好きなのですよ」


 亜緒が薄くむと、小夜子も上目遣うわめづかいに小さな笑顔を見せた。しかしながら、二人とも実は笑ってなどいない。


雨下石しずくいし 亜緒あおというのが、いつわり無い僕の名です」


「雨下石……」


 小夜子の陶器人形ビスク・ドールのように整った顔が怪訝けげんゆがむ。


「想像通り、雨下石 桜子さくらこは僕の妹です」


「妹さんも偽名なのでしょう?」


「何故そう思うのですか? 妹の名前を疑う心当たりが、貴女にはあるのですね」


「だから質問に質問で答えるのは――」


「貴女だって、質問は交互に順番と言っておきながら」


 ルール違反ですよと、亜緒は紫煙をくゆらせながらとげのある口調でわらった。


 小夜子は沈黙して心で舌打ちをする。どうにも、やりにくい相手だ。


「どうやら名前を知ることが、貴女に取っては重要な意味を持つらしい」


 亜緒にとって、鍋島なべしま家が術士の家系であることはこの家に入った時から分かっていた。


 最初に猫の鳴き声を聞いた。猫は術士の使い魔であることが多い。


 それだけではない。小夜子が応接間を離れた際に確認したオルゴールの中のクローバー。そして彼女の左目に宿る禍々まがまがしい威圧感。


 そして術士は、特に呪術を行なう者は名前を気にする。


 亜緒とて術士のはしくれだ。慧眼けいがんすなわち魔眼であるし、ぬえを猫の姿にとどめていたのにも意味があった。


 術士同士は必然の癖を感じ取って、同業者の匂いを嗅ぎ取る。


 もとより、ただの人間にノコギリを拘束こうそくすることなど出来るわけがないのだ。


「小夜子さんは家族で湖に行ったことを覚えていますか?」


 今まで饒舌だった小夜子が言葉を失った。目の前の青年は何故その事実を知っているのか。そもそも、この質問自体、意味があるとも思えない。


「貴女はその湖のほとりで四つ葉のクローバーと白猫を拾った。これは質問ではなく、独り言ですから気にしなくてもよい」


 小夜子は心中で戸惑とまどう。どうしてそんなことが分かるのか。彼の言っていることは間違いなく事実だ。


「覚えています」


 自身の心の中を覗かれているような錯覚を感じながらも、勤めて冷静に答える。


 狼狽ろうばいしない小夜子に、亜緒は多少の感心を抱いた。


「貴方は何者なのですか?」


 小夜子の質問は当然だった。目の前の青年は得体えたいが知れなさぎる。


あやかしに関係する厄介やっかいごとを始末している者です。今日はめ、化け猫退治と云ったところでしょうか」


「猫……」


 小夜子のつぶやきに部屋の縫いぐるみが一つ転がって、彼女の足元で鳴いた。


「貴女の左目……ずっと気になっていたんですよ。その眼帯の下を見せてくれませんか?」


 小夜子は眼帯に細い指で触れながら、青い眼光を見つめた。


「それは質問ではありませんわ」


 小夜子の口調がけわしくなった。


 質問とは疑わしい点について問いただすことだ。亜緒が口にしたのは、ただの願望に過ぎない。


 お互い相手の言葉には敏感に反応する。せざるを得ない。


「普通に瞳があるだけですわよ。ただ、今はまぶたが少しれてしまっていて、恥ずかしいので見せることは出来ませんが……」


 それでも小夜子は亜緒の言葉に答えた。次に質問できる権利を得るためだ。


「貴方の妹、雨下石 桜子さんの本名は?」


「ノコギリです。雨下石 ノコギリ。良い名前でしょう」


 嘘だ。と、思った。


 娘にそんな名前を付ける親など、居るわけがない。しかし、嘘にしてはあからさま・・・・・過ぎる気がする。もしかして、本当に――だとしたら、青年の名前のほうが嘘なのか。


 小夜子の思考に迷いが生まれる。自分が一度だけ許される嘘を使ってしまったから、相手も当然使っているだろうと思い込む先入観念。


 『投影』という心理だ。


 防衛機制の一種で、自分を正当化して無意識にストレスから心を守る作用のことである。


 亜緒は投影心理とノコギリという非常識な妹の名前、それと「自分は嘘に酔うのが好き」という言葉をあらかじめ相手の中に仕込むことで小夜子の心に迷路を作り上げたのだ。


 これも一つのしゅである。


 疑心暗鬼ぎしんあんきという鬼を倒さぬ限り、小夜子は思考の迷路から抜け出すことが出来ない。


 下等かとうではあるが、鬼の使役しえきにはこんなやり方もあるのだ。


 雨下石 亜緒に言霊ことだまで勝とうなど、小夜子には初めから荷が勝ちすぎた行為だったのかもしれない。

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