黒幕 肆

 日が暮れ始める間も無く、生徒達は続々と下校を始めていた。

 室橋高校内部では黒羽咲が行方不明になっている事は伏せられている。生徒は勿論、理事長以外の教師陣にも伏せられている。無用な混乱を避けたいという左梁の考えを汲んでの方針だ。黒羽咲が欠席している理由は、家庭の事情という事になっている。黒羽家もそれで同意をしているが、事件の解決が早急に求められている現状は変わりない。

 凌子も続々と下校する生徒達に交じり今まさに下校しようと教室を出たところだった。

―――結局、神楽坂くんも雄飛くんも戻って来なかったな・・・

 三年生を騒がせたつい四時間前の事件から二人は教室にどころか、学校にさえ戻って来ていない。雄飛は同じクラスで戻って来ないのは直ぐに確認出来る。凌子は休み時間の度に二階へと足を運び、翔真のクラスに確認に行っていた。しかし、翔真は戻って来ていなかった。美弥子に聞いても昼休み以来姿を見せていないらしい。

 廊下を歩く足取りが酷く重い。一人で歩いているから尚更そう感じてしまうのだろう、と凌子は思った。室橋高校は寮生以外の生徒は電車とバスで通う者が大多数を占める。生徒会メンバーと一部の教師達は人通りが少ない通学路に立ち、生徒達が無事に下校しているのを確認する役目を担っているのだ。電車とバスでの先までは流石に難しいが、出来る範囲で生徒達を守ろうとする美月の考えに教師達が賛同し今の行動に至っている。

―――美月は美月の出来る事をしてる・・・神楽坂くんも雄飛くんも・・・じゃあ、私は?

 自問自答した所で回答は無い。初めから自分の中には答えなど無いからだ。ただ一つ分かっている事。それは、今の自分に出来る事は《何もしない》という事だった。他の生徒達と同じように行動し、事情を知っている事を胸の中に閉まっておく。力の無い者が分を弁えない不相応な行動をすれば、先日のような結果になる。身体と心で経験している事実を享受する。凌子は事実を受け止め、せめて足手纏いにだけはなりたくなかった。


「ぼうっと歩いていては危ないよ」


 その声にはっとし貌を上げると、其処には理事長である左梁が立っていた。頭の中で試行錯誤を巡らせていた結果、凌子は下駄箱とは別の方向、つまり特別棟の方向へと歩いていたのだった。目の前に立っている左梁を見て正気に戻ったようだった。

―――あれ?何で特別棟の方に!?

「申し訳ありません、理事長」

 深々と頭を下げ、凌子は直ぐにその場を立ち去ろうとした。

「まあ、落ち着きなさい。急いでも危ないよ」

「はい・・・」

 左梁に指摘され、凌子は肩を竦め小さくなる。高校生にもなって子供の粗相を注意するようにお叱りを受けるとは何とも恥ずかしい。

 左梁は顎髭を撫でながら凌子の貌をじっと窺うと、

「君は確か三年生の《鳳凌子》さんだったかな?」

「はい。そうです」

 凌子は落ち着きを少しだけ取り戻し返答する。

―――どうして理事長が私の名前なんか知ってるんだろう?

 数万という生徒を抱え、幾つもの学校を抱えている理事長が、とても生徒の名前を一人一人覚えているとは思えなかった。凌子自身も理事長と直接会話するのはこれが初めてだった。

「丁度良い。下校時間ではあるが、少しだけ時間を貰えないだろうか?」

 左梁の提案に凌子は首を傾げる。

「・・・あの私に何か御用か何かがあるのでしょうか?」

 凌子には理事長から呼び出される理由が見当たらない。また、検討も付かなかった。

「そんなに警戒しないでくれ。別にお説教しようと思っているわけじゃないさ」

 左梁は困ったように笑う。

「そうですか・・・」

「いやね、少しだけ聞きたい事があるんだ。《御手洗良和》君についてね」

 凌子はその名を聞き、身体から血の気が引く感覚を持った。今、凌子の傍には美月も雄飛も、そして翔真も居ない。一人ではやはり心許ない。それに、御手洗良和の件について、左梁は知らない筈だった。知っているのは凌子を含めた四人だけだ。翔真からは美月と凌子に対して、この事実は他言無用だと釘を刺されている。


『俺達と関わってしまった以上、警戒だけは怠らないでください。特に、俺や雄飛が傍に居ない時は、必ず砂川先輩と一緒に行動を』

 

 翔真の自宅から帰宅する際に、翔真から告げられた警告。凌子は胸の中でこの言葉を御守りのように握り締める。

「だから、そんなに難しい貌をしないでくれ。ほら、先日彼が講堂裏の竹林前で発見された事はもう噂になっているだろう?」

「そうですね。私も《噂》は聞いています」

―――何だ・・・噂の話か・・・

 凌子は心の中でほっと胸を撫で下ろす。

 仮に、左梁が真実を知っているとすれば、それは彼が何らかの手段で翔真達が隠蔽した情報を知ったと云う事になる。そして、その情報を知っているとすれば、左梁は今回の事件に直接的、若しくは間接的に関わっているという推測が立てられる。しかし、噂程度の話であれば、左梁は真実を知らないと判断していいだろう。勿論、警戒は怠らない。

「実は、今日彼の見舞いに行ったのだが、その時に彼が君の名を口にしていると親御さんから聞かされてね。何か心当たりはないかい?先生方に話を聞いたところ、彼とは何度か衝突していると聞いたのだが・・・」

 左梁の云う通りだ。凌子自身は何度か御手洗と一悶着起こしている。それは、御手洗の一方的な云い掛かりであるが、教師から見れば問題を起こしている二人としか認識されないのだろう。

「・・・はい。でも、あれは御手洗くんから、その一方的に・・・」

 自分は悪くない。それは分かっている。御手洗から身勝手な被害を受けているのも自分。潔癖である自分が責められる所以は無い。無い筈なのに、凌子ははっきりとそれを言葉にする事が出来なかった。心の隅で彼を《そのような行動に駆り立てる何か》が自分の中にあると思ってしまうからだ。

「そうか・・・では、彼が何故一方的に君を標的にするのか。君の口から話を聞かせてはくれないだろうか?」

「私の口からですか?」

「そう。実は彼の親御さんとは旧知の仲でね。一人息子を大変心配しておられるのだよ。彼等は君が御手洗君に何かしたのではないかと思っている」

「私は何もしていません!」

 凌子は声を荒げ反論する。

「それを証明する為には私に話を聞かせてはくれないだろうか?―――此処では話し辛い事もあるだろう。理事長室に来なさい。お茶くらいは出すよ」

「・・・分かりました」

 凌子は左梁に手招きされ、理事長室へと案内された。


 理事長室へ入ると、「其処に座って待っていてくれ」と左梁に促され、凌子は革張りの椅子へと腰掛けた。背中と臀部に椅子の弾力が返って来る。

 左梁は慣れた手付きでお茶の用意をしているようだった。手持ち無沙汰になった凌子はきょろきょろと小魚のように周囲を見渡す。壁際の上部には歴代の理事長の写真が並んでいる。日に当たり焼け茶色に燻んでいるのを見ると、この学校の古い歴史を感じる。使い込まれた棚や執務机はにすが何重にも塗られているのだろう。淡い光沢を帯びている。

「待たせたね」

 甘い香りが鼻をくすぐる。凌子のテーブルの前に置かれたのは、フレーバーティーだ。カップには細かい細工が施されおり、素人目でも高級感が伝わってくる。

「ありがとうございます」

「いやいや。大したものでなくて済まないね。だが、カップは私自慢の品でね、英国でも御用達のスポードと呼ばれるブランドのものなんだ」

「そうなんですか・・・」

 左梁はお茶を一口口に運びながら満足げに云う。凌子にはよく分からなかったが、取り敢えず高いものという事だけは分かった。

「では、時間も限られている事だし手短に話をしようか。先ずは先程の質問だ。御手洗君は何故君を一方的に標的にしているのだと思う?」

 難しい質問だと、凌子は思った。凌子自身が彼に直接的に被害を与えた事は一度も無い。美月が云うには単なる嫉妬、雄飛が云うには男の歪んだ愛情、だそうだ。

「私には正直分かりかねます・・・」

 凌子は素直に本心を吐露した。

「そうか・・・心当たりなどもないと?」

「はい。そもそも彼と普段話す事自体殆ど無いですし。クラスも別です。同じクラブに所属していますけど、御手洗君は活動に参加していません」

「成る程・・・」

 左梁は眉間に皺を寄せ凌子の返答に関して考え込んでいるようだった。凌子としては一刻も早く解放して貰いたい気持ちで一杯だった。これ以上、御手洗の話などしたくは無かったのだ。

 数分の間、黙って長考していた左梁が漸く口を開いた。


「・・・仕方無い。ならば、《直接》御手洗君に君に固執する理由を聞こうじゃないか?」


 凌子はその言葉に耳を疑った。

 そもそも今御手洗はこの場に居ない。その上、彼は今も病院に入院している。身体も満足に動かせる状態ではないとも聞いた。

「理事長・・・お言葉ですが何を仰っているかよく分からないのですが・・・?」

 凌子の質問に、左梁の目元は半月に歪む。

「言葉の通りだよ。―――彼なら其処だよ」

 左梁は立ち上がり、執務机の方を一瞥した。窓際から射し込む滲むような橙色の中に黒い影が見える。凌子は眼を凝らしその人物を見た。凌子は眼を疑った。


「よう、りょーこ。会いたかったぜ」

 

 凌子の瞳には歯茎を剥き出しに笑っている御手洗の姿が映った。

 凌子は椅子から立ち上がりその場から逃げる事を最優先と考えた。この場に居てはいけない。真っ黒に焦げ付いてしまいそうな程、身体が熱を帯びる。入っていた扉を出れば直ぐに廊下だ。隣は職員室、未だ生徒達も校内に残っている。

―――助けを呼ばなくちゃ!

 凌子は壊してしまいそうな勢いで扉に近付いた。ドアノブに手を掛け開く。それだけの動作で扉は開く筈だった。しかし、扉は鎮まりかえった水面のように微動だにしない。

「どうして!?どうして開かないの!?」

 押しても引いても扉は開かない。

「誰か!誰か助けて!」

 扉が開かないのであれば声を出せばいい。大勢の人間が未だ校内には残っているのだ。必ず誰かに聞こえる。凌子は声を出せるだけ出そうとした。


「鳳凌子さん。見苦しい事は止め給え」


 その声の主は左梁だったと凌子は認識した。しかし、先程まで話していた雰囲気とは明らかに異なっていた。別人と云った方がいい。まるで、心臓を蜘蛛の巣で絡み取られたような感覚だった。

「君の声は外には聞こえない。扉を叩く音も然りだ。この部屋は《そのように》結界を張っているのだからね」

 凌子は扉を背に左梁と向き合う。

「誰ですか・・・貴方は・・・?」

 貌という台紙に眼や鼻といったパーツをただ置いたような表情をしていた。先程まで話していた人間とはまるで別物。昏く翳った瞳は底なし沼のようだった。

「私は左梁竜介。《ごく平凡な》学校経営者だよ」

 抑揚の無い、言葉だけを音にした並べたような声。

「違う!貴方は《ただの人間》じゃない・・・」

 咄嗟に出た言葉だった。凌子も自分で意識した発言ではなかった。しかし、心の底にある本能がそう告げているのだ。左梁竜介は普通の人間ではないと。

「・・・聞いていた報告よりは些か賢いようだ。やはり、牝狐の報告など当てにならぬと踏んで正解だったな。―――まあいい。彼女も充分遣い甲斐があるな・・・」

 左梁は納得するように頷きながら独り言を呟いている。

「なあ、理事長。もういいだろう?早くアイツを俺にヤラセてくれよぉ。昨日からずっとアイツを犯すの我慢してたんだからさ」

 左梁の隣に意気揚々と近付いて来た御手洗は凌子の身体を舐め回すように視姦する。その眼は牙を剥き出しにした蛇のようだった。その視線に凌子は身体を固くする。

―――前みたいな力を使われたら私は何も出来ない・・・助けてくれる人は誰もいない・・・だから、一人で何とかしなくちゃ・・・私を守って、神楽坂くん!

 凌子は拳を握り締め二人の背後を見る。夕陽が射し込む窓。一か八か窓を割って脱出するしかない。頭から窓に勢いよく突っ込む。映画でよくあるワンシーンだ。凌子はそれに賭けるしかなかった。

「この部屋は結界で完全防音になってるから何をしてもお前の声は外には聞こえない。さてと、この前の事もあるからなぁ。先ずは軽く痛め付ける所から始めるかなぁ。」

 御手洗は眼を輝かせ今にも襲ってきそうだ。凌子は恐怖と戦い御手洗を視界から外し二人の立ち位置をもう一度確認する。自分の眼から見て右が左梁、左が御手洗。御手洗は真っ直ぐ自分を襲いに来る。それは確信していた。自分より弱い相手に小細工などするタイプではない。一方、左梁の行動は一切読めない。結論は一つ。御手洗が襲いかかって来る瞬間、それを左に避け窓硝子に突っ込む。

―――チャンスは一度きり・・・

 凌子は生唾を飲み込む。スタートダッシュを切る左足に力を込める。翔真の薬のお陰で十分に全力で走れるのだ。

「だんまりって事はオッケーと見なすぜ」

 御手洗の言葉に左梁は一切答えない。

「それじゃあ、りょーこ。今夜は愉しもうぜぇ」

 御手洗は椅子を跨がりテーブルを越え襲って来た。

―――今だ!

 凌子を身体を屈め、御手洗の腕をすり抜ける。そのまま一心不乱に走り窓硝子へと飛び込んだ。しかし、凌子の身体は《何か》に遮られた。

「きゃあっ!?」

 凌子は頭部を抑えその場にへたり込んだ。窓硝子には罅一つ入っていない。

「ハッハッハ・・・無駄だぜ。此処の部屋は結界が張られてるっていったろ?並の力じゃ傷一つ付けらんねーよ」

 御手洗は頭を抱え凌子を嘲笑する。

―――どうしよう・・・どうしよう・・・

 凌子は何も考えられなくなっていた。迫り来る御手洗から何とか逃げようと身体を懸命に後ろへと後退させる。

「ざーんねん。もう行き止まりだ」

 凌子は窓際の隅へと追い詰められた。御手洗は凌子の正面に立っている。背後には左梁が状況を黙殺している。

「安心しろよ、りょーこ。お前の凌辱風景はばっちり録画して神楽坂の野郎に見せてやるよ。お前の助けた女は結局無惨に犯されちゃいましたってさ!」

 凌子は瞳に涙を溜め成す術の無い自分を守るように腕を正面で交差させた。

「そんなもんは無駄だって云ってんだろ!」

―――助けて!神楽坂くん!!

 凌子は心の中で翔真の名を呼んだ。その時、凌子の頭の中に確かに声が響いたのだ。


――大丈夫です。俺が必ず護ります―――


 御手洗は振り上げた腕を凌子の顔面に向かい振り下ろした。その直後、枯木が何本も砕けたような音が部屋の中に響いた。御手洗は自分の貌に何か生暖かい感触を感じ取った。

「何だこれ?」

 頬を左の手の甲で拭う。すると、其処にはべっとり赤黒い液体が滴っていた。

「おいおい・・・何だよこれ?」

 御手洗は自分の身体を見渡した。すると、手の甲に付着していた液体が全身を覆っているのが見えた。着ているワイシャツは白を黒へと塗り替えていた。

「あっ・・があぁ・・・」

 御手洗は口から血を吐き出しその場に倒れ込んだ。

―――熱い・・・身体が熱い・・・

 御手洗は混濁する瞳で自分の右腕を見た。凌子に向かって振り下ろした右腕だ。だが、其処には腕など無かった。在るのは飛び散った肉片と剥き出しになった白い骨だ。


「お役目御苦労、御手洗良和君。君は大いに役立ってくれたよ」


 虚ろな眼で御手洗は左梁を見る。

「な・・・んだ・・・と・・・?」

 力が入らない所為か擦れたような声で御手洗は問う。口からは壊れた水道管のように止めどなく血が流れている。

「神楽坂翔真は警戒心が随分強い男のようだ。君のような犬畜生以下の屑がもう一度彼女を襲う可能性を考慮したのだろう」

 左梁は凌子の方を一瞥する。凌子は気を失っているようだった。凌子の周囲には薄い水膜のようなものが見える。

「君の身体を瞬く間に引き裂いたのは、彼が彼女の制服に施した《対人地雷》だよ。彼女に敵意を持って襲う暴漢を完膚なきまでに破壊する。そういった代物だろう。敵ながら見事な威力だよ。術式も巧妙に隠されている。私の警戒は正しかった」

 左梁は気絶した凌子を抱える。御手洗は左梁を血走った眼で睨み付ける。

「おま・・・え・・・だま・・・し・・・な・・・」

 憎悪を振り絞った所で瀕死の身体はもう云う事を聞かない。

「私は君のような人間が嫌いでね。早く死んでくれ。虫酸が走る」

 左梁は片足を御手洗の頭の上に置いた。

「ぎっ・・・」

 次の瞬間、血が拉げるような音が地面を這って響いた。その音と共に御手洗の声は途切れた。

「さて、今晩は中々愉しい夜になりそうだ」

 無機質な声と共に左梁は姿を消した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る