稚拙と誘拐 壱

 靄が掛かっていたように白む世界。その中から現れた人物。凌子は待っていたのだ。彼の訪れを。心の底から待っていた。神楽坂翔真が助けてくれるのを。


―――神楽坂くん・・・


 翔真の表情は普段の穏やかなものと一変していた。漂う空気も張り詰めて今にも弾けそうになっている。

「どうして・・お前がっ!?」

 御手洗にとっては予想外の出来事に他ならなかった。翔真がこの場に現れる筈はないのだ。彼の存在は既に《あの女》に知らされていた。その為の対策も施してあった。

―――クソっ・・・話が違うじゃないか・・・!

「だからお前には関係ないって云ってるだろう?俺は《お前》には用は無い。お前を遣っている《あの女》に用があるんだよ」

「うっ・・・」

 翔真の覇気に圧され御手洗は蹌踉めくように後ずさる。

「その前に、」

 翔真は身構える。

「鳳先輩の目の前から失せろ・・・!」

 一陣の風が凌子の目の前を吹き荒ぶ。その風は凌子が初めて翔真に出逢った時の風と同じ匂いがした。やがて、凌子の身体は暖かな温もりに包まれる。

「先輩。遅くなって申し訳ありません」

 翔真は凌子を抱き抱え、片方の手で凌子の貌に付いた泥を拭う。凌子は翔真の貌に手を差し伸べる。

「大丈夫だよ・・・神楽坂くん。だから、そんな貌しないで」

 翔真は今にも泣きそうな子供のような貌をしていた。

「でも・・・俺がもう少し早く来ていれば」

 凌子は首を横に振る。

「ちょっと身体が痛いけど、私は全然平気だよ」

 空元気だったのかもしれない。だが、凌子は元気一杯に笑ってみせる。その笑顔に翔真はほっとしたように胸を撫で下ろす。


「かぐらざかぁああああ!!」


 野獣の咆哮。敵意を剥き出しにし、御手洗は竹薮の中から身体を這い出す。外傷はかすり傷程度だった。血走った眼は餓えたハイエナのように生々しく熱を帯びている。

「その女は俺のものなんだよ!勝手に触るんじゃねぇ!」

 御手洗は体勢を立て直し立ち上がり、翔真は睨み付ける。そして、その視線を抱かれている凌子へと移すと、

「おいりょーこ!神楽坂の野郎をぶっ殺したら次はテメェだ!たっぷりその身体に仕込んでやるから覚悟しろよ!」

 凌子を指差し脅迫する。

 しかし、凌子の身体は、その心は決して恐怖する事は無かった。翔真が手を握り、その温もりを感じさせてくれていたからだ。

「女性に向かって小汚い言葉を使うなんざ、男としては下の下だっつーの」

 翔真は御手洗の言葉に呆れながら、警告は一切無視し、開けた空間の端へと歩いて行く。

「てめぇ!何処に逃げる気だ!」

 背後から聞こえる御手洗の怒声を無視しつつ、翔真は抱き抱えた凌子に問い掛ける。

「痛い所は他にないですか?」

 凌子は少しだけ考えると、

「その・・・ちょっと・・・足捻ちゃって・・・」

 翔真は抱き抱えた凌子の足首に視線を移す。靴下の所為で外からは分からない。

―――後でちゃんと確認して治療しないと

「分かりました。じゃあ、この後、俺の家に連れて行きます。医療道具は一式揃えてあるんで」

 凌子はその提案に動揺する。

「えっ?そんな悪いよ・・・その・・・お家にお邪魔するなんて・・・」

 凌子は急に恥ずかしくなり眼を伏せる。

「悪くなんてありません。―――俺が巻き込んだようなものだ・・・」

「えっ?」

 凌子の耳には最後の言葉が上手く聞き取れなかった。しかし、お言葉に甘えてもいいのかもしれない。何となくそう思った。


「無視するんじゃねぇえ!」


 大声を上げて背後から御手洗が襲って来る。手には小型のバタフライナイフを持っている。

「ったく、これだから莫迦は嫌いだ」

 御手洗は腕を振りかぶりナイフを逆手に持っていた。腕を思い切り振り下ろせば背中を人刺しする事が出来る。御手洗の脳裏には、血塗れになって悶え死ぬ翔真の貌が眼に浮かんだ。

 しかし、その光景を歪ませる衝撃が御手洗の腹部に走った。「ぐばぁ・・・!?」と声に成らない声を上げ、御手洗は再び地面へと叩き付けられた。

 凌子は一瞬の出来事のため何が起こったか、一切分からなかった。翔真に抱き抱えられている為、翔真の姿しか見えないのだ。

「先輩が気にする事じゃありませんよ。―――この辺でいいかな」

 翔真は立ち止まると、ゆっくりと地面に凌子を下ろす。竹に寄り掛かるように凌子は座り込む。

「先輩は少し此処で待っていてください。俺は後片付けをしちゃうんで」

 翔真はブレザーを脱ぐと凌子の膝元へ掛ける。

「神楽坂くん!あの!」

「先輩は心配しないで良いですよ」

 翔真は立て膝を付き、凌子と視線を同じくすると、掌を凌子の目の前に翳す。

「眠っている間に全て終わりますから・・・」

「かぐら・・・ざ・・」

―――何でだろう・・・とってもねむ・・・

 凌子の思考はあっさりと深い眠りに淵に沈み込んだ。翔真は凌子から掌を外す。すると、凌子は穏やかな寝息を立て眠っている。

「良い夢を・・・」

 翔真は立ち上がり振り返る。その表情は再び修羅へと還る。視線の先には腹部を抑え踞っている御手洗がいる。翔真は彼に向かい歩いて行く。

 御手洗は近付いて来る張り詰めた空気に怯えていた。

 針を皮膚に数百本も刺されるような感覚。息をするだけで息が詰まりそうだった。

―――くそっ・・・あの野郎!眼にモノ見せてやる!

 御手洗は右手に握った御守りを確認する。翔真が近付いて来るのを視線だけを上げて視認する。貌は一切上げない。苦しんでいるように見せる為だ。自分が一切動けないと演出するのだ。 

―――近付いて来い・・・近付いて来い・・・俺の目の前にお前が立った瞬間、俺の力で串刺しにしてやる・・・

 鋭利な剣山のイメージ。御手洗が脳内で浮かべていたのはそれだった。翔真の身体を貫き串刺しにする。御手洗はそれだけを考え力を右手に集中していた。

―――さあ、早く来い!早く!


「はぁ・・・お前本当に莫迦なんだな」


 翔真は呆れたように毒突く。御手洗の遥か手前。翔真は立ち止まっていた。御手洗は貌を上げず視線だけで翔真の位置を確かめる。

「どうせ、俺が近付いて来た拍子に地面を迫り上げるつもりなんだろ?見え見え過ぎてこっちが恥ずかしくなるよ」

 翔真は見透かしたように御手洗を見下す。否。見透かしたというよりは、寧ろ断言したと云って良い。その言葉に、御手洗は危機感を感じずにはいられなかった。

―――何故俺の作戦が・・・

 顳顬から緩い汗がたらりと流れる。食い縛っている歯も酷く痛む。極度の緊張の余り身体が堅く石のようになってしまっている。作戦が見抜かれた事も一層彼を追い詰めていった。

「悪いけど、もうお前に構ってやる時間はない」

 翔真は左足を半歩後ろに引き、何時でも敵の懐に飛び込めるよう体勢を整える。乾いた土の音が御手洗の耳の中に不快感を与える。

―――やってやる!

「うぉおおおおおおおおおおお!」

 目の前の敵を追い立てるように御手洗は咆哮した。敵を貫き通す最大の威力。それを以て石の造形をイメージする。御手洗の脳内のイメージに呼応するように、御守りを握り締めた右手が黄金の輝きを放つ。

 地面は苦しむように唸り声を上げ、愈々隆起し始めた。無数に連なる岩の剣山は一直線に翔真へと殺到する。貌を上げた御手洗は確かに迫り行く岩の猛攻と、その先に立つ翔真の姿を見た。

―――勝った・・・!

 しかし、

「だから・・・見え見えだってさっき云っただろう」

 御手洗は背後からの声に恐怖した。が、次の瞬間には御手洗の思考は完全に停止した。眼には見えない程の速さでの当て身。御手洗はその場に倒れ込んだ。

「さてと・・・」

 翔真は気絶した御手洗の右手から御守りを取り出した。すると、御守りの結び目を解き、中に入っているであろう《目当ての物》を確認する。

「やっぱりな。《人工術機》・・・」

 御守りの中に入っていたのは小型のチップが内蔵された十円玉程の大きさのデバイスだった。翔真はそれを躊躇無く握り潰す。そして、翔真が此処に来た《当初の目的》。翔真はそれを果たすべくスラックスのポケットから小型のナイフを取り出す。それを指先に持ち帰ると、視界を閉ざし、周囲を探り始める。

―――風の流れ・・・この空間に於いて、最も不自然な風の流れを探す・・・

 神経を鋭利な日本刀のように研ぎ澄ませる。竹林のざわめき。鳥達の声。蟲の蠢き。あらゆる気配を探り、《対象》の位置を探る。ふいに風が逆巻き、竹林を踊らせた。

―――そこだ!

 翔真は眼を見開き、躊躇い無くナイフを竹林の中へと投げ付ける。その軌道は瞬く間に消え、竹林の中へと入って行った。しかし、翔真はナイフを投げただけで《対象》を捕らえられるとは鼻から思っていない。翔真はナイフを投げた直後、掌を組み次々とその形を変え印を結んでいく。

 ナイフが《対象》に触れた瞬間。それが術の発動の機だ。

―――捉えた!

 翔真は最後の印を組み、

「縛!」

 唱えた言霊はナイフに仕込んだ術を発動する合図だ。竹林の奥で何かが暴れる音が響く。それは翔真は《対象》を捕縛した合図だった。翔真がナイフを投げた指先からは肉眼では殆ど見えないであろう細い糸が付着している。翔真はその糸を手繰り寄せ《対象》を竹林から引き摺り出す。糸を丁寧に手繰っていくと程なくして、翔真の《対象》は現れた。


「まさか・・・この私がこんなにもあっさりと捕まるとはね。油断していたわ」


 翔真が捕縛したのはこの世のものとは思えない程の美しい女だった。蜘蛛の糸に搦め捕られ身動き一つ出来ない肢体は艶かしく、身体を包む黒い外套は白い肌を一層引き立てた。

 翔真は呆れたように溜め息を付く。

「やはり貴女だったか・・・桐生水織。貴女が絡んでいるという事は、今回の事案は碌な話じゃないな・・・」

 翔真は大きな溜め息を付いた。

「随分な言葉ね、《帝の飼い犬ちゃん》。私を見て暴言を吐く男なんてそういないわよ」

 水織は潤んだ瞳を翔真へと向ける。しかし、翔真は一切表情を崩さす、水織の言葉を無視する。

「前にもお話しましたが、その程度の《幻惑》は俺には聞きませんよ」

「あら残念。貴方だったら一晩くらい同衾しても良くてよ」

「遠慮しておきますよ。貴女と同衾したら最後。男は貴女の傀儡人形でしょ?」

「私の《モノ》に成れるのだもの。男としては誉れ以外の何者でもないわ」

 これ以上下らない話をしていても仕方が無い。翔真はそう思った。

―――さっさと本題は聞いて、鳳先輩を治療しないと・・・

 翔真は右手の指先から伸びていた糸を解放した。すると、水織を雁字搦めにしていた糸は瞬く間に風の中に消えた。水織は自身を縛っていた糸が無くなるのを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。

「もう縄遊びは終わり?もう少し愉しんで良かったのに」

 翔真の貌を覗き込み、水織は妖し気な笑みを浮かべる。

「俺にそんな趣味はありませんよ。それよりも、貴女に聞きたい事がある。《今回の事案》。貴女は《首謀者》かそれとも《協力者》か?」

 翔真の問いに水織は薄い笑みを浮かべ答える。

「どちらでも無いわ。今回は私の《依頼主》からの命令に従ったまで。こんな詰まらない仕事で結構な額を支払ってくれたの。だから、仕事はこれっきり。翔真ちゃんが云っている《首謀者》を私は《知らないわ》」

 翔真は眉間に皺を寄せ水織を訝しむ。

「貴女が云っている事が真実かどうか・・・力尽くで試しても良いが、俺は無益な殺生は好まない。早々にこの場から去ってください。これ以上、この《事案》に首を突っ込むようであれば、次は容赦しない。云うまでもないですけど、鳳先輩の事を赦しはしませんよ、絶対・・・」

 翔真はそう云って振り返り、ぐっすり眠っている凌子の元へ歩き出した。

―――すっごい殺気・・・でも相変わらず甘ちゃんよね、あの子。でも、そういう所が可愛いのだけれど・・・

「ねぇ、翔真ちゃん。私が其処でお寝んねしている屑男に《人工術機》を与えた理由は聞かないの?」

 水織の問いに翔真は振り返らす答える。

「そんな事を貴女に問うまでもない。ソイツはただの《捨て石》だ。貴女が結界を張って援護してもこの様だ。既に眼中に無い」

 水織は翔真の答えに小さく頷いた。翔真の云う通り、御手洗良和は《依頼者》の捨て石に過ぎない。その捨て石に力を貸せとの依頼が、水織の今回の仕事だ。恐らく、水織を雇った《依頼主》は水織の事も信用していない。御手洗を利用したのも精々小手調べ、若しくは、警告と云った意味を持つのだろう。現に、翔真と親しくしていた鳳凌子は被害を被っているのだから。

「翔真ちゃんが私を見逃しくれるお礼代わりに一つ教えてあげる」

 凌子を抱き抱えた翔真に水織は何かを放り投げた。翔真は片手でそれを受け取る。

「これは・・・?」

 受け取ったのはUSBメモリーだ。

「其処に、今回翔真ちゃん達が追っている事件の《ヒント》が入っているわ。多いに役立てて頂戴。それじゃ、また会いましょ」

 水織は小さく手を振ると、陽炎のように姿を消した。

―――敵に塩ね・・・どちらがお人好しなんだか・・・

「さてと、取り敢えず雄飛に連絡だな。それに、《色々と》事情は説明する必要はある」

 翔真は胸ポケットから携帯を取り出し雄飛に電話を掛け始めた。

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