第四話 出会い

(相変わらず見事なもんだ――)

 扇屋の一番船頭である嘉助は、清二が猪牙舟を扇屋の艀に滑らかに寄せるところを舳から眺めていた。

(清二がここに来てから、もう三年になるのか)

 煙管を川端の杭に打ち付けて煙草の灰を大川に落としながら、嘉助は昔のことを思い出す。


 *


 お国から、清二を預かることにしたという話を聞いた時、

(この忙しい時に、なんでそんな面倒な話を引き受けんだよ)

 と、嘉助は内心思った。

 大川は江戸の大動脈なのだから、舟が頻繁に行き交うのは至極当然のことである。それが苦手だという者が漕ぎ出してよいところではない。出来ないのであれば船頭を辞めればよいではないか。簡単なことだ。

 ――と嘉助は話を聞いて即座に思っていたのだが、お国は続けてこう言った。

「伊達様の肝煎きもいりなんだよ」

 仙台藩上屋敷の御用人が「清二が舟の行き違いに慣れるまでの間、面倒を見てもらう」条件として、信濃屋の伊蔵に伝えたのは以下の二点だった。

 一つ目、仙台藩上屋敷から舟付きで毎日通わせるので、扇屋では舟を準備しなくてもよい。

 二つ目、事情が事情なので扇屋からの日当は無用である。昼から夕までの間、好きに使ってもらって構わない。

 それを聞いた途端、嘉助は余計に憤った。

「そんなことじゃあ良い仕事なんかできるわきゃないでしょうよ。見合った日当が貰えない仕事に、精ぇ出す奴なんていませんぜ」

 嘉助の持論である。

 仕事の成果を正しく認められることが、職人には一番重要なのだ。そして、その評価が一番分かりやすい形で示されるのが、雇い主からの日当や報奨金であり、客の心付けである。それを「なし」にしたら、何を楽しみにして頑張ればよいのか分からないではないか。


 嘉助が扇屋の前に雇われていた深川の船宿の主は、業突く張りで、因縁をつけては船頭の日当を出し渋った。

 そこで、嘉助は同じ船宿の船頭仲間と連れ立って、暇を貰うことにした。正確には「無断で辞めた」訳だが、普通はこのようないわくつきの船頭を雇う者はいない。もしかしたら、自分のところでも同じように急に辞めるかもしれないからだ。嘉助は辞める前に口入れ屋に話を持ち込んでおいたものの、正直「もう船頭は無理かもしれんなあ」と諦めかけていた。

 ところが、新たに船宿を始める扇屋が「喜んで受け入れたい」と言っている、と口入れ屋が紹介してきた。

「新たに店開きするもんだから、猫の手でもいいから人が欲しいってんだろうよ」

 前の雇い主に散々煮え湯を飲まされた後だったので、嘉助は半信半疑で扇屋の主人、お国の旦那さんだった扇屋又兵衛に会った。

 又兵衛は開口一番、

「いやあ、雇い主が業突く張りのどうしようもないやつだったんで、我慢できずに皆で辞めました、ってことなら、これは誰かが助けないとおかしいじゃありませんか。うちは新参者だから日当は高くは出せませんけどね。まあ、なんとか頑張りましょうよ。やっぱり我慢がならなかったら、またお辞めになれば宜しい。ただ、『明日から来ません』くらいは言ってもらえると助かるんだがね」

 と言い切り、呵々大笑かかたいしょうした。

(こいつは器が違うわ)

 嘉助は即座に心酔し、仲間の受け入れを是非にと願った。

 扇屋の商いが軌道に乗るまでの間は、又兵衛が嘉助に明言した通り、確かに日当は前の船宿と比べても安かった。しかし、一緒に移った連中は、実入りが減っても誰も文句を言うことはなかった。

 なぜなら、又兵衛はギリギリの台所事情であっても、そして僅かなものであっても、客を喜ばせた船頭には何かを与えて、逆に客を怒らせた船頭には何かを与えないか罰を与えたからである。それは一朱銀であったり、厠の掃除であったり、金回りが厳しい時にはお国が作った握り飯一つだったりしたこともあったが、嘉助達はそれが励みとなって、船宿を盛り上げるために頑張った。

 この時、お国から貰った握り飯の美味さを、嘉助は今も忘れていない。

 商いが軌道に乗り始めてからは、扇屋の日当は高くはないものの低くもない水準で、きちんと払われた。むしろ船頭のほうが扇屋の取り分について「低すぎやしないか」と疑問を持つほどである。何事にも適正配分を重んじる嘉助からそう言われた又兵衛は、

「私が舟を漕いでいる訳じゃあないんですから、おこぼれを頂いていれば十分なんですよ」

 と言い切った。その姿勢はお国になってからも変わっていない。

 商いがこれからという時に又兵衛が流行はやり病で亡くなり、失意のあまりお国が店を閉めようとした時には、嘉助がこう言った。

「女将さんが、どうしてもやめたいというのであれば仕方ありませんがね。俺たちゃもう、ここ以外で船頭をする気はありやせんから。俺たちは旦那に拾われて、女将さんに育てられた。いわば親と子の関係だ。それを捨てなさる料簡ですかい」

 ここでやめたらお国が間違いなく駄目になる、と思っての大芝居である。案の定、お国にはちゃんとその思いが伝わった。

「――ありがとう」

 それで今日の『扇屋』がある。


 *


 だからこそ嘉助は、「煮るなり焼くなり好きにしろ」という扱いには承服しかねるのだ。

 嘉助は、女将が単に「仙台藩の御用を承りたい」という魂胆こんたんで人を受け入れるほど、さもしい心根の持ち主とは考えていない。また、信濃屋の伊蔵は確かに凄腕の口入れ屋だが、女将のところに筋の悪い話を持ち込むほど落ちぶれてはいないはずだ。

(するってぇと、どうなる――)

 今度は、その清二という子供のことが気になってきた。

 信濃屋の伊蔵と扇屋のお国という、人を見る目にかけてはそうそうひけを取ることのない二人が、これだけ筋の悪い話を承知で受けるには訳があるはずだからだ。

 そして、清二の猪牙に同乗して彼の漕ぎを一目見た嘉助は、その『訳』を了解した。

(こいつぁ確かに勿体ねえや)

 櫓を漕ぐ手首の柔らかさときたら。

 足腰の座り具合の見事なことといったら。

 これは天性のものとしか思えない。

 今の二番船頭にもできない芸当だ。

(舟同士の行き違いが出来ねえだけで、これだけのうつわをみすみす反故ほごにしちまうってぇのは、確かに勿体なさすぎらぁ)

 嘉助も船頭であり、しかも桁外れに優秀な船頭であるからこそ、清二の資質が心底惜しかった。

(十四でこれじゃあ、先が恐ろしいぜ)

 その後、実際に他の舟と行き違う時の清二の慌てようも体験した嘉助は、猪牙を降りると桟橋の上で腕組みをしたまま考え込んだ。

「嘉助さん、どんなもんかねえ」

 お国が、形の良い眉を顰めて心配そうに覗き込む。

 嘉助は大川の川面を睨みつけたまま、身動きもしない。

 女将も一番船頭の人柄は知り抜いているから、このような時は黙って見ている以外にしようがないと、同じく大川の川面を眺めた。

 米俵を満載した大小の高瀬舟が、夫婦のように寄り添いながらゆったりとした動きで、蔵方面へと漕ぎ上っていく。大きいほうには六人の船頭が、小さいほうには四人の船頭がついており、酒手がたんまりと出そうなのか大層機嫌がよく、渋い塩辛声の唄が聞こえてきた。

 相模からの戻りか、それとも安房からの戻りか、五大力船が積み荷を満載してゆったりと流れてゆく。

 その隣を、どこかの藩の御用船から沖で荷を受け取ったのか、やはり荷を山にした茶舟が、どこかの河岸を目指して上っていった。

 神田川から大川に入った水舟が、合間を器用に縫って深川方面と下ってゆく。

 乗り合いの猪牙舟二隻が、水をかけたのかけてないのと、大声でいさかいを繰り広げていた。

(やっぱり無理かねえ)

 お国は小さく溜息をつくと同時に、

「――あっしが預かりやしょう」

 嘉助がぽつりと言った。

「そうかい、やってくれるかい」

「ただ、こいつぁ時が要りますぜ」

 小躍りする女将を制した一番船頭は、底光りのする強い視線を大川に向けた。

「正直、あっしにも出来るかどうか分からねえ」


 *


 嘉助は、気をつかわなくてもよい一見客を送る場合に限って、猪牙舟に清二を同乗させることにした。常連客の場合、清二の手並みを気に入って指名しないとも限らない。それを避けるためである。

 最初のうちは、離岸時と着岸時には清二が竿を遣い、道中の櫓は嘉助が握るという役割分担とした。嘉助が舟を操っている間、清二は大川上の舟の動きを見定めるように、嘉助に言われていた。

 続いて、客を河岸に送って折り返し扇屋に戻る場合など、清二と嘉助だけの時には清二が櫓を預かってみることがあった。繰り返しているうちに、初めの頃のような身動きすらできなくなるほどの取り乱し方はなくなったものの、やはり手が縮こまって自由が利かなくなり、舟は無断なまでに左右にふらつく有様だった。

「嘉助よぅ。なんだいその女みたいな柳腰の船頭はよぅ」

 顔見知りの船頭が、高笑いを流しながら脇をすり抜けてゆく。しかし、そんな時でも嘉助は決して清二を叱らなかった。

 彼は本来、口が悪くて喧嘩っ早い性分だったが、これと思い定めると粘り強い。

 根気よく清二に櫓を任せては、前回より少しでも良くなっているところがあれば、武骨なそっけない言い方ではあったが、それを指摘し続けた。

 清二はそれを素直に飲み込んで、次も同じようにできるように心がけた。

 繰り返しできる時も、できない時もある。しばらくできていた事が、できなくなる場合もある。それら一つ一つに蜂のように一喜一憂することなく、必要なこと以外は牛のように黙して口にせず、嘉助と清二は大川の上で蝸牛の歩みを進めていた。


 蝸牛の歩みも三年も続ければ、それはそこそこの距離に至る。


 今では、普通の速度でのすれ違い程度であれば問題はなくなった。掘割での猪牙舟の譲り合いであれば、滑らかにかわせるようにもなってきた。

 しかし、勢いのある舟が相手の時は、いまだに手が震える。殊に相手が押送舟の時には、それが顕著に現われた。

(ここからが難しい)

 嘉助は、もやいを結ぶ清二のほうを見つめながら考える。

 別に考えがあった訳ではないが、嘉助はこれまでの船頭としての経験から、何度も軽いものから試みを繰り返すことで、舟同士の行き違いに対する恐れを薄れさせることはできるだろう、と踏んでいた。だから、ここまでは想定通りであり、清二の中にも自信が出てきたことだろうと思う。

 しかしながら、あの「押送舟への恐れ」だけは如何ともしがたい。染みついた恐怖心は、地道な繰り返しだけでは拭い難い強い楔となって清二の心にこびりついている。これを剥がすのは容易ではない。

(隅のほうから気長に削いでいくか――)

 それでは、まだまだ時が必要になるだろう。その間に清二は、無駄に盛りの時期を失っていくことになる。

 しかし、ここから先の手立ては、嘉助にも思い浮かばない。

(何かがつんと、楔を根元から削ぎ落すような強烈なやつがあればいいんだが)

 嘉助は再び煙草を詰めた煙管を深々と吸い、盛大に吐き出した。

 煙は、嘉助の戸惑いを現わすかのように水面を滑ってゆく。


 *


 夕方になり、清二は長屋に帰るために猪牙を漕いでいた。

 柳橋を出て大川を下り、江戸の海へ出る。猪牙舟は底が平たいので、本来は外洋航行に向かないが、江戸前の湾内で波が静かな時であれば問題はない。もちろん、わざわざ沖に出る酔狂な趣味はないので、清二は海岸線に沿って仙台藩上屋敷方面に向かった。

 まだ陽は残っている。帰りを急ぐ舟がちらほら行き交う中を、初夏の風がするりと抜けていった。 日中の熱気は汗を乾かすほどの塩梅で残っており、さらに汗をしたたらせるほどではなかった。岸からは犬の鳴き声、子供の泣き声、男の怒鳴り声や女の金切り声が、途切れ途切れに聞こえてくる。

 生きる者達の音。

 清二の櫓が水を掻きまわす音は、水底から湧き上がってくるような心持ちがする。

 死せる者達の音。

 清二の心の傷を癒そうとする嘉助の、物静かながらも力強い合力はとても有り難かったが、どうして自分が船頭になるための修行を続けているのか、清二には分からなくなっていた。

 もちろん、彼が人並み以上に出来ることは限られているから、活計たつきを得る方法の選択肢は多くない。

(舟を漕ぐことと、もう一つは――)


 と、そこまで考えたところで、男の声が微かに岸から聞こえてきた。


「おおい、済まねえ。乗せてくれねえか――」

 見ると、武家髷の男が岸から清二を呼んでいた。なりが小さい。

(元服前か?)

 と、清二は一瞬思ったが、前立が取れているので元服後である。そして、整った身なりから大身旗本の子弟と察した。

(それにしては、言葉遣いが町人だ)

 どうにもちぐはぐな様子につられて、清二は舟を岸に漕ぎ寄せた。

「あまり遠くには行けねえ」

 清二はぶっきら棒に答える。町人が武家に対する物言いではなかったが、相手は気にした様子もなく、

「構わねえ、ちょっとだけ姿を隠したいだけだから」

 と言うと、岸から清二の舟に足を踏み出そうとした。慌てて清二は竿を取り出し、川底をついて舟を安定させる。小柄な男は舟には慣れていないらしく、転げるように乗り込むと、即座に船底で身を縮めた。

「済まねえが、こもがあったらかけてくれねえか」

「汚れるぞ」

「構わねえ」

「……」

 清二は常備してある薄汚れた菰を、男の値の張りそうな衣の上に載せた。

 すると、その直後に今度は三人の武家が岸に姿を現す。

「そこの船頭、いつからそこにおった」

 三人のうち、草臥れた古鼠のような初老の男が、横柄な口調で尋ねた。

「今しがた」

「十七くらいの武家の姿を見なかったか」

「見てねえ」

 愛想の欠片もない清二の様子に、相手は腹を立てた違いない。こめかみに血の道が浮かんでいるが、

「――分かった」

 と、ここで町人相手に問答をしていても始まらぬと悟ったのか、男達は身をひるがえして走り去った。

「済まねえ、助かった」

 と、先程の三人が捜していたと思われる男は、菰の下から這い出してくる。

(これで俺と同じ十七――)

 清二はかなり大きいほうであったので、それと比べて云々するのは公平ではないのだが、それにしても身体は小さいほうだと思う。しかし、表情はむしろ大人びていて、本来の頭の良さやこれまでの苦労が透けて見えるようだった。どこまでもちぐはぐな印象を与える男である。

「屋敷を抜け出したのはいいが、出た途端に見つかって追いかけられていたんだ。悪かったな、姿を隠させてもらった上に嘘までつかせちまって。おいらは――そうだな、宗太と呼んでくれ。相楽宗太郎というご立派な名がついちゃあいるが、なんだか尻がかゆくなって仕方がない」

 そう早口で言い切ると、実際に尻を掻く真似までする。

「武家らしくないな」

「おうよ、これには深い訳があってな」

 宗太は気安く応じると、助けてもらった礼とばかりに自身の事情を語り始めた。


 清二は母の顔を知らない。

 物心ついた時には、母は病で亡くなっていた。長屋のかかあ連中の手助けで、特に寂しいとも思わずに育ってきたが、兄は思い出があったがために辛い思いをしていた。夜中に「――おっかあ」という、兄の声を聴いたこともある。どちらがいいとも悪いとも言えないが、自分には「いないこと」が普通ではあった。

 だから、宗太の語る『お家の事情』は、どうにもすんなりとは呑み込めないものの、宗太が面倒な立場にあることは了解できた。

 武家になれたのだから贅沢言うな、という台詞は、なったことがない者の無責任な意見である。大名屋敷の長屋で暮らしていると、武家の生活の堅苦しさがよく分かる。自分にもあんな四角四面の生活は息苦しくて仕方がない。

 宗太のほうも、無口ではあるが自分の話を一心に聞いて、それを分かってくれているらしい清二の姿は、しばらく町人との付き合いが絶えていただけに、新鮮だった。学問所にしても道場にしても、町人は遠慮して武家である自分のところには寄ってこない。自分から寄っていっても逃げられる。久しぶりの町人言葉の解放感に、宗太は胸の内を思わずさらけ出していた。そして、それはとても気持ちが良かった。

 その間、清二は海の波が舟を大きく揺らさないように、櫓を細かく動かして調整しながら話を聞いていた。意識してのことではない。手が自然にそのように動くだけのことである。それに目敏く気が付いた宗太は、羨ましそうに言った。

「お前みたいに上手に舟を漕げたら、自由でいいよな」

「そうでもない」

 清二は短く答える。その素っ気なさに宗太は少しだけむっとして、言葉に噛みつく。

「そうでもない、じゃあないだろ! お前は、自分の行きたいところに行こうと思えば、行くための手立てがちゃんとあるじゃないか。貧乏旗本なんか、屋敷で馬を飼ってはいても登城の際の見栄っ張りに使うだけで、門から出て自由に走り回ることが出来る訳じゃない。そんなことをして街中で町民を引っ掛けようものなら、士道不覚悟で本人は切腹、お家は断絶だ。馬すら借り物という御家人なんかもっと不自由だよ。だからといって、辻駕籠じゃあ好きなところに行けても自由じゃない。大名駕籠じゃあ、自分がどこにいるか説明しながら移動しているようなもんだ。そんなに速くもないしな。この江戸で自由に素早く動き回れるのは、舟ぐらいじゃないか」

 そう言うと、宗太は右手で素早く川面を撫でる。

「こう、すいっと誰にも邪魔されず何にも縛られずに動けたらどれほど素敵だか、お前、分からないのか」

 清二は無表情で宗太の手の動きを眺める。しかし、内心は激しく動揺していた。

(自分の行きたいところに行こうと思えば、行く方法を持っている、か)

 彼の言っていることはもっともだ。確かに江戸の町で舟ほど自由な乗り物はない。

 掘割が縦横に張り巡らされている江戸の町は、結構な奥まで舟で乗り入れることが出来る。猪牙舟は底が平たいので、水深が浅いところでも入り込める。そして、うまく勢いがつけば走るよりも遥かに速い。物が載せられて、手や腰を痛めることもない。そして、自分はその舟を『自分用』に持っている。


 しかし、自由ではない。


 自分の先祖は自由だったと聞いている。が、ある時、その自由を名誉のために手放してしまった。子孫は今、名誉すらあるのかないのか定かではない身分で、おきてに縛られて生きている。今の自分には「行きたいところ」を思い浮かべることすら許されない。

(――いや、本当にそうなのだろうか?)

 別に「行きたいところ」に行っても構わないのではないか。掟にそのような定めがあると、親父は言っていなかった。考えてみれば、清二自身がそう思い詰めていたのかもしれない。扇屋の船頭たちは漕ぐのが仕事だから、そもそもそんなことは考えもしなかった。むしろ仕事が終わったら、さっさと陸で酒を飲みたがっている。

(好き勝手に漕いだらどうなるのか――)

 清二は夢想してみる。

「おい、ところで舟ってどれだけ速いんだよ?」

(そもそも好き勝手って何だろう――)

「よう、聞いているのか?」

(誰もいないところで思い切り漕ぐことか――)

「おい、聞いているのかよ!」

(海まで出ればなんとかなるかな――)


 清二の顔に盛大に海水がかかる。


 見ると宗太がたなごころで椀を作っていた。珍しくぼんやりと物思いに耽っていた最中ということもあって、清二は逆上した。

「何すんだよ、着物まで濡れたじゃねえか!」

「船頭だったら当たり前だろ」

「何言ってんだよ、そんな下手くそじゃねえよ!」

「ぼおっとしてたから目を覚ましてやったんだろ」

「考え事してたんだよ、悪いかよ!」

「悪いね。一緒に乗ってる俺が話しかけてんだから、一人で黙って考えてんなよ」

「お前、客じゃないだろ。なんだよその偉そうな態度は!」

「客と似たようなもんだろ」

「じゃあ、船賃出せよ。出してみろよ!」

「そんなもんねえよ。屋敷に置いてきた」

「じゃあ、客じゃねえだろうが!」

「昔から『呉越同舟』と言ってだな、敵味方でも舟に乗ったら仲良くするのが習わしだろ」

「そんな昔のことなんか知らねえよ!」

 宗太は最初から余裕綽々よゆうしゃくしゃくで、清二をからかっていた。清二はそんな宗太の様子に気がつかないほど、頭に血が上っている。二人を載せた舟は、言い争う声を風になびかせながら、江戸の海の端を流れてゆく。

 今この時を、仙台藩上屋敷の者や、扇屋の者が見ていたとしたら、さぞかし仰天したことだろう。彼の親父であればさぞかし苦い顔をしたに違いないが、姉のお道ならばこう喜んだかもしれない。

(あの、まったく感情を表に現わすことのない清二が、頭から湯気を出さんばかりに怒っているよ――)


 *


 陽は大きく西に傾き、大川に赤々とした残照が色鮮やかに映る。

 巳之助は橋の欄干らんかんに両腕を載せて組み、その上に頭を載せて色の移り変わりを眺めていた。

 今日の仕事は既に終わっていた。親方の家から自分の家に帰る途中で、重たい足を前に進めることに倦んで、ここに立ち止ってしまったのだ。

 巳之助の後ろを勢いよく棒手振り達が走っていった。そのうちの何人かは、

「そんなとこにぼけっと突っ立ってんじゃないよ。邪魔だよ」

 と、荒々しい声をかけていったが、巳之助は依然として動かなかった。

 終いには、

「あの、何かお困りのことでもあるのですか」

 と、近所の長屋住まいらしき初老の女に声をかけられる始末である。

「あ、いや、川に夕焼けが映って綺麗だなと思っていただけです」

 女の顔色から、どうやら身投げを疑われたらしいと察した巳之助は、慌ててそれを否定した。女は訝しげな顔をしたまま、立ち去ってゆく。

(ふう――確かに怪しげに見えるよなぁ)

 巳之助は我が身を省みた。

 大人が橋の欄干に宿ったまま身動きをしなければ、自分だって身投げを疑う。

(これ以上、他人様のご迷惑にならないうちに家に帰ろう)

 と、一層重たくなった足を無理矢理前に出そうとした時、


 川面から何やら声が聞こえてきた。


 巳之助が橋の上からひょいと覗くと、猪牙舟の上で男が二人、言い争いをしているのが見えた。

 いや、言い争いとはちょいと様子が違う。

 一方の『船頭らしき大男』は、頭から盛大に湯気を上げんばかりに怒っていたが、それにも関わらず小まめに櫓を漕いで舟を安定させていた。その手際は、巳之助の目から見ても並大抵ではない。

 他方の『武家らしき小男』は、ゆったりと舟の胴の間に腰を下ろして、笑いながら大男を挑発していた。身形が遠目にも大層立派で、旗本以上であることが分かる。余りに小柄なので、パッと見で『元服前の子供』ではないかと思ったが、月代はちゃんと剃り上げられていた。

(ということは、自分とさほど変わらない歳ということか)

 ともかく、どういう関係か見当もつかない。

 仮に船頭と客の関係とする。乗り込んだものの舟賃が出せないと武家の小男が言い出して、船頭の大男が怒り出したと考えてみる。

 それだと、船頭のあの怒り様は妙だ。舟から放り出しかねない勢いの割に、櫓はちゃんと漕いでいる。

 次に昔からの知り合いだと考える。些細な行き違いから口論となった。

 いや、やはりおかしい。それならば両方共に激昂しているのが自然ではないかと思う。

 いろいろと推測してみたが、どれも当て嵌まらない。巳之助は橋の上でああでもない、こうでもないと思案を始めた。

 彼は生来気働きの細やかなほうではあったが、さらに面倒な母親を抱えて長年苦労してきたので、人の心に関する洞察が同じ年代の者に比べて深かった。また、巳之助自身も人の心の動きを読み取ることが好きな性質である。

 そのため、橋の片方から藁束わらたばを満載した大八車が来ていることに気が付かなかった。

 大八車からは盛大に藁束がはみ出している。当たって怪我をするものではないから、人足達が適当に突っ込んだのだ。

 それが棒立ちになっていた巳之助を、背中から押す。

「うわっ!?」

 不意を突かれた巳之助の上体が欄干を乗り越え、彼は頭から大川に落ちていった。


 下の二人は、急に傍らに人が落ちてきたため、

「え、何? 身投げ?」

 と慌てふためく。

 それまでの口論はどこへやら、清二は急いで巳之助が落ちたところに舟を向けた。

「どこだ、どこに落ちたやつがいる?」

「分からねえ、流されたか?」

「いや、まだこの辺りにいるはずだ。仕方ねえな」

 宗太は衣が濡れるのもいとわず、勢いよく水の中に頭を突っ込んだ。彼は昔から視力が優れていた。周囲はかなり暗くなっていたが、覚束ない光の中でも人影ぐらいは見つけ出せるだろうと考えていた。

 果たして、下流に激しくもがいている男の姿を見つける。

 宗太は頭を挙げると、清二に向かって、

「すまねえ、あっちだ。舟を向けてくれ」

 と、男の姿があった方角を指さして指示した。清二は黙って大きく頷くと、櫓を深く川面に突き立てる。

「掴まってろ」

 清二は水を荒々しく掻きまわすと、宗太が指差した方向に舟を向けた。猪牙舟が水上でうねる。宗太は急いで舷側にしがみついた。

 猪牙舟は滑らかに加速してゆく。

「この辺か?」

「恐らく」

 短いやり取りの間に清二は櫓を手放して、扇屋の法被はっぴを脱ぎ捨てていた。そのまま、躊躇ちゅうちょせずに川に飛び込む。

 宗太ほどではないが清二も夜目が効く。川の中ほどで手足をばたつかせている男が見えた。

(あれでは逆に沈む)

 動転した巳之助は無暗に水を掻きまわしており、それが浮き上がることを妨げていた。

 清二は速やかに巳之助の背中に回った。前から近付くとしがみ付かれて身動きがとれなくなることがあるからだ。後ろから襟首を掴むと、そのまま水面まで引き上げた。

 水面に顔を出した巳之助は激しく咳き込んだ。

 清二は巳之助を抱えると、舟のほうまで引っ張ってゆく。

 猪牙舟の舷側に、心配そうな宗太の顔が見えた。


 *


 宗太、清二、巳之助の三人はその後、相楽家の屋敷に移動した。

 川に飛び込んだ清二と巳之助は、全身ずぶ濡れでどうしようもない有様だった。また、宗太も頭を水につけたので髷ががたがたになっており、さらに巳之助を引き上げる際に盛大に水を被っていた。ずぶ濡れではないものの、柳橋や深川にそのまま行くことは出来ない。

 しかし、屋敷に戻った最大の理由は「大川での大騒ぎが宗太を探していた家中の者の目にとまった」からである。であるから『移動した』という自律的な表現は実は正確ではなく、三人はゆっくり話をする暇もなく、相楽家の家臣や中間に取り囲まれて屋敷に『連れていかれる』ことになったのだ。

 三人は屋敷に着くやいなや、身包みはがされてそのまま屋敷の湯殿に放り込まれた。従って、宗太はやっとそこで落ち着いて、肝心なことを巳之助に尋ねることができるようになる。

「で、どうしてお前は身投げなんかしたんだい?」

 死ぬか生きるかの瀬戸際、てんやわんやの大騒ぎの後で、温かい内湯につかってほっとしたために、事の経緯をすっかり失念していた巳之助は狼狽した。

「いやいや、おいらは身投げなんかしちゃいないよ!」

「しかし、頭から大川に落ちてきたじゃないか」

「あれは後ろから押された勢いであって、自分から飛び込んだ訳じゃないよ」

「押されて川に落ちるぐらいだから欄干のすぐ傍にいたんだろ。何でそんなところで後ろから押されたんだよ。いや、そもそも何でそんなところに立っていたんだよ」

「それは……」

 巳之助は言葉に詰まった。

 それを説明するためには、欄干の近くにずっと立っていた理由から話を始めなくてはならない。

 そして、事の発端や途中の経緯はどうあれ、宗太と清二に命を救って貰ったことは確かであるから、巳之助の真正直な性格からして、二人に嘘をつくことはできなかった。

「実は――」

 巳之助は生真面目な語り口で、母親のお佐紀の小言が五月蝿いために家に帰ることを躊躇ためらっていたと、宗太と清二に話し始めた。

 その話が「宗太と清二の言い争いを橋の上から見ていた」ところまで来た時に、今度は巳之助が、

「ところで、二人はどういう間柄なんだい? それが気になって橋の上に留まってしまったんだけど」

 と尋ねた。

 宗太と清二は顔を見合わせる。

 巳之助に事の次第を詳らかに話させた後である。また、彼が橋の上に立っていた理由が二人の口喧嘩を見ていたということであれば、無関係とは言い難い。そのため、二人も経緯を正直に話さなければならなくなっていた。そこで作り話ができるほど、宗太も清二も世間ずれしていなかった。

 宗太は、自分が直参旗本と結婚した母親の連れ子であって実子ではないこと、慣れない武家の生活に息が詰まって逃げ出したところで清二の猪牙舟に出会ったことを、明解な言葉で包み隠さずに話した。

 続いて清二は、ぼそぼそとした口調ではあったが、兄が溺死して以来、対面方向から舟が迫ってくると満足に櫓が漕げなくなる自分の病いについて説明した。

 清二の話を聞いた途端、宗太は

「ああ、だからおいらが『舟は自由でいいな』と言った時に、あんなに深く物思いに沈んでいたのかよ。そいつぁおいらが悪かった。すまねえ。勘弁してくれ」

 と、勢いよく清二に頭を下げた。清二が物思いに沈んだ理由は別だったが、清二は素直に頷いた。

 宗太の率直さが、清二は嫌いではない。細かいところは気にせず、本筋をきっちりと押さえてくる彼の態度は、清二にはまぶしかった。

 三人が三人とも複雑な事情を抱えていることが分かって、場が少しだけ重くなる。

 宗太は、そのような場の雰囲気に敏感であったから、俄に笑いながら、

「それにしても参ったな――」

 と、咄嗟とっさに思いついた話題に切り替えた。

「今回は、人助けということもあって酒井用人も無断外出を不問に付してくれたけど、これから監視の目がさらに厳しくなるのは間違いない。何か別な方法を考えないといけないや」

 湯殿に三人でつかっていたということもある。

 正直に打ち明け話をした後ということもある。

 なんとなく『相身互い身』という意識が三人の間に強く結ばれ始めていたため、清二は普段の彼には決して考えられないことを、さらりと口にした。

「運ばれる途中で気が付いたが、ここの屋敷の裏に掘割があるよな」

「おう、あるよ。それがどうした」

「あそこには確か舟着き場があったよな。前にここを通った時に見た覚えがある」

「ああ、確かにある。貧乏旗本だから屋敷に船頭なんかいないし、舟もないけどな」

「じゃあ、用人の監視の目も届いていないのでは。この屋敷は俺が仕事場から長屋に帰る途中にあるから、その際に舟を漕ぎ寄せれば――」

「おっ、そいつぁいいねえ! しかし、どうやって時を合わせるんだい?」

「そいつは――」

「何か他の人には分からない符牒ふちょうを作るのはどうかな」

 巳之助が目を輝かせて話に加わった。

 巳之助は大工見習いということもあるが、生来この手の細工物に目がない。

「例えば、舟着き場のどこかに宗太から清二への目印を置くだろ。そして、清二が舟着き場に来たことが分かるように合図をつけるんだよ。例えば紐を引くと鳴る鈴とか」

「いいねえ。舟着き場はおいらの部屋のすぐ裏手だから、大げさな仕掛けじゃなくても大丈夫だよ」

 宗太は思いがけない協力者に大喜びした。

 が、彼はそこで急に真面目な顔に戻ると、続けてこう言いだした。

「じゃあ、巳之助。お前も一緒に来るかい?」

「えっ、なんでおいらまで?」

 巳之助は唐突な宗太の申し出に驚いた。

「なんでって、お前も家の中で苦しい思いをしているんだろう? 気晴らしは必要じゃないのか?」

 宗太はさらに、

「清二も一緒にどうだよ。似たような境遇の三人が同じ舟に乗って、好きなところにいくんだよ。なんだか楽しそうじゃないか」

「……」

 清二は無言だった。

 だが、その表情を見ると「嫌」という訳ではなく、その申し出を前向きに考えている、ということが分かる。

 実際、清二は、

(自分だけでは何がしたいのか、どこに行きたいのか見当もつかない。こいつらと一緒なら、何か違うものが見られるかもしれない)

 と考えていた。

 その横では宗太と巳之助は既に「巳之助とどうやって合流したらよいか」を考え始めている。

  

 *


 さて、三人の若者が湯殿で今後のことを思案している時、別室では激しい戦いの火蓋ひぶたが切って落とされようとしていた。

 事の発端は、相楽家から清二と巳之助の家に、

「川に落ちた息子さんを助けた。着替えやら湯浴みやらで今日は大変であるから、当家でお預かりする」

 という繋ぎのために、相楽家の中間が送られたことである。

 清二の長屋に行った中間は、父親から極めて丁寧な礼を受けて戻ってきた。

 巳之助の長屋に行った中間は、疲れた顔をしてお佐紀を連れて戻ってきた。

 そこで酒井用人がお佐紀の応対をすることになる。

 中間の話にすっかり興奮していたお佐紀は、言っていることや考えていることが鼻から支離滅裂になっていた。よく動くその口で、

「なぜ、うちの巳之助が身投げしたと言うんですか」

「そんなことをするはずがありません、何かの間違いです」

 と、宗太が助けたことへの礼も言わずに、滔々と捲し立て始めたのである。相楽家は助けた側であるから、お佐紀に感謝されこそすれ事情を細かく説明する義理はないし、そもそも巳之助の事情が分からない。そこで酒井用人は、お得意の、

「分かりませぬ」

「知りませぬ」

 の紋切り型で応じる。

 お佐紀は酒井用人の対応にいよいよ激昂げっこうし、言葉尻を捉えたり、対応の不具合を目敏く見つけ出したりして、非難を繰り返す。

 酒井用人は、お佐紀の着眼点の鋭さに少々驚きながらも、筋金入りの鉄面皮であるから、それを顔には出さない。

 お佐紀は、酒井用人の鉄面皮のしぶとさに驚きつつも、女手一つで息子を育てた強かさで、矢継ぎ早にやり返す。

 そして、二人ともいずれ劣らぬ堂々巡りの玄人である。そのことを自覚しており、自負もある。

「相手が根負けするまで、意地でもやめるものか」

 と、話は同じところを何度も行きつ戻りつ、延々と続き――


 驚くべきことに夜が明けてしまった。


 疲労困憊ひろうこんぱいの引き分けに終わったわけであるが、酒井用人にしてみれば、ここまで自分に食い下がった相手は、今まで商家の掛け取りにもいなかった。

 お佐紀にしてみれば、ここまで長々と自分の話を受け止めた男は、巳之助の父親ですらいなかった。

 そのため、お互いに内心では相手のことを見直していたのだが、いずれ劣らぬ『意地っ張り』であるから、それを顔に出すことはなかった。

 ただ、別れ際に周囲が訝しく思うほど長い間、視線を絡めあわせると、

「ふん」

 と、両者同時に鼻から勢いよく息を吐いたのみである。

 この出来事は『狐狸こりの言い争い』として、相楽家に後々まで語り継がれることになった。

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