稚拙と誘拐 弐

 空高く飛ぶ鳥を何時も羨ましいと思っていた。

 自由に飛び回る羽根はきっと自分に一生縁が無いものなのだろう。そう云って自分を無理矢理納得させていた。憧れているだけで、焦がれているだけで、心は少し満たされる。それだけでこの狭い鳥籠は満たされる。羽撃けない鳥には充分過ぎる程だ。

 長く伸びた髪を誰が見てくれる訳でもない。手入れを欠かさない指先を誰が触れる訳でもない。紅を引いた唇を誰が撫でてくれる訳でもない。ただの自己満足だ。自分が《女》でいる事の精一杯の抵抗。

『噫、誰か私をこの鳥籠から解放してはくれないだろうか?』

 空しく消える囀は誰にも届きはしない。

 ―――しかし、それは昨日までの事・・・

 私は知ってしまった。空の光が射し込むあの天窓から手を差し伸べてくれる彼の君が居る事を―――



 ボンヤリとした頭の中を整理していくように、霞んだ視界は徐徐に周囲の景色を鮮明に映し込んでいく。目蓋を何度か開閉すると、凌子の眼には見覚えの無い天井が映った。

―――ここはどこだろう・・・?

 手の甲で眼を擦りゆっくりと身体を起こす。

 先ず凌子が気付いたのは自分がベッドに寝かされているという事だった。眼に入った衣服の袖を見ると、浅葱色の寝間着のようだ。しかし、それは少し大きく袖が大分余っている。

―――あれ・・・何でパジャマ?

 凌子の頭の中に疑問符がポップコーンのように弾ける。

 見覚えの無い勉強机。見覚えの無いクローゼット。見覚えの無い本棚。何れも凌子が今までの人生の中で見た事のないものばかりだった。

「いつっ・・・」

 身体を左右に動かし周囲を見ていると、急に脇腹に鈍い痛みが走った。寝間着を捲り上げると、其処には大きな湿布薬が貼ってある。薄目の毛布を捲ると、右足首にも包帯が撒かれしっかりと固定されている。

―――これは・・・

 凌子はその痛みで、漸く自分の身に起こった出来事を思い出した。

―――そうだ。思い出した。講堂裏の竹林で御手洗くんに襲われて・・・それで・・・

 凌子は肩を抱き抱えその時の出来事に恐怖した。抵抗出来ない自分を無理矢理に痛め付け犯そうとする欲望の塊。その魔の手に自分は後一歩の所で蹂躙されるところだった。

「でも・・・神楽坂くんが助けてくれた・・・」

 翔真の名を噛み締めるように呟く。その名を口にするだけで、身体の震えが止まり、心が温かくなる。

―――神楽坂くんが私を助けてくれて・・・その時何て云ってたっけ?確か・・・

 頭の中のジグソーパズルに正しくピースを当て嵌まるように、凌子の記憶は漸く正しい形を思い出した。


「此処って、神楽坂くんのお家!?」


 意識し、口にするだけで、貌が紅潮し熱くなるのが分かる。考えてみれば、と凌子は思った。自分が寝ているベッドは普段翔真が使用しているものだろう。

 それだけでも充分恥ずかしいのに、凌子は今寝間着を来ているのだ。制服を着ていた筈なのに。これはつまり、誰かが自分を着替えさせたという事だ。治療した事も同じと考えられる。

―――どうしようどうしようどうしよう!神楽坂くんに裸見られちゃったんだ!神楽坂くんがご厚意でしてくれた事なのは分かってるけど・・・でも、やっぱり恥ずかしいよ!

 凌子は頭を抱え悶々とその時の光景を妄想する。制服のブレザーを脱がし、ブラウスのボタンを上から順々に外す翔真。その時には既にブラだけになった姿になってしまう。ブラウスを脱がせた後はスカートだ。サイドにあるホックを外しジップを下ろせば簡単に脱げてしまう。翔真はそれをどんな表情でしていたのだろう。それを考えるだけで、凌子は頭が沸騰しそうだった。

 凌子がぐるぐると頭の中の光景に悶えていると、扉をノックする音がした。

「鳳先輩。もう起きてますか?」

 声の主は翔真だった。

―――突然過ぎるよ!髪ボサボサになってない?涎の跡付いてないよね?

 凌子は一人でてんやわんやしながらも、

「起きてるよ!」

「じゃあ、失礼しますね」

 扉を開けた先に居た翔真は凌子の貌を見ると、

「良かったです。元気そうで」

 ほっとしたように笑顔を見せた。

「うん・・・」

 凌子は先程の妄想が頭から離れず真面に翔真の貌を直視出来なかった。一方、翔真はお盆の上にあるコーヒーカップの内一つを凌子へと差し出す。

「ありがとう」

 凌子はそれを受け取り一口口に運ぶ。ほのかな生姜の香りと紅茶の甘み。身体の芯から暖まる味だった。

「これってジンジャーティー?」

「そうです。擂り下ろした生姜と林檎を入れてあります。シナモンは好きか嫌いか分からないので入れませんでした」

「そうなんだ。私はシナモン大丈夫だよ」

「分かりました。次からは入れるようにしますね」

 翔真は凌子に説明しながら机の上にお盆を置くと、勉強机の椅子を持ち上げベッド脇へと持って来る。其処に腰掛けると、用意していた自分のお茶を口に運ぶ。

「まずまずの味かな」

 翔真は頷くと、もう一口お茶を口に運ぶ。

 凌子はその貌をちらりと一瞥し、やはり現在の懸念事項を聞かなければならないと思った。此処で聞いておかなければ、真面に会話出来る気がしない。

「あのね、神楽坂くん。ちょっと聞きたいんだけど・・・」

 凌子はカップを握った手をもじもじとさせながら翔真に切り出そうとする。カップに入ったルビー色のお茶がゆらゆらと揺れる。

「分かっています。先輩が目を覚ましたら、俺からちゃんと説明しようと思っていました」

「そうなの!?」

 凌子は翔真の発言に思わず貌を上げる。

―――神楽坂くんから話すって事は・・・やっぱり、私を着替えさせたのは神楽坂くんなんだ・・・

「はい。ああなった以上、俺には説明する義務があります。それに、先輩には本当に申し訳ないと思っています。俺の所為で・・・」

 翔真は悲しそうに目を伏せる。凌子はその表情を見て自分から云わなければならないと思った。

「そんな事ないよ!」

 凌子はずいと上半身を翔真の方へ向けると、

「神楽坂くんは私を思ってしてくれたんでしょ?だったら私は感謝するだけだよ。それに、その・・・着替えさせてくれたのが神楽坂くんで良かったと思うし、下着は付けたままだからギリギリセーフだと思うし。責任を取って欲しいとかそんな事云うつもりもないし・・・」

 意を決し凌子は気持ちを伝えた。凌子はちらりと翔真の貌を見ると、翔真は凌子の発言にぽかんとしている。

―――あれあれあれ?何か変な事云ったかな?

 凌子の頭は混乱の極みだった。呆然とする翔真の態度も分からない。間違った事を云った筈はないが、言葉を捉える相手によって解釈が変わってしまう。翔真には自分の言葉が上手く伝わらなかった。凌子はそう思うしかなかった。


「ざーんねん。凌子を着替えさせたのは私だよ」


 凌子が声のする方向を振り向くと、其処には砂川美月が立っていた。

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