顕現 弐

 身体をゆり動かす地鳴りが閉じていた意識を徐徐に取り戻させる。

 鳳凌子ははっとして目蓋を開いた。天井に吊り下げられた小さな豆電球が振り子運動を繰り返している。凌子は仰向けで倒れていたようだった。

―――此処は・・・?

 凌子は目蓋を腕でこすりながら、ゆっくりと身体を起こす。どうやら凌子は豆電球の中心に居たようだ。周囲を見渡しても明かりは一切無く、仄暗い奥はよく見えない。床はどうやら畳のようで、凌子は其処に寝かされていたようだ。


「漸く起きた?」


 呆れたような声で誰かが云った。凌子はその方向を振り返る。凌子の丁度真後ろだ。

「誰?」

 凌子は振り返ると、少し警戒するように呼び掛ける。

「安心して。私は貴女の敵じゃないから」

 凌子は声のする方向を見て眼を凝らす。眼を細め奥を見詰めると、ぼんやりと人の輪郭が見える。凌子は警戒しながら少しずつ近付いて行く。周囲が昏いため距離感が掴めないが、声の主との距離は大分近いものだったらしい。凌子は《彼女》を見て眼を丸くした。

「黒羽さん!?」

「そうよ。話すのは初めてかしらね、鳳凌子さん」

 咲は微笑み答える。

 しかし、その微笑みとは裏腹に咲の身体は酷い惨状だった。

 咲は両腕を枷で拘束されていた。枷の先からは鎖が伸びており、鎖は天井から伸びている。太い鎖には札のようなものが一定感覚で張られている。制服は所々裂けており、身体や貌には擦り傷や切り傷が幾つもあった。白いブラウスは乾いた黒い染みが水溜りのように付着している。足には鉄球が付いた足枷が両足に嵌められている。

 咲の惨状に凌子は口を覆った。

「何て貌してるのよ?」

「だって!?」

 凌子はハンカチをポケットから取り出すと、咲の頬に着いた血と泥を拭い始める。「いてっ・・」と咲は少しだけ貌を歪める。凌子は一瞬その声で手を止めたが、再び手を動かし始める。

「ごめんなさい。でも、私にはこれくらいしか出来ないから・・・」

 咲は一生懸命な凌子の表情を見て咽喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。

―――こんな時に他人の事なんてどんだけお人好しなのよ・・・

 凌子は咲の貌が綺麗になるとその場にしゃがみ込んだ。

「ありがと。少しだけ気分良くなったよ」

「うん・・・」

 凌子は瞳に涙を浮かべ俯いた。咲はその表情の意味を直ぐに理解出来た。それは自分が生きている世界と彼女が生きている世界が決定的に異なる事を表している。だが、咲は思う。凌子の生きている世界が至極真っ当な世界であると。

「私がこんな姿してたから吃驚したんだよね?泥だらけで血の臭いだってする。だから、もう私の傍から離れた方がいい。どうして貴女がこんな所にいるのか私には分からないけれど、今の私では力になれない。―――本当は貴女の事を助けてあげたいけど、今の私には何も出来ない・・・ごめんね・・・」

 凌子は黙ったまま何も云わなかった。そして、暫くすると立ち上がり咲の目の前から離れて行った。その姿は明かりの先の更に先へと消えた。

 咲は苦笑いを浮かべ俯いた。

―――これで良い・・・あの子は私になんか近付くべきじゃない・・・

 凌子の反応が自然だ。普通、人間はそんなに強い生き物ではない。目の前で死に掛けている人間など見捨てるべきものだ。同情をしないのも、憐憫の眼を向けないのも、手を差し伸べないのも、それは至って《普通》の人間の行動なのだ。自分の命だけしか守れないのであれば、他者の命を守ろうなどど考えてはいけない。自分の命こそこの世で最も優先するべきものだから。喩えそれが大事な人を見捨てて生き延びた命だとしても。

「香・・・」

 名を呼べば必ず笑顔が返って来た。怒った貌が返って来た。困った貌が返って来た。色とりどりに染められた世界は今は灰色で、やがて色さえも失うだろう。鎖に繋がれた腕を彼女の為に振るえない限りは絶対に。


「黒羽さん」


 咲はその声に貌を上げる。其処には、先程去った凌子が立っていた。手には折れた日本刀を握り締めている。

―――これは私の・・・

 凌子は咲の視線に気付くと、

「さっき、この部屋を探してたら端っこの方に落ちてたの」

 凌子はそれを逆手に持ち帰ると、

「えいっ!」

 枷の付け根へと刃先を突き立てた。金属と金属が弾き合い反動が凌子の腕を振るわせる。しかし、枷には少しだけ傷が入っただけだった。

「無理よ!この枷はそんなんじゃ壊せない」

 凌子は咲の忠告を聞かず何度も両腕を拘束する枷の中心点に向かい刃先を振り下ろす。枷と刃先が触れる度に火花が残滓のように舞い上がる。

「もう止めなさい・・・」

 しかし、凌子は手を休める事をしない。

「もう止めて!」

 咲の裂く様な声に凌子は遂にその腕を止めた。何度、凌子は腕を振り下ろしただろうか。咲は大粒の涙を流し、

「もう・・・止めて・・・貴女の手・・・ぼろぼろじゃない・・・」

 耐えられなかった。これ以上、自分以外の誰かが自分の為に傷付く事が。

 凌子は咲の視線に促されるように自身の腕を力無く下ろした。その拍子に日本刀が掌から零れ落ちる。凌子の掌は表面が皹のように罅が入り、其処からは血が滲んでいる。

「はははっ・・・私ってほんと駄目だな」

 凌子は自嘲気味に笑った。凌子の額から一粒、また一粒と汗が止めどなく落ちて行く。陽の光で焼けた畳に黒い染みが散乱していく。散漫になった呼吸は彼女の胸を苦しめていく。

「私の事はもういいから、貴女は貴女の命を護る事だけを考えて・・・」

 咲が云える事はこれだけだ。鎖に撒かれた呪符は咲の《力》を完全に無効化している。力の行使が出来ない以上、咲も目の前で項垂れる一人の少女と何ら変わらない。少女と同様、圧倒的な力の前には無意味に等しい。

 しかし、凌子は血の滲む掌をもう一度日本刀へと伸ばす。柄には凌子の掌から滲み出る血が疎らに付着していた。が、凌子にとってそんな事はどうでも良かった。

―――私の傷くらい黒羽さんの痛みに比べたらどうってことない!


「ごめん、黒羽さん。私は貴女の命を諦めるわけにはいかないから・・・」


 凌子は手枷から視線を上げると、鎖に貼られている札を標的に定めた。鎖に等間隔に貼られている札は全部で五枚。

―――これを剥がせば何か変わるかもしれない・・・

 予測でしかなかった。確証も何一つない。ただ、札を全て排除すれば何かが変わる、かもしれない。凌子はその一縷の希望を持ち、両手で持った日本刀を振り下ろそうと構える。

―――助けるんだ!絶対に助けるんだ!

「ああああああああああああああああああああああっ!」

「駄目!」

 咲の必死の制止も空しく掻き消される。凌子の腕を全力を込めて振り下ろされた。

「きゃあっ!?」

 日本刀が札に触れた刹那、閃光が瞬き紫電が幾何学状に散った。それと同時に、複数の何かが打つかり合うような音が部屋中に木霊する。凌子はその光に驚き尻餅を付く。

「・・・何が起こったの?」

 凌子は薄く開いた眼で鎖を見据える。其処からは薄く白煙が舞っている。凌子の握っている日本刀からも同様だった。欠けていた刃は飴状に所々が爛れ使い物にならなくなっている。

―――これ以上、危険な真似はさせられない・・・

「鳳さん、」

 咲は目の前で驚いている凌子を見据える。

「よく聞いて、鳳さん。こんな事云っても信じてもらえないかもしれないけれど、この札が強力な力を持った呪符なの。使用者以外が触れる事は出来ず、それ以外の者が触れればさっきのように迎撃機能が働く。さっきは運がよかったけど、次は本当に死ぬかもしれない。お願い。もう私の事は放っておいて!」

 目の前で誰かの命が消えるのは見たくない。咲はその一身で言葉を放った。凌子は依然として吃驚した状態のように見える。

 が、凌子は視線を咲に移すと、忌憚無く太陽のように微笑んだ。その瞳には諦めるという言葉は無い。

「云ったでしょ、黒羽さん。私は貴女の命を諦めないって。私の力は全然だけど、《力》を持った黒羽さんならもう大丈夫だよ。ちゃんと《神楽坂くん》が助けてくれたから・・・」

 その微笑みは咲の不思議と軽くしていく。それと同時に、咲の身体の中で《力》が徐徐に戻って行くのが感じ取れる。

「これって・・・まさか!?」

 咲は頭上に伸びる鎖を見る。其処には最早、鎖と呼べる代物は存在していなかった。鎖は障子が破れたように砕け散り原型を留めていない。まるで裂傷したように表面が抉れた鎖は、強力な散弾銃にでも打たれたようにも見える。

―――今ならいける!

 咲は胆に力を込め叫んだ。

「はぁあああああああああああああああああああああああっ!」

 宛ら天に昇り行く紅き龍だ。悠に天井に届く火柱は跡形も無く、完膚無きまでに彼女を拘束する鎖を呪符を足枷を燃やし尽くしていった。

 凌子は目の前で煌々と燃える炎を見ながら安堵していた。

―――よかった・・・黒羽さんを助ける事が出来て・・・

 やがて炎は咲に吸収されるように消えて行った。炎が舞った際の煙も煤も部屋の中には一切飛んでいない。

 其処で初めて本当の意味で凌子と咲は対峙した。

「ありがとう、鳳さん。貴女の勇気と誠意に敬意を」

 咲は表情には出さないものの嬉しそうに手を凌子へと差し出した。

「どういたしまして」

 凌子はしっかりと咲の手を握り微笑み返した。凌子は緊張の糸が切れたのか、そのまま咲に身体を預けるように倒れ込んだ。

「大丈夫、鳳さん?」

 咲は心配そうに凌子の貌を窺う。

「えへへ・・・安心したら気が抜けちゃって。でも大丈夫」

 凌子は咲から身体を離すと、しっかりと立ってみせる。

「良かった。―――でも、さっきの力は一体何?」

 咲が凌子に真っ先に聞きたかったのはそれだった。凌子の《体内》を探っても一切術を使用出来るような《力》の痕跡は無い。自分のように訓練されている様子もない。ならば、自身を封印する程の威力を持った力を圧倒したモノは何か。

 咲の疑問に凌子はあっけらかんと答える。

「私にもよく分からないけど、多分神楽坂くんのお陰だと思う」

「神楽坂・・・?」

 咲は自身の記憶を辿る。

 佐渡雄飛の仲間。彼等の素性は《帝の番犬》だ。この国を統べる天皇を護る為なら手段を厭わない忠犬。其処までは咲自身も調査済みだった。だからこそ、咲は彼等の行動を利用した。彼等は目的の為に自身を利用する。そう読んだ上で、《態と》隙を作った。行動を監視させ、最も自身が無防備になる時を《標的》に伝える為に。《標的》の用心深さは室橋高校に半年間在学して身に染みている。

 故に、佐渡雄飛と神楽坂翔真の二人の登場は僥倖だった。雄飛に接触したのも、此方が二人を疑っていない事をカモフラージュする為。そして、二人の内の一人の行動を把握する為だ。案の定、それを上手くいきこうして敵の拠点まで攻め込む事が出来た。

 しかし、予想外だったのは、《標的》の力量だった。敵は自身の力を遥かに凌駕していた。修練した努力など無駄だと思える程に。その力を持った者の呪符を破壊するという事は、神楽坂翔真の力量は標的と同等、もしくはそれ以上という事になる。

―――調べてみる価値は充分にある・・・

「ちょっといい?」

「えっ?―――えっと、どうぞ」

 咲はそのまま凌子の身体を探り始める。凌子は少し恥ずかしそうに貌を赤らめているが、咲の真剣な表情に何も云えず黙ったまま指示に従った。

―――彼女の体内には凡そ《霊力》と呼ばれる類いの力は皆無だ。なら、彼女の内側ではなく、外側に先程の力の秘密がある筈・・・

「これは・・・?」

 咲は凌子のブレザー左の胸元にある校章の前で手を止めた。校章の部分は人の眼では分からないように緻密に細工が施されている。校章が二重底になっており、その中に何らかの術を発動する機器、若しくは術機が内蔵されているのだ。

―――これはおそらく《対人兵器》・・・彼女自身に力が無い所を見ると、《人工術機》と見て間違いない。しかし、術の仕組みまでは把握は出来ないか・・・迂闊に触れれば私に対して術を発動するに違いない・・・けど、鳳さんへの負荷が見られないのはどうして?これ程の威力、間違いなく彼女への反動は大きい筈・・・

「あの・・・黒羽さん?もういいかな?」

 凌子は咲の動きが止まったのを見てそう切り出した。

「ええ、ごめんなさい。ありがと。もういいわ」

 咲は凌子から手を離す。

「それで、あの・・・何か私の身体に?」

 凌子は咲が自身の身体を調べている理由を聞いていなかった。咲も理由を伝えていなかった事を思い出す。

「さっき貴女が云った事。神楽坂のお陰って云っていた事。それ・・・当たってるわよ」

「それってどういう事?」

 咲は何処まで話すべきか迷った。彼女がどの程度此方側の世界について知っているか分からなかったからだ。

「貴女が私を拘束していた鎖を破壊できたのは、貴女の胸元にある《御守り》のお陰って事。尤も、私は神楽坂が作った事までは分からないけど・・・でも、貴女がそう云うなら多分そう云う事でしょ。何か身に覚えない?」

 咲は凌子のブレザーの校章を指差す。凌子は校章に触れてみる。

「そっか。神楽坂くんが・・・」

 凌子は考えてみる。翔真が凌子の制服に何か細工が出来た時を。凌子は直ぐに思い当たった。

「神楽坂くんが私の制服をアイロン掛けしてくれた時があるの。多分、その時にだと思う」

「なるほど・・・」

 咲は一応納得した。しかし、咲単独の力だけでは翔真の力量を計り切れていない。

「ところで、鳳さんは驚かないの?」

「何を?」

「私が炎を操った事を」

 咲は頭の中で境界線を引きたかった。凌子が《此方側の世界》を何処まで知っているかによって、彼女への対処を決めなければならない。

「驚いたけど、でも平気だよ。黒羽さんは怖くないし、それに少しだけ神楽坂くんから《こういう力》があるって事は聞いてるし。私を守ってくれたのも神楽坂くんが作った《人工術機》っていうののお陰だと思うから」

「そう・・・」

 凌子が云った《人工術機》というキーワード。それは一般人が決して知らない言葉だ。それを知っているだけで、《此方側の世界》に足を踏み込んでいるという事が分かる。咲はもう一つ質問をする事にした。

「じゃあ、もう一つ。神楽坂翔真の正体を知ってる?」

「うん。皇宮警察の皇宮護衛官」

「それだけ?」

「うん。―――あっ、警視正だって云ってたよ」

「そう」

―――どうやら、本当の《正体》を知らないみたいね。まあ、彼女には敢えて明かす必要はないわよね・・・

「私も彼と同業者みたいなものなの。だから、一応確認させてもらっただけ。私の場合は素性を明かせないけど」

「そっか。私は気にしないから平気だよ」

「ありがと」

 咲は凌子の返答から方針を得た。凌子は翔真から氷山の一角の情報しか与えられていない。ならば、ほぼ一般人として扱っていいだろう。確かに制服に人工術機を装備してはいるが、彼女自身は力を自発的にコントロールする事は出来ない。

 加えて、数分前に聞いた地響き。この振動音は十中八九戦闘によるものだ。地上では恐らく戦闘が始まっている。

「じゃあ、先ずはここから脱出しましょ」

「うん」

 咲は凌子を自身の背後に移動させる。背後から敵が襲って来る場合も考えられるが、進む道は細い一本道の階段だ。後ろからは攻撃される可能性は低い。

―――この子を安全な所に移動させたら、次は必ず《奴》の首を獲る・・・

 咲は心の中で意を決し部屋の鍵を破壊した。

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