第一話 宗太
「ならぬものはなりませぬ」
相楽家の用人を務める
相楽家は石高六百石の直参旗本である。
そして直参旗本家の用人といえば、大名家における家老に等しい。殿様の御用を内外で取り仕切る重要な役割である。
諸事を取り仕切るためには、頭脳明晰であることはもちろん、対外交渉に当たることからそれなりの威厳や風格が備わっていることも重要であり、普通はそれが任命条件の一つとなる。
しかし、宗太郎の眼の前で「そこまでするか」という勢いで背筋を伸ばし、用人としての威厳を出そうと奮闘努力している酒井の外見は、明らかに貧相であった。
着ている羽織袴は、
酒井は、用人に取り立てられるだけのことはあり、家柄自体は決して悪くない。先祖代々から受け継いだ、それなりの蓄えもある。従って、誰かがちゃんと面倒を見ればそれなりの風采になるはずであったが、残念というべきか、当然と言うべきか、彼は妻帯したことがなかった。
そんな、
旗本とは、将軍直属の家臣であり、石高一万石未満で将軍出席の儀式に参列できる御目見以上の家格を持つ者を指す。そして、この旗本と大名の
殿様とは言うが、旗本の中で大名家の「お国元(領地)」に相当する知行所を支配して、出先機関である代官所を構え、そこに代官まで派遣しているのは、一千石を超える者だけである。一千石足らずの場合、知行所はあってもその統治は庄屋に委託している場合が多い。
相楽家も
諸色高騰の折り、旗本家の内情は決して豊かではない。
知行所の禄米は、何年か先まで札差に抑えられている。
その一方、御目見以上の格式は守らなければならない。
金はないが武士としての見栄は張らなければならない。
そこで日常的な費えの殆どは一括後払いである「掛け」となり、その精算期限である年末には、武家屋敷にも商家の掛取りが大挙してやってきた。相楽家でその掛取りの応対を長年勤めてきたのが、酒井である。
相楽家に出入りする商家は、陰で彼のことを「出さずの酒井」という異名で呼んでいる。なにしろ、掛取りに対しては「出来ませぬ」「ありませぬ」「出せませぬ」の一点張りであり、折れることがない。年末に相楽家に掛取りに行って、ちゃんと一年の勘定を精算することができたならば、その界隈では『凄腕』として自慢できるだろうと言われていたが、誰も成功する者がいない。
他のところにまわる時間がなくなるので、少し前まではどこの商家も相楽家を最後に回していたが、ここ五年ぐらいは年末の掛取りにすらこなくなった。
無論、だからと言って支払いを滞らせ続けていれば、商家から掛けで購入すること自体ができなくなる。その辺は酒井用人もわきまえており、まとまった金が工面できた時などは古い順にまとめて返済をしていた。
つまり、年末精算ではなく、催促なしのある時払いである。
こんな借り手に都合の良い借金は、普通ではあり得ない。商家の中には他の得意先の手前、内心苦々しく思っているところが多かった。しかし、相楽家には石高に換算できない優良な担保がある。そして、それがある間は最終的に支払いが滞ることは決してない。得意先の商家はそれを十分に承知していたので、酒井用人の件は渋々見過ごしていたのである。
それにも関わらず、優良担保の存在を表向き認めたくない相楽家では、酒井の長年の功績を重視して用人に任命した。
酒井用人は単に「声が無暗に大きく、頑固な石頭で、無神経で鉄面皮な男」なのだが、味方にしてみればこれほど使い勝手の良い者はおらず、敵に回すと相当な難物となる。
「ならぬものはなりませぬ。若様におかれましては、そろそろ武門の格式というものに慣れて頂きませんと」
酒井用人は、あくまでも丁寧な言葉遣いながら、苛立ちを含んだ低い声で言った。
「ちょっと屋敷の外に出ても構わないか、と言っただけじゃないか」
「だから、それがならぬと申し上げておるのです」
「どうしてだよ」
「ならぬからです」
「だから、どうして駄目なんだよ」
「ならぬからです」
酒井お得意の堂々巡りである。これを繰り返して彼は
「わかったよ。じゃあ今日は屋敷で大人しくしているよ」
「誠ですな、若様」
「誠だって」
無言になって宗太郎を睨む酒井用人。彼は先日、この言葉を信じて気を許した隙に、まんまと宗太郎に屋敷を抜け出されてしまったことを忘れていない。
「――分かりました。であれば、一刻毎にお部屋に伺います」
そう言うと、やっと部屋から出ていった。
無論、宗太郎は屋敷でじっと大人しくする気はない。なにしろ今日は道場の若い仲間と深川に繰り出す約束をしている。ただ、それを正直に口にしようものなら、酒井用人は決して見張りの手を緩めることはないだろう。先刻は「さあ、外に出よう」とした矢先に、その尻尾を掴まれて詰問されてしまったが、他に屋敷を抜け出す方法がない訳ではない。
宗太郎の面に、
この、彼の元の名前である左右太は、武士の幼名ではない。れっきとした町人としての名前である。
それが何故、直参旗本の若様である
以下、少々説明が長くなるが、お付き合い願いたい。
*
宗太郎の現在の父親は、直参旗本の
右京は、相楽家正室の三男として生まれた。従って、最初から家督を継ぐという重責を軽減されていたのだが、さらに長男が上の下ぐらいの
そうなると、家中で三男である右京の才に期待する者は誰もいなくなる。武士の本分である「剣の道」にしても、出世の手段である「学問の道」にしても、右京が適度にやってさえいれば小言を言われることはない。生来の気性がのんびりしている右京には、そのような家中における自分の位置付けは、むしろ都合が良かった。
彼は誰に気兼ねすることなく、のんびりと成長してゆく。至極真面目ではあるものの、とりわけ何に熱中するという訳でもない右京は、万事において牛の歩みである。実直な歩みは倦むことを知らぬが、目覚ましい成長――早足も見られない。そのため、剣の師も学問の師も、彼を確実な収入源、「
故に、表立って力を発揮する場も与えられぬため、周囲からはなかなか気がつかれることはなかったが、彼の堅実な歩みは確実に実を結んでいった。
二十代の後半になると、小野派一刀流の道場ではいつの間にか、師範代から三本に一本は取ることができるほどの実力を蓄えていた。しかし、道場内でこの事実を知る者は、当の右京本人と師範代のみである。
若い者は、年長者で直参旗本の右京との手合わせを遠慮していたし、同輩から年上にかけてはお役目で忙しくなり、次第に欠けてゆく。道場主は高齢で、奥に引き籠ることが増えていたため、右京の相手は師範代が勤めることが多くなる。そのため、その実力を知る者も師範代のみとなったのである。
また、学問の世界においては、彼が生涯で唯一熱心に取り組むことになる俳諧との出会いがあった。
日本に古くからあった詩の形式、「五七五七七」の三十一字で心情や情景を表現するものを、和歌と呼ぶ。和歌は歌合や歌会で詠まれ、そこで披露されたものが個人の歌集や勅撰の和歌集として記録に残されてきた。
その和歌を、鎌倉時代に連作形式としたのが連歌である。こちらは、複数の作者が上の句の「五七五」と下の句の「七七」をそれぞれ詠む形式だった。
いずれも複数の人間が集って詠む芸能だ。
江戸時代になって、連歌の上の句である「五七五」を独立した鑑賞物と捉えたのが俳諧である。松尾芭蕉以前は正式には「俳諧連歌」と呼ばれており、依然として和歌および連歌との連続性の延長線上にある、集団芸術の位置付けであった。しかし、松尾芭蕉以降は「五七五」の発句が独立したものとして鑑賞されるようになり、その流れが明治時代の俳句の成立に繋がってゆく。
さて、相楽右京が俳諧を始めたのは、連歌から俳諧が分離して、その主流派が松永貞徳を祖とする「貞門派」から松尾芭蕉を祖とする「蕉風」に移行しつつある時期であった。
俳諧の本質は滑稽や戯れといった、武家社会にはない軽やかさである。しかし、芸事である以上は形式や基本的な教養をないがしろにすることはできない。そして、右京は直参旗本としての
右京は、知人に連れられて顔を出すだけのつもりだった俳諧の会合で、いきなりその素養を見せつけてその場に居合わせた俳諧師らを
そうなると万事が「牛の歩み」であった男は、盤石な基礎が土台となって、一気にその才能を開花させた。
俳諧を業、つまり仕事とする者を「業俳」、あくまでも趣味として楽しむ者を「遊俳」と呼ぶ。そして「俳諧師」と呼ばれるのは、専門家である「業俳」のみである。右京は三男とはいえ直参旗本であったから「俳諧師」を名乗ることはなかったが、その入れ込みようは「業俳」のそれであった。
右京は、生来の本人の気安さから、あちらこちらの会合に呼ばれるようになった。その中には、旧主流派の貞門派に属しているにも関わらず、蕉風の会合まで含まれる始末である。右京自身は、派閥なぞどこ吹く風であった。
一方、右京という直参旗本を指名で招いた以上、会合の主催者側は手弁当という訳にはいかないから、さすがに幾ばくかの礼金を包むようになる。断るのも角が立つので、右京は「些少ではございますが」と言って出されたものは、素直に受け取ることにしていた。
右京の人気が高まるにつれて、その礼金の額が右京の意向とは無関係に吊り上っていく。そして、それをまとめると決して些少とはいえない金額となった。
ある冬の晩のことである。
相楽右京は俳諧の会合に呼ばれて、柳橋の料亭にいた。
前段となる「同好の士による俳諧の披露」は既に終わっており、場は後段部分の宴会に入っている。右京も酒宴に同席することは嫌いではなかったし、酒も弱いほうではない。そして、このような無礼講も俳諧の楽しみの一つと心得ていた。
ところが、そのような宴の最中、思いがけない俳諧の一句が右京の頭の中に浮かんだ。右京には困った癖がある。句が頭に浮かぶと、それを形にするまで落ち着かなくなってしまうのだ。
流石に宴会の最中、その場で句を捻くり回すのは無粋だろうと考え、騒がしい座敷から抜け出す。そして料亭の廊下の片隅に陣取ると、その句をああでもない、こうでもないと検討し始めた。
しかし、どう頭を捻っても微妙にしっくりこない。酒を飲んだせいで、頭が回らなくなっているのだろう。いつもなら容易に思いつきそうな言葉が、どこかに引っかかって出てこられなくなっているような気分である。そんなこんなで、うんうんと唸っていたところ――
そこにちょうど料亭の仲居をしていた左右太の母親、郁が通りかかった。
その時、郁がその料亭で働いていたことにも事情がある。
郁の父親で左右太の祖父にあたる儀平は、腕の立つ版木職人だった。母親が早くに亡くなってしまったために、儀平が男手一つで郁を育ててきたのだが、郁が十八の時に彼が卒中で倒れて、そのまま数日後に亡くなってしまった。
郁が途方にくれているところに「俺が世話をするから一緒になっておくれ」と切り出したのが、儀平の一番弟子として働いていた嘉吉である。郁が七つの頃に十で修行にやってきて、そのまま兄弟のように育った相手であり、郁も憎からず思っていたところであったから、一も二もなく承知した。
嘉吉は真面目で、仕事熱心だった。版木職人の稼ぎは、贅沢できるほどにはならないが家族三人が生きていくには申し分のないものであったし、父の技を受け継いだ嘉吉の評判は高く、指名で仕事が入ることもあり、実入りが安定して途切れることがなかった。
嘉吉、郁、左右太の落ち着いた生活がしばらく続いた後、次にやってきた「人生の転換点」は、郁にとって非常に厳しいものとなる。
左右太が八つの頃に、近所で火災が起きた。
嘉吉は、懇意にしている版元の延焼被害を食い止めるためにおっとり刀で家を飛び出し――
翌朝、物言わぬ
嘉吉という稼ぎ手がいなくなった以上、子供を抱えていても郁が働かなければならない。しかし、子連れの女が働ける先はそう多くはない。そして、大概が日陰者のさだめを負う一本道である。どうしたものやら、と郁が途方にくれていると、嘉吉が応援に駆け付けた先の版元の主が、火事の後始末の最中にもかかわらず駆けつけて、
「嘉吉さんにはすまないことをした。私が懇意にしている先に女が子連れで仕事できる先がないか、当たってみようじゃないか」
と言ってくれた。そして紹介してもらった先が、この料亭である。
郁は、赤い顔をしてうんうんと唸っている右京を、てっきり酒の飲み過ぎで具合が悪くなった客だと思った。
右京が武家であることは、髷の形を見れば明らかである。武家に不用意に声をかけて、逆に因縁をつけられてはかなわないが、だからといって見て見ぬふりも郁の性格からすると、できない。そこで、
「もしもし、お武家様。お加減は大丈夫にございますか」
と慎重に声をかけてみた。
右京は、直参旗本ではあるが三男坊なので、いたって気安い。それに、長男や次男と違って、武家の子弟だけが通う束脩の高い道場や学問所ではなく、それよりも安い道場や学問所で町人に混じって修練に励んできたために、右京には身分の違いという意識が希薄であった。
「いや何、ただ句を云々していただけなのだ」
と、正直に答える。
「句、にございますか」
郁も意外そうな顔をした。こんなに気安く答える武家も初めてなら、料亭の廊下で句を推敲している人物というのも初めてである。
一方、右京は酔った勢いもあるが、驚いた顔をしているものの聡明そうな郁の表情に興味を引かれて、「これこれ、こんな句なのだが」と懇切丁寧に説明し始める。
郁は版木職人の妻や娘として、彫りあがった版木の確認やら何やらを手伝っていたため、文字を読むことができたし、その内容も分かった。また、腕の良い版木職人であった父と夫のところに依頼されてくるのは、当代有数の学者や作家の書き物であることが多かったため、門前の小僧式に学んだものとはいえ、当時の女性としては破格の教養があった。
そこで郁は、
「誠に
と前置きしつつも、
「これこれ、こうなさってはいかがでしょう」
と切り返した。
「ああ――そうか、なるほど。これは素晴らしい!」
まさか料亭の仲居が、これほど見事な切り返しをするとは思ってもいなかった右京は、郁の利発さに瞬時に惚れ込んでしまった。
「拙者も不躾で大変申し訳ないのだが、貴方のお名前を承りたい」
そうやって右京は郁の名を聞きだすと、すぐさま料亭の主人に直談判して、郁の氏素性を聞き出した。そのまま宴会の席を放り出して屋敷に戻ると、すぐさま酒井用人を呼び出して、
「是が非でも郁を嫁に迎える。駄目だと言うのならば、自分が外に出る」
と言い出した。
三男とはいえ直参旗本である。料亭の仲居を嫁にする、というは身分違いも甚だしい。しかも郁には既に左右次という子供がいる。この時点で、右京は左右次に直接会ってはいなかったが、そう料亭の主人は言っていた。
武家の初婚が「
それが当時の常識であり、右京の申し出はこれ以上ない横紙破りであった。普通、急にこんなことを言い出したら、勘当されて屋敷から放逐されても不思議ではないのだが、彼の父母や兄たちはその扱いに非常に苦慮した。
なぜなら、右京が俳諧の会合で受け取る礼金は、相楽家の威厳を保つためになくてはならぬ貴重な収入源となっていたからである。そしてこれが、相楽家の借財に対する『優良な担保』でもあった。
右京は、いつもであれば穏やかでのんびりした気性であるが、一度言い出したことには極めて
その性格を承知していた家族と親類縁者は、強硬に反対して右京に出奔されてはかなわぬと、
「三男でもあることから、後家と連れ子でも致し方なし」
と、渋々了承した。右京の粘り勝ちである。
知人の同輩の家にそれなりの金を積んで、郁と左右太を養子として迎え入れさせ、しばらくしてから武家の妻子として相楽家に迎え入れることにすれば、身分違いもなんとか解消できるので問題はない。そのような例は、珍しいが皆無ではなかった。
すると、最大の難関は郁の心である。この時点で、右京はまだ郁に話を通していなかった。
そこで、右京は直に郁の意向を確認することにした。
普通であれば、何度か料亭に通い詰めて顔馴染みとなり、徐々に打ち解けてから徐に切り出すものであろう。そのほうが道理に
身分の違いにはまったく頓着せずに、右京は料亭の座敷を借りて
「先日はご指導有り難うございました。ついては、貴方を妻女として迎えたい」
郁にしてみれば、青天の
直参旗本の三男坊とはいえ、れっきとした武士である。それが宴会の席で二言三言話しただけの仲居に、真正面から縁談を申込みに来る。さらに本人が直接かつ単独で、だ。
最初に料亭の主人から話を聞いた時には、
「そんな、それでは犬の子を貰いに来るようなものではないですか」
と、
驚いたことに、この直参旗本は至極真面目に言っているのである。
「確かに、先日初めてお会いして話をしただけではありますが、私にとってはあれで十分です。是非とも妻女としてお迎えしたい」
と、威儀を正して郁のほうをしっかりと見据えて言う。そこには微塵も陰りも迷いもない。ここまで見事に裏表がないと、むしろ天晴である。
郁も江戸の町娘であるから、何事も『その人の心意気』を買う。
「お気持ちはよく分かりました。しかしながら、私も前の夫とのことが未練となって残っておりまして――」
と、こちらも歯に衣を着せずずばりと言い切った。あまりの郁の率直さに、間を取り持つはずの料亭の主人の顔面は蒼白となったが、右京は動じなかった。むしろ、彼には郁のその率直が好ましくてならない。彼は、いつも泰然としている彼にしては珍しく、強く出た。
「それでは金輪際嫁せず、菩提を弔うというご覚悟でしょうか」
「いえ、そこまで思い定めている訳ではありませんが――」
「では、ご承知頂けるかもしれないわけですね。それでは、未練が断ち切れるようになるまで気長にお待ちしましょう」
と、右京はさらりと言ってのけると、晴れやかな笑顔になる。
「けんもほろろのお答えであったらどうしようか、と心配しておりました。よかった、よかった」
郁が色よい返事をしたわけでもないのに、一人上機嫌である。しかも、
「では、この件はこれで。せっかくですから貴方にご意見を伺いたいことがあるのですが、宜しいでしょうか」
と、右京は急に話を切り替えて、俳諧の話を始めた。
郁と料亭の主人はあっけにとられてしまった。
その後、右京は料亭に頻繁にやってきては、郁に俳諧についての意見を聞いていくようになった。
嫁入りの件はまったく口に出さない。ただ、句の是非についての意見だけを聞かれて、何か言う度にひどく感心される。しかも、それが決して表面的な賞賛ではなく、心から感心しているのが分かるのだ。
そうなると、郁も悪い気はしない。
郁は見栄えがそう悪いほうではない。いや、むしろよい。料亭の仲居として働いていると、酔った客から「妾にならないか」と言われることもしばしばである。しかし、これまで右京のように、郁の才能を評価してくれる者はいなかった。嘉吉にしても、郁の心根を好いていたのは分かっていたが、才能まで好いていたかどうかは分からない。
そして、この「自分の才を
以降、右京と郁は俳諧を通じて深く結びついてゆく。
郁が詠んだ句は、「女は俳諧に口を出すな」といろいろとうるさいことを言われかねないので、右京の名前で披露されていたのだが、それが右京のそれまでの軽妙洒脱な味わいに、細やかさや華やかさを加えることとなり、さらに右京の名を上げることにつながった。
また、郁は右京の視点を通じて、その心の穏やかさに触れ、心から敬愛してゆく。
このような「才能を互いに認め合っている二人」というのは、外から見ている者にとっては非常に居心地が悪い。
特に左右太にとっては。
左右太も「無理だ」とは思っていた。
女の細腕一本だけで、子供を守り育てていくのは大変だ。だからといって、郁が誰かの囲い者になるのも論外である。それならば、自分がどこかにいってしまったほうが良い。自分がいなければ郁は独り身であるから、囲い者になんかならなくてもよい。
実際にそう言って郁をひどく悲しませたことがあるのだが、左右太は本気でそう考えていた。
だから、右京の話は左右太にとっては願ってもないほど望ましい話であった。あったのだが――実際に郁が右京に惹かれ始めるのを間近で見ていると、やはりやり切れない。
左右太は嘉吉のことが大好きであった。
嘉吉はいつも黙々と家で版木を掘っている。注文が重なると、夜鍋仕事になることも珍しくはなかった。しかし、どれだけ忙しくて疲れていても、嘉吉は左右太が話しかけた時には話を聞いてくれたし、時には手を停めることすらあった。
物心つくと「おっとうの仕事を邪魔してはいけない」という分別も出てくる。
だから、日中は外で同じ長屋や周りの長屋の子供たちと遊んでいるのだが、雨の日になると如何ともしがたい。同じ屋根の下で一日過ごしていると、つい声をかけてしまうことになる。それでも、嘉吉は嫌な顔をせずに話を聞いてくれた。普段、左右太が我慢していることに気がついていたのだろう。
嘉吉が死んだと聞いた時、左右太はとても悲しかった。しかし、郁がさらに悲しい気持ちを無理に抑え込んでいることに気がつくと、泣くに泣けなくなった。(思い切り泣いておけばよかった、と今になって考えることがある)
郁が料亭で働き始めてからは、少しでも郁の居心地が良くなるように
それで、周りの大人たちから、
「左右太はおっかあを助けてえらいなあ」
と言われるのも嬉しかった。
それが、旗本の子供になるかもしれないという話が出てからというもの、なんだか余所余所しくなってしまった。
「お侍の子になるんでしょう? とても雑用なんかお願いできません」
と、手伝いも頼まれなくなった。それまでは気安く名前を呼んでくれた仲居たちは、
「よかったねえ」
と表向き言ってくれたが、隠れて
「うまくやったわね」
と言っていることも知っていた。
なにより、郁が次第に嘉吉のことを忘れてゆくような気がするのが辛い。
右京という侍は、威張ったところもなく、構えるところもない。侍らしからぬ腰の軽さで、左右太にも声をかけてくれる。それがいかに有り難いことなのかは、左右太にも十分分かっている。分かってはいるのだが――やはり、日々の生活から嘉吉の影が日に日に薄れていくのを見るのは辛かった。
とうとう郁が右京に嫁することを了承した時には、隠れて涙を流したほどである。郁に気づかれないようにしたかったのだが、翌日の朝すぐに「目が赤い」ことに気づかれてしまった。
*
以降、町人の左右太は、武家の相楽宗太郎となる。
仮の養子縁組から郁の輿入れまでの経過を、正直、宗太郎はよく覚えていない。言われたことを言われた通りにやっていた気はするのだが、心の奥のほうに頑なに変化を拒むところがあり、すべては上辺を通り過ぎて行っただけだった。
そして、実際の武家の生活は何よりも窮屈だった。
朝起きて、両親に挨拶をする。
昼過ぎに戻りおやつを頂いた後、道場に向かう。
そこでたっぷり汗をかいて、夕方に屋敷に帰る。
風呂に入り
その繰り返しである。好き勝手に外に出ることは許されない。
初めのうちはなんとか頑張ってはいたものの、やはりいかぬ。こういうものは年端もいかぬうちから慣らされているから耐えられるのであって、外から放り込まれると誠に辛い。
そうこうするうちに、さらに生活が一変することが起こった。右京の兄が、相次いで急逝したのである。
長男は流感であっけなく。
次男は長男の役割をそのまま果たそうとして、無理を重ねた挙句の過労で。
双方、妻帯することなく、跡継ぎも残さずに逝ってしまった。
そうなると、相楽家の当主は右京一人であり、宗太郎がその跡継ぎとなる。右京は
なにしろ、宗太郎は非嫡子である。それが、このままいけば直参旗本相楽家の当主となるのだ。親戚筋からうるさく言ってくる者もいれば、家中でも「いかがなものか」と内心思っている者がいる。
まず、側室の話が飛び出したが、右京は郁を、郁は右京を、心の底から大切しているために、その提案は検討すらされなかった。
次に「養子縁組でしかるべき者を次期後継者とする」案が水面下で動いていたが、これも右京の性格からいって簡単には首を縦に振らないであろうから、機会を
いずれにしても、宗太郎にとっては針の
酒井用人は宗太郎が相楽家に来て以来の教育係であり、表立っては「立派な武士になるためのあれこれ」を教え諭してくれてはいたものの、言葉の端々に割り切れなさが出ている気がしてならなかった。
それが、跡取りである。酒井用人の態度が、それまでとはうって変わった。
箸の上げ下ろしから言葉遣いの一字一句まで、
宗太郎は、酒井用人の目を盗んで屋敷を抜け出すようになった。それにより、後継者に不適切と判断されたとしても、宗太郎自身は一向に構わなかった。
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