鉄女神の守護
怪我の治療を終えて一眠りしていたルークが目を覚ますと、藍色をした天蓋が目に入った。怠い体の上に、毛触りのいい毛布の感触がある。谷の岩盤を
(まるであの頃みたいだ)
誰もいない部屋の中に居ると思い出す。城の西にある幽閉塔の中で悶々としていた日々の事を。薄暗い塔の部屋の中で、必死になって思い出せなかった記憶の事を思い出そうとして失敗して、絶望して。
(けれど、今は違う)
あの頃はどんなに必死になっても思い出せなかった記憶が、戻っている。
(イブティサームは、死んでいなかった)
あの日、炎に焼かれたのはイブティサームではなく、侍従の娘だった。悲鳴も上げないままあっという間に炎に包まれて、苦しみもがくように手足をばたつかせて事切れた。その彼女のそばで、イブティサームは俺に冷たい眼差しを向け、ルーシィと名乗る男と一緒に城を出て行った。
「すべて忘れてしまえ」と吐き捨てて。
(あいつは、何処へ行ったのか)
ルーシィと共に出て行ったのだから、きっと、イブティサームもルーシィと一緒にいるはずだ。しかし、その足取りを調べる暇も時間も今は無い。
(いまはイブティサームの事よりも、これからのことを考えないと)
脇腹につけられた傷を包帯の上からそっと触った。痛み止めが効いているのか、ぼんやりとした感触がある。
アムジャードに着くなり医術師の元へ運ばれたせいで、ニザルや砦の主達と話しが出来なかった。だから起き上がったらまず一番に、ニザル達のもとへ行って、まずは助けに来なかった理由を正さなければいけない。それから、ハリルとモハメドへカムールを守れなかったことを謝らないと。王国軍に硝子谷まで侵攻を許してしまった今、カムールはアル・リド王国の支配下にあるようなものだ。早く取り戻すために動かないといけない。なのに、怪我を負った身体は思うように動いてくれない。溜息を一つ吐くと、怠く重い体を起こし、
「誰かいないか」
部屋の扉の外へ声掛けをした。返事は無いが、代わりに遠慮がちに扉が開かれ、
「……あの」
隙間から伺うその人を見て顔を背けた。
「お前じゃない。帰れ」
正直、アズライトと話したい気分ではなかった。一騎打ちを邪魔されたときのことを思い出すと今も腹が煮えくり返る。生まれ持った矜持を穢された気がして腹が立ってしかたない。それを察したのか、アズライトは申し訳なさそうな表情を浮かべながら部屋の中に入ってきた。
「……具合はいかがですか。胸の痛みは。吐き気は。血は、吐いていませんか」
「話したくないと言っただろう」
「話してください。貴方の容体が気になるのです」
「……少し怠いが問題ない。怪我もそのうち良くなっていくだろう」
ぶっきらぼうに返すと、
「本当に?」
「本当に」
そう聞いた瞬間、ほっと胸を撫で下した。
「どうした」
いつもらしからぬ様子のアズライトが、言葉を探しあぐねるように視線を床の上に彷徨わせた。
「私の不注意で、貴方を危険に晒してしまった」
「そう言えば倒れたな、俺」
谷の淵を
「私が
「使う? 俺が
通常、赤い光は
「貴方の身に起きたことは、
「過剰防衛反応?」
「前に、貴方には
ルークは、驚きに目を見張った。
「では、俺自身が
侍女を焼いた炎も、アサドの怪我を治した力も、イリスから放たれた
「全て、
「
前にアズライトが言っていた言葉を思い起こす。人はこの世界にやって来た後、
「例えるなら一時的な酸欠です。多分、今の状態で問題が無いのだったら、今後も余程の事がない限り大丈夫なのでしょうが」
「
アズライトは静かに頷いた。
「硝子谷に展開中の壁に近づけば、今後も同じようなことが起こり得る可能性が高い。ですから、どうか壁には近づかないでください」
近づけばまた、苦しみにのたうち回ることになるだろう。二度とごめんだと頷いた。
「あの赤い壁は今後も残すのか」
「私か、あるいは私のような誰かが破壊しようとしない限りは、残り続けます」
「私のような誰か、とは心当たりがありそうだな」
アズライトの表情に陰りが差した。
「L411が、この近辺で活動をしています」
「かつてお前と一緒に戦った奴が?」
アズライトが頷いた。
「何故そんなに警戒する。
警戒する必要はないように思えるが、そうは思っていないようだ。両者の間でルークには計り知れない何事かがあったような表情でアズライトは目を伏せた。
「……彼は
「俺はL411という奴にも、あいつにも警戒しなくちゃならないのか」
「あいつとは」
「ルーシィという。お前が前に、関わるなと言ったやつだ。そいつと俺は、大分前に接触したことがある」
アズライトの表情が強張った。露骨な表情の変化にこちらが慌ててしまう。
「大分前だぞ。お前が眠りから目覚めるよりも、もっと前の事だ」
「そのルーシィという者は、貴方に何をしたのですか」
「俺の肩に止まっている鳥を取ると。
ああいや、これはイブティサームの言だったか。しかしルーシィがやろうとしたことはこれと大差ない。アズライトは真剣な表情で黙り込むと、ぽつんと呟くように言った。
「……管理権限の剥奪。強引な。それで」
「断った。というか、渡さなかったという方が正しいのか。うん、渡さなかった」
のだと思う。その時の記憶は
「その時はよくても、いずれ
「そうは言っても、俺にだってルーシィには聞きたいことが山ほどある」
イブティサームの行方に
「お願いします」
固い声色で頼み込まれて、それでも嫌とは言えなかった。
「分かった」
かつてない表情を浮かべるアズライトに居心地の悪さを感じて、
「分かったから、もう良いだろう」
帰ってくれと言外に頼み込む。けれどもアズライトはまだ何か言おうと、口を開いた。
「それから」
「それから?」
「イスマイーラの事があります」
はっと、した。
(そうだった、あいつ、今はダリウスと共に砦の牢に入れられているのだったか)
ともすれば、必然的に話すことは限られてくる。
「あいつを牢から出して欲しいというお願いか」
「出来ますか」
「ああ。尋問のふりをして身柄を別の部屋に移し、そこで事情を聞き出すのは可能だ。俺も、起き上がれるようになったらイスマイーラと話したいことがある。怪我がもう少し良くなってからでも構わないか?」
アズライトはほんのりとほほを緩め、頷いた。
「三人でもう一度話しましょう。それから―――」
ふいにアズライトが口を閉ざし、部屋の外へ顔を向けた。それにつられるようにして顔を扉の方へ向ける。遠くから賑やかしい足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。やがて、
「具合はどうだい、坊や」
開かれた扉の外から現れた懐かしい顔に、ルークとアズライトは顔を見合わせた。
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