第八話 仁吉

 江戸の佃島漁師は、もともと摂津国西成郡佃村(現在の大阪府西淀川区佃)に住んでいた漁師だった。それがなぜ江戸に移住したのか。諸説あるものの、ここでは「お話として一番面白いもの」を紹介する。


 天正十年(一五八二年)、『本能寺の変』の第一報を徳川家康は物見遊山で滞在していた堺で聞いた。身の危険を感じて、急ぎ岡崎城に帰還しようと考えたが、家康の居場所や岡崎城に帰還するための通常経路は、明智光秀に筒抜けである。それに、堺商人の茶屋四郎次郎からも「退路がはばまれている」との連絡が入っていた。

 そこで家康は、住吉神社と清和源氏の始祖を祭る摂津多田神社に参拝するという触れ込みで、三河とは逆方向になる大坂から兵庫への道筋を経由して帰還することにする。家康は「自分は源氏の嫡流である」と公言していたから、摂津源氏の始祖である源満仲と源頼光らを祀った多田神社に参拝するのは、自然なことだった。

 ところが、途中で神崎川(大阪市住吉区にある淀川の分流)に差し掛かった時、川の増水により立ち往生してしまう。そこで、刻一刻と身の危険が迫る家康を助けたのが、摂津西成郡佃村の庄屋である森孫右衛門とその配下の者であった。

 彼らは手持ちの漁船を持ち出すと、家康一行を対岸へと渡し始めた。

 さらに、不漁の時に備えて蓄えていた小魚の煮付を、兵糧として用意する。気候の悪い時期でもあり、日持ちする食料は有り難かった。(そして、これが後の佃煮となる)

 その後のいわゆる「伊賀越え」の時、茶屋四郎次郎と森孫右衛門配下の漁師、摂津西成郡佃村にある田蓑たみの神社の宮司弟である権太夫好次、そして服部半蔵率いる伊賀の地侍が、家康に同行していたと言われている。そして、各々、以降の徳川の御世で取り立てられてゆく。

 例えば、服部半蔵らはその後召し抱えられて、江戸城の警護役を勤めることになった。

 また、現在、東京都中央区佃にある住吉神社は、田蓑神社から分霊されたものである。佃村の田蓑神社は、神功皇后が三韓征伐の帰り道に立ち寄った時に、土地の漁師が「白魚」を献上した故事が始まりとされているから、この時点で既に白魚と縁があった。


 さて、江戸に進出して以降の佃村漁師の足跡は、『江戸名所図会』にある佃島の由来で分かる。

 慶長十七年(一六一二年)、二代将軍秀忠の時代に、大坂の夏の陣や大坂冬の陣、小田原攻めでも家康に仕えた森孫右衛門ら佃村漁師のうち、三十三人が家康公に招聘しょうへいされて江戸に正式に移住した。 当初は複数の屋敷や場所に分散して、漁業を営む傍ら海上偵察の任にあたっていたらしい。

 ところが、寛永七年(一六三〇年)に向井将藍が海賊奉行として海上警護にあたることになった際、「漁師が江戸湊の海上偵察するのは不都合」という理由から、以降、彼らは漁業に専念することになった。

 その際、彼らの生活拠点として大川の河口付近の、石川島近くの干潟ひがた百間四方が与えられた。その干潟が故郷の佃村にそっくりだったために、彼らはそこを『佃島』と名づけると造成工事に着手し、それから十五年を経た正保元年(一六四四年)になって、ようやく佃島が完成した。

 つまり、漁師自身が土木工事を行ったのである。

 佃島漁師の技術の高さを示す、他の逸話がある。

 明暦三年(一六五七年)に、有名な『振袖火事』で西本願寺が焼失してしまった時、大火後の区画整理で旧地での再建が許されず、代替地として下付されたのが八丁堀の海上だった。佃島漁師は本願寺の門徒である。彼らが中心となって本堂再建のために海を埋め立てて、現在の築地を造成する。そして、延宝七年(一六七九年)には西本願寺を再建してしまった。


 さて、時期が少々前に戻るが、正式に江戸に移住した翌年の慶長十八年(一六一三年)に、彼らは「江戸近辺の海川で、自由に操業しても良い」という『お墨付き』を得た。実際にこの『お墨付き』は、佃島の名主により明治になるまで大切に保管されていたという。同時に「将軍家御菜御膳御用達」として、白魚等の御菜魚を献上することになった。

 ここにも面白い逸話がある。

 佃島漁師が江戸での漁の『お墨付き』を得た頃、ある日、雪のように白い小魚が彼らの網にかかった。見たこともない魚で、頭のところには畏れ多くも「葵の御紋」が浮かび上がっている。もちろん大騒ぎになって、早速これを家康に献上したところ、家康自身はこの魚を知っており「三河時代に漁師がよく届けてくれた白魚だ」といって大喜びしたという。

 これは白魚の権威づけに利用された「伝説」と言われている。

 一方、白魚は江戸に元々いた魚ではなく、誰かが三河から持ってきて大川に放したものだとも言われているが、こちらの真偽のほどは分からない。

 ともあれ、将軍家献上品以外に獲ってはいけない「御止魚」となっており、特に「毎年、11月から3月までの間」の漁は、佃島漁師にのみ許されていた。


 ところで、もともと江戸にいた漁師たちは、今でも地名の「日本橋小網町」などに残っているように、「一本釣」や「四手網」といった簡単な漁法を使った小規模な漁業しか営んでいなかった。一度に獲れる魚の量も知れていた。

 ところが、江戸時代の初めになると綿花の栽培が各地で盛んになり、その肥料として干鰯ほしかの需要が増えたため、その需要に見合った量を供給しようと、西日本から大規模な底引網漁の一種である「地獄網」が東日本に持ち込まれ始めていた。

 佃島漁師は、上方から江戸に移り住んだ者たちである。当然「地獄網」は知っており、それを用いていた。江戸の漁師たちはこれにまったく対抗できない。なにしろ、『慶長見聞集』という書物によれば、地獄網はかなり強力な漁法で、「この地獄網にて取り尽くしぬれば、いまは十の物一つもなし」という、当時としては珍しい「資源枯渇に対する懸念」が記載されているほどである。

 佃島漁師の漁獲量は、たちまち幕府へ献上する分を超えてしまった。幕府に献上した分の残りは、支柱に売買してよいということになっていたので、日本橋小田原町にそれ用の市が立った。これが、後年の「魚河岸」となる。


 また、徳川幕府が慶長十八年に与えた「江戸近辺の海川で、自由に操業しても良い」という『お墨付き』は、その範囲がどのようにも解釈可能なものであった。実際、佃島漁師はこの『お墨付き』を広い意味に解釈して、伊豆方面まで進出して漁猟を行なった。

 白魚漁に関する特権に加え、佃島漁師たちは他の漁場へ頻繁に侵入し、圧倒的な漁法で大量に水揚げしてゆく。もちろん、土地の漁師も黙ってはいなかったが、佃島漁師はその紛争の過程で『お墨付き』をもち出して勝利を得る、ということを繰り返した。

 家康以来の幕府の厚遇、優れた漁法による圧倒的な漁獲量、白魚漁の独占的な漁業権、そして『お墨付き』という最終兵器を持っていた佃島漁師は大変に意気軒昂いきけんこうであった。


 *


 近頃、江戸の海や川に「おかしなやつら」が出没するという。


 やつらは夕暮れの刻限に限って、何処からともなく猪牙舟で現れる。そして、二丁櫓にもかかわらず、物凄い速さを出して消えていくらしい。

 偶然目撃した者の話では、

「黒覆面と黒装束で身を包んでいたので、何処のどいつなのかは皆目見当もつきやせん。ただ、舟の艫に『暴漕上等』という黒地に赤文字のふざけた旗を立てていやした」

 ということだった。

 黒覆面に黒装束のほうは、まあ見過ごしてやってもよい。黒地に赤文字のふざけた旗のほうも、まあ広い心で見過ごしてやろうじゃないか、と考える。

 しかし、どうしても見過ごせないのは『物凄い速さ』だ。

 既に深川住民の中には「佃島の押送舟より速いんじゃないか」と吹聴する者が出始めているらしい。血気盛んな若い佃島漁師が、そのうちの一人を捕まえて半殺し寸前の目にあわせて問い詰めたものの、そいつも「やつら」の正体は知らなかった。

 巷では、とうとう『大江戸暴漕族』という名前まで出始めている。


 佃島漁師の仁吉は、こめかみに青筋を立てていた。


 佃島漁師は神君家康公より『お墨付き』を賜った、由緒正しい一族だ。そして、「江戸の海と川は自分達の中庭である」という意識が強い。

 その中庭に得体の知れないやつらが出没している。しかも相当速く猪牙舟を漕ぐという。これを黙って見過ごしていたのでは、佃島漁師の沽券こけんにかかわる。しかも「俺たちよりも速い」という流言飛語りゅうげんひごまで出始めたことに、仁吉は怒り心頭に発した。

 江戸湾で最速の舟は、佃島漁師の押送舟である。それよりも速い、などということはありえない。そのことを津々浦々まで知らしめるためには、実力勝負で徹底的に叩きつぶすのが一番だ。

「お前ら、分かってるな。この『大江戸暴漕族』というおかしな連中を急いで探し出すんだ」

 仁吉は配下の若い漁師たちに、そうげきを飛ばす。彼の家は「最初に佃島に移り住んだ森孫右衛門配下の三十三人」の流れを直接汲む、由緒正しい網元であった。


 *


 さて、自分達が深川界隈で噂になっていることや、佃島漁師による包囲網が敷かれたことを、その時点で三人は知らなかった。

 宗太が以前と同じように深川に時折出入りしていたのであれば、話は違っていたかもしれない。 しかし、彼はここ三ヶ月の間、猪牙舟にすっかりかかりきりであった。

 このところ、巳之助が次第に櫂の扱いに慣れ始めていた。

 大きく漕いだ櫂を水中から引き上げる際に、時期を間違えて上げ損ない、そのまま流れに持っていかれてしまうことを、『腹切り』という。櫂の握りが腹をえぐるように動くことから、そう名付けられていた。最初のうちは五回に一回ぐらい『腹切り』をしていた巳之助も、ここ一ヶ月は全く見せていない。まだまだ清二と力の差はあったが、漕ぐ調子がぴたりと揃ってきた。

 また、宗太と巳之助は、最初の頃に「全力を出せないことに清二が不満を持たないか」と危惧していた。ところが、清二は清二で逆に余裕を持って漕ぐものだから、細かいやり方の違いで舟の挙動が大きく左右されることに気がつき始める。それは、舟の中で両足を踏ん張る位置の違いであったり、腰を落ち着けるための敷物の工夫であったりしたが、そのような細かいところにまで清二は目を配るようになってきた。

 そのような「漕ぎ方に関して気が付いた点」は、清二と巳之助の間で逐次共有されている。清二が思案しているところに巳之助が案を出したり、巳之助が考えあぐねた点に清二が具体的な例を引き合いに出したりで、良い方向に転がっていた。

 一方、宗太は「たかが舵の切り方じゃないか」と最初のうちは思っていたのだが、実はその奥行きが深いことに驚いていた。

 舵を切った方向とは逆に、舟は曲がる。基本はそれだけのことである。

 しかし、上手いタイミングで舵を切った時の、舟の滑らかな回頭具合は癖になる。微妙な加減の違いで、出来たりできなかったりするのもよい。宗太は直参旗本でありながら、「左右太」としてはそのような職人技を好む。この間も、余りにも舵の切り方に熱中しすぎて、清二や巳之助に怒られたところである。

 三人はまったく飽きることなく漕ぎ方の改善に精を出していた。


 また、新たにお園が加わったことで、密かに『暴漕』に向かう際の行き帰りや、途中の休憩中の会話にさらに幅が出た。

 三人のそれぞれの苦悩を聞いたお園は、自分だけが苦しいのではないと分かって心が落ち着いた。また、たまには舳に乗せてもらい、あの『特別な世界』を体験しては憂さを晴らしていた。

 もともと「職人たちの中で働き、細やかな気配りでまとめる」のがお園の性分である。それは、四人の『暴漕』の中にも生かされていた。

 会話は通常、宗太とお園の掛け合いで進む。それに、適宜、清二や巳之助が合いの手を入れる。最初のうちは、厳しすぎる母親の影響で女性全般が苦手になり、お園にも声をかけにくそうにしていた巳之助も、お園の生来の明るさや気働きの細やかさに助けられて、次第に話ができるようになっていた。


 その日、四人は竪川にいた。

 最初から黒覆面、黒装束を身に着けて大川を遡上すると、途中の橋から丸見えであるから、具合が悪い。そのため、衣裳と旗は『暴漕』開始寸前まで隠してある。三人は手早く黒覆面と黒装束を身に着け、お園を岸に上げると、旗を立てて川の中心まで移動した。お園は陸で、役人などが来た時の警告役を務めるため、横丁に身を隠す。

 宗太が合図の声をあげて、櫂の準備。

 そして、漕ぎ出す。

 合図、漕ぎ出し。

 これを飽きもせず繰り返す。

 お園もその様子を飽きもせず眺める。

 そして、その日は――


 天水桶の陰からその様子を覗く、鋭い視線もあった。


 *


「やつらが姿を現わしたってえのは本当かい」

 仁吉は開口一番、そう尋ねた。

 佃島の住吉神社近くにある舟溜まり。数人の若い漁師が屯していた。

「三吉の奴が見かけたそうです。だろ、三吉」

「へえ。昨日、竪川で見かけやした。男が三人と女が一人。猪牙舟でやした」

「ほう、で、どうだ。やつら確かに速いのか」

「へえ、二丁櫓ですから流石に七丁櫓とは比べものになりやせんが、四丁櫓だと分かりやせん」

 三吉は、佃島漁師の中でも思慮深い男である。あまり軽々しく物を言わない。その三吉が「分かりやせん」と言うのだから、これは確かに相当速いのだろう。

 そして三吉の言う通り、二丁櫓を七丁櫓で叩き潰しても自慢にも何もならない。しかし、同じ二丁櫓では舟の種類の違いから、こちらのほうが不利だ。四丁櫓であれば「手加減」としても十分だろう。

 仁吉は四丁櫓の押送舟で彼らを叩き潰す決意を固める。

「そうか。それでやつらの素性は分かったか」

「それが、男のほうは黒覆面に黒装束、女も頭巾ずきんを被っていやしたから、顔そのものは見てやせん」

「それじゃあお前、何処の誰だか結局分からずじまいじゃないか」

「いえ、それがそうじゃねえんで」

「なんだよ、勿体もったいぶらねえでさっさと言えよ」

「へえ、その女なんですがね。そりゃもう珍しいほどの大女で」

「何、大女だと――」

「遠くからわざわざ来てるってえことなら分かりませんがね。この深川、佃島界隈であれだけの大女といったら、そりゃあ一人しかいやせん」

 包囲網が急激に狭められる。


 *


 お園は訝しんだ。

 昨日から、小紋柄の小間物を買い求める女の客に交じって、普段見慣れないむさ苦しい男の客の姿が増えている。僅かばかりの変化だが、長年店先を眺めつづけてきたお園の目はごまかせない。

 通りを横切る程度であれば、さほど珍しくはない。しかし、店の中まで覗き込む男の客はこれまでそう多くなかった。しかも、姿形からして彼らは佃島の漁師だろう。染物屋の中には、小紋だけでなく大漁旗を扱うところがあるので、染物屋に漁師が姿を現すこと自体は、不思議でもなんでもない。しかし、『丸木戸』はすっかり小紋柄の小間物で有名になってしまったので、近頃すっかり大漁旗の注文を受けることはなかった。

 店構えも以前とは様変わりしており、昔馴染の客から、

「女が多くて、入り辛くて仕方がないねえ」

 と敬遠されてしまうほどである。だから余計に「店の中を眺める佃島漁師の姿」を頻繁に見かけるのは、珍しかった。

(何だろう。まさかおっかさん絡みじゃないだろうね)

 お染は元深川の遊女であるから、昔馴染みの佃島漁師が居所を探していることも考えられる。

(面倒臭いことに巻き込まれなければいいけれど)

 お園は嘆息したが、実は「自分の問題である」ことまでは思い浮かばない。


 その様子を店の向こう、通りの先から仁吉が眺めていた。

(ほう、あれがそのお園さんかい)

 確かに上背がある。自分と同じくらいはあるかもしれない。それに、随分と利発そうな顔をしている。色も白い。

(自分とは育ちが違うな)

 と、彼はぼんやり考えた。

 仁吉は佃島の網元の生まれであるから、小さい頃から水の上で育った。陽に照らされるのが当たり前であり、肌の色は年柄年中黒い。稼業が稼業なので、声は大きく、物言いは乱暴だ。そうでなければ漁師は務まらないからだ。

 しかし、仁吉の本質は単なる「粗野な漁師」ではなかった。配下の気の荒い若者たちをまとめ上げるためには、それなりの器量が必要である。

 怒る時は、怒る。褒める時には、褒める。

 喜怒哀楽がはっきりして、後腐れがない。

 様子のおかしいやつがいれば、呼んで話を聞く。

 漁をする時は全員が家族だから当然のことだ。基本「常に強く出る」のが漁師だが、道理はわきまえている。確かに気位が高くて傲慢なところはあるものの、それでも人間的な魅力に溢れた男である。

 仁吉は『丸木戸』が見渡せるところに、その後、半刻ほど黙って立っていた。

 

 *


 お園を迎えに来るのは清二の役割である。柳橋の扇屋から深川まで、大川を下って小名木川に入るだけの簡単な川筋だ。

 新大橋で巳之助を拾い、小名木川でお園を拾う。いつもならばその順番だったか、今日は巳之助が離れた普請場から戻ってくることになっており、前の時に、

「次は先にお園さんを迎えに行ってくれ」

 と言われていた。

 そのため、清二は櫓を操りながらゆっくりと大川を下っていたのだが、小名木川の入口付近でちょっとした違和感を覚える。

 小名木川の海辺新田側の岸に、押送舟が停泊していた。

 漁師は朝が早い代わりに夕方はさっさと寝てしまうから、この時間に小名木川の入口に佃島漁師のものと思われる押送舟が、ぽつりと舫ってあること自体、珍しい。

(深川に遊びにでも行っているのだろうか?)

 可能性はあるが、自分たちの舟で来るだろうかと疑う。金はたんまりと持っているから、馴染みの船宿から船頭を呼ぶはずだ。

 頭を捻りながら『丸木戸』の桟橋付近に目をやる。そこにはお園の他に、数人の男たちが立っていた。

 肌の色を見て、清二にはそれが誰だかすぐに分かった。


 その日、清二とお園は多少遅れてきた巳之助を新大橋の袂で拾った。そのまま宗太の屋敷へと向かう。巳之助は、清二とお園の口が重いことに気が付いたが、黙っていた。おそらく、全員が揃ったところで話をしたいということだろう。

 相楽家の桟橋で宗太を拾うと、清二はそのまま行先も告げずに江戸の湾内に乗り出した。宗太も様子が変だとは直ぐに気付いたが、黙っていた。


「今日、佃島の漁師がお園の家に来た」

 沖合に着くと、清二はまずそう言って、その意味が伝わるまで少し間を開けた。宗太が頷く。清二は話を続けた。

「仁吉という男が頭目だった。そいつは俺たちの『暴漕』が目障りだという。ついては、一番速い舟を決めるために、三日後に勝負をしようと言い出した。なぜそんなことをしなければいけないんだ、と俺が聞いたら、佃島漁師の誇りだという。俺たちのほうが速かったらどうするんだといったら、鼻で笑いやがった」

 そこで清二はまた話を切る。それに合わせて宗太が尋ねた。

「分からねえな。その仁吉というのは、なんでそんなに勝負に拘っているんだ。最初から『目障りだからやめろ』と言えばいいんじゃないのか」

「俺たちのほうが速いんだ、という事実が欲しいんだろう」

 清二はぽつりと言った。

「でも、おいらたちがその勝負に乗らずに、猪牙舟に乗るのもやめたら、同じことじゃないか」

 巳之助がもっともな意見を言うと、清二は頭を振る。

「俺もそう言ってみた。そうしたら『お恐れながらとお上に言上ごんじょう申し上げる』ときた」

 つまり、公事くじに持ち込むということだ。


 *


 江戸時代、刑事事件は「吟味筋」、民事事件は「出入筋」と呼ばれた。そして、出入筋に関する訴訟を指して「公事」あるいは出入物と称した。公事には大きく分けて、本公事、金公事、仲間事がある。

 本公事は「家督相続、土地、境界、小作関係」など権利関係の争いを指す。

 金公事は文字通り「金利や利息の付いた金銭貸借」に関する訴訟を指す。

 仲間事は「共同事業、無尽講むじんこう、木戸銭」など、仲間内での利益分配に関する訴訟を指す。

 一般的には、公事を申し立てても受理されるとは限らず、むしろ共同体の自治を重視していた江戸時代であるから、内々に解決せよと指示される場合が多かった。訴状に名主の印が必要であったから、その段階でさとされる場合もあっただろう。

 実際の訴訟手続においては、弁護士に当たる「公事師」と呼ばれる仲介人も必要であったが、この辺の手続きについて佃島漁師は経験豊富であった。なにしろ『お墨付き』を楯にとって、他の猟場に出没しては紛争を起こしていたから、公事なんぞは日常茶飯事のことである。それ用の公事宿、公事師も抱えていたから、訴状も向こうの思惑で仕立てられかねない。例えば「漁場を荒した」などの、明らかな因縁でも、訴状は訴状である。

 一方、訴えられる自分達はただでは済まない。


 *


 全員が押し黙る中、宗太が清二に尋ねた。

「それにしても、どうして俺たちの素性が分かったんだ?」

 清二はお園のほうを向いた。お園は頷く。そして、こう言った。

「私が皆さんに近付いたのがいけなかったんです。そうでなければ誰も気が付かなかった。私のような大女は珍しいからすぐに分かったと言われました。だから、だから――」

「お園、繰り返して済まねえ。仁吉はお前さんに『大女は珍しいからすぐ分かった』と言ったんだな」

「――はい。そう言って笑っていました」

 宗太の目が見開かれる。拳が震えていた。

「清二。この答えはいつまですることになってる」

「明日には答えが欲しいと言われた。向こうから聞きに来ると言われたから、扇屋に来いと言っておいた」

「そうか」

 宗太は少しだけ考え込む風情を見せたものの、直後にこう言い切る。

「おいらはこの勝負、受けたい」

「勝てないぞ」

「そんなのは分からない」

「無理だ」

「やってみなければ分からない」

「分かる」

「分からん」

 清二と宗太の短いやり取りが続き、最後に清二が溜息をついた。

「そう言うと思っていた。だから、お園さんにもこう言った。宗太ならこの馬鹿げた話を受ける、と」

 そして清二は巳之助を見つめた。巳之助は黙って清二を見つめる。

「こっちも聞くまでもない顔をしている。お前ら、馬鹿か? それに付き合う俺も相当の馬鹿だがな」

「じゃあ、話はしまいだな」

「ああ、明日は俺が向こうの使いに啖呵たんかを切っておくからな」

「頼む」


「ちょっと待って。お願い、どうしてそんなに簡単に決められるの?」


 お園が涙目で尋ねる。

「しかも、こんなことになったのは私のせいじゃない。どうして恨み言の一つも言わずに、すんなりと勝負を受け入れるの? どうして――」

「どうしてって、なあ?」

 宗太が苦笑しながら清二と巳之助のほうを見た。清二は眉を顰めて宗太に顎をしゃくった。巳之助は笑っている。宗太は息を吐くと、お園の顔を見て微笑みながら言った。


「そいつはお前、仲間を笑われたんだから黙って引き下がっちゃいけないに決まってんだろ」

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