第九話 前夜

 夜、宗太が自室にいると襖の向こうから郁の声が聞こえてきた。

「宗太郎、もう寝ておりますか?」

 無論、起きていることを前提とした問いかけである。

「いえ、まだですが。どうしたのですか、母上。こんな時間に」

「ちょっと尋ねたいことがあるのです」

 郁が襖を開けて、部屋に入ってくる。手には簡単な行燈あんどんをぶら下げていた。

 宗太は慌てて居住まいを正して、布団の上に正座をする。それを見た郁は、くすりと笑った。

「左右太、いいから足を崩しなさいな」

 と、郁は相楽家に来てから初めて、昔懐かしい「おっかあ」の声を出した。左右太も、昔の名で呼ばれたことを察して目を白黒させながら足を崩すと、胡坐あぐらをかいて言った。

「おっかあ、どうした。殿様と喧嘩でもしたのか」

「そんなことしませんよ。右京様はいつもお優しい方だから」

「じゃあなんでこんな夜中に」

 江戸時代は陽が落ちたら夜中である。

 郁は、左右太の前にゆっくりと腰を下ろした。足を横に崩して座る。そんな郁の姿を見るのも久し振りだった。

 行燈の灯が揺らめく。その明かりに照らされた郁の顔には、穏やかな微笑みがある。

「左右太、お前、明日は何かしようと企んでいるわね」

 いきなり真正面からそう切り込まれて、左右太は焦った。

「えっと、それは一体どういうことかなあ――」

「しらばっくれても駄目ですよ。大体、隣の長屋の子供と大喧嘩する日とか、隣町まで出張って子分の仕返しをする日とか、そういうことをする前の日の夜に限って、左右太は真面目な顔をして静かにご飯を食べるんだから」

 駄目だ、全部見透かされている。

「明日何をするつもりかは知りませんけど、おっかあにちゃんと約束しなさい。明日、左右太がしようとしていることは、相手に怪我をさせるような危険なことではありませんね?」

「――はい。そんな危険なことではありません」

 左右太は、宗太郎に戻って背筋を伸ばして答える。

「なら構いません。全力でおやりなさい」

「はい、分かりました」

 しばし見つめ合う。郁の視線は依然として柔らかかった。

「宗太郎には本当に苦労をかけます。いまさら『武家の仕来りに慣れろ』などと、宗太郎にとっては一番苦手なことを押し付けてしまいました。これも私が好き勝手なことをしてしまったためです」

 そう言いながら、郁は宗太の手を撫でる。

「あのまま町人であったなら、左右太はもうどこかに奉公に出ていたでしょうに。そこで独り立ちしていたかもしれなかったでしょうに」

 そう言いながら、郁は宗太の手を撫でる。

「私にとっては幸せかもしれませんが、宗太郎にとってはどうなのでしょう。ずっと気になっていたのですが、なかなか話をする気になれずにいました」

 そう言いながら、郁は宗太の手を撫でる。 

「――ごめんなさいね」


 そう言った郁の手が、止まる。


 宗太は、出来るだけ明るく聞こえるように声を作った。

「母上が謝ることはありません。確かに武家は窮屈ではありますが、私はやるべきことを見つけましたから、もう大丈夫です」

 宗太は足を正座に戻す。そして言った。

「ただ、私も母上に尋ねたいことがあるのです」

「――何ですか」

 左右太は、にやりと笑ってこう尋ねた。

「おっとうだったら、こんな時何て言ったかな」

 郁はにっこりと笑うと、左右太の手を撫でながら言った。

「いいか、終いまで気ぃ抜くんじゃねえぞ。最初にがつん。終いにがつんだ。それで大抵のことは大丈夫だ」

 左右太はその答えに満足した。

 そう、嘉吉はまだ郁の心の中に生きているのだ。


 *


 姉のお道は、いつもの通り夜の遅い時間に帰ってきた。

 へっついかめから柄杓ひしゃくで直接水を飲んでいる。酒を飲んでいるのはいつものことだった。

 さすがにこの年になると、姉が働いている矢場がどんな場所なのか、清二にも分かる。しかし、矢場で矢取り女をしているのに、仲間連中からすると「身持ちが堅い」ということらしいから、意味が分からない。

「おっとうは?」

「俺が帰ったらもう寝ていた。朝『明日は朝から用人の送り迎えがある』と言っていた」

「そう、ふうん」

 お道はそう言って、清二の隣に座る。

「それで、あんたは何をしていたのさ。危な絵でも見てたの」

「違う。伝書を読んでた。どうしても思い出せないところがあって」

 清二は、行燈の明かりで古い巻物の文字を追いかける。

 この仙台藩上屋敷の長屋には、非常に珍しいことに「二階に小さな部屋が二つついている」ものがあった。今、片方には嘉平が寝ている。もう一方はお道が使っている。

 つまり、清二は主にこの階下の座敷部分を使っているが、日中は殆ど誰もいないし、各々の生活時間がずれているので、狭苦しく感じることもなかった。

 お道は清二にわざと凭れかかる。

「清二、あんた今、何か楽しいことしているでしょう?」

「してない。舟を漕ぐことだけで精一杯だ」

「嘘おっしゃい。たまに顔を見ると楽しそうにしているわよ」

「気のせいだ。あるいは、偶然楽しそうにしているところだけ見たんだろ」

「ふうん、つまんないの」

 お道は酒臭い息を吐いて立ち上がる。

「女でも出来たのかと思った」

「そんなわけないだろ。毎日仕事と長屋の往復なのに」

「途中でどこか寄ってくるとか」

「どこかって、どこだよ」

「知らないわよ、私はあんたじゃないんだから」

「全く適当だな。姉貴の方こそ男はいないのかよ」

「いるよ。いっぱいいて大変だ」

「客だろ。そろそろ真面目に考えろよ」

「はいはい。うるさいから寝る」

「おやすみ。足元気をつけて」

 お道は階段を踏みしめながら、二階に昇る。登りながら「さすがに今日は飲み過ぎたかな」と、少し反省した。

 清二に絡むとは。

(しかし、何故か絡んでも大丈夫そうな雰囲気だったな)

 二階のお道の部屋は、常に片付いている。物が散らばっていると落ち着かないのだ。その辺は、亡くなったおっかあに似たのだと思う。子供心に「生き方が綺麗な人」だな、と思った覚えがある。

 文机の上に巾着袋を置くと、衣紋掛えもんかけから畳んで掛けて置いた寝巻きを取る。

 本当は畳まないほうが折り目がつかなくてよいのだが、これも癖だ。

 着替えると、着物をちゃんと畳んで、こちらは行李こうりに仕舞った。どれだけ酒を飲んでいても、それは忘れない。

 すべて終わってひと息つく。

 すると、正面に置いてあった文机の上の鏡台の中に、二十の半ばを過ぎた大年増の顔があった。気を抜いているとこんなことがある。気を取り直して、にっこりと微笑む。これで五つは若返る。

(それにしても清二は変わった)

 お道は両膝を抱えて考えた。

(最近の清二は、必ず二つ以上のことを話す。昔は一つで、しかも短かった)

 女ではないにせよ、大事な仲間ができたのだと分かる。

 彼ら、あるいは彼女らと話をすることで、次第にほどけてきたのだろう。その友達にはいくら感謝しても、感謝しきれない。兄の死の責任に囚われていた清二を、それから開放してくれる。

 それは、私にもおっとうにも出来なかったことだった。

 そして、自分から何かしようという気になっている。自分から進んで伝書を読むなんて、今までなかったことだ。

 と、そこで一つ引っかかる。

(あの子、伝書のどこを読んでいたのかしら)

 今更、舟の漕ぎ方に関するところを読んでいたとも思えない。


 *


「おっかあ、教えてほしいことがあるんだけど」

 夜具の準備を終えた巳之助が、珍しく真剣な声で自分から尋ねてきたので、お佐紀は少し驚いた。

「何だい」

 裁縫の手を止めると、お佐紀は巳之助の方を見る。

「大したことじゃないんだけど――」

「早くおっしゃいな。裁縫の途中なんだから」

 というお佐紀の声にはけんがなかった。先程の巳之助の声に、まだ圧されていたからだ。

「その、おっとうのことなんだけど」

「……おっとうの、何だい?」

「その、細かいことが聞きたいわけじゃあないんだよ。おっかあは話したくないだろうから。ただ、その、例えば仲間を助けなければいけない時、おっとうならどうしたんだろうか、って思ったんだよ」

「なんでそんなことを急に」

「いや、本当にふと考えたことなんだ。だから、別に答えなくても――」

「そうだね……」

 お佐紀が急に考え込む様子を見せたので、今度は巳之助のほうが驚く。いつもならば、ここは怒鳴られるところだ。

 しばしの後、お佐紀は顔を上げて巳之助を見る。行燈のぼんやりとした明かりの中で、その表情は静謐せいひつに見えた。

「お前のおっとうならば、何をおいても仲間を助けに走るだろうね」

「そうなんだ。そうか。それはすごいや」

「……明日も早いんだろ。早く寝なさい」

「うん。おやすみ」


 夜具に潜り込んだ途端に、巳之助は眠りに落ちたようだ。

 疲れているのだろう。静かな寝息がお佐紀の耳にも聞こえてくる。

 彼女は頼まれものの布地を手にして、しばらく身動きできなかった。

(どうしてこの子は急におっとうのことなんか聞いたんだろう)

 お佐紀には巳之助に話していない秘密がある。

 十二年前の出来事。まだ幼かった巳之助を連れて、郷里を離れなければいけなかった理由。そして、元はといえば巳之助の父の「男気」がその原因であった。お佐紀の衣裳をつめた行李の一番下には、その結果として渡された「許し状」が眠っていた。

 だから、いつものお佐紀であれば、先程の巳之助の話も、

「自分の力を過信して無理に仲間を助けようとするなんて、馬鹿のやることだ。そんな無駄なことは絶対おやめなさい」

 と、厳しく注意するところである。それを、今日は口に出す寸前で押し留めてしまった。

(『口から先に生まれた女』と陰口をたたかれる自分にしては珍しい)

 お佐紀は自嘲する。

 理由はよく分からないのだが、巳之助の身投げ騒ぎの後から「人から自分がどう見えているのか」を、よく考えるようになった。そして、そこに浮かんできたのが「十二年間、必死に子供を守ろうとして無理を重ねた挙句に、周りが全く見えなくなっていた身勝手で哀れな気位だけ高い女」の姿である。

(自分一人では限界があるのだろうか)

 すっかりやる気を失ってしまった布地を眺めながら、お佐紀は考える。

(巳之助には男親が必要なのだろうか)

 そこで急に、一人の男の顔が頭に浮かんだ。

(……いや、それはない)

 お佐紀は急いで頭を振る。

 しかし、胸のざわざわとした感じはしばらく消えなかった。


 *


 その夜、お園は行燈の明かりの下で針仕事をしていた。

 目の前には黒くて長い布が四つある。それを細長く畳んで縫い合わせていたのだ。

 どちらかというと、お園はこういう細かい作業が苦手である。さきほどから何度も指に針を刺しては、小さい悲鳴をあげていた。染物のような力仕事や、大きな布を大胆に縫う作業ならば、さほど苦にもならないのに、細やかな縫い物となると途端に駄目になる。

(これも身体が大きいせいなのかしら)

 そんなことを考えながら指を動かしていたものだから、また針を刺した。

「つうっ――」

 今度はちょっと深い。指から血が滲み出してくる。

(黒を基調にしておいて本当によかった)

 と、お園は意味のないことで安心し、そして苦笑した。白を基調にしていたならば、この「鉢巻」は紅白のまだらが浮かんだ悲惨な状態になっていたに違いない。

 あと三つもあるのか、と彼女が少し途方にくれていると、後ろから、

「全くうるさくて仕方がないね」

 という声がした。

 驚いて振り向くと、お染が廊下に立っている。そういえば、お園は部屋の襖を閉めていなかった。

「開けっ放しで『ああっ』とか『ううっ』とかやるもんだから、気になってしょうがないじゃないか」

 自分より七つ上、姉と言ってもおかしくない若い後妻は、薄化粧をしていた。

 控えめな白粉おしろいの香りが、お園の部屋の中を漂う。女の自分から見ても艶やかな姿だった。

「何をやっているんだい」

 と言いながら、お染はお園の前に回り込んできた。目の前には細長く折った黒い布が四つある。お染はお園の前に座るやいなや、目の前に置いてあった予備の針と糸を手に取った。

「ちょいと貸りるよ」

 お染はそう言って、さらに鉢巻用の布を手に取る。お園は、その時にお染の真剣な声に圧されて、嫌も応も言えなかった。

「いいかい。こういう細かい針仕事はね、調子を取ってやるもんなんだよ」

 と、躊躇ためらいのない見事な手捌きで、小刻みに針を布に通し始めた。見事な運針に、お園の目は釘付けになる。それを続けながら、お染はぽつりと呟いた。

「遊女はね、こういうことは全部自分でやらなきゃいけないからね」

 お染は確かに前歴を全く隠していない。しかし、その時のお染の声音に潜んでいた自嘲の響きに、お園は息を飲む。

「ほら、こんな具合にやるんだよ」

 手渡された鉢巻の縫い目は、細やかで丁寧だった。

「本当に――何でもちゃんとできるんですね」

 お園は震える声で言う。僻みっぽい響きにならないようにしたかったが、上手くいったかどうかは分からない。

 お染はお園をじっと見つめると、小さく息を吐いて立ち上がる。部屋を出て、襖を閉めながら、

「私はね、客以外の人の心を捉えることが苦手なんだよ」

 と言って、お染は立ち去った。


 残されたお園は、丹念に縫い合わせられた鉢巻を手にして愕然とする。


 *


 その夜、仁吉は一人で猪牙舟を操って大川の上に出た。

 明日の勝負に備えて、その現場を確認していたのだ。口ではいつも強気なことを言っているが、仁吉は実際のところ慎重派である。今日も、万全を期すためにここにいた。

(それにしても――)

 やつらがこの勝負に乗ることは十中八九ないだろう、と仁吉は思っていた。

 公事まで引き合いに出して脅してはみたが、まあ乗るまいなと思っていた。

 そして、泣きを入れてきたところに散々嫌味を言ってやろうと思っていた。

 それで仕舞にする。後腐れなくだ。

 ところが扇屋に「泣きを聞く使い」に出したはずの男が、頭から湯気を上げて戻ってきた。

「あいつ、のっけから『俺達が勝ったら約束を二つ果たせ』と啖呵を切りやがった」

 泣きを入れられるどころか、逆に要求を叩きつけられてしまったのだ。しかも、その「二つの約束」というのが、

「一つ目、お園を笑ったことを謝れ」

「二つ目、佃島漁師について聞きたいことがあるから、正直に答えろ」

 これだけだった。

 こっちは「二度と江戸の海と川で舟を漕ぐな」とまで言っている。清二は明らかに船頭だから、他の者はどうだか知らないが、やつにとっては死活問題に違いない。にも関わらず、やつらの要求はこの程度のものだった。

(どこまで俺たちを舐めているんだ)

 と考えたところで、

(待てよ。いやいや、そうじゃない)

 仁吉は考えを改める。

 おそらく、清二たちは佃島漁師を舐めているわけではない。舐めていたら、もっと大胆な条件を示しているはずだ。「お前たちも二度と江戸で舟を漕ぐな」ぐらい、言ってもおかしくない。お互い様だからだ。

 しかし、それこそ漁師にとっては死活問題である。

 恐らく、清二たちはそこまで理解した上で、現実的な条件を出してきたに違いない。

 だからと言って「絶対に勝てる」と過信している訳でもない。厳しい勝負になることは予測しているだろう。いや、実際は負けを半ば覚悟してのことかもしれない。使いの者は怒りながらも「彼は終始落ち着いており、無駄な口を一切叩かなかった」と話していた。そこからも分かる。

 現実が見えていない者は、吠える。

 現実が見えすぎている者は、黙る。

 やつらには「負け戦かもしれないが、受けなければいけない」理由があったのだ。そして、それは――恐らくお園のことだろう。

 あの時、仁吉は清二を挑発するために、あえてお園のことを笑った。仁吉自身も忸怩たる思いで笑った。

 ところが、やつらはそれを「ただの挑発」とは考えずに、それ自体を撤回させるべく、すべてを投げ出して勝負をかけて来たのだ。

(まったく、どこまでおめでたいんだよ。佃島漁師の押送舟に勝てるわけがないだろうに)

 仁吉は暗闇の中でうっすらと笑う。

 しかし、それは決して嘲りの笑いではなかった。

(そこまでして、女の心を守ろうとするかよ)

 彼の顔には、むしろ爽快と言ってよいほどの気持ちの良い笑いがある。

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