白縫之宴 肆

『おい。アイツ等、何かする気だぞ』

 土蜘蛛は白い歯を剥き出しにし嬉しそうに笑う。

「何案ずる事は無い。此方は堂々と迎えれば良い。―――それよりも、またこのような時代に、剣誓ノ儀を見られるとはな」

 少し遠い眼をしながら若菜は呟く。若菜の視線の先には霊力を爆発的に解放し始めた翔真がいた。その霊力の奔流は先程とは比較にならない。

『・・・そうだな。昔、お前に誓いを立てた男共は皆死んでいった』

「ああ。人間は脆く弱い。このように長く時代を築き上げている事が不思議なくらいにな。だが、それももう終わりだ。戦火の口火は既に切られた」

 若菜は椅子の上に立ち上がると飛び上がり土蜘蛛の肩へと降り立つ。土蜘蛛は若菜の動きに同調するように二本脚で立ち上がる。巨大な身体が更に大きくなる。

「これから先、何千何万という人間が死ぬ事になるだろう。そして、人間はもう一度知る事になるのだ。―――人間は唯一この世に在らざる存在であると・・・」

『ああ』

 土蜘蛛は開いた口から空気を漏らすように頷いた。

「しかし今は、子供等との遊びを愉しむとしよう。『白衣纏』を使う」

『承知した』

 若菜と土蜘蛛は同時に印を組み始める。手で彩る形は全て互いに等しく。まるで二人が同じ役を演じているかのように同調している。

「『白衣纏』」

 二人は同時に印を結び終えると、術の名を叫ぶ。すると、二人の身体からは白く細い糸が伸び始める。それは、やがて二人を包んでいった。蝶が蛹に戻るかのように、全ての景色を逆回ししているようだった。糸は糸を編み込み自動的に造形を整えていく。全身に白糸を纏った二人はまるで、新雪を錬磨した鎧を着込んでいるようだった。

「さて、存分に愉しもうぞ」

 再び巻物を日輪の如く纏い、若菜は高らかに宣言した。


 翔真は若菜からの視線に気付いていた。

―――あちらも乗り気だな・・・

「いくぜっ!」

 掛け声と共に、翔真は風を収斂させた安綱を振りかぶる。狙いは一点。土蜘蛛の正中だ。焦点を合わせた翔真は一気に刀を振り下ろした。

「はぁああああああああああ!」

 霊力を込めた風は空の青を纏う。風は土を走り空を瞬く間に掛け抜ける鎌鼬。或いは、触れたものを悉く破壊する衝撃波。白い鎧を纏った土蜘蛛へとその風は押し寄せた。土蜘蛛は防御の体勢を取ることさえ出来ていない。翔真の放った風は土蜘蛛の身体を飲み込んでいった。

 しかし、土蜘蛛は依然として屹立していた。

「中々の威力だ。白衣纏を此処まで傷付けるとはな」

 感心するように若菜は呟いた。

『皮膚を少し斬られるとはな・・・』

 土蜘蛛は胸のあたりを、まるで虫刺されを気にするようにぽりぽりと掻く。全身を塗り固めたような鎧に少しだけ口を開けたように細い線が伸びる。翔真の一撃は土蜘蛛の鎧に軽々と阻まれたに等しい。しかし、若菜はそこで気が付いた。翔真の姿が目の前から消えていた事を。背筋に氷が伝うような感覚が若菜を襲う。

「油断するな!もう彼奴は間合いに入り込んでいる!」

 爆破的な霊力を放出した後、直ぐに出来るような動きではない。翔真はそれを平然とやってのけている。それは脅威に他ならない。

 間髪入れるつもりなど毛頭無い。

 翔真は飛び上がり土蜘蛛の正面に現れる。兜を被った土蜘蛛の視界に翔真の姿が陽炎のように映り込む。

「だったら剥き出しになっている部分はどうかな!」

 躊躇い無く翔真は刀を薙ぎ払う。墨のように黒い液体が夜の闇を染め上げる。

『がぁああああっ・・・!?』

 土蜘蛛は左の眼球を真っ二つにされた痛みに身悶える。噴き出す血を抑えるように掌でその眼を覆う。もう一つの眼は血走り、空に舞う翔真を捉える。

『てめぇ!』

 巨大な口を獅子のように開け、土蜘蛛は怒りに任せて糸を針のように吹き出した。糸の硬度は鉄。それらが数百という数で翔真を襲う。

 翔真は針の弾道を読むと、

「胴体ががら空きだ」

 身体を捻り一気に急降下。冷静に次の狙いを定めた。狙うのは糸の鎧から剥き出しになっている土蜘蛛の胴体。僅かな隙間に風の刃を叩き込もうとしたのだ。

「させぬよ」

 耳元で呟かれるように若菜の声が翔真の身体を震わせる。

 その声と同時に、翔真の剣戟は何かに防がれる。

「ちっ・・・」

 翔真は舌打ちし、反転するように地面へと着地させざるを得なかった。着地した直後、翔真は自身の剣を止めた正体を知る。

「次々と厄介な術を使う・・・」

 土蜘蛛の肩上で若菜は扇子で口元を覆っている。その周囲には蝶のようにひらりひらりと手に持っている同じ扇子が幾つも滞留している。

「土蜘蛛、油断するなと云った筈だ。彼奴は儂の『鱗火ノ舞』を退ける程の実力者だぞ」

『すまん。そうだったな。―――だが、眼を斬られた恨みは早々に返させて貰う!』

 土蜘蛛の怒りに呼応するように蜘蛛の巣が張られた空から、そして土の中から子蜘蛛達が一斉に貌を出す。犇めくように迫る子蜘蛛達の眼は不気味に紅く光る。

『お前ら!奴を喰い殺せ!』

 子蜘蛛達は土蜘蛛の声を引き金に、次から次へと翔真へと飛び掛かる。その数は数百。小さいとはいえ、通常の蜘蛛の何倍もの大きさがある。一度噛まれれば全身に毒が回り命は無い。

―――お膳立て通りだ・・・

 翔真は不敵な笑みを見せ付けた。それに気付いたのは、笑みを向けられた若菜だ。若菜はその笑みの意味を瞬時に理解した。

 これは《罠》だと。

「土蜘蛛待て!子蜘蛛達を今直ぐ止めよ!」

 その声は既に遅かった。翔真は刀を両手で持つと切っ先を地面に向ける。そして、それを勢いよく振り下ろした。その瞬間、全ての時間が世界の秒針を止めたように鎮まり返った。

 静寂を斬り裂いたのは猛り狂う嵐。それは翔真を中心に爆発的に広がる。そして、爆発的に広がっていくのは風だけではない。

 目の前に見える世界は一気に紅蓮の紅に染まった。


「嘗て私達の一族が鬼蜘蛛を駆逐した術『火皇蓮花』。まさかこんな形で使う事になるなんてね」


 咲は目の前で花のように咲き誇る炎の花弁を見て微笑んだ。咲と香は描いた陣の中心で手を繋いでいる。繋いだ二人の両手には血が滲んだような術印が浮かび上がっている。

「術者さえも無差別に攻撃する未完成の術をこんなに上手く利用するなんて・・・」

 香は目の前の景色が信じられない様子だ。最早、炎に包まれた世界はただ紅蓮が猛る巣窟だ。翔真はおろか、若菜や土蜘蛛の姿さえも一切見えない。

「俺や翔真ではこれ程の炎術は使えない。だが、蜘蛛の糸にはやはり炎だ。それも君達の操る狐火なら尚良い。流石、代々管狐を使役してきた一族だ」

 雄飛は満足気に咲と香に感想を述べる。

「それって嫌味?私の先先代で管狐は使役出来なくなった。管狐は美食家だから、年月を経て弱体化した一族の霊力では愛想を尽かされたのよ」

 苦虫を噛み潰したように咲は皮肉を述べる。雄飛は彼女の表情を見て感じた。自分の一族の不甲斐無さを憎む気持ちが咲にはあるのだろう、と。

「私達は雄飛さんの術で護れられていますけど、神楽坂さんは本当に大丈夫なんですか?」

 香は心配そうに眉をへの字に下げる。

「それは問題ないよ。翔真は周囲に強固な風の障壁を作っている。炎そのものだけでなく熱量さえも翔真の風の前では無意味。そして、その風は何処までも炎の威力を上げて蜘蛛の巣を喰らい尽くす。若菜姫と土蜘蛛にとって、此の炎は《煉獄の溶鉱炉》さ」

 雄飛の話を傍らで聞きながら、凌子は目の前に広がる地獄絵図のような世界をただ呆然としながら眺めていた。人の力を遥かに超えた《死吞》の世界を。しかし、目を逸らす事だけは決してしなかった。翔真の生きる世界を、翔真の生き様を見守り続けると誓ったから。

 炎は次々と蜘蛛の糸を燃やし尽くしていく。

 爛れた糸は綿菓子が口の中で溶けるように簡単に消えていった。半円状に張った蜘蛛の巣の結界は一夜の夢のようにあっさりと崩れ落ちていった。子蜘蛛達は炎に身を焼かれ、身動きが取れないまま消し炭へと変えられる。

 炎は炎を喰らい、喰らい尽くし、静かにその獰猛な食欲を満たしていった。

 燃え尽きた炎は泡沫のように消え失せた。初めから其処に炎など無かったかのように。しかし、ただ一つまだ煌々と燃え続けるものがあった。

 翔真は紅蓮の炎の中にある巨大な影と対峙していた。霊力を纏った風が視界を奪う事は無い。黒い影の口は憎々し気に此方を向いている。

「この炎の中で未だ健在とは恐れ入るよ」

 荒々しい呼吸音のみが聞こえる。それは空気を吸う音でも吐く音でもない。空気がただ身体を通過するだけの音だ。翔真は周囲に舞う火の粉を振り払うように刀を構える。

「土蜘蛛。潔く往ね」

 炎に包まれた土蜘蛛は全身を振り子のように動かすと、八本の腕を一斉に翔真に向かい突き立てた。が、その動きは緩慢で翔真の眼には停止しているに等しかった。

―――この我が・・・こんなにもあっさりと・・・

 悔しさを口にする時間さえも土蜘蛛には与えられなかった。

 翔真の一閃は容赦なく土蜘蛛の首を落とした。斬られた首元からは黒い闇のような飛沫が上がる。首を無くした身体は糸の切られた傀儡人形のように地面へと崩れるようにひれ伏した。炎は尚も燃え続け土蜘蛛の身体を焼いていく。

「お前の若菜へ対する忠義は見事だ。安かに地獄で眠れ」

 敵へ讃辞送るも、翔真は目の前で燃える土蜘蛛の身体から切っ先を外さない。

「さて、あとはお前との決着だけだ。若菜」

 翔真は土蜘蛛の身体に言葉を向ける。

「俺が気が付かないとでも思ってるのか?」

 語気を強め翔真は迫る。

『流石。貴殿の目をたばかる事は出来ぬか』

 半分炭と化した土蜘蛛の胴体の中心が突如陥没すると、其処から若菜が全くの無傷で現れた。貌はおろか、着ている白無垢にさえ埃一つない。

「考えたものだ。あの姉妹に炎術を使わせ、自身はその術の増幅器となる。加えて、童子切安綱本来の力である《対魔》の力を炎に上乗せした。あの炎では流石の土蜘蛛の堅い体皮も耐えられぬか・・・」

「それが身体を呈して護った者に云う台詞か?」

 若菜は涼し気な笑みを浮かべる。

「貴殿には分かるまいよ。奴は儂を護る事こそ本懐であった。嘗て、それを出来ずに奴は苦悩した。しかし、今それが叶ったのだ。他人に文句は云わせんさ」

「そうかい・・・」

 翔真は切っ先を若菜に向けたまま刀の柄を改めて握り直す。

「お前も同じ所に直ぐに送ってやるよ」

「笑止」

 二人は同時に空中へと飛び上がった。大きな黄金の月が二人を照らし出す。

 先手を切ったのは翔真だ。

「はぁあああ!」

 霊力を込め直した安綱を若菜に向かい振り下ろす。

「遅いっ!」

 後背と化していた巻物が盾となり翔真の剣戟を受ける。妖気が込められた巻物は霊力と相反するように反発し合い火花を散らす。

「まだまだ!」

 振り下ろした刃の向きを変えそのまま鍔迫り合いへと追い込む。その力に圧され若菜の体勢は崩れる。翔真は再び渾身の力を込め刀を振り下ろした。若菜はそれを身体を捻り紙一重で躱してみせる。高背となっていた巻物は翼へと姿を変え、若菜は翔真の更に上へと舞い上がる。

 息つく暇もなく若菜は掌を組むと術の印を結ぶ。

「『伍錠鬼哭縛』」

 翔真の頭の中にこの世の者とは思えない叫び声が木霊する。その声はまるで死者を悦んで甚振る鬼達の声だ。

―――くっ・・・頭が割れる・・・・

 翔真は頭の痛みに耐え切れず片手で頭を抱える。

 その声に一瞬気を取られると、何時の間にか周囲の空間が次々と歪曲し始める。其処から黒状の縄が飛び出し翔真の身体を捕らえようとする。翔真は迫り来る縄を次々と斬り刻んでいく。が、斬るだけでは追い付かず、翔真は仕方無く若菜から距離を取ろうと空を翔る。しかし、その縄から逃れようとしても、縄は何処までも翔真を追い続ける。

「これじゃ埒があかねぇ・・・」

 縦横無尽に迫る縄はついに翔真の右脚に絡み付いた。「くそっ!?」と声を上げ、翔真の動きを其処で停止した。翔真の身体はその地点に固定される。

「こんなもの!」

 右腕を振りかぶり右脚に巻き付いた縄を斬ろうとした時だった。巨大な妖気が翔真の背後から感じられた。翔真は背後を振り返る。

「妖術師としての儂を侮ったな」

 印を組んだ若菜の正面には黒い塊が放電しながら滞留している。翔真はその術の正体が何であるか、直ぐに理解した。

―――あれは『黒雲皇子』の雷か!?

 若菜は指先を翔真へと定める。

「消し炭になるといい・・・」

 空を削り取るような金切り声が空気を染める。闇に紛れるように黒雷が翔真へと一斉に放出されたのだ。翔真は安綱を正面へと構えそれを受ける。直後、全身の細胞を焼き切られるような熱が身体の中を駆け巡った。

「くっ・・・・!!」

「これに耐えるとはやはりその身体、ただの人間とは造りが違うな。しかし、空中では雷を去なす事は出来まい」

 若菜の云う通り。翔真は雷を他に受け流す事が出来ずにいた。

 雷は言い換えれば強力な電流だ。何かをアース代わりにすれば身体から電流を放出する事が出来る。しかし、空中で捕らえられた翔真はそれが出来ない。

「受け流せないなら・・・そのまま返すだけだ!」

 翔真は安綱で受けていた雷を自身の霊力で若菜へと弾き返した。

「行儀が悪いぞ、男の子よ!」

 若菜は返された雷を、雷を以て対抗する。霊力を帯びた雷と妖気を帯びた雷は反発し飛散した。翔真を捕らえていた縄も雷で燃え尽きてしまった。

 翔真の反撃を受けた若菜は明らかに息が切れ疲弊していた。強力な術を連続的に使用した反動を受けているのだ。額には汗が滲み前髪が張り付いている。

 一方、翔真も肩を上下に大きく動かしている。雷を全身に受けた所為か、身体からは白い煙が上がっている。

「一気に術を使い過ぎなんじゃないか?優雅な振る舞いが台無しだぜ?」

 安綱を脇に構え翔真は皮肉を云う。

「なに、身体が漸く馴染んできたところだ。儂の術はこんなものではない」

 若菜は再び何らかの術を発動するため印を組み始める。

「もう術を撃たせる気はないよ!」

 翔真は間合いを一気に詰め、安綱を躊躇い無く薙ぎ払った。翔真には確かな手応えがあった。

 若菜は苦悶の表情を浮かべる。若菜の右腕は空中に舞い上がっていた。切られた腕の先からは鮮血が飛沫を上げる。しかし、若菜は痛みなど眼中には無かった。

 間合いを詰め接近した翔真を残った左腕で抱き寄せると、


「片腕は貴殿の《手向け》にくれてやる」


 耳元で囁かれ翔真は知る。若菜は《態と》腕を斬らせたのだと。若菜は翔真の身体を自分から離すと、血飛沫を上げる傷口の断面を翔真の身体に向けた。

「もう一度云おう・・・消し炭になれ」

 翔真の頬に生暖かい感触が伝う。次の瞬間、夜空に恒星の瞬きが煌めいた。その直後、静寂をかき回すように、耳を劈くけたたましい爆音が若菜と翔真を包んでいった。その爆発は二人を中心に広がっていき、周囲を焦土と化していく。雄飛は背後に控えている三人を守るため守護結界を強化し、それに備える。


 空中で煌々と燃える爆発の塊から零れ落ちるように地面に降り立ったのは、若菜だった。

 若菜は斬られた右腕を破れた白無垢の布で止血する。全身からは玉のような汗が滲み、余裕ある振る舞いは最早ない。満身創痍となった若菜は止血した腕をもう一方の掌で抑え空を仰ぎ見る。

―――あの至近距離での爆破・・・彼奴もただでは済むまい・・・仮に生き延びたとしても、最早儂と闘う力などなかろう・・・

 若菜は息を整え立ち上がる。足取りも確かに、若菜は半円状に広がる蒼い結界へと歩を進める。結界を張っている雄飛を見ると、

「さあ、どうする?儂の相手が出来るのは、精々貴殿くらいであろう?あの不完全の術ももう撃てまいて」

 咲と香は若菜の迫力に気圧されていた。満身創痍となっても尚健在の力。闘えば確実に殺される事など、確かめる間もなく明白だった。二人は寄り添うに手を繋ぎ合う。

「雄飛くん・・・翔真くんが・・・」

 泣きじゃくりながら凌子は雄飛の背中に縋り付く。しかし、雄飛は一切動じず若菜の質問に応える。

「若菜姫。お前の相手は俺じゃない。翔真だ」

 雄飛は空中で燃え盛る炎の渦を指差す。

 若菜は振り返る。雄飛が指差す方向を。そして、若菜の瞳の中には映った。白刃を煌めかせた一陣の風を。風は一気に空を駆け抜ける。


「再び黄泉へと返れ、若菜姫」


 正面に立った翔真が告げた言葉。それと同時に、若菜の視界は傾きかけた天秤のように少しずつずれていった。やがて、視界は暗転し、気が付けば自分の着ていた白無垢の裾が瞳に映っていた。

 しかし、若菜はその光景が不思議だとは思わなかった。

「あれを破られては儂に勝ち目はない・・か・・・」

 翔真はか細い若菜の声に耳を傾ける。

「奥の手にしては陳腐だったかな。もう少しだけそちらの術が早ければ俺の負けだったけど」

 視界の片隅に見える翔真の上半身は着ていた服が爛れたように崩れ落ちていた。刀を握った右腕から肩口にかけては皮膚が黒くくすんでいる。

「妖術師としての末路としては些か凡庸であったな。折角受肉した身体も一日で無駄にしてしまった」

 翔真は掌に安綱を納めながら、

「そうかもな。だが、こちらはお前の所為で作戦が台無しだ。話を聞きたかった左梁は死ぬし、左梁の持っていた人身売買のルートも見つからずじまいだ」

 姑の小言のように嫌味を云う。

「・・・人身売買の元凶は全て儂が潰した。人体実験も既に頓挫している。云ったであろう?醜悪な俗事を儂は嫌悪していると」

 若菜は口元に笑みを浮かべる。

「・・・最期に聞きたい。お前がこの世に受肉してまでやりたかった事は何だ?」

「それも云った筈だ。儂は儂を封印した帝に復讐をしたかった。ただそれだけだ。この世を今も帝が治めているなど・・・反吐が・・・」

 若菜はそのまま言葉を最期まで云う事は無かった。

 東の空が白み始める。長い夜は漸く終わりを告げた。翔真の瞳には眠りについた若菜の貌が映った。その貌はまるで楽しい夢を見る無垢な子供のようだった。

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