歪曲変動 弐

 翔真が転校してきて一週間が過ぎたこの日。

 鐘の音が退屈な授業の終わりを告げる。教師が教室を退出すると、緊張の糸が切れた生徒達が蝉時雨のように騒ぎ出す。

 翔真も授業を終え漸く一息付いていた。

 四時限目の授業は学内でも《断トツの面倒臭さ》を誇る世界史の授業だった。世界史担当の袴田は、生徒に質問や回答を求める事はせず、寝ている生徒の注意もしない。只管に持論を大仰に含めた授業を行っているのだ。その内容は、大学入試の範囲を大きく越えており蛇足が多分に含まれる。生徒達はそれに大変辟易している。

 しかしながら、袴田は何故か自習をする者は絶対に許さないという変なポリシーを持っている。自習をしている生徒は目敏く見付けるのも考えものだ。故に、生徒達は大人しく授業を聞いているしかないのだ。それは、授業を受ける姿勢としてはごく自然なものであるが、何となく釈然としないというのが生徒達の本音だ。袴田自身も過剰な授業内容を除けば、良い教師である為、其処もまた難しい。

―――僅か五十分の授業で、まさかジャンヌ・ダルクの一生を彼処まで詳細に的確に説明するとは、あの先生やるなぁ・・・

 翔真は内心で関心しながら頷いていた。

 四時限目が終わり昼休みとなると、教室内は水を得た魚のように騒ぎ出す。学食に急ぐ者、机を付け合いお弁当を広げる者、耳にイヤホンをし惰眠を貪る。者昼休みの過ごし方は人其々である。

「さてと、俺も飯にするかな」

 翔真は鞄の中から弁当箱を取り出し始める。

「神楽坂君。お弁当一緒に食べない?」

 翔真に近付いて来たのは、美弥子だ。

「うん。いいよ」

「ありがとう。じゃあ、私もお弁当広げさせていただきます」

 美弥子は翔真の正面の席に座ると、いそいそと弁当を広げ始める。美弥子の弁当は野菜中心のヘルシーな献立だった。色取り取りの野菜が目に付く。対照的に、翔真の弁当は、一言で云えば白米以外は茶色。肉食の献立に偏っている。

「神楽坂君はもうちょっと野菜を摂った方が良いわね。育ち盛りの男の子だからお肉中心になるのは仕方が無いとは思うけれど」

「ご忠告どうも」

 翔真は豚肉たっぷりの野菜炒めを口に運び咀嚼する。

「というか、一つ質問なんだけど」

「何?」

 美弥子はプチトマトを口に運び翔真を見る。

「今日はいつも一緒に食べてる友達と食べないの?」

「まあね。今日は一人でご飯食べてる神楽坂君が寂しそうだったから、神楽坂君とご飯をご一緒しようと思っただけ」

 翔真の質問に美弥子は当然のように答える。

「それは・・・何だかすみません・・・」

 翔真は何処と無く申し訳無く思い謝る。

「何真に受けているのよ。冗談よ。大体貴方だってどうして今日は一人でご飯食べてるのよ?」

「今日はちょっとね・・・」

 翔真はクラスに直ぐ打ち解け友人も出来ている。美弥子の記憶によると、昨日も何人かの友人と楽しそうに食事をしているのを見ている。

「そう。まあ、理由は深入りしないけど」

「それはどうも。それで、正木さんの《本当の》御用向きは?まあ、大体予想は付いてるけど」

 翔真は唐揚げを頬張りながら云う。

「流石。理解が早いと助かる」

 美弥子は安堵したように微笑む。

「貴方も歴史研究部の部員になった事だし、ちゃんと話をしておいた方がいいと思って。例の幽霊部員について」

「ああ。もうずっと部活にも参加してないって人だね」

 翔真は思い出したように声を漏らす。だが、予想通り凌子絡みの話だ。

「そう。凌子先輩は直接貴方に話をする事はないと思うから・・・」

「それを正木さんが俺に話しちゃってもいいの?」

 美弥子は大きく頷く。

「《いざという時》、神楽坂君が知っていた方が理解が早くて都合が良いのよ。私じゃ流石に荒事は無理だもの」

 美弥子の言葉に翔真は眉根を顰める。

「随分と物騒な物云いだね。―――何か正木さんを不安にする《事情》があるみたいだ。然も、鳳先輩は《それ》に対して無自覚、若しくは警戒心が薄い、と云った所かな」

 美弥子は翔真の言葉に素直に関心する。

「本当に、理解が早くて助かるわ。―――じゃあ、早速。幽霊部員の名前は御手洗良和。学年は三年。有名な大企業の一人息子で校内でも結構な有名人なのよ。良い意味でも悪い意味でも。《良い方》と《悪い方》どちらから聞きたい?」

「うーん、そうだな。じゃあ、良い方からで」

「分かった。御手洗先輩は学年でもトップクラスの成績と運動神経を持つ秀才なの。これは聞いた話だけど、入学当初はビリから数えた方が早い位に劣等生だったらしいわ。今ではその実力は大分認められているみたいだけど」

 成績優秀な人物。この学校に於いて《成績》というのは個人のアドバンテージに他ならない。証明書と云っても良いだろう。成績自体がその人物の《貌》なのだ。

「次は悪い方ね。まあ、これは結構この学校だとありがちな話なんだけど・・・御手洗先輩は自己中心的でプライドがとても高い人でね、その上癇癪持ち。気に入らない事があると、事ある毎に形振り構わず突っ掛かるタイプ。何度か学内でも問題になったらしいわ。尤も、問題が起きる度に、彼のお父さんが火消しをしてみたで退学になってはいないけれど」

「成る程。確かに、ありがち話だね・・・」

 翔真はこの手の話にウンザリする。矜持とプライドの意味を履き違え、自力と権力の在り処を履き違え、挙げ句、責任と自由の重さを放棄する。人としては下の下だ。

「じゃあ、此処からが本題。御手洗先輩が部で活動していたのは去年の十一月から十二月の間。最初は凌子先輩も私も新入部員が入ってくれてとても喜んでいたの。正式に部として認められたしね。でも、私が喜んでいたのは最初だけ。御手洗先輩はね、入部する《目的》が初めから違っていた。私は直ぐにそれが分かった。凌子先輩は最後まで分からなかったみたいだけど・・・」

 美弥子は寂しそうに云った。翔真は何となく美弥子の云わんとしている事が分かってきていた。

「御手洗先輩の目的は《鳳先輩》だったって事かな?」

 美弥子は自虐的に笑う。

「ご名答。回りくどく話したつもりだけど、やっぱり分かっちゃう?」

「そりゃまあ。話の顛末も何となくね」

「流石。じゃあ、ずばり答えは?」

 クイズ番組の司会者のように美弥子は翔真を指差す。

「御手洗先輩が鳳先輩に告白して振られた、でしょ?更に云えば、それを今でも恨んでいる」

 美弥子は翔真の答えに頷く。

「正解。神楽坂君の云う前者は事実。後者は私の推測。でも、私は後者の事を一番心配してる。ついこの前もね、御手洗先輩が凌子先輩に突っ掛かって問題起こしたって話を聞いたし」

 美弥子は箸を置き、窓の外に視線を移す。

「私不安なの。この先、御手洗先輩が取り返しのつかない事を凌子先輩にするんじゃないかって。きっとその時、私は凌子先輩を守れない」

「どうしてそう思うの?」

 美弥子は再び翔真へと視線を向ける。その瞳は朧げな影を帯びているようだった。

「御手洗先輩が部に参加しなくなった切っ掛け、詰まり御手洗先輩が鳳先輩に振られた時、私は偶偶生徒会に用事があって席を外していたの。まあ、私が席を外してたから御手洗先輩が行動に移したという方が正しいかな。下校時間も近付いていたから、砂川先輩が凌子先輩と一緒に帰るって云ってね。砂川先輩、それから生徒会室に残っていた佐渡先輩も一緒に部室に戻る事になったの。三人が仲良いのは貴方も知っているでしょ?」

 翔真は「うん」と云って頷く。

「それで部室に戻ったらね・・・凌子先輩が床に押し倒されていたの。御手洗先輩が馬乗りになってね。その時、初めに動いたのは佐渡先輩。先輩は御手洗先輩を直ぐ様投げ飛ばした。次に動いたのは砂川先輩。先輩は泣いている凌子先輩の元に駆け寄って彼女を守った。最後に私。私は何も出来ずにその場に立ち尽くしていた。―――怖くて動けなかったんだ。馬乗りになる御手洗先輩の貌が《人間のもの》には見えなかったから・・・」

 美弥子は恐怖を心の中で逡巡しているのだろう。その時の恐怖を振り返っているのだ。翔真が彼女の瞳に見えた影は、記憶にへばりついた恐怖そのもの。

「俺は、正木さんの持つ感情が普通だと思うよ」

「えっ・・・」

 美弥子は少し驚いたように声を漏らす。

「俺が思うに、佐渡先輩と砂川先輩が些か勇敢な気がする。誰だって欲望を剥き出しにした人間は怖いものでしょ?女性が襲われている姿を見れば、尚更女性はそれを恐怖すると思うけど。だから、正木さんが別に臆病って事ないんじゃないかな」

 翔真は最後の唐揚げを運び、「ごちそうさま」と両手を合わせる。

「・・・意外な答えかも。神楽坂君はもっと厳しい事を云うと思ったから」

 美弥子は率直な感想を述べる。

「そうなの?何か傷付くなぁ」

「だって、一緒に部活動してると、歴史上の名将に対して結構厳しい事云ってるじゃない?私達には普段そう云う事言葉を向けなくても、《こういう話》の時はするものかと思っていたから」

「心外だな。怖いものは怖い。それは仕様が無いよ」

「そう。一応お礼を云っとく。ありがとう」

 美弥子は耳元で髪を搔き上げながらぼそりとお礼を述べる。

「全然感情がこもってないんだけど・・・でも、俺も正木さんが弱みを曝しても云いたかった、《凌子先輩を絶対に護れ》ってお願いは承知した。俺も男の端くれだから約束は守るよ」

 翔真はそう云って立ち上がった。

「それじゃ、俺はちょっと野暮用があるからまたね」

 翔真は何時の間にか弁当を完食していた。美弥子は未だ半分以上残っている。

「神楽坂君」

 席を離れようとする翔真を美弥子は呼び止める。翔真が振り返ると、

「・・・ありがとう」

「おう」

 翔真は小走りで教室を出て行った。美弥子はその後ろ姿を見送ると、窓の外へ視線を伸ばす。晴れ渡る青空が眩しい位に見える。

「さてと、お弁当食べちゃおうっと」

 目尻を少し下げながら、美弥子はポテトサラダを一口口に運んだ。

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