第二話 清二

 卵を握るように、たなごころ全体で柔らかく優しく包み込む。

 そして、吸う息にあわせて腕だけでなく背中も使って、身体全体の大きな力で引く。

 その時に、両腕を伸ばし切ってはいけない。ひじを軽く曲げるような心持ちで、頭の中に円を思い浮かべながら、引く。掌に受ける力が強くなったり弱くなったりしないように、始めから終わりまで同じ力をかけて、引く。

 そして、充分に引ききった頂きのところで、鋭く吐く息とともに手首を返す。

 掌に力が入りすぎていると腕が強ばって動きが固くなってしまい、ここで呆けた動きになる。この世界では『下の下』の有様であり、みっともないことこの上ない。それゆえ、技の見せどころでもある。

 今までかかっていた力が開放されるので、腕は自然に伸びる。

 さらに息を吐き続けながら、腕を引き始めのところまで戻し、再び息を吸いながら全身の力で引く。


 その繰返しで、舟は前に進むのだ。


 新米の船頭にあたると、動きがぎこちないために舟の挙動は安定しないから、慣れない女子供であれば、たちまちのうちに気分が悪くなる。大騒ぎとなって旦那衆の不興を買うことになるから、船賃や心付けが期待できないのは勿論のこと、むしろ船宿のほうから多少の迷惑料を包まないと収まらない。これは船頭として一人前になるまでに、誰もが通る道なのだが――


 清二にとっては、この上もなく険しい道のりであった。


 *


 神田川が大川に流れ込む河口付近、神田川を横断して対岸と行き来するための手段として、その昔は渡し船が使われていた。

 渡し船は一度に運ぶことができる人数が限られる上、天候が荒れてしまうと出せなくなる。それでは往来に不便だということで、元禄十一年に幕府の許しを得て神田川の上に橋が掛けられた。

 この橋を「柳橋」という。

 名前の由来は、

「橋のたもとに柳の木があった」

「矢の倉橋が転じて矢之城橋になり、さらに柳橋になった」

「柳原堤にあった」

 等々の諸説があって、どれが真なのかは定かではない。

 元来この界隈は浅草旅籠町という奥州街道の旅籠街であり、それに加えて大川舟遊びのための船宿や料亭も櫛比しっぴしていた。そこに橋が架かったことで往来の客がさらに増え、賑やかになる。

 しかし、この界隈が柳橋としてつとに有名になるのは、文化年間になって芸妓が登場して以降のことである。

 天保十三年、水野忠邦による天保の改革により深川が大きな打撃を受けた。深川から逃れた芸妓が柳橋界隈に移り住んでここに花街が形成されると、江戸市中の商人や文化人の奥座敷として人気を呼ぶ。安政六年には、いわゆる「柳橋芸者」が百五十名近くもいたという。

 その柳橋芸者は、

「自分たちは吉原の遊女と違って、色ではなく唄や踊りで客を喜ばせているのだ」

 と、非常に気位が高かった。

 明治には新橋と並んで「柳新二橋」と称され、学生も訪れる盛り場として賑わったが、当時も柳橋芸者は新橋芸者より格上とされていた。宴に同席した時には、新橋芸者が柳橋芸者より三寸下がって座り、三味線も柳橋芸者が弾き始めないと弾けなかったという。

 第二次世界大戦前には芸者衆が三〇〇名を超え、戦後でも料亭が五十軒以上存在していたが、東京オリンピック以降に大川から名を変えた隅田川で護岸改修があり、堤防で景色が遮断されてしまった。

 それが大きな致命傷となって料亭が激減、とうとう平成十一年に最後の料亭『いな垣』が廃業して、柳橋花街の歴史に終止符を打つ。


 少々先走ってしまったが、その大川端、柳橋付近に船宿『扇屋』はあった。

 そこの女将であるお国は、初めて清二を見た時、

(これで本当に物になるのかねえ)

 といささか危ぶんだ。

 身体つきからして、ひ弱とまでは言えないものの筋骨隆々とも言い難い。上背が人一倍あるので、逆にひょろりとして見える。

 出入りの口入れ屋である信濃屋の手代は数日前の口上で、

「子供の時分から、舟については親父さんの薫陶くんとう宜しきを得ましてねえ」

 と話していたが、お国は、

(こいつはひょっとして仲人口かねぇ)

 と胸中で深く嘆息した。

 取りあえず、いつもの話から始める。

「名前はなんていうんだい」

「清二」

「背は高いが随分と華奢きゃしゃだねぇ。年はいくつだい」

「十四」

「兄弟はいるのかい」

「姉」

「聞けば先祖代々、家が伊達様お抱えの船頭というじゃないか。どうしてこんな船宿になんか来ることになったんだい」

「……」

 清二は黙り込んで、隣に座った信濃屋の一番番頭である伊蔵を見る。

 言葉数が多くなりそうな話は苦手ということだろうか。それにしても、聞かれたことに最小限の言葉でしか答えないのはどういうことだろう。

 お国は、江戸っ子にしては元来気の長いほうだが、さすがにれてきた。そのお国の気分が顔に出ていたのだろう。苦笑しながら伊蔵が口を挟んだ。

「まあ、まずは乗ってみてもらえませんかね」

 お国のほうは清二の生硬い顔を見ながら、数日前に信濃屋の手代から聞いた話を再び思い出していた。

「芝口の伊達家御用人様からの口利きでござんしてねえ」

 手代は、口入れ稼業によく見られる面の皮に張り付いたような笑顔で言った。

「主からも、こちら様に是非にとのご指名でござんして」

(なるほど、仙台藩上屋敷御用人直々の周旋ということか)

 そうでもなければ信濃屋もこんな筋の悪い話は受けなかっただろう、とお国は思った。

 ましてや、話を扇屋に持ってくることなぞなかったのではあるまいか。


 *


 農閑期に新潟や信州から江戸へ出稼ぎに出てくる者は、馴染みの口入れ屋を通じて職を探す。『信濃屋』という屋号自体、江戸で成功した信濃者が、同郷者相手の口入れ屋を始めたことに由来しているのだが、彼らは『群れて五月蝿うるさい』という意味から「椋鳥むくどり」と呼ばれていた。

 要するにそれだけ数が多かったということである。

 例えば、大名がお役目で登城する際にお供をする家来衆は、維持費がかかる常雇いではなく、人数調整の利く臨時雇いの椋鳥であることが多かった。

 椋鳥斡旋の関係で大名家に出入りすることが多い信濃屋としては、仙台藩上屋敷という大得意様からの要請では断き切れない。そして、口利きの実績も上げたいことから、少々傷物の話であっても精一杯化粧した仲人口で、なんとか相手先に押し込もうとする。

 もちろん、受け手には受け手の立場があるから、あまりに無理押しがすぎたり、役立たずを押し付けて受け手に迷惑がかかったりすると、やはり得意先をひとつ失うことになる。だから極端なこともできない。

 その辺の駆け引きや押し引きの加減が口入れ屋の腕の見せ所であり、信濃屋の一番番頭である伊蔵は同業者の中でも、道理をよくわきまえた部類に入るのだが――

(とはいえ、威勢のよさが身上の船頭を志すにしちゃあ、この子の顔色は冴えないねえ)

 いや、はっきり言えば暗かった。

 大名家の御用人が直々に仲介に乗り出すほどであるから、清二の背後にある「そもそもの話」が決して明るいものではないことぐらい、船宿の女将ならば察しがつく。

 信濃屋の一番番頭が後見についているところも、甚だ怪しい。

(それにしても愛想がないねえ。どうしてこんな筋の悪い話をうちに持ち込んできたんだろう。甘く見られたかねえ。後で伊蔵さんを小一時間ほど問い詰めて、その辺りの料簡りょうけんを正さなくちゃあいけないね)

 と考えながら、伊蔵に促されつつお国は猪牙舟に乗り込んだ。


 *


 江戸時代後期に喜田川守貞かわきたもりさだという人物が三十年近く書き続けた、全三十五巻の『守貞謾稿もりさだまんこう』という書物がある。当時の江戸の風俗や習慣を記録した、いわば百科事典のようなものである。守貞が大坂生まれであったことから、上方と江戸の文化を比較した記載が多く、当時の文化を知る上で第一級の資料となっている。

 その『守貞謾稿』には、猪牙舟という名の由来について、

「押送船の船頭であった長吉が考案した『長吉船』が、舳が猪の牙に似ていることから転じて『猪牙』と呼ばれるようになった」

 という記載がある。

 もっとも、舳から艫までの長さが二十四尺、幅は四尺五寸の小型船を『猪牙』と呼ぶのは江戸であり、東海以西では『ちょろ』、関西では『小早』と呼ばれていた。

 一尺は大体三十センチ強である。

 従って、猪牙の長さは進行方向先端部分の「へさき」から、後方末端の「とも」まで七メートル二十センチ、幅は「右舷うげん」から「左舷さげん」までの一番広いところで一メートル三十五センチと考えればよい。

 ちなみに、一寸は三センチ強だから、一寸法師がいかに小さいか分かる。

 さて、猪牙は櫂と舵を兼用する櫓で漕ぐので、横揺れが激しく乗り心地はさほど良くない。普通は舟縁に手を掛けて乗るものであったが、身軽に飛び乗ることや船上から小便ができるようになると、吉原通いで猪牙に乗り慣れた『道楽者』として大いに自慢することができたという。

 また、猪牙は速さと身軽さが身上であり、江戸では小さな荷物の運送や交通に用いられていた。特に柳橋から吉原へ通う『山谷船』は有名であり、その際の料金について『守貞謾稿』には、

「柳橋から吉原まで百四十八文」

 という記載がある。

 しかしながら、「文」で言われても大半の現代人にはピンとこないと思うので、これを現在の貨幣価値に置き直してみよう。

 江戸時代の物価の指標としてよく使われるのが『かけそば』である。

 江戸時代後期のかけそばの値段は、一杯が十六文だった。これを甚だ荒っぽい話で恐縮ながら、江戸時代の平均相場と思われる「一文が十七円」で換算する。そうすると、かけそば一杯が二百七十円程度となり、牛丼の並に近い。駅そばの立ち食いそばよりは高いが、まあ、妥当なところではないかと思う。

 この感覚で舟の運賃を換算すると、二千五百円円強になる。こちらは、決して安くない。大工の日当が銀六匁で、大体六千六百円程度の時代である。

 蛇足になるが、『守貞謾稿』にはさまざまな蕎麦について

「あられ二十四文、けいらん(卵とじ)三十二文、天ぷら三十二文」

 等々の価格の記載がある。江戸時代、卵が高級品であったことが分かる。


 *


 漕ぎ手は所詮、子供である。

(十四と言っていたから元服前だね。どれだけ揺れるか分からないよ)

 と、お国は猪牙舟の縁を固く掴んで身構えた。

 清二が、そんなお国の様子を見ながら、物も言わずに無造作に竿ではしけをひと突きすると――


 猪牙舟はついっと、滑らかに艀から昼前の大川の水面に踊り出た。


 竿を櫓に替えてからは、流石にその動きにあわせて右舷へ左舷ヘと傾きはしたものの、母親が赤子をあやすぐらいの心地よい揺れである。それにも拘らず、船脚は決して遅くない。櫓の一漕ぎで確実に前に進んでゆくのが分かる。

 彼女も船宿の女将であるから、これがどれほど凄いことであるかは十分承知していた。

 扇屋には五人の船頭がいたが、その中でもここまで舟を滑らかに操ることができるのは、老練な一番船頭の嘉助ぐらいであろう。二番船頭の仁平でも、力で捩じ伏せるような荒々しい櫓捌ろさばきの癖がなかなか抜けない。ところが、既に清二の櫓捌きは仁平の域を超えていた。

 どれだけの修練を重ねてきたのか定かではないが、きっと並大抵の修練ではない。

(これは当たりかもしれないねえ)

 お国は最前までの懸念をすっかり払拭して、清二の櫓さばきを惚れ惚れと眺めた。

 舟は大川の上を、川下から川上に向かって滑らかに進んでゆく。お国が気持ちよく川面に手を浸していると――


 大川上流の遥か向こうから、一艘の舟が下ってきた。


 遠目に七人の漕ぎ手の姿が見える。押送舟だった。

 込み合う大川の真ん中を一文字に突っ切ろうという魂胆らしい。暴虐無人な態度だが、当たって舟が壊れても損、いさかいになっても損なので、大川に浮かんでいる舟の大半があたふたと進路上から退しりぞき始める。お国が乗った猪牙舟は、微妙に押送舟の進行方向から外れているものの、もう少々岸に寄ったほうがよい。

(さてどうするだろう、お手並み拝見といこうじゃないか)

 と、清二のほうを見たお国は驚いた。

 先ほどまでまったく表情のなかった清二が、眉を潜めて脂汗を浮かべていた。櫓を握る手が微かに震え、視線が定まっていない。どうやら川上から来る押送舟には気づいているようだが――


 いや、気がついているからこそ、動けなくなっているのだ。


「どうしたんだい、早く左岸のほうに退きなさいよ」

 お国が金切り声をあげる。清二は正気に返って慌てて櫓を動かす。先程までの優雅さからは想像もつかない混乱ぶりに、猪牙が左右に大きく揺れる。お国は悲鳴を上げながら右舷にしがみつく。無様に狼狽うろたえる猪牙の脇を真っ直ぐに押送舟が抜けていき、その波がさらに清二たちの猪牙を揺らした。舷側から波が船に入り、お国の着物を濡らす。しかし、落ちたらそれどころではない。お国はさらに叫び声を上げながらしがみ付く。

 しばらくして揺れの収まった猪牙の上には、すっかり放心した清二とお国の姿があった。


 *


「お国さん、いや、まったくもって面目ねえ」

 伊蔵が盆の窪に手をやりながら、しきりに頭を下げる。

 お国はといえば、もうすっかり怒り心頭に発しており、

「なんだい、この役立たずは。大川の上で他の舟を避けるだけなのにあたふたするんじゃあ、船頭としてはどうしようもないじゃないか」

「まったくもって、女将さんの言う通りで」

「まったくもってじゃないよ。信濃屋さんには夫が存命の頃から随分とお世話になって参りましたがね、こんなに舐められたんじゃあ今後は――」

「まあまあ、話を聞いてもらえませんか」

 伊蔵は恐縮した態度ながらも、にこやかな表情を崩さずに低い落ち着いた声で話を遮った。

 この辺の呼吸の掴み方が、伊蔵は抜群に上手い。流石は口入れ屋の一番番頭だけのことはある。

 お国は拳を振り上げたところを中途半端に留められ、

 相手の落ち着き払った顔を見て、自分の頭に血が上っていることを悟り、

 さりとて気分も直らないものだから、ぷいと顔をそむけた。

(いちいち分かりやすいお方だ)

 伊蔵は内心苦笑するも、さすがに表には出さない。

「初めにちゃんと言っておかなかったのは私の落ち度でございまして、誠に申しわけございません。ご覧頂きました通り、この清二は舟を操ることにかけてはかなりの腕前でございますが、向こうから速い舟が来るとどうにもならないんでして」

「だったら船頭には向かないよ」

 お国はそっぽを向いたままで、ばっさりと切る。

「しかしながら、やはりあの腕前は惜しい。こうなったのには深い訳がございまして、それがなんとかなりゃあ、それはもう大した船頭になれる」

「そりゃまあ、そうですがね」

 お国は清二の舟捌きを思い出しながら、しぶしぶ認める。

 伊蔵はそんな様子を穏やかに眺めた。

(こいつがお国さんのいいところだね。どんなに頭にきている時でも、道理はわきまえていなさるし、物の良し悪しは決して違えない)

「それで、その深い訳というのはなんだね。伊達の御用人絡みということだから、剣呑な話じゃないだろうね」

 お国がまた正面を向いて、煙管に刻み煙草を詰め始めた。話を聞く姿勢である。

 伊蔵は、背後で体を丸めて縮こまっている清二のほうをちらりと見ると、居住まいを正した。

「五年ほど前の話になるんですがね――」 


 *


 誠に恐縮ながら、ここで話は本編から一旦大きく横に逸れる。


 現在の宮城県牡鹿半島から福島県相馬市までの海岸線は、『仙台湾』と呼ばれている。

 その、総距離が約百三十キロメートルにおよぶ仙台湾の約半分、旧北上川の河口から松島湾を経由して阿武隈川あぶくまがわの河口に至る約六十キロメートルの部分を、江戸から明治にかけて開削された複数の運河が(現時点で東日本大震災による破損部分はあるものの)海岸線に並行して、繋いでいる。

 この日本最長の運河を『貞山堀ていざんぼり』という。

 貞山堀は、阿武隈川河口から名取川河口までの『木曳堀こびきぼり』、名取川河口から七北田川河口までの『新堀しんぼり』、七北田川河口から松島湾までの『舟入堀ふないりぼり』、塩竃市から松島湾経由で鳴瀬川河口までの『東名運河とうなうんが』、鳴瀬川河口から石巻港までの『北上運河きたかみうんが』に分かれる。

 このうち、江戸期に完成していたのは木曳堀と舟入堀のみ。従って、名称も本来は木曳堀と舟入堀であるけれど、本作では特に限定する必要性がない場合、『木曳堀』を指して『貞山堀』という名称を使用する。

 この名称自体は、明治時代に石巻港から松島湾までを連結する部分が開削された時期に、伊達正宗のいみなである『貞山』にちなんで、運河全体をさすものとして名付けられた。名付け親は当時の土木課長、後に仙台市長にもなった早川智寛である。


 さて、最も古い木曳堀の工事は、関ヶ原の合戦直後に開始された。

 仙台藩初代藩主の伊達政宗は、平時の治世を勘案して居城を岩出山から港湾隣接都市としての発達が見込める仙台に移すこととした。仙台城及び城下町の建設には、当然のことながら莫大な資材が必要となる。そのため、阿武隈川流域の豊富な木材資源や物資が使われることになったが、阿武隈川河口から仙台城まで材木や米などの物資を輸送するのに、徒歩では重すぎて大変であるから、船で海を経由することになる。

 しかし、川船はそもそも浅い河川で使用されるものであり、喫水が浅い。その川船が波の荒い仙台湾にそのまま乗り出してしまうと、波に揉まれて転覆する危険性がある。だからといって、荷をいちいち喫水の深い船に積み替えるのは、手間がかかって仕方がない。第一、それでは仙台でまた川船に積み替えなければならなくなる。

 川船による物資の輸送を円滑に行うために、伊達政宗は、松島湾から阿武隈川河口に至る約三十二キロメートルの部分に、堀の開削を命じた。このうち、阿武隈川河口から名取川河口までを占める木曳堀の開発を進めたのは、伊達政宗が召し抱えた川村孫兵衛重吉である。

 運河の開通により、材木などの物資は名取川河口の閖上港ゆりあげこうから名取川および広瀬川を遡って、仙台城下に運び込まれるようになった。さらに運河の開削は通運だけでなく、名取付近の湿地が多く荒れていた平野部の排水を促して、新田開発にも寄与した。


 また、阿武隈川河口にある荒浜港は、阿武隈川流域でとれる天領米の積出港でもあった。木曳堀は、天領米を荒浜から松島湾の寒風沢港さぶさわこうまで運ぶ際にも使われている。運ばれた米は、寒風沢港で外洋航行可能な千石船に載せ替えられて、江戸に運ばれていった。

 この天領米輸送に絡んだ伝説が残されている。

 天領米の輸送自体は船頭によって行われていたが、その検分のために武士が同行することがある。そして気候に問題がなければその検分役は特にやることのない閑職であった。

 ある日、荒浜から閖上方面に向かう舟の上で無聊ぶりょうを囲っていた武士が、その先に遠目に見える松並木がほぼ等間隔となっていることに気が付いた。

 武士は弓の腕前に覚えがあったから、携行していた弓と矢を取り出して、船頭たちに船足を速めさせると流鏑馬やぶさめよろしく松並木に向けて矢を放った。しかし、松並木十本中の二本しか幹に的中しなかった。

 意地になった武士は往来の度に試みるが、なかなかすべての幹に的中させることができない。

 そうするうちに、この話を仲間から聞いた弓自慢の船頭が、同じく松並木への行射を試みたところ、やはりすべてに的中させることができなかった。ここに至って、武士と船頭の見栄の張り合いとなる。いずれが先に、すべての並木に的中させられるかの先陣争いとなった。

 しかし、近隣の住民にとってはのべつまくなしに矢を射かけられたのでは、いくら命があっても足りない。そこで、年四回だけ日を定めて勝負をすることとなった。

 船頭は来る日も来る日も、船の上から弓を射るための工夫を重ね続け、いくつか具体的な秘策も考案して、最終的に武士よりも先に松並木をすべて射抜く。そして、その話を聞きつけた当時の藩主から士分に取り立てられた。

 そのため、木曳堀の西側に立ち並ぶ松の一部は『出世松』と呼ばれていたが、残念ながら東日本大震災時の津波により、すべての松が流されてしまったと聞いている。


 他の堀については本編には関係ないが、興味深いので紹介する。

 舟入堀の開削時期は、寛文十三年頃と思われる。

 塩竃港しおがわこうは、古代には多賀城の外港として、伊達政宗による開府以降は仙台城の外港としての役割を担ってきた。開府当初、塩竃と仙台の間の通運は陸路であり、米や材木などの重い荷物は木曳堀と同様に舟運が望まれていた。舟入堀はこの要請に応じて開削されたものである。七北田川の蒲生がもうから松島湾に面した塩竃市の牛生ぎうまでの約五キロメートルを、海沿いに点在する沼や湿地を結びながら掘り進められた、舟運と共に排水を兼ねた水路であった。

 新堀は、海岸沿いの荒地開拓のための排水路と有料運河を主目的として、明治三年から進められたが、実際は維新により身分と俸禄を失った士族への授産事業、失業対策でもあった。

 北上運河は明治十五年、東名運河は明治十七年に完成したが、その経緯も面白い。

 明治時代、内務卿の大久保利通は戊辰戦争に敗れて荒廃した東北地方を復興すべく、その起爆剤となるプロジェクトとして「日本最初の近代港湾建設」を画策した。この建設計画は「野蒜築港のびるちくこう」と呼ばれている。適地の選定と設計に、オランダ人のコルネリス・ヨハネス・ファン・ドールンがあたり、明治十一年の北上運河開削から工事開始。明治十五年には鳴瀬川河口に近代的な港湾機能をもつ市街地が出現した。それまでは寒村であった野蒜には繁華街が現われ、「野蒜新町 箒はいらぬ 若い女の裾ではく」とまで言われるようになる。

 ところが、そのわずか二年後、台風により港湾の突堤が波で破壊されてしまったのである。

 明治政府はその修理を試みて多額の費用をつぎ込んだものの、最終的に財政難から事業が断念せざるをえない。野蒜築港は、完全な失敗事業に終わり、今はその栄華の痕跡すら残っていない。今日、このような大胆な『失敗』は政権交代の口実にすらなる。考えてみれば大らかな時代であった。

 なお、野蒜築港の際、北上川との分岐点に「石井閘門いしいこうもん」という水門が作られた。閘門とは、高低差の大きい運河で船を通すために、水をせき止める装置であり、古来より日本でも作られていた。しかし、この石井閘門は日本最初の西洋式閘門であるのと同時に、現在日本国内で稼動する閘門の中で最古のものでもある。


 さて、部分的にしか今後の展開に寄与しない無駄話はここまでにして、本編に戻る。


 *


 伊蔵はお国に次のような話をした。


 清二の父、嘉平は仙台藩上屋敷の船頭をしている。その元を辿たどると、そもそもは仙台藩の国元で船頭をしていたそうだが、何代か前の藩主に同行して江戸にやってきたという。そして、国元の親族との交流はすっかり絶えていた。


 五年前の初夏、朝の早い時刻のことである。


 嘉平と、清二、そして清二と五つ離れた兄である平次の三人は、平次の操船練習のために猪牙で大川の汽水域に出ていた。

「櫓を慌てさせちゃなんねえぞ、舟が揺れるからな」

 嘉平はいつもの通りの注意を平次に与えた。

「こうかい、おっとう」

「そうだ、いい塩梅だ。ただもう少しだけ手首の返しを柔らかくしねえ」

 二人の掛け合いを聞きながら、九つだった清二は船の舷側から垂らした手で水を掻いては、その後に残る文様を眺めていた。

 水を見ているのは楽しかった。川面は何も変化がないように見えて、注意深く見れば移り変わりを見てとれる。波が描く文様も、清二には何か訳があるもののような気がして仕方がない。舟に何時間乗っていても飽きることはなかった。

 赤子の頃、夜泣きをした時には舟に乗せて揺らせば、清二はご機嫌に戻ってすぐ寝たという。

 船酔いをした覚えもまったくない。

 今は季節も良い。梅雨の時期を過ぎて、増水していた大川もようやく流れが落ち着いた。あちこちに溜まっていた塵芥ちりあくたがすっかり海まで押し流されたため、潮の香り以外しない。お天道様は適度に舟の上を温めてくれた。

 小魚が群れて水底を行く。

 風が若衆髷わかしゅうまげの後れ毛を揺らしてゆく。

 平次の櫓は、嘉平に言わせればまだまだ半人前だったが、他の船頭に比べれば既に比べものにならないほど上手かった。

 全体的に非常に穏やかな時間であり、嘉平から他の舟の動きをよく見張るように言われていた清二が、ついぼんやりと川面を眺めてしまったとしても、責められるものではなかった。


 しかし、凶事というのはだいたいそのような一瞬の隙間から、するりと義理堅く入り込んでくる。


 清二が遠くの物音にやっと気が付いて顔をあげた時には、事態はもう抜き差しならないところまで差し迫っていた。

 佃島の押送舟が二艘、こちらに向かってくる。

 互いの舟から騒がしい罵倒の声が聞こえることから、どこかで諍いとなって頭に血が上ってしまったのだろう。そのまま船足の勝負となったに違いない。

 嘉平と平次は反対側を向いてなにやら熱心に話し込んでいる。櫓の使い方の細かいところで話が合わないのだろう。顔を突き合わせており、周りのことに意識が向いていなかった。

(何か言わなければ)

 そう思い清二は焦るが、あまりの押送舟の勢いに喉が張り付いたように動かない。やっと引きはがすようにして、

「お――おっとう!」

 と声を張り上げたものの、事態は切迫していた。

 声に驚き、事態に気が付いた嘉平や平次も、被害を最小限に食い止めるための方策しかとれない。櫓を持っていた平次は、衝突を避けるために緊急回避のための漕ぎを試みる。嘉平は清二を抱え込んで衝撃に備えた。

 嘉平の身体の隙間から、清二はなおも無暗矢鱈むやみやたらな勢いで迫る舟を見つめ続けていた。男たちの殺気立った表情や舞い散る汗、かき回される太い腕の動きがはっきりと見えた。

 清二たちの猪牙が回頭するその傍らを馬鹿げた勢いで漕ぎぬけてゆく。船同士の衝突こそ免れたものの、回避のために櫓を振り回して浮き上がった猪牙舟は、押送舟二艘分の波にあらがうべくもない。そのままひっくり返されてしまった。

 清二はその瞬間も克明に記憶していた。

 押送舟の船頭の中で、一人だけが事態を認識していた。彼の眉がひそめられているのも分かった。しかし、周囲が沸騰している状態ではその男とていかんともしがたい。むしろ、息を併せて漕ぎ続けていないと危険である。それに猪牙舟の転覆なぞ珍しくもないし、船頭であれば泳ぎも達者であろうから、問題はないに違いない。

 そんな計算が男の表情に刻一刻と移ろい――


 清二が水の中に嘉平もろとも落ちたところで、見えなくなった。


 平次がなかなか上がってこないことに気が付いたのは、嘉平と清二が船を返して上に載ってからしばらくしてのことだ。岸に泳ぎ着いていないかと見回してみるが、姿は見えない。いや、上がっていれば声をかけてくるはずだが、それがない。

 嘉平は血相を変えて、また川に飛び込む。

 清二が青い顔で水の中を覗きこんでいると、しばらくして二間離れたところに嘉平の頭が浮き上がった。

 舟に向かって寄せてくる嘉平に表情がない。

 平次らしき影が水面下で引きずられていた。


 *


「どうやら、舟から落ちる時に舷側か、あるいは川に浮いている材木か、その辺のものに頭をしたたかに打ち付けたらしい。無理に櫓を漕いだものだから、自分の身体まで気を配っちゃいられなかったんだろうと思います。そのまま気を失って川に落ちたものだから、水を飲んで沈んでしまったのです」

「そんな無体な――お上は何と」

「相手が誰だか分からない、とあってはなんともなりません。朝なんで岸から見ていた者も、多くはないでしょうが何人かはいたはずです。しかし、名乗り出る者は誰一人いませんでした」

「朝早くの押送舟で喧嘩っ早いといったら、佃島の連中に決まっているじゃありませんか」

「しかしながら、佃島漁師を軒並みお縄にする訳にはいかんでしょう」

「まあ、そいつはそうだけど、まったく無体な――」

 お国はそう言うと、煙管を煙草盆に勢いよく打ち付けた。金属と木があたる鈍い音がする。それはそのままお国の割り切れない思いを現わしているようだった。

 伊蔵は時期を逃すことなく畳み掛ける。

「それ以来、清二は向かってくる舟があるとどうしたらよいのか分からなくなりましてね。櫓捌きはご覧の通りの見事な腕前ですがね、行き交う船の多い大川じゃ役に立たない。親父さんも手を尽くしてみたがどうしようもない塩梅でして」

「ことの次第は飲み込めたけどさ、それじゃあ船頭は務まらないねえ」

「そこで相談があるんでさあ」

 伊蔵は最後の仕上げにかかるべく、唇を湿らせた。

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