歪曲変動 伍
室橋高校には開校当時に建設された講堂が今でも残っている。
築一〇〇年を越えるそれは、幾度かの修繕を繰り返しながらも、当時の幽玄な美しさを保っている。校舎の裏手にある講堂の周囲には竹が所狭しと植えられ、今では京都嵐山の竹林にも劣らない清閑さを持ち合わせている。竹林の外周のある場所には一本道があり、そこを入れば中から竹林のアーチを覗く事も出来る。
しかし、生徒が竹林を外から見る事はあっても、中に入る事は稀である。それは所狭しと竹が植えられている所為で入り口が一つしかないという理由と、《或る噂》が在るからだ。生徒達が竹林に余り近付かないのは後者の理由が大きい。
或る噂とは、学校という空間には如何にも有り勝ちなものだ。
幽霊。又は、亡霊。それが竹林の中に出現するというのだ。それは、この学校の生徒であったり、教師であったり、はたまた戦時下の兵士であったりする。確かな情報は何も無いが、幽霊を目撃している生徒は意外にも多い。その目撃証言が生徒達を竹林から遠ざけているのだ。お巫山戯半分で竹林に近付く者も少なくないが、この学校ではそういった類いの人間はとても少ない。用務員や警備員が見回りをしている事もあり、特別な理由が無い限りは竹林の中には入る事は出来ないのだ。
勿論、凌子もそれは承知していた。
講堂の物陰に隠れ、凌子は竹林の入り口を窺う。通常放課後のこの時間は、万が一悪さを働こうとする生徒を見付けるため、講堂の周囲で警備員が一人必ず巡回している。しかし、凌子が注意深く周囲を窺ってもそれらしき人は見当たらない。
―――トイレにでも行ってるのかな?
疑問は浮かぶが、先ずは竹林の中に入る方が先決だ。周囲には翔真の姿も見当たらない。ならば、竹林の中に居ると考えるべきだろう。凌子は意を決し竹林の入り口へと走って行った。
竹林の中に入り振り返ると、誰も追い掛けて来る気配は無い。凌子はほっと胸を撫で下ろし奥へと進む事にした。
竹林の中は考えていた以上に薄暗かった。
竹の一本一本が天高く伸び上がり、太陽の光を遮っているのだ。竹は上にいけばいくほどしなやかに三日月を描き重なり合う。それらが積み重なり自然の日除けを形作っている。
加えて、今はもう夕間暮れの時間だ。校舎の影が伸びて来る事も相俟って、益々竹林の内部は暗さと不気味さを増長させている。
―――神楽坂くんは何処かな・・・
凌子は不安そうに胸の前で鞄を握り締め、猫背になっている。周囲を見渡しても竹、竹、また竹。道は一本道であるが、考えていた以上にその奥は深い。ぱっくりと口を開けている暗闇は自分を丸呑みにしようと待ち構えているようで、凌子の恐怖心を益々助長させる。
『カァアアア・・・』
何羽かの烏が羽撃きと共に鳴き声を漏らす。凌子は痙攣したように肩をびくりと震わせる。竹林の上を見上げると、何枚か枯れた笹の葉が落ちて来る。
―――あれはただのカラス・・・ただのカラス・・・
自分に云い聞かせ、心を落ち着かせる。やや早足になり先を急ぐ。怖がっていても仕方が無い。それに待っている人がいるのだ。この程度の恐怖になど負けてはいられない。凌子は自分を奮い立たせ更に奥へと足を運んだ。
五分程更に歩いただろうか。
凌子は竹林の細道が開けている場所に辿り着いた。其処は自然の神秘と云った場所だろうか。竹が扇状の空間を形作っている。上を仰ぎ見れば、其処から夕陽の淡い橙が射し込んでいる。凌子が竹林の中を訪れるのは初めてだったが、このような場所がある事は予想していなかった。凌子はその空間を一歩一歩更に先へと進む。
「待っていましたよ、
空間の奥から自分の名が呼ばれ、凌子は声のする方を見る。
竹林の影から徐徐に姿を現した声の主は、夕陽の光で漸くその面貌を露わにした。その人物は凌子が良く知っている人物だった。
「御手洗君・・・どうして此処に・・・?」
御手洗良和。凌子の同級生。歴史研究部の部員。断じて神楽坂翔真ではない。
「ふふっ・・・くくっ・・・あっはははっははは・・・・」
御手洗は頭を抱え急に高笑いを始めた。その笑い声は蟲のざわめきのように竹林を不気味に震わせる。凌子は御手洗の笑い顔をただ唖然として見ているだけだった。
「お前、本当にとろいんだな。未だ分からねーの?」
御手洗は満足したのか、漸く笑うのを止め、凍り付いたような視線で凌子を見下す。
「あの手紙は俺が書いたんだよ。最近、あの糞みてーな部活に入った物好きな後輩がいるって聞いたからさ、お名前を拝借したわけ。お優しいお前の事だろう?絶対来てくれると思っていたよ」
御手洗は自分の策が成功した事が嬉しいのか、それとも凌子を此処に連れ込めた事が嬉しいのか、貌からにやけた表情が離れない。
「私を・・・騙したのね?」
「そうだよ。そんな事も分からねーのかよ、うすのろ」
凌子に罵声を浴びせ、御手洗は益々口角を吊り上げる。
「それでさ、俺が此処にお前を呼び出した理由・・・分かる?」
御手洗は思わせ振りな口調で凌子に質問を投げ掛ける。凌子は質問をする御手洗の双眸を見て確信していた。それは、以前見た事のある欲望を水晶に固めたような瞳だ。
―――逃げなきゃ・・・此処から逃げなきゃ・・・
凌子は片手で肩を抱き身体の震えを懸命に止めようとする。御手洗は凌子が自身に恐怖しているのを愉しんでいるのだ。此処で凌子が少しでも怖がる素振りを見せれば御手洗の思う壷だ。凌子は奈落の底に落ちる一歩手前で無意識に心を留めていた。この場には誰も助けてくれる人物はいないのだから。
「だんまりか・・・まあ、いいや。じゃあ、正解を発表しまーす!」
御手洗は両腕を翼のように広げ神を気取る。
「正解は、《これからお前を犯す》でした。以前の経験から正解が分かると思っていたけど、だんまりと云う事は不正解だな。これは《罰ゲーム》が必要だぁ。―――そう云われれば前に俺が折角告白してやったのにお前断ったよなぁ。その分もついでに罰ゲームに追加しとくか。俺の心がひどぉーく傷付いた分だ」
道化師が観客を化かすように、御手洗は何処まで凌子を誑かそうとする。言葉遊びを用いて、凌子を揶揄っているのだ。
「取り敢えず、罰ゲームはこれかな・・・」
御手洗はブレザーの内ポケットから手帳くらいのプラスチックケースを取り出した。御手洗はそれを両手で上下に開き、中身を凌子へと見せる。ケースの中に入っていたのは、幾つかのシルバーアクセサリーだった。指輪状のもの、ピアス状のもの。様々だ。
「勘違いして貰っちゃ困るんだけど、これって普通に付けるもんじゃねーよ」
御手洗はケースの中からアクセサリの一つを取り出す。
「これはな、ニップルピアスとラビアピアスって云うんだ。歴史ではまあ色々とあるけど、要するに貞操帯の一種、もしくは奴隷の証かな。ご主人様以外の人間に女が股を開かないようにする為の道具って事だな」
御手洗は僅かに射し込む夕陽にそれを当てる。鈍い光が御手洗の笑みを薄く浮かべる。
「くくくくっ・・・人間って本当に変態だよなぁ。これをさ、女の乳首やアソコに装着させて、自分の物だって事の証にするんだから。だけど、これが嬉しくて堪らない女もいるみたいだ。―――さてと、お前は《どっち》かな?」
目の前の獲物に照準を定める。御手洗は下卑た笑いを浮かべ、兎を追い立てる狩人のように一歩一歩凌子へと近付いて来る。
凌子は近付いて来る御手洗を警戒しながら、背後にある竹林の入り口へ繋がる道を一瞥する。
―――一生懸命走ればきっと逃げられる・・・
目の前の恐怖に怯えた心は正直だ。額に汗が滲み、全身からの冷や汗も止まらない。ブレザーの下のブラウスも下着も汗で糊のようにべったりと張り付いている。
「安心しろよ。俺は優しいからさ。俺の云う事を素直に聞けば乳首だけで勘弁してやるよ。ああでも、お前の胸そこそこ大きいから嬲り甲斐がありそうだよな。―――やっぱりダメだ。痛め付ける事しか思いつかねぇや」
凌子の首筋に汗が伝う。焦ってはいけない。焦って走るのを失敗すれば逃げられない。凌子は目に涙を浮かべながらも、抗おうと御手洗を睨み付ける。
「へぇー。この期に及んでもその眼。ムカつくなぁ。でも、反抗的な女を屈服させるのも一興だな。ほら、大声を出して助けでも呼んでみたらどうだ?若しかしたら、物好きな野郎が来てくれるかもしれないぜ?」
御手洗の云っている事はただの挑発に過ぎない。凌子は大声を出す事は無駄であると分かっていた。この時間帯、講堂裏は警備員以外の人間が居る事は先ず無い。校舎に生徒や教師は残っているだろうが、其処まで声は届かない。よしんば、届いたとしても校舎は完全防音で設計されている。声が届く確率は限りなく低い。警備員が居ない事も御手洗の仕業であると、凌子は踏んでいた。逃げ場を残さない為の作戦。御手洗は周到にそれを実行している。
―――誰かに頼っちゃダメ・・・私一人で何とかしないと・・・
凌子は一種の強迫観念に曝されていた。自分一人で何とかしなければならない。それだけが頭の中にガスのように充満していく。
「ったく本当お前つまんねー。―――じゃあ、もう犯していいか?生憎時間はたっぷりとある。じっくりと仕込んでやるよ。お前は俺から《絶対に》逃げられないんだからな」
御手洗は手に持っていたケースを懐に仕舞おうとする。
―――今だ!
御手洗が凌子から視線を外した一瞬。凌子は振り返り、入って来た入り口へと一目散に走り出した。開けた空間から出られれば道は細い一本道。全力で走れば直ぐに外へと出られる。
「てめぇ、待て!」
背後から御手洗の怒声が聞こえる。しかし、凌子は一切振り返らず脇目も振らない。ただ一直線に、竹林の中を走り抜ける事だけを考え、全力で足を前へと踏み出した。
「だからさ、《絶対に逃げられない》って云ってんだよ!」
凌子が竹林の細道へと入る一歩手前。凌子は不思議な感覚に襲われた。それは、つい一週間前に経験したものに似ていた。
しかし、今回は完全に別物だった。浮遊感の後に襲って来たのが、肺を圧迫する痛みだったからだ。
「ごほっ・・・ごはっ・・・」
急激な空気の逆流に凌子は咳き込む。背中を地面に強く打ち付けたのだ。乾いた地面を握り締めるように何とか上半身を上げると、凌子は驚愕した。
「なに・・・これ・・・?」
凌子は視線の先の《モノ》を見て自身の眼を疑った。
凌子が出て行こうとした場所に巨大な土の壁が現れたのだ。地面が不自然に隆起し、敵の逃亡を防ぐように聳え立っている。その壁は人が越えられる高さをゆうに凌いでいる。
「そうそう。俺はお前の《そういう》貌が見たかったんだよ」
凌子は声の方向へと振り返る。すると、御手洗は満足げな貌で凌子に話を続ける。
「つい最近になって、《こういう》事が出来るようになったんだ、俺。凄くねぇ?こんな事、普通の人間には出来やしない。俺は選ばれた人間なんだ」
語る言葉は留まる事を知らない。
「選ばれた人間には義務があるんだ。この力を以て正義を成せってね。要するに、悪人を裁くって事だ。これは、その悪人を裁く為の力だ」
子供が両親に買って貰った新しい玩具を見せびらかすように、御手洗は右手に握っているものを凌子へと見せる。御手洗の掌には神社の御守りのようなものが握られている。
「これは、五行の土を司るものでね。ちょいと俺の力が加わればさ、あんな芸当なんて造作も無いって事」
人の領分を超えた力。俺はそれを持ち合わせている。御手洗はそう自慢したい気持ちを抑え切れない。
凌子は目の前の御手洗良和が何故こんなにも自信に満ち溢れているかを漸く理解した。以前の御手洗であればこのような強硬手段を取る事はしないだろう。しかし、何らかの人智を超えた《力》を持った事により、考えるプロセスを省略し行動に出たのだ。兵器を作成した国がそれを直かに何処かの紛争地帯で使用するかのように。
「さてと、それじゃあこの後どうする?」
御手洗は勝ち誇った貌で凌子に勝利を告げる。お前はもう逃げられない。抵抗は無駄だ。そう云っているのだ。
凌子は痛んだ身体を引き摺りながら、腕の力だけで何とかその場を離れようとする。先程身体を打ち付けた際に足を捻ったようで、右足が上手く動かない。凌子は走る事が出来なくなっていた。
「ハッハッハ・・・何だそれ?みっともねーなおい!地面に這い蹲っちゃってさぁ。まるで、蛆虫みたいだぜ?」
御手洗は大声で笑い声を上げると、凌子の引き摺る足を鷲掴みにし、そのまま凌子を空間の中心へと放り投げる。
「きゃっ・・・!?」
凌子の軽い身体は難なく吹き飛ばされ再び地面へと叩き付けられる。凌子はその痛みに身体を震わせる。丸くなって踞る凌子に御手洗は更に追い打ちを掛ける。
「あー、こんな所に大きな《ダンゴムシ》がいるぞー。そうだ!童心に戻って思いっ切り踏み潰してみるかなぁ」
態とらしい声を上げ、御手洗が凌子の近くへと来ると、
「そぉーれっ!」
振り下ろされた足は踞る凌子の脇腹を直撃する。
「ぐっ・・・ごほっごほっ・・・」
凌子はその痛みに肺から空気を吐き出す。御手洗は凌子の苦悶に歪む表情を無視し、叩き付けた足をじりじりと奥へと踏み込ませる。
「あれー中々この《ダンゴムシ》死なないなー。もっと力を入れてみようかなっ!」
御手洗は勢いを付け凌子の脇腹を踏み込む。
「がっ・・・はっ・・・」
凌子は大きく口を開くと、その痛みに耐え切らす更に身体を丸める。
「はぁ・・・はぁ・・・はっ・・・」
凌子は息も切れ切れに必死に空気を吸い込もうとする。人体急所である脇腹を圧迫され続けた凌子の横隔膜は衝撃を受けた。それによって、一種の呼吸困難に陥っているのだ。
「なにお前?そんなに息乱して興奮してんの?とんだ変態野郎だな」
御手洗は丸まった凌子の身体を無理矢理広げると、その上に馬乗りになった。凌子は霞む瞳で御手洗の下卑た笑みを睨み付ける。御手洗はその視線にも気付かず、指折り何かを数えている。
「さてと、先ずは取り敢えず此処で何発かして、その後はホテルにでも連れ込んでと・・・あそこのホテルなら結構道具も揃ってるからヤリ甲斐があるぜ」
凌子はもう身体の何処にも力が入らないかった。決して諦めた訳ではない。だが、力の差は歴然だった。どんなに振り解こうと男の力には勝てない。足も碌に動かず走る事も出来ない。目の前の男にされるがまま犯されるしかない。以前は、雄飛が助け美月が守ってくれた。しかし、その二人もこの場にはいない。
―――助けて・・・誰か助けて・・・神楽坂くん!
心の声は空しく誰も来る気配など無い。
「じゃあ、胸からいただくとしますか」
御手洗の掌が凌子の胸を蹂躙しようとしたその時、けたたましい風の音が屹立する岸壁を完膚なきまでに吹き飛ばした。その爆風に御手洗は貌を覆う。
―――一体何が起きた・・・!?
土煙が滞留する中には人影があった。
「けむいな」
人影が掌を小さく翻すと、まるでハーメルンの笛吹きのように、土煙は何かに導かれ空高く消えていった。
「下らない結界の所為で随分と時間を取らせてくれたな?」
苛立った声を発し夕闇の中から徐徐に姿を現した人物。
「どうしてお前が此処に居るっ!?」
御手洗は怒声を張り上げる。
「そんな事はお前に関係ないだろう?」
不遜な態度で答えると、
「神楽坂翔真ぁあああ!!」
御手洗は立ち上がりその名を叫んだ。
現れたのは神楽坂翔真。翔真は血走った眼で此方を見る御手洗を指差して云う。
「お前・・・赦されると思うなよ」
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