第七話 暴漕上等

 嘉助は頭を捻った。

(このところ、清二の漕ぎがどこか変わってきたような気がするが――)

 向かい側から足の速い押送舟が来た時のぎこちなさは、相変わらずである。

 しかし、それ以外の漕ぎは以前よりも滑らかになっているような気がする。

(何か心境の変化でもあったのかね)

 そういえば、清二の表情は以前と同じく生硬いままだったが、心なしか角が取れてきたような気がする。微妙な変化なので、始終顔をつきあわせている者でないと分からないだろう。

 また、清二は確かに漕ぎが上手かったが、以前のそれは客のことを考えた結果ではなかった。身に着けたことをそのままやっていれば自然に舟が安定するので、客がおのずから喜んだだけのことである。嘉助から言われたことはちゃんと直そうとするものの、自分からは特に工夫をすることがない。 それは「言われたことしかやらない」という狭い料簡ではなく、新しいことに目を向ける心の余裕が清二になかったためである。

 それが、近頃は客の反応を見ながら、微妙に櫓の加減をする様子が見られた。特に、年寄りや女子供が乗っている時などは、舟の漕ぎの柔らかさや波の躱し方の滑らかさなどに、細やかな配慮が見られるようになっている。

 そして、清二自身は「自分がそうしていること」に、全く気が付いていないようなのだ。

「清二、お前何かあったのか」

 その日、嘉助は思わずそう口に出してしまった。

 清二から返ってきた答えは、

「特に変わったことはありやせんが」

 と、これまでと変わりないぶっきら棒なものだったが、そこにも細かい変化がある。以前なら「特には」あるいは「ありやせん」で終わっていたはずだ。日常会話の言葉数が、心なしか増えていた。


 *


 客を深川まで送り、そのまま戻ってきた嘉助と清二は、扇屋の桟橋に猪牙舟を漕ぎ寄せる。

 すると、その姿を目にして店からお国が姿を現した。お国が、なにやら要領を得ない顔をしているのが、遠目でも分かる。

「清二、お前に会いたいと言っている人がいるよ」

 と、彼女は清二に向かって声をかけた。

「おいらにですか」

「そう、しかも若い娘さんだよ。昼間っから男を探してやってくるなんざ、普通なら感心しないところだけど、なんだか真剣な顔なのでねえ。事情がありそうなので、上の座敷で待たせてある。だから、さっさと行っておあげ」

「へい」

 聞いた当の清二も要領を得ない顔になった。

 彼は上背があり、見栄えも決して悪くない。町人の娘に岡惚れされた経験も何度かある。しかし、わざわざ日中に船宿まで乗り込んでくるような大胆な相手には、とんと覚えがない。最近は、粘りつくような視線を感じることがなかったので、一層身に覚えがなかった。

 扇屋の裏にある勝手口から入り、土間で足をすすいでから板間に上がる。急な階段をゆっくりと登って二階の廊下に出ると、一番奥にある座敷に向かった。

「失礼しやす」

 襖を開けて入る前に、中にいる客にそう告げると、

「どうぞ」

 と、存外に落ち着いた声がしたので、清二はさらに訝しい気分になった。どうやら、のぼせ上がった末の暴挙ではないらしい。引き違いの襖に右手をかける。

「お待たせしてすいやせんでした」

 と、頭を下げ、元に戻しながら相手を見た清二は、思わず目を見張った。

(でけえ女だな――)

 座布団の上に居住まいを正して座る女は、さすがに清二よりは背丈が低そうだが、それでも女にしては上背がある。相撲取りのような、あるいは日を浴びて膨らんだ布団のような女なら、商家の内儀にたまにいるので、清二も馴染みがあった。しかし、大きく、かつ締って見える女というのは珍しい。

 眉を剃っていないことから未婚と分かるが、それにしても立派な眉だ。そこに意志の強さがはっきりと表れている。手強い人相だ。瞳が奥行きを感じさせるほどに透き通っていて、それが印象的だが、今はそれが細められていた。

(こいつぁ、『大女』と思ったのがばれたな)

 と、清二は自分の不躾さを申し訳なく思った。女の真正面から少しだけ横に座布団の位置をずらすと、ひっくり返してその上に正座する。

「清二でございやす」

「深川にございます『丸木戸』の娘で、名を園と申します。お初にお目にかかります。本日は不躾な仕儀となりましたこと、誠に申し訳ございません」

 背筋を伸ばし、礼儀正しくお辞儀をしながら、用件より先にまずは謝罪の言葉を口にしたお園に、清二はやはり見覚えがなかった。ただ、

「丸木戸といいやすと、染物の――」

 お園の家のほうは、さすがに船頭をやっているので知っている。扇屋の得意先ではないが、そこそこ名の通った大店だ。

「そちらの娘さんが、いってえあっしに何のご用で」

 彼は率直な物言いをした。

「はい。三日ほど前のことになりますが――」

 ここでお園は、前かがみになって声をひそめる。清二も思わず背中を丸めた。

「夕刻、小名木川で猪牙を漕いでおりませんでしたか」

「――人違いでございやす」

 清二は即答した。内心、目撃されてしまったことに動揺していたのだが、おくびにも出さない。

 お園は目を見開いた。清二がここまで見事にしらを切るとは思ってもみなかったのだろう。両の拳をきゅっと握りしめたが、声音は元の通りのままで言った。

「左様でございますか、それは大変失礼いたしました」

 そう言って頭を下げる。清二はお園の料簡がよく呑み込めていなかったが、すんなりと引きそうなので胸を撫でおろす。と、そこにお園が返す刀で切り込んだ。

「では、巳之助さんか宗太さんに伺うことにします」

 清二はぐうの音も出なくなる。

「――確かに漕ぎましたが、それが何か?」


「――で、どうしてこうなる?」

 合図を受けて裏の桟橋に出てきた宗太は、巳之助の説明を聞いてそう呟いた。

 清二の猪牙舟のど真ん中には、お園が鎮座している。

「おいらにもよく分からないけど――」

 急に清二のところに押しかけてきて、清二がしらばっくれると巳之助や宗太のところに行くと言う。

 巳之助のところに押しかけると、巳之助に迷惑がかかる。

 宗太のところに押しかけたら、お園のほうが只ではすまない。

 仕方なく、清二は仕事が終わるまでお園を待たせて、ここまでつれてきたのだという。

 用件を聞いても、

「お願いがある。舟に乗せてくれ。理由は三人が揃ったところで話す」

 それしか言わないらしい。

「ふうん。そうかい」

 宗太はそこまで聞いて、それ以上の詮索を止める。

「じゃあ、仕方がない。ゆっくり話を聞こうじゃないか」


 その間、お園は宗太の様子をずっと眺めていた。

 正直、自分でもどうしてこんなに強引に話を進めているのか、理由が分からない。分からないが、「これからの自分に必要なことをしている」という自覚だけはある。三日前のあの日、視界から遠ざかっていった猪牙舟の姿が脳裡に鮮明に焼き付いて、そのまま離れない。

 制止した状態からの始動。

 始動した後の伸びるような加速。

 それがどうしても忘れられない。

 理屈はなかった。ただ、今自分が陥っている泥沼のような停滞から抜け出すための答えが、そこにある気がした。

 宗太は話に納得したようだ。舟のほうに近づいてきた。そして、彼は猪牙舟の胴の間に腰を下ろすと、

「お園さん。話は舟を出してからのほうがいいのかい。それとも、ここで話すほうがいいのかい」

 と、さらりと言った。

「え――」

「何か人に聞かれたくない話をするのなら、舟を出した後のほうがいいぜ。しかし、それじゃあ逃げ道がなくなるので困るということなら、桟橋につけている今のうちに話してくれ」

 宗太はそう言うと、目でお園を促した。

 さて、今度はお園自身が困る。確かに宗太の言うことはもっともだ。男が三人も乗った舟で沖まで出られたら、お園には太刀打ちが出来ない。

 一方で、全然そんな危険性を考えていなかった自分の浅墓さが恥ずかしくなる。既にここまで、清二と巳之助が乗っている舟で、黙ってついて来てしまった。若い娘なのに――迂闊うかつにもほどがある。

「あの、ではここで」

 と、言ってはみたものの咄嗟とっさに声がでない。

「分かった。ただ、ここは直参旗本の屋敷裏なのでね。手短に話してくれると助かる。家臣が気づくと面倒だ」

 と、笑いながら言った宗太に、完全に主導権を握られて、お園は三日前の夕方の話を始めた。


「つまり、三日前に見た猪牙舟の速さが忘れられない。何か自分に必要なものが、そこに隠されているような気がしてならない、ということか?」

 自分の散らかってしまった話を宗太にあっさりとまとめられて、お園は顔を赤らめながら首肯しゅこうする。同時に、その内容のあまりの荒唐無稽こうとうむけいさに、自分でも唖然あぜんとしていた。たかがそれだけのことで、三人の男を探し出して「舟に乗せてくれ」とお願いするとは、自分でも自分のことが信じられなくなった。正気の沙汰とも思えない。

「あの――すいません。なんだか私の勝手な思い込みでご迷惑をおかけしてしまったようです。変ですよね、こんなの」

 お園は正直に謝った。ところが、

「いや、変じゃねえ」

 と宗太が言う。お園が驚いて宗太の顔を見つめると、彼は真剣な顔をして考え込んでいた。

 見れば、巳之助も清二も同じように考え込んでいる。

「全然変じゃねえよ。ただ、俺も何と説明したらいいのか分からない。一番いいのは――」

 そう言って、宗太は巳之助と清二のほうを見る。二人とも頷いた。

「――実際に乗って、感じてもらうことだ。そのほうが手っ取り早いさね」

 

 三人が猪牙舟を漕ぎ始めてから、その時点でひと月ほど経過していた。最初のうちは人目を避けるようにして江戸の湾内で漕いでいたのだが、さすがに波の影響がある湾内は底の平たい川船には厳しい。そこで一週間前から、常に場所を変えながら、川や掘割で人目がない時刻を選んで練習を重ねるようにしていた。

 そのうちの一つをお園が目撃したのだ。

 小名木川で漕いだのはあの時が初めてであり、その後も行っていない。従って、あの時間、あの場所にいなかったらお園は目撃することがなかった。「運命の出会い」というほど高尚なものではないが、お園にとっては「運が良かった」といえる。

 かれらは、お園の帰り道のことを考えて、その日は小名木川まで遡上して練習することにした。

 相楽家の舟着き場を離れ、江戸湾を大川に向かって上る。舳に宗太が座り、その後ろにお園、その後ろに巳之助が座った。

 清二が櫓を漕ぐ舟は、滑らかに江戸湾を進んでゆく。以前に乗った猪牙舟と違ってあまりに滑らかだったので、お園は驚いた。ただ、その日、お園がもっとも驚いたのは別な点である。

 目の前の宗太の後ろ姿を見つめながら、お園は思った。

(この男、私を見ても全く顔色を変えなかった)


 *


 小名木川は、江戸時代初期に建設された全長約五キロの運河である。現在の東京都江東区を東西に横断し、江戸の大動脈である大川と中川を結んでいた。北側を並行している竪川や東側を並行している仙台堀川とは、横十間川や大横川によって繋がっており、この一帯が繁栄する基礎となった。

 この運河が開削されることになったきっかけは、徳川家康が兵糧として欠かせない「塩」を確保するために、行徳の塩田に目を付けたことである。ところが、行徳から大川まで塩を運ぼうとしたところ、江戸湾岸は浅瀬が多くて船がしばしば座礁したため、沖合を大きく迂回する航路をとらざるをえなかった。そこで、徳川家康は川の名前の由来となった小名木四郎兵衛に命じて、運河を開削させたのである。

 小名木川が開削されると、当初の目的であった行徳からの塩の運搬だけでなく、成田山への参詣客を運ぶ便船が発達した。また、新川、江戸川、利根川から小名木川を経由して、近郊の農村から採れたての野菜が、東北地方から年貢米が運ばれてくるようになる。そうすると、幕府もその物流量を無視できなくなり、大川と接する場所(現在の万年橋付近)に番所を設置して、積み荷を改めることにした。これが舟番所の始まりである。これが、明暦の大火、いわゆる『振袖火事』の後に、市街地や掘割の拡大に伴って中川側に移転されて「中川番所」となった。

 なお、運河の開削とほぼ同時期に、小名木川の北側部分を深川八郎右衛門が開拓し、その名を取って一帯が「深川」と呼ばれるようになる。さらに、慶長年間には小名木川の南側、湾の沿岸部が埋め立てられて、江戸の町が拡大していった。

 お園の生家である『丸木戸』は、この小名木川の南側にある。


 *


「ここでよかろう」

 宗太が周囲の舟の様子を見定めて、言った。小名木川の大川寄り。清二はそこに猪牙舟を停める。

「お園さんは舳のほうに移ってもらえないかな」

 そう言うと、宗太は身軽にお園の横を抜けて、艫に移動する。傍らを抜けていく時に、宗太の衣から微かなよい香りがして、お園はどきりとした。

 彼が直参旗本の嫡男であることを意識する。同時に、それにしては低い、というよりも町人としか思えない宗太の物腰に驚く。ここまで得体の知れない、見た目、行動、身分の落差が激しい人物は、今までお園の周囲にはいなかったので、彼女はなんだかいつもの調子が出なかった。そのため、宗太の言うことにいちいち従って振り回されてしまうのだが、それが決して不快ではなかった。

 お園は、我儘ではないが自分を持った江戸の娘である。道理に合わない話や高飛車な物言いには、脊髄せきずい反射的に反感を持つ江戸っ子である。その彼女が、宗太の言うことに素直に従って、狭い舟の中を右往左往している。いつもの自分ならば、嫌味の一つも口にしそうな扱いだったが、全くそんな気は起こらない。

 宗太を含めた三人が、お園の話を真面目に受け止めて、その願いを叶えようとしているからだろうか。そんな気もするが、よく分からない。

 ともかく、お園は揺れる舟の上を舳のほうに移動した。

 その後ろ、すこし間を空けたところに、清二が背中合わせに座る。お園が振り向いてみると、彼は何やら金具を舟縁に取り付けていた。その向こう、艫側に座った巳之助も、同じような金具を反対側の舟縁に取り付けていた。

 最後尾の艫に座った宗太は、舵を据え付けていた。

 金具を取り付け終えた清二と巳之助が、舟から彼らの背丈ほどもある櫂を取り出す。

「準備はいいかな。お園さんは前をしっかり向いて、舟の縁をしっかりと掴んでくれ」

 宗太の声が凛と通る。お園は舟縁を握って身構える。

 彼女は小名木川の中川口方向を向いているから、陽は後方に沈んでいる。

 真っ直ぐな河岸にちらほらと松があり、その向こうの家々が見える。

 そして、前方にはまっすぐ伸びる小名木川。次第に闇が落ち始めていた。

 横目で、清二の櫂が水面と平行に構えられているのが見える。

「十本、いくぞ」

 宗太の声が川面に響き渡る。

「やああっ」


「せーい」 漕ぐ。 お園の身体がふわりと上がる。

「やあっ」 櫂を返して、

「せーい」 漕ぐ。 お園はすいっと水面を滑った。

「やあっ」 櫂を返して、

「せーい」 漕ぐ。 お園はぐいっと勢いに乗った。 

 視界が狭まる。

 風が渦巻く。

 耳元で唸る。

 髪が激しく弄られる。

 魂から邪魔なものが抜かれる。

 素の自分が前に突き出される感じがする。

 背筋が泡立つ。

「やめ!」 櫂が上がる。

 しかし、舟はすぐには止まらない。しばらく名残が続く。

 びゅうびゅうと後方に流れてゆく風。

 次第に遅くなっていく舟。

 それとともにじんわりと広がってゆく視野。

 景色が遠ざかってゆく。

 いつもの世界に戻る。

 そして――


 お園は我知らず涙を流していたことにやっと気づいた。


 お園が落ち着くまで、彼らは何も言わなかった。

「すみません。よく分かりました――」

 お園は袂から手拭いを取り出して涙を拭く。

「私はこうやって、何かを拭い去りたかったんです」

 彼女は後ろを振り向かずに、自分のことを話した。

 優しかった実母のこと。

 後妻が家業を専横していること。

 実父がすっかりやる気を失っていること。

 そして、自分の背丈に対するひけ目。

 それが差し障りとなって後妻に強く出られない自分。

 そんなことを洗いざらい、話していた。

 彼らは決して口を挟まずに、静かに聞いてくれた。

「――この間、舟が走り去るのを見たときから、どうしてもここに座ってみたかったんです。新しいものが見られそうだったから」

「で、どうだった。新しいものは見えたかい」

 宗太の声がひどく優しく聞こえた。お園は顔を向けられずに、ただ頷く。


 お園を帰らせるために、舟を岸に寄せる。

 彼女はあれからずっと黙ったままだった。三人はあえて声をかけずに、黙々と舟を漕ぎ、舵を切る。

「――あの」

 しばらくして、お園が小さな声をあげた。そして後ろを振り向くと宗太を見つめた。

「皆さんは、いつもその格好で漕いでいるんですか?」

「へっ? ああ、まあ大体そうだな。いつもこんな格好だよ」

「そうですか――」

 言葉を切って思案する様子を見せるお園。宗太が訝しげな顔をしていると、

「それだと、この間の私の時のように、誰かが皆さんのことに気がついたりしませんか?」

 と、お園は言った。

「それはそうだ」

 清二が呟く。

「あんたが気が付いたんだしな」

「そうなんです。で、それでは困りませんか」

 三人は顔を見合わせる。それは――困る。

 清二はさすがに本職の船頭だから、そんな遊びに舟を使っていることが分かるとまずい。

 巳之助も勤め人であり、「変な遊びにうつつを抜かしている」と評判が立つとお佐紀が黙っていない。

 宗太は直参旗本の嫡男であるから、こちらは家名に傷がつく。

「ですから、覆面のような『顔を隠すための装束』が必要ではありませんか」

「お園さんの言う通りだけど、しかし、そんなものをどこでどうやって作るんだい? うちのおっかあに頼んだら半日は小言を食らうよ」

 巳之助が首をすくめた。

「――私が準備します。染物屋ですが、仕立屋とも付き合いがありますから」

 お園は決然と言い放つ。

「なんであんたが?」

 清二が切り返す。

「今日のお礼です」

 さらにお園が即答する。

「私は今日、とても凄いものを見せてもらった。装束はそのお礼です。それから、舟を漕ぎ始めたのは最近ということでしたよね」

 お園は宗太のほうを見た。

「そうだよ。だから、まだまだこれからのところが多い」

「では、更に速くなるんですよね」

「そうなる。今日の漕ぎが最高とは言い難いのも事実だ」

「それを、私にも見せて頂けませんでしょうか」

「どうしてそこまで執着する? さっきのでは不満だったのか」

「いえ、そんなことはないんです。とても凄かった。思わず涙が出るくらいに。でも、これからさらに凄くなるはず。もっと大変なことになるはず。そして、また何時かさらに凄いものを見せて頂けるような気がするんです。それを私も見てみたくなったんです」

 そこまで一気にお園は言い切って、ふと勢いが鈍る。

「でも、勝手ですよね。無理を言って急に乗せてもらって、さらにお願いなんて。すみません、分かってはいるのだけれど……」


「いいよ」


「えっ?」

 宗太のあまりにもあっさりとした承諾に、お園は驚く。

「さっき聞いたけど、あんたもいろいろ困っているんだろう? あんたにだけ話させて黙っているのも心苦しいから、これからおいおい話すけれど、俺たちも一人ひとり困ったことを抱えている。舟を漕ぐのはその憂さ晴らしでしかないから、いつかは止めることになるが、それでもかまわないって言うのなら――」

「構いません、全然構いません」

 お園は顔をほころばせる。

「だったらいいよ。これからも宜しく」

 宗太は至って気安くそう言った。

 お園は、清二や巳之助の気持ちを確認しなくてもよいのかと逆に心配になったが、他の二人も即座に、

「宜しく」

「宜しくお願いします」

 と追随した。そこまで心が通じ合っているのかと、お園は羨ましく思う。

 宗太は照れたような言い方で付け加えた。

「お園さんが言った覆面は確かに妙案だった。俺たちはそんなこと、思いつきもしなかったよ」

(正確には一人だけ、それに近いことを考えていた者がいるのだが、ここではまだ触れない)

 褒められたことが嬉しかったのか、お園は目を輝かせて言った。

「それに、他にも準備したいものがあるんです。装束で姿を隠す一方で、逆に皆さんの心意気を伝えるものが欲しいなって。そうですね、旗なんかを立ててですね、そこに威勢のよい言葉を。例えば『暴漕上等』とか、こう大きな文字でですね。でん、と――」

 夢を見るように遠い目で語るお園に、三人の目が点になる。

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