第三話 巳之助
「うちの巳之助は大層働き者なんです」
お佐紀は善吉の目を真っ直ぐに見つめ、背筋を真っ直ぐに伸ばして少々甲高い声で言った。
「どんなに小さなことでも手を抜いたりしません。物覚えもよくて、子供の頃から一度教えたことは忘れたことがありませんでした。手習いのお師匠様からも褒められたことがあります。巳之助は聞き分けの良い、手を煩わすことのないよい子だ、と。長屋の中でも、何か困ったことがあったら真っ先に声をかけられるぐらい面倒見がよくて。少々、面倒見がよすぎるので困りものなんですが――」
(よく動く口だ――こういう手合いは好きになれねえな)
善吉は心の中で苦虫を噛み潰しながらも、表向きは無表情で聞いていた。
そして、当の巳之助はというと、母親の後ろで大きな図体を縮めて畏まっている。正座した膝の上にある両の拳は堅く握られていた。
「ですからねえ、きっと立派な大工として早いうちから一人前に――親方、聞いていますかね?」
「大丈夫、聞いてるよ」
善吉はそう答えながら、その実、お佐紀の話なんぞまったく聞いてはいなかった。
(しかも
大工の棟梁としていろいろな普請場で様々な施主とやりあってきた経験から、善吉にはこの「巳之助とお佐紀」の関係についても、鼻からだいたいのことが呑み込めていた。
「同じ長屋に、体格が良くて力もある十二の坊主がいるんだが、大工に向いていると思うので会ってもらえまいか」
同じ普請場にいた左官の親方からそんな話を聞いたのは、つい昨日のことだった。
このところ縁の深い先からの、断り難い普請の依頼が相次いでいたので、手は全然足りない。十二ではまだまだ元服前の子供だが、材木運びでも何でもやってくれれば有り難いほどの忙しさだったので、善吉は気安く引き受けた。
普通なら左官の親方とは別な者、例えば長屋の大家かなんかが間に立って、日取りと場所をあわせてから本人を連れて会いに来る、というのが筋の通った段取りのはずだが、翌日の朝、いきなり当人とその母親が戸口の前に立っていたのには驚いた。
「左官の親方から話はしておいたと聞いたので、急いでやってきました」
と、お佐紀は少々息を弾ませながら言った。
(まさか、今朝、親方から話を聞いて、そのまま飛び出してきたんじゃないだろうな)
手土産の一つも持たずに、傘だけを握りしめて二人は立っている。そのことからも分かるように、その日は朝から雨が降っていて、大工は仕事にならなかった。だからよかったものの、晴れの日だったらすれ違いになるところである。恐らくこの勢いから察するに、晴れた日でもそんな
とりあえず、立ち話じゃあなんだからと中に案内して、腰を落ち着けて話を聞き始めてはみたものの、のっけから母親が一方的に「息子のよいところ」を自慢するだけで、当の本人は一言も発していなかった。
「行儀作法についても、日頃から気を付けておりますのでね――」
「あの、ちょっと待って下さいよ。息子さんが立派だってことはだいたい呑み込めたから、今度はこっちから少し聞かせてもらいたいことがあるんだがね」
「――ああ、そうですか。聞きたいこと、というのは何ですか」
気持ちよく話をしていたところを急に遮られて、お佐紀は少し気を悪くしたらしい。急に『紋切り型』のそっけない口調になった。
「坊主はなんで大工をやりてえんだい」
「それは、うちの巳之助が――」
「待って下せえ、おっかさんではなく坊主から話を聞きてえんですよ」
善吉はぴしりとお佐紀を遮る。
さすがは普請場を仕切り慣れた男の、腹の座った鋭い物言いに、お佐紀も黙る。ただ、見るからに気分を害したようで、ぷいと横を向いてしまった。
(こいつはまるでガキだな)
善吉はお佐紀の気分には取り合わずに、巳之助のほうを見た。巳之助は相変わらず拳を握って下を向いたままだった。
「どうしたね」
善吉が促すと、巳之助はのろのろと上体と顔を上げて善吉のほうを見る。
(ほう――なるほど)
縮こまっていたので分からなかったが、十二にしては身体が大きく、適度に引き締まっており、無駄なところがなかった。気弱そうな風情ではあるものの、目の力そのものは弱くない。人品骨柄も卑しくない。その点は母親の言う通りである。
善吉は巳之助のことが一目で気に入った。
「どうだい、訳を聞かしてはくれねえのかい」
善吉は、さらに身を乗り出して巳之助に聞いた。その勢いに押されるように少しだけ身を引いた巳之助は、お佐紀のほうをちらりと一瞥する。
「聞かれているんだから、さっさとお答えなさいよ」
お佐紀が、さきほどの「立て板に水」の自慢話を垂れ流していた時とは打って変わって、厳しい口調で言った。巳之助の拳が微かに震えるのを、善吉は見逃さない。
「……おいら、大工になりてぇんです」
巳之助はそれだけを、小声で絞り出すように吐き出した。
「それじゃあ、どうして大工なのかが分らねえ。坊主の図体なら船頭だろうが、駕籠かきだろうが――」
「ちょっと待って下さい。うちの子を駕籠かきにする気なんかありませんよ」
お佐紀が急に金切り声を上げて、善吉に喰ってかかる。
「喩え話ってもんですよ」
「それにしたって、もっと言いようがあるじゃないですか、よりにもよって駕籠かきなんて下賤な――」
(ああ、こいつぁ面倒臭せぇやつだ)
気位だけが高くて実のない武家にたまにいる、喩え話や冗談が一切通じない
(すると、おっかさんは武家の出か。苗字を名乗らぬところを見ると、先代ぐらいのところで士分を失ったようだな)
「そいつはすまねえ。謝るから、ちょいと静かにしてくれ」
善吉は再び重い声で、ぴしりと話を切った。
お佐紀は、なおも口の中でもぞもぞと文句を言っていたが、善吉は聞こえないことにした。
「で、どうなんだい坊主。なんで大工なんだ」
巳之助は、やはりちらりとお佐紀のほうを見る。
「ちょいと――お佐紀さんといったかな」
「なんですか」
お佐紀は、憮然とした口調で答えた。すっかり「ここに来た目的は何であったのか」を脇に置いてしまったらしい。最初は一見して礼儀正しくて愛想もよいが、話が自分の思い通りにならなくなると、途端に不機嫌になって礼儀を忘れてしまうところが厄介だった。
善吉のように、時にはぴしりと打ち据える大人が周りにいないまま、甘やかされて育ってきたのだろう。姿形の見栄えがよくて、十二の子持ちに見えないほど艶があることも、お佐紀にとっては
「ちょっと坊主に大工道具の話がしたいのでね、
善吉は深々と頭を下げた。お佐紀は、
「そんなに頭を下げられたら仕方がないね、わたしゃここで待たせてもらいますから、お好きになさって下さいな」
と、急に
意味もなく我儘なやつには、必要以上に下手に出て持ち上げる以外、対処のしようがない――これも善吉が長年の経験から得た処世術の一つだ。
巳之助を促しながら、善吉は奥の『細工場』に入った。
細工場というのは、慌ただしい普請場で仕上げるのが難しい細かい細工物を事前に仕上げる作業場である。職人たちが朝晩、行き届いた清掃をしているので、中には清々しい空気が流れていた。
道具や作業後のくずの片付けを疎かにするのを、善吉は一番嫌う。職人たちが入り乱れる普請場であれば、細かい木くずが散乱するのはどうしようもないが、せめて「自分たちが朝来た時よりも少しはましに」見えるように片づけてから帰ることにしていた。
もちろん、そんなことをしても手間賃は増えない。よほど目敏い施主でなければ気が付かれることもない。それでもなお心を配るよう、善吉は職人たちに教え込んでいた。
すると、見ている者は見ているもので、善吉が足を踏み入れる普請場は後始末がよい、との評判が立つ。それを目当てに仕事を頼む施主がいる。期待されるから、職人も現場の清掃に力が入る。整理整頓が行き届いた現場は、思わぬ事故が起こりにくい上に、物を探す時間などの無駄が少ない。納期が確実に守られて、場合によっては早めに終わることもある。
そうなると人伝てに良い評判を呼ぶ。次から次へと上手く回っていった。
評判が高くなると、無理に仕事を入れたくなるのが人情である。しかし、善吉はその点にも心を配っていた。
作業の量が問題となる普請については、自分たちの成長にも繋がるので、縁の深い先からの依頼は基本的に受ける。そこに、作業の質が問題となるような仕事が嵩んで、今の職人たちで受け切れる自信がない時には、どんなに関係の深い先の、どんなに割の良い仕事であっても、決して受けなかった。身の丈に合わない仕事で「質」を落とすことは、長い目でみて自分たちのためにならないことを自覚していたのだ。
一方、断らなければいけなかった施主の仕事については、次の機会には一層力を入れて仕上げるようにしていたから、施主のほうも
「まあ、今回は仕方ないやね。次回はなるべく早めにお願いするから宜しくお願いしますよ」
と、気持ちよく引き下がっていった。
実は、お佐紀が善吉の元に巳之助を送ろうとしたのも、この高い評判を聞きつけてのことである。
お佐紀はともかく『一番』や『最善』が好きだった。先立つお金がなければ出来ないことはともかく、手が届く範囲のものであれば、
それにもかかわらず、お佐紀には「その高い評判が、どのような地道な努力によって時間をかけて培われたものか」までを理解することはできなかった。さきほどの対応から、お佐紀は善吉が『有名になったことを鼻にかけて威張っているいけ好かない男』だという先入観を芽生えさせており、そして、そのような歪んだ第一印象の種を自ら間引くことが出来ない
見栄えの良さから、人が始終寄ってきては甘言を弄する。
そして、次第に見えてくる本性に
渦中にあるお佐紀本人には、この動きはまったく察せられない。
傍らでその流れを常に眺め、そして辟易しつつも決して離れることができない者にとっては、とても辛い
「正直に話をしようじゃないか」
善吉は、細工場の片隅に設えた縁台に巳之助を座らせると、自分もその隣に座った。
この時代の日本人は、罪人を裁く時でもなければ、決して相手の目を見据えながら話をすることはない。先程までのお佐紀のやりようは極めて不躾なものであったが、善吉は言っても分からない者に丁寧に説明するほど、暇ではなかった。
「お前さんは別に、大工になりたいわけではないのだろう」
善吉が先程までとは変って、落ち着きのある深い声で言った。
その変化に驚き巳之助は顔を上げる。
「おっかさんに言われるがままに連れてこられたのではないかね」
善吉が巳之助のほうに顔を向けながら、そうゆっくりと言った。
巳之助は、そのように穏やかに話をされることに慣れていなかった。
いつも、お佐紀から、
「言いたいことがあるなら早く言いなさい」
「ぐずだねお前は、ちゃっちゃとやりなさいよ」
と早口で言われ続けていたので、善吉が先を急がずに、巳之助の心が定まるのを待っているような言い方をしてくれたことに、素直に驚いていた。
「おいら、おいらは……」
いつもせかされてばかりなので、巳之助の心は定まらない。善吉はせかさず、煙管に煙草を詰めながら待っていた。
「おいらは、大工になりたくないわけではないんです。細かい手作業は嫌いじゃないし、長屋のみんなからも上手だ、丁寧だってほめられるし。身も軽いほうなので、高いところに昇るのも得意だし。力もあるから――」
と、そこで巳之助が口を止める。両の拳をからめていた。
(長く喋るのに慣れていないんだな)
善吉は煙草に火をつけると、ゆっくりと一息吸い込んだ。
巳之助は拳をこねくり回していたが、ふと動きを止めると、善吉のほうを向いて言った。
「だから、大工には向いていると思うんだけど……」
「けど、どうしたね」
「……」
巳之助は目を下に落す。どう言ったらよいのか分からないのだろう。
「手が器用で細工物が得意だったら、飾り職という道もあるだろう?」
善吉親方が言うと、巳之助はびくりと身じろぎした。そして、居心地悪そうに前後に身体を揺らす。
その様子を見て善吉は気が付いた。
(ああ――居職が嫌なんだな)
職人仕事には自宅に居ながらにしてできる飾り職や裁縫、版木彫りなどの居職と、外で働く大工や棒手振り、駕籠かきなどの出職がある。巳之助は家に居たくはないので、出職は望みどおりなのだろうが――
「大工になることに何か差しさわりがあるのかい」
「――おっかあが一人で困るから」
苦しそうな小声でそう巳之助が言った。
お佐紀は人前では働き者で通っていたが、家のことになると何もしなかった。
父とは死別したという。女手一つで巳之助を育てるために、家での裁縫仕事を中心にさまざまな仕事を頼まれてはこなしていた。この「女手一つで子供を育てる」のは大変なことであり、巳之助もそのことはよく分かっていた。
ただ、外の仕事が立て込んでくると、お佐紀は家のことを後回しにする。飯の支度が疎かになるのはいつものことで、巳之助が空腹を訴えようものなら、
「お前にはおっかさんがお前のために一所懸命働いているのが見えないのかい。もう少し我慢することはできないのかい」
と、小言が延々と続いた。そんなに小言を言っている暇があったら、飯の支度もできそうなものなのに――と巳之助は思わないでもなかったが、それを口に出すとさらに小言が長くなるので黙っていた。
次第に、家の中のことは巳之助ができるかぎりやるようになって、お佐紀はさらに家のことをやらなくなる。しかも巳之助がやらないでいると、
「お前は大変なおっかあの手助けもしないのかい」
と始まる。巳之助は、
「どうして自分はこんなことまで自分でやらなければいけないのか」
と思いはするものの、やはり黙っていた。そうこうするうちに口が重くなる。
重くなると、お佐紀は
「気が利かないね」
と怒る。だからといって気を回すと、
「誰も頼んじゃいないよ」
と怒られることもある。どうすればいいのか分からなくなって、話ができなくなる。手もとまる。それでますます怒られる。巡りがどんどん悪くなっていった。
生きていくだけの稼ぎを得ていることは有り難い、と巳之助も思っている。
普通ならば身を売っていてもおかしくはない。ただ、お佐紀がそうしないのは「自分はそんな安い女ではない」という気位の高さによるものであって、同じく生活のために身を売らざるをえない女のことを、陰で悪しざまに言うことがしばしばだった。
頼まれた仕事はきっちりとこなすので、周旋にくる男は、
「働き者のおっかあに感謝しなよ」
と口々に言っていたが、そのために何が犠牲にされているのか知らない者の気楽さだと、巳之助は思っていた。お佐紀はそんな手配師の男たちのことも「あのだらしない駄目な男」と、陰では
「大工の弟子にしてもらいなさい。稼ぎはいいし、みんなから褒められるから」
そんな言葉と共に連れてこられたが、別に巳之助が大工に向いていることを見越してのことではない。長屋の連中に自慢が出来るからだった。それほどまでにお佐紀が周囲の目を気にして生きていることには訳があるのだが、巳之助も詳しくは知らなかった。
「ただ、おっかあは分かっていないんだ。大工は弟子入りしなくちゃならないってことを」
巳之助は下を向きながら言った。
「そうするとおいらが家にいないことになって、自分でなんでもやらなければいけなくなるっていうことを知らないんだよ」
善吉は首を傾げた。
「自分のことぐらい自分でできるだろうよ。大人なんだから」
巳之助は足元を見つめながら、
「それは――できないと思う。おっかあは子供だから」
と苦しげ言うと、また掌を合わせてぐりぐりと捻り始めた。
善吉はその様子を横目で見ながら、
「そうかい。そいつぁ大変だな」
と、声があまり軽くも重くもならないように注意しながら答える。
巳之助は頭を上げて、善吉を見つめた。
「親方は笑わないのかい?」
「どうしてだい」
「大人が子供に、子供だって言われるのはおかしなことじゃないのか」
「まあ、そいつぁそうだがよ。訳があんだろ」
善吉も事情を十分に料簡できた訳ではなかったが、そう巳之助が思い込む具体的な理由が、何かがあるのだろうと斟酌できた。そして、そのことが巳之助の重荷になっていることも承知した。だから、それを軽々しく扱うことはできないと思ったのだ。
「俺は、お前さんのことを大変だなぁと思いはしたが、笑えはしなかったよ」
「おいらが大変だって――」
「おう、なかなかできることじゃねえな。俺なら頭にきて家を飛び出てるところだ」
と言いながら、善吉はまた深く煙草を吸った。
巳之助は目を丸くしている。
「どうした?」
「――いや、話をちゃんと聞いてもらえたから」
巳之助の掌の動きが激しくなる。
善吉は、煙管をかつんと煙草盆に打ち付けると、
「するってぇと、お前さんは大工が嫌いな訳じゃないんだが、うちに住み込みで弟子入りとなると、おっかあが心配なんでできねえと、そういうことだな」
善吉は、やはり静かな落ち着いた声でそうまとめる。
巳之助は、下を向いて小さく頷いた。
しばし、間が開く。
巳之助は、善吉が怒っているのではないかと心配になり、顔を上げた。
しかし、善吉は眉を
「――よし、分かった」
「えっ」
急に善吉が言ったので、巳之助は驚く。
「それじゃあ、お前は通いで来ればいいじゃねえか。それで仕舞だ、簡単だよ」
そう気安い声で言い切ると、善吉は再び煙管に煙草を詰め込み始めた。
*
何がどう気に入られたのか分からないが、巳之助はそのまま善吉のところで働くことになった。ことの経緯を知らないお佐紀は、単純に喜んで長屋中に吹聴しまくっていたが、巳之助にしてみれば決して有り難いだけの話ではなかった。
親方の家には住込みの兄弟子が三人いた。そして、おのおのが細々とした雑用を分担して、朝から晩までこなしていた。彼らからすれば巳之助は、親方が決めたこととはいえ『面倒を免れて具合のいいところだけを
さすがに、親方の目の届くところで意地悪をされることはなかったが、履物が隠されたり、弁当に砂が混じっていたり、道具が見当たらなかったりと、日々こつこつとした地味な虐めが繰り返された。
親しく口をきいてくれる者もおらず、ましてや仕事を教えてくれるものもいない。親方もそんな巳之助の境遇に気が付いているはずだったが、口を挟んでくることはなかった。
それで巳之助が嫌になったかというと――そうではなかった。
無論、虐めは辛い。辛くて帰り道に涙したこともある。しかし、翌朝になると早く仕事に行きたくてうずうずした。大工の仕事そのものは、やはり自分に合っていた。兄弟子との関係には口を挟まないものの、善吉は巳之助に仕事のことを厳しいながらも丁寧に教えてくれる。そのことも、兄弟子の虐めを激しくさせる原因ではあったが、巳之助は嬉しかった。
最初のうちはまともにできずに、罵声を浴び続けた
鉋屑が途切れることなく更紗のように舞い、その下から白木の背筋が伸びる香りがぷんと鼻を突く。滑らかな木目が顔を出した。そのような一瞬一瞬が、巳之助にはとても貴重だった。
「自分の手で何かが出来る」
という実感が、巳之助を夢中にさせた。
雑事を負担していない引け目は、仕事に身を入れることで何とか挽回したいと、言われた仕事をこなすだけでなく普請場の片づけなどもきびきびとこなし続けた。
そのような姿を目にしていると、そもそも善吉が手塩にかけて育ててきた兄弟子である。次第に一言二言、声をかけるようになった。
話してしまえば、お互いに「悪いやつではない」ということに気がつき、初手の
善吉は、そんな弟子たちの経過を、何も言わずに黙って見ていた。
そうなるような気がしていたのである。善吉は決して余裕のある家から弟子を取らなかった。
全員が、一家離散や限界近い貧困を経験したことがある子供で、それを善吉が辛抱強く解きほぐしていった。育ちの悪さから、口は悪いし手も足もすぐ出る。最初のうちは妬みや僻みもあるだろうが、しかし最後には全員が巳之助のことを思いやることになるだろうと、善吉は信じていた。
なぜなら、そういう風に育てたはずだからだ。
善吉の境遇も、決して恵まれたものではなかった。
覚えもないほど小さい時に母を亡くして、ずっと酒飲みで気の弱い棒手振りの父親に育てられた。 父親はその日の商いで気に入らないことがあると、酒に酔って長屋に帰り、善吉に当たり散らすこともあった。八つを越えた頃には、親への反発から家に居つかず、巳之助と同じ年頃になった時には一端のやくざ者を気取って、兄貴分(といっても元服前、十四のちんぴら以下の男だったが)を中心に、四から五人が屯して、あちこちの辻で悪さを働いていた。
ある日、その兄貴分がへまをした。
夜の盛り場まで出張って往来客に難癖をつけたところを、土地のやくざに目を付けられたのだ。仲間たちが散り散りになって逃げだした時、一番年下で出足の遅れた善吉だけがやくざ者に首根っこを捕まれていた。
『子供』とはいえ道理をわきまえない縄張り荒らしの行動に、土地のやくざ者たちはいきり立っている。そのまま奥の人気のないところまで連れ込まれたら、半殺しで済めば御の字、下手をすると命を失うだろう。善吉は大泣きして命乞いをしたがやくざ者たちは聞く耳を持たず脇道へと連れ込もうとする。辻を曲がろうとしたところで、助け舟が現われた。
「ちょいと待ちねえ」
その土地では顔役だった先代の親方だった。
彼はやくざ者たちから仔細を聞くと、自分が
一方の善吉は、前日のことですっかり思い知らされていた。
自分には真っ当な親がいない。仲間だと思っていた連中は、昨日、善吉を置き去りにして逃げ去った。命を落としかねないところを助けてくれたのは、見も知らないこの眼の前の男である。命の恩人だ。
善吉は酷い環境で
「なんとかここに置いてほしい。自分は恩を返したい」
と、土間に頭を摺りつけて頼み込み、根負けした親方に弟子入りを認めてもらった。以降、無頼の世界とは完全に縁切りをして、倦まずたゆまず大工の修行を続けている。
だからこそ、いつかは自分も受けた恩をその下の者に返したいという思いが強い。
巳之助の顔を見た時に、善吉親方は過去の自分の姿を垣間見た。状況は全然似通ってはいないのだが、親が信用できず自分の家が安心できる場所ではない子供の目だった。そのため、善吉は巳之助にとっての『まともな大人役』を買って出ることにしたのだ。
*
「親方、兄貴、お先に失礼いたしやす」
巳之助が大きな声で言い、頭を下げた。
「おう、お疲れさん」
弟子の中でも最古参の甚左が声をかける。そして、彼はそのまま善吉のそばにやってくると言った。
「親方」
「なんだい」
「巳之助のやつですがね。ここに来てから五年ほどたちますかね」
「おう、それぐらいになるかな」
「そろそろ、手仕事のイロハを仕込みたいんですが、どんなもんでしょうかね」
巳之助はいまのところ、材木の運びや普請場の片付け、やっても鉋仕事などの下働きしかやっていなかった。
「そいつぁお前さんに任せるがよ。しかし、お前さんがねえ」
「へえ」
甚左は弟子の中でも厳しく、なかなか下の者を褒めない。もともとは神田の
これまでは、自分の仕事を仕上げることにしか目がなく、周りを見回して下の者をうまく伸ばそうという意気込みも感じられなかった。それが、自分から巳之助を育てたいと言っている。甚左にしては持って回った物言いであり、本人も「そんな柄ではないのだが」と思っているに違いない。しかし、下の者を教えたいと自分から言い出して、そのための苦労も進んで買って出たいというのである。
ついこの間まで、筆頭で巳之助のことを余所者扱いで放置していたにも関わらず、慣れてみるとその才が無視できなくなったに違いない。それで欲が出てきたのだろう。
(こいつぁ甚左のためにもなるかもしれない)
善吉は巳之助の件を甚左に任せることにした。
「まあ、やってみねえ」
「へい、ではお預かりしやす」
甚左は頭を下げると、細工場の片付けに戻った。
実は善吉も、巳之助の素質に目を見張っていたが、面と向かって言ったことはない。
(こいつはいい大工になる)
それほど物覚えが早く、手先が器用で、根気強いのだ。自分が同じ年の頃と比べても段違いに呑み込みが良い。きっと腕の良い職人になれるだろう。
ただし――お佐紀という障害を自分でなんとかすることができれば、だが。
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