歪曲変動 壱
御手洗良和は街頭が灯った街道を歩いていた。
陽はすっかり沈み、周囲には夜の帳が降りている。時刻は七時を過ぎた頃になるが、御手洗は家路の途中にいる。
御手洗は、昨日から腹の中に溜め込んでいる《怒り》を何とか解消したかった。
周囲を見れば、家路を急ぐスーツ姿の男性や部活帰りの高校生。ランニングをしている女性。犬の散歩をしている老人。様々な人物が疎らに御手洗の目に入ってくる。
しかし、御手洗も莫迦ではない。此処を通る《誰か》に手を出せば必ず警察沙汰になり、自分の人生は終わる。父親の力を使用しある程度の事は揉み消せるが、あからさまなのも余りに不自然で自身に被害がある可能性がある。御手洗はゆっくりと歩を進めながらも何もしようとはしなかった。
―――くそっ・・・あの女。マジでぶっ殺してぇ・・・
血走った視界の先に映っているのは、鳳凌子だ。
―――周囲の奴等を上手く使って俺をコケにしてる事くらいお見通しなんだよ・・・
御手洗は実際に反撃してきた砂川美月は眼中に入れていない。腑が煮えくり返りそうな程の怒りを打つけたいのは、凌子なのだ。
御手洗良和の心は歪んでいた。
彼が考えている最優先事項は、凌子をこの世の生き地獄に引き摺り込み、自身に奴隷のように頭を垂れさせる事だ。頭の中では妄想だけが黒雲のように広がる。
―――そうだな・・・先ずはアイツを適当な部屋に連れ込んでボコボコにする。そんで何人か《その筋》の奴等を呼んで、輪姦風景を撮影だな。それを世の中へ散蒔けば、アイツはもう世間から爪弾きだ。その後は、俺が直々に拷問して一生俺の前であのにやけた貌を見せられないようにしてやる・・・早く見てぇな、アイツの汚ねぇ貌を・・・
必要な道具を揃える算段は付いている。後はそれを実行に移すのみ。しかし、御手洗は憎しみの一歩寸前で踏み止まっていた。
御手洗は崖の階に立ち臆病風に吹かれているわけでは決して無い。
彼を踏み止めている要因は一つ。今の彼が置かれている立場だ。
御手洗が学校内で今の立場を維持出来ているのは一重に父親の御蔭である。彼には当時室橋高校に合格出来る程の実力は無かった。しかし、彼の父親と現理事長が旧知の中という事で《補欠入学》という形で入学が辛うじて許された。入学してからの三年間、父親の命令で彼は殆どの時間を学校での成績を上げる為に費やしてきた。優秀な家庭教師が毎日自宅を訪れ徹底的に勉強を叩き込み、休日は勉強に加えてジムでのトレーニングをこなす。これを三年間、毎週、毎日繰り返してきた。
御手洗の父親は情けない息子を立て直すには、健全な頭脳と健全な肉体が必要だと考えていた。初めは厭がっていても、慣れればきっと自分のような男になると考えていたのだ。
成績は目に見えて向上していき、二年生の後半からは学年でもトップクラスの成績を修めるようになっていた。健全なる肉体には健全な魂が宿ると云う。魂とは詰まり心の在り様だ。彼の父はそれを信じていた。彼の成績が上がるにつれ、自分の後継者に相応しい息子が完成すると思ったのだ。
しかし、御手洗の身体には、厳しい毎日から健全なる魂が宿る事は無かった。寧ろ、その心は弱り切り腐った花のように黒く染まっていった。次第にそれは身体の中から解け落ち、何時しか胸の中は伽藍堂となっていた。
それに気付いているのは、ただ一人。御手洗自身だった。心が無くなろうと、今の校内での成績が落ちれば自分には何も無くなる。必死に積み上げてきた学年内の地位がイカロスの翼のように地に燃え堕ちる。
蝋燭で塗り固めた力では決して辿り着けない場所があるのは知っている。御手洗はそんなものには興味が無かった。今在る立場さえ維持出来ればそれで良かったのだ。
だが、自分が必死に蝋燭で造り上げた立場を、眩しい太陽の光で壊そうとする人物が居る。鳳凌子だ。凌子が居る限り、御手洗の心の中に平穏はない。
―――やるしかない・・・上手く手順を踏めばリスクは最小限に・・・
御手洗が考え事をしていると肩に痛みが走った。
「いてっ・・・!?」
御手洗は左肩を抑え振り返ると、
「御免なさい。ぶつかてしまって」
「てめぇ!何ぶつかって―――」
御手洗は苛立ちを抑え切れず、打つかった相手に文句を云おうと息巻いた。しかし、御手洗は言葉を無意識に呑み込んだ。
目の前に立っていたのは、目を奪われる程の美しい女性だった。傾国の美女。その言葉すら相応しく無い美貌。瞬きをする事すら惜しくなる程、御手洗は彼女に魅入った。
「肩・・・痛かったかしら?」
女性は御手洗に近寄って来ると肩に触れた。頭の中を一瞬で耽美に満たす香りが御手洗を包む。
「あっ・・・いえ・・・大丈夫です・・・」
―――ヤバ・・・何この女・・・
御手洗は朦朧とする頭で応える。
「そんな事ないでしょ?『痛い』って声が聞こえたもの。―――そうだ。何かお詫びをさせて頂戴」
「そんな別に俺は・・・」
御手洗は見る見る内に女性のペースに巻き込まれていた。無意識に一つ一つの仕草を目で追ってしまう自分がいる。見詰める視線。艶かしく光る唇。風に揺れる髪。指先の動き。その全てが御手洗の頭を満たしていった。
「お詫びにこれを受け取ってくれるかしら」
女性は御手洗の手を取ると、《何か》をその手に握らせた。女性が手を離すと、御手洗は自分の手に握られた物を見た。
「お守り?」
御手洗の手には何処の神社にでも売られていそうな黄土色のお守りが握らされていた。
「それはね、普通の御守りではないの。貴方のような《選ばれた優秀な人》にしか持つ事が許されないものなの」
「俺みたいな?」
「貴方、室橋高校の学生さんよね?」
「ええ。まあ」
女性は話を続ける。
「それは五行に連なる所の『土』を表すものでね、持ち主に守護を齎すものなの。―――そうね。ちょっとこっちに来てくれる?」
「はあ」
御手洗は疑問に思いながらも、女性に導かれるまま付いて行く。行き先はほんの目と鼻の先。最近ビルが解体され更地になった空き地だった。人通りも少ない通りという事もあり、ビルに入っていた店は潰れるか、他に移ってしまったのだ。
「丁度いいわ。此処にしましょ」
女性はにっこりと笑う。
「あの一体・・・?」
御手洗は依然として訳が分からないままだった。
「貴方・・・今、とっても《憎い人》がいるでしょう?」
何もかも見透かすような視線に御手洗は身体を振るわせた。
「いや・・・そんな事は・・・」
「嘘は良くないし、私に嘘は通じない。私の職業は占師。貴方の貌の相を見れば嘘を見抜く事くらい造作も無いわ」
女性の言葉に御手洗は俯く。見抜かれた以上嘘は付けない。そう考えた訳ではない。この女性には嘘を付く事は出来ない。御手洗はそう思わされてしまった。
「・・・実は今、憎くて仕方ない奴が・・います・・・ソイツは沢山の取り巻きに守られていて。俺がソイツに何か云うと、必ずその取り巻き達が俺を追い詰めるんです。一人で苦労している俺を莫迦にするように・・・俺はアイツが・・殺したい程・・憎い・・・」
御手洗は肩を震わせ、声に憎しみを込めて、言葉を吐き出す。理解して貰おうとは思わなかった。だが、この女性には全てを吐き出したくなった。
「そう。貴方はそうやって一人で理不尽な力と戦ってきたのね」
女性は御手洗を抱き寄せ頭を母のように優しく撫でる。御手洗は何時の間にか嗚咽を漏らし涙を流していた。その涙を女性は指先でそっと拭う。
「でも、大丈夫。貴方の心を守る為に、私が力を貸してあげるわ。―――さあ、私の云う通りにしてみて」
「・・・はい」
「良い子よ・・・」
御手洗は女性の声に従順に従う。
「その御守りを掌で握って」
御手洗は云われた通りに御守りを握る。すると、握っていた右手に少しずつ熱が帯び始める。
「そう。そのまま握った拳を地面に付けて。そしてイメージするの。憎むべき《敵》が目の前に居る事を」
「憎むべき・・・敵」
御手洗は地面に拳を付ける。
「貴方の憎むべき敵が貴方を脅かす為にやって来る。貴方はその敵をどうしたい?」
御手洗が目の前に浮かべている人物をどうしたいか。答えは決まっている。
「・・・殺したいっ!!」
次の瞬間、御手洗の右腕が輝きを放つ。それは、御手洗の《想い》に応えた結果を、御手洗の目の前に突き付けた。
「すげぇ・・・」
御手洗は口をあんぐりと開けて驚愕した。
「それが《貴方》の力よ」
御手洗は改めて自分の握った拳を見詰める。御手洗の口元からは既に勝利の美酒に酔った笑みが零れていた。
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