白縫之宴 弐

 予想外の出来事ではない。ただ、想定外の出来事だったに過ぎない。目の前に降臨した敵は想像に難くない強さを秘めている。白縫譚に描かれる大友若菜は土蜘蛛から妖術を授かった、とされている。それは伝説と違う事はないらしい。蜘蛛を従え、妖術を操り、幾人もの人間を葬った力は健在だ。

「やはり生身の身体はいい・・・」

 若菜は自分の身体を抱きながら呟く。彼女の髪を乱すように一陣の風が吹く。若菜は身体を抱いた腕を解くと、

「さてと、先ずは貴殿には礼を云わねばなるまい」

 胡蝶の舞をあしらった扇で口元を覆い云った。

「どういたしまして・・・と云いたい所だけどさ、それはお門違いだ。―――お前、何時から左梁の精神を乗っとっていた?」

 翔真からすれば、若菜のこの世の顕現は驚くべき事態ではない。しかし、この事態を避ける為に翔真自身は心を砕き、態々手を抜いて闘っていたのだ。それをおいそれと覆されては中々決まりが悪い。

 若菜は眼を細め雅に微笑む。

「なに、あの老体の精神などとうの昔に食い尽くしていたさ。そうさな。奴が儂を取り込んでから間も無くだろう。初めはそんな事をするつもりはなかったのがな、幾分と下らない虚妄に嫌気が差したのだ。実に醜悪で反吐が出ると、貴殿も云っていたであろう?」

「あれはお前が左梁を演じていたのか?」

「違う。あれを話していたのは儂が左梁の考えを以て創り出した疑似餌だ。表情が乏しいのが難点だが、それ以外はよく奴を演じていたよ」

 翔真の中で散在していた点が繋がり始める。

「お前はそれを隠れ蓑にして、左梁の体内でこの世の現界する力を蓄えていたわけか?」

「ああ。流石の儂も己の肉体を取り戻すのには苦労した。お陰で、左梁の下らん《大望》とやらを長々と見せられる羽目になったのでな。だが、漸く取り戻した・・・」

 鋭い眼光が翔真は貫くように向けられる。

「そして、貴殿のような強者に見えたのもまた僥倖。儂も少しこの俗世でやり残した事があるのでな。貴殿には儂の手駒になってもらう」

 扇を閉じ、若菜は指差すように扇の先を翔真に向ける。翔真は困ったように後ろ手で頭を掻く。

「悪いけど、そんな話には乗れないな。俺はお前を殲滅せよって任務を受けているんでね。悪いけど、此処で死んでもらう」

「ならば、儂が貴殿の雇い主を殺してやろう。―――《帝》の奴をな・・・」

 ある言葉を口にした瞬間、若菜の周囲の雰囲気が一変する。熱いような冷たいような、翔真の身体に迫る感覚は不気味という形容し難いものだった。

「そう云われれば、戦国時代にお前の封印を命じたのは、時の天皇だったな」

「・・・実に忌々しい。織田の空けに破れる程弱体化した帝の側近など、取るに足らぬと油断したのは、現に於いて儂の最大の敗着だ!」

 若菜は身体を震わせ唇を噛み締める。

 翔真は当時の事柄は全て頭に叩き込んである。戦国時代、史実では天皇家の力は無いに等しい。戦国武将の中にも天皇家の血筋に帰依する者がいたが、彼等は所詮雑兵に過ぎなかった。真の強者は己の武力で天下を取ろうとする時代だったからだ。

 しかし、事実は史実とは異なる。

 天皇家は初めから、戦国時代の争いなど取るに足らない事柄だと定義付けていた。寧ろ、天皇の力に頼らず世を治めようとする彼等の気概を買っていた。故に、天皇家は敢えて時代から身を引き影となとうとした。その方が都合が良い事もあった。

 それが、翔真の目の前にいる人の領分を超えた《人外》の存在だ。天皇家とそれに連なる従者達は遥か昔から《人外》との闘いを幾度となく繰り返してきた。

「あのまま大人しく封印されてもらってた方が有り難かったけどね。こっちからしたらさ」

 翔真は両手の親指の皮膚を歯で噛み切る。其処からはじわりじわりと血が滲む。

「まあでも、こうなっちゃ仕方がない。もう一度黄泉の世界に帰ってもらうぜ」

 血が滲む親指を使い、一瞬の内に両の掌に術式を描く。

 若菜は翔真の行動を見て愈々愉しそうに微笑む。

「その意気やよし。ならば、貴殿を殺してから儂の物としよう。身体さえ残ればそれでよい」

 閉じていた扇を再び開くと、それを姿を変え巻物となった。臙脂の装飾をあしらったそれは若菜が臨戦態勢を取った証だ。

 若菜の行動を見た土蜘蛛は空中に向かって糸を吐き始める。その糸は見る見る内に、若菜と翔真がいる半径三百メートルを半円状に覆っていく。巨大な蜘蛛の巣と化した空の産物を一瞥し、翔真は大きく息を吐き出す。

「封呪解印・・・」

 祈るように両手を合わせる翔真。合わされた両手と反応するように、翔真の額には血で描かれた呪印が現れる。

「抜刀!」

 合わせた両手を正面に構え、右腕を握るように構える。構えた右手を少しずつ合わせた掌とは反対の方向へと開いていく。その間には雷を纏う光の柱が輝きを見せる。瞬く閃光は周囲を照らすようその姿を露わにしていく。翔真の周囲には烈風の如く霊力が噴き出し、空気を陽炎のように揺らしていく。

 若菜は翔真がその腕からまさに取り出そうとしている《もの》を悟り、うっとりと頬を桃色に染め、艶やかな溜め息をつく。

「まさかな・・・益々儂は貴殿を己のものとしたくなった・・・」

 翔真が右腕を開き切る。翔真は右手に何かを握っているようだった。月光を浴びその身を燦々と輝かす。身の丈は九・九尺。刀身は北斎の荒波を体現するかの如く波紋を纏う。嘗て、丹波国の大江山に住う大妖怪『酒呑童子』。その首を一太刀で斬り落としたとされる、源頼光の愛刀『童子切安綱』。

 翔真はその切っ先を若菜へと向ける。

「大友若菜。お前に引導を渡す」

 若菜は向けられた白刃にほくそ笑む。

「よかろう。受けて立ってやる」

 白糸で彩られた舞台がついに開幕する。

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