第8話「生者と死者」

 黒い太陽。


 それはまるで金環日食のように光が淡く周りを囲っているから円形だと分かるもので、この世界で見ることの出来る唯一の天体らしき・・・ものである。


 そんな薄明かりの下でも表通りに出ればガス燈や燈籠、店先には宣伝も兼ねた数々の行灯が灯っていて、人の多さと相俟あいまって賑やかな明るさがあった。


 一方で脇道へ入ると、その独特な賑やかさとは対照的だ。


 ポツリポツリと置かれた石燈籠が儚げな灯をチロチロと揺らしているだけで、この世界本来の薄暗さが姿を見せる。


 だから余程の理由でも無い限りは皆、表通りを行く。


 亜緒はその寂しい裏道から藤村 草之介の響きを辿っていた。


 人が多いところでは特定の響きを感じ取りにくいのだ。


 それにしても、我ながららしく・・・ないことをしていると思うのだった。


 亜緒は面倒ごとを嫌がるくせに、昔から死霊、妖等からの頼みごとは断らない。


 嫌々ながらも何故か聞く耳を持ってしまう。


 性分といってしまえばそれまでだが、本人も妙だとは思っている。


 ――藤村 雪絵。


 かいの無い木舟に立つ、三途の川を渡らない女。


 相手が死人では依頼料など望むべくもない。タダ働きだ。


 さすがに六文銭ろくもんせん(三途の川の渡し賃)をよこせとは言えない。


 もっとも亜緒が自発的にやっていることでもあるので、誰かに文句を言える立場ではない。




 遠回りになってしまったが、亜緒は『藤村』という表札の家の前に辿り着いた。


 閑静な住宅街に建つ庭付き一戸建ての、なかなかに立派な家だ。


 家の外周には結界が張られている。


 珍しいことでは無い。


 この世界は魑魅魍魎ちみもうりょうが棲む領域でもあるのだ。


 家を建てる際には結界専門の術士に相応の処置を頼むのが普通である。


「それにしても……」


 亜緒の瞳には一風変わった結界に映った。


 死霊の類に特化し過ぎている。


「これじゃあ、雪絵さんは家に近づいただけで消滅してしまう」


 呼び鈴を押すと中年の女性が出てきて、亜緒を見るなり怪訝けげんな表情を浮かべた。


 青い髪と瞳は、本人が思っている以上に悪い意味で目立つ。


「こんにちは。雨下石しずくいし 亜緒といいます」


 出来る限りの愛想を振りまいて善人であることをアピールしてみるが、そこがかえって相手の不信感を助長させてしまっている。


 実際、亜緒は善人というほどの人間ではなかった。


「藤村 草之介さんを訪ねてきました」


 女性の表情がますます怪しさに歪んだ。


 老人の知り合いにしては若すぎる客人であるから無理もない。


「あー、雪絵さんの知り合いだと伝えてもらえれば分かると思いますんで……」


 響きの感じから、本人が在宅中なのは分かる。


 女性はそのまま無愛想な態度で玄関の向こうへと引っ込んでしまった。


 物騒な世の中、用心深い性格なのは結構なことだ。


 出直すのも面倒なので、亜緒は暫く門前で待ってみることにした。


 草之介の響きが乱れている。どうやら女性は言伝ことづてをしてくれたようだ。


 勢いもよく、扉から草之介が飛び出してきた。


 亜緒の想像とは違って、洋装に上品な髭を蓄えた老紳士という風貌だ。


 てっきりクソジジイの類かと思っていたのだ。


「き、君は一体何者なんだ?」


 自己紹介もせず、不躾に亜緒の素性を聞いてくる。


「雪絵さんの孫です」


「な、何を馬鹿な!」


 老人は明らかに興奮している。息遣いも荒い。


 亜緒は証拠写真とばかりに三途の川で雪絵から受け取った写真を草之介に見せた。


「一緒に写っているのは若かりし頃の貴方だ」


 言葉も出ない。とはまさにこのことで、老人は無言でモノクロームの世界を見つめている。


「孫というのは冗談です。貴方の考えている通りで、雪絵さんに孫なんている筈が無いんですから」


 亜緒の声は淡々として覚めていた。


「それでも君は、彼女の事を知っているのだな」


「雨下石 亜緒といいます。雪絵さんとは、只の知り合いです」


「し、失礼。藤村 草之介だ」


 遅すぎる自己紹介に老紳士はもう一度詫びた。


 亜緒は愛想笑いを作ってみた。


 老人の警戒心を解くための仕草だったが、案の定効果は無かった。


「立ち話もなんだし、家へ上がってくれたまえ」


 意外な老人の一言に驚く。


 帰れと言われれば大人しく引き下がるつもりだったのだ。


 どうやら警戒心よりも好奇心が勝ったらしい。


 促されるまま玄関をくぐった時に、亜緒は聞こえるはずのない水の音を聞いた。


「なるほど……」


 亜緒が奥の和室へと通される途中に、老紳士は先の中年女性にお茶を持ってくるよう指示した。


 そして部屋には近づかないよう念を押すのだった。


「貴方は裕福でそれなりに幸せな家庭を手に入れたようですね」


 二人のやり取りから先程の中年女性は老紳士の娘か、息子の妻といったところであろう。


 おそらくは孫もいて、週末には楽しげな笑いの花が咲くのだ。


「何故、君は雪絵のことを知って――否、そんなことはどうでもいい。彼女は、雪絵は今何処で何をしているのかね。元気でいるのかね?」


 亜緒はシラけた。


「ご老人、下手な芝居はお止めなさい。貴方と雪絵さんは心中だったのでしょう? おそらく入水だ。しかし雪絵さんは死んで、貴方は助かってしまった。そして死体は今も見つかっていない」


 老人は黙った。


 定まらない視点は、しかし亜緒にだけは止まらない。


「当時、雪絵さんとは結婚もしていて夫婦だったはずだ」


 夫婦仲がどうであったのか。

 何故心中するに至ったのか。


 そんなことに興味はない。


「君は探偵か? 雪絵の縁者に頼まれたのだな?」


 本人から直接聞いたのだ。とは言えない。


「僕は雪絵さんの位牌に線香の一本でも上げさせてもらおうと立ち寄っただけの者です」


「仏壇には雪絵の位牌も遺影も無いのだ」


 老紳士は悔恨らしき表情を作ってみせた。


「何故です?」


 亜緒が老人の背後にある仏壇を覗く。


 そこには誰かの位牌と遺影が慎ましくある。


 草之介の人生で二人目のパートナーのものであろう。


 亜緒は何かを言おうとして止めた。


 老人を責めるつもりはない。


 生き残った人間は幸せを求める権利がある。


「僕はもう帰ります」


 老人がホッとしたように見えた。


「出来れば、この写真も仏壇に飾ってあげてください」


 亜緒は雪絵から受け取った写真を老紳士へと渡した。


「彼女の冥福も、亡くなった奥様同様に祈ってあげてください」


 それだけ言うと、亜緒は茶には手をつけずに藤村の家を後にした。




 亜緒が藤村家を出て帰り道に団子屋で道草を食っている頃、『左団扇ひだりうちわ』には一人の客人が見えていた。


「御免下さいな」


 可憐な声に蘭丸が出ると、あわせの着物を着た少女が一人玄関先に立っていた。


 オカッパの右前一部分だけが青く染まった黒髪。

 釣り目気味の瞳は水色に妖しく揺れて、花をあしらった紅型びんがた小紋こもんがよく似合っている。


 少女が笑うと髪飾りがシャララと歌った。


「此処に亜緒という名前の青年が居るはずなのですが」


 居るに決まっているのだ。


 彼女の千里眼に狂いは無い。


「私は蘭丸と申します。失礼ですが、貴女は?」


「私は雨下石 桜子さくらこと申します」


「亜緒の縁者ですか?」


「亜緒は私の兄でございます」


 少女は何故か口元を隠した。

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