待惚け

「先輩、何だか今日は張り切ってますね?」

「うん、まあね♪」

 放課後の教室。正木美弥子は何時もと様子の違う凌子を見て目を丸くした。心が踊っている。美弥子の瞳に凌子の姿はそう見えた。

 美弥子は歴史研究部の副部長の二年生である。名家の生まれで礼儀を重んじ無礼を許さない性格で、凌子よりも断然しっかりとしていると専らの噂だ。

 普段であれば、机の上に資料やらを並べ、部費で購入したノートパソコンで現在テーマとしている題材をコツコツと調べつつも、歴史談義に花を咲かせているところだ。

 だが、どうだろう。二人は現在進行形で部室の掃除を黙々と行っている。美弥子が部室に到着した時、既に凌子は頭に三角巾を付けはたきを持ちせっせと掃除に勤しんでいた。美弥子は初めこそ疑問に思ったが、凌子の話を聞けば、新入部員が入るかもしれないという事だ。部の存続が危ない現状を打破するこの上ない機会だ。逃す訳にはいかない。美弥子は凌子に続くように掃除に励む事とした。

 掃除を迅速且つ丁寧に終え、二人は椅子に腰掛けお目当ての人物を待つ事にした。放課後になり既に一時間は経っている。掃除をする時間を稼げた事は幸運であるが、来るには少し遅過ぎるという懸念が二人の間に暗雲のように漂い始める。用意したお茶もすっかり冷めてしまっていた。

 美弥子は正面に座っている凌子をちらりと見る。

 掃除が終わった直後はクリスマスのプレゼントを待つ子供のように意気揚々としていた。しかし、時計の針が十分、二十分と経っていくにつれて笑顔は消えてゆき、今は俯きすっかり黙り込んでしまっている。

 その状況に耐え切れず先に声を上げたのは、美弥子だ。

「―――えーっと、今日此処に来る事になっている方というのは、どのような方なのでしょうか?掃除をしていてすっかり聞きそびれてしまって・・・」

 我ながら無難な質問だと、美弥子は思った。だが、今の凌子は見るに耐えない。喜んでいた分の反動があった分尚更だ。

―――凌子先輩をこんなに落ち込ませるなんて・・・此処に来たら取り敢えず説教してやる!若し来なかったら名前を聞いて教室に出向いて説教してやるっ!

 美弥子が沸々と怒りを腹の底で溜めている一方、凌子が口を開いた。

「・・・うん。その人は優しくてね、強くてね、とっても良い人なの。ちゃんとお話したのは今日の昼休みだけだけど、私には何となく分かるんだ。この人はきっと《私》とは違う《強い人》なんだなぁって。それがとても羨ましいの・・・」

 凌子が思い出すように紡いだ言葉は、美弥子には鈴の音のように心地好かった。普段の凌子はその場の雰囲気を自然と和ませる。だが、今は違う。自分の心の底に在る汚いモノを温かく包み込むような感覚。その不思議な感覚に、美弥子は何時の間にか怒りを忘れていた。

 美弥子は仕切り直すように一つ咳払いをすると、

「凌子先輩にそれくらい云わしめるなんてきっと良い人なんですね。私も是非お会いしてみたいです」

「うん。美弥子ちゃんも会えばきっと分かるよ。だからもうちょっとだけ待ってくれる?」

 美弥子が壁に掛けられている時計を見ると、時刻は五時を過ぎていた。

「はい!勿論です!」

「ありがとう。美弥子ちゃん。―――お茶冷めちゃったし、私煎れ直すね」

 凌子が机の上にある急須を持ち立ち上がると、

「私がやりますから先輩は座っていてください」

 美弥子の申し出に凌子は首を横に振る。

「大丈夫だよ。美弥子ちゃんは座ってて」

「・・・分かりました」

 美弥子は浮いていた腰を渋々と再び椅子に戻す。凌子は教室の隅にある戸棚の上に置いてある小型の電気ケトルの元まで行くとその中を覗いた。中のお湯はお茶を入れるには少ない。凌子は急須を机の上に置くと、電気ケトルのコンセントを引き抜き持ち上げる。

「ちょっと水道まで行って来るね」

「はい。いってらっしゃい」

 美弥子は少しだけ不安になりながら凌子の後ろ姿を見ていた。凌子は心の中の感情が表情や態度に素直に表れる性格だ。凌子が今甲斐甲斐しく振る舞っているのは空元気だと、美弥子には筒抜けなのだ。

 凌子は教室の扉の前に立つと、ふと心の中に昼休みの時の翔真の笑顔が過った。凌子は少しだけチクリと痛む胸に触れる。

―――きっと何か用があって遅れてる・・・だけだよね。昼休みの時、ちゃんと約束してくれたもんね。嘘なんてついてる筈ないもん・・・

 ただ来てくれない。それだけでどうしてこんなにも胸が苦しいのか。凌子には解らなかった。凌子は下を向いたまま扉を開いた。一歩前に出ると、以前にも会った事がある感触と匂いが凌子を包む。凌子は思わず上を見上げる。

「前見て歩かないと危ないですよ、鳳先輩?」

 バランスを崩した凌子の肩を持ち抱きとめる。

―――あれ?あれあれあれ!?

 急に目の前に翔真が現れ気が動転した凌子は、口をあたふたと忙しく動かしている。が、一切声は出していない。

「大丈夫ですか?」

「ひゃい!大丈夫です!」

 素っ頓狂な返事をする凌子に対して、

「えーっと、先ずは一旦座って落ち着きましょう」

 翔真は凌子の身体を反転させゆっくりと教室の中へと誘導していく。一方、夕日の逆光で現れた人物の貌が確認出来なかった美弥子は、教室の中へ入って来た人物を漸く認識する事が出来た。

「君は転校生!新入部員候補って君だったの?」

 美弥子は少し驚いた様子だった。

「ああ。君は確か同じクラスの。―――と、それよりも先ずは」

「うん。分かった」

 翔真と美弥子は頷き合い、今最も優先すべき事項である『凌子を椅子に座らせ落ち着かせる』を実行に移す。翔真が椅子に誘導し、美弥子が椅子にゆっくりと座らせる。翔真と美弥子の絶妙なコンビネーションで凌子は何事も無く椅子に座る事が出来た。

 一段落したところで、翔真は凌子が大事そうに持っている電気ケトルを見た。

「これって水道に水汲みに行く所だった?」

「そう。君が遅れた所為でお茶が冷めちゃったのよ」

 美弥子は少しだけ意地悪そうに云ってみる。

「そうだったのか・・・もっと早く来ようと思ってたんだけど、《担任の先生に掴まっちゃって》さ。転校初日だから面談しますって云われて。先生から長々とこの学校の事について《ご教示》賜っていたら遅くなっちゃったんだ。本当にごめんなさい」

 翔真は申し訳なさそうに頭を下げる。美弥子は翔真の云う『遅刻の理由』に得心を得た。この学校にはそう云った《暗黙のルール》があるのを知っていたからだ。

「そうだったの。まあ、仕方ないかも。私達の担任の漆山先生は校内でも御節介で有名だから。悪気は無いのだけれど教育熱心過ぎて偶に考えものなのよ。まあでも、凌子先輩の約束を《すっぽかした》って訳でもなさそうで安心した」

「遅れておいて云える事じゃないけど、俺は約束を破るのは好きじゃないんだ」

「そう。―――そうだ。同じクラスだけどちゃんと自己紹介してなかったわね。私は正木美弥子。歴史研究部の副部長を務めているわ。宜しく」

 美弥子は歯切れ良く云う。

「俺は神楽坂翔真。こちらこそよろしく」

 翔真は白い歯を見せ笑う。

―――先輩が云っていた事は未だ良く分からないけれど、悪い人ではなさそう・・・ちゃんと挨拶もはきはきと出来るし・・・

 美弥子が内心で思っていると、

「遅れて来たお詫びじゃないけれど、俺がお茶を煎れ直すよ」

 翔真は少しだけ放心状態になった凌子の手から電気ケトルを持ち上げる。美弥子は耳まで真っ赤にした凌子を一瞥すると、

「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらう。茶器類は机の上に用意してあるものを使って」

「分かった」

 翔真は頷くと教室を出て行った。

 翔真が戻って来るまでの数分間。その間で美弥子は目の前で頭から煙を上げている凌子を平時に戻す事を第一と考えていた。先程よりも落ち着いてきているようではあるが、冷静に話せる状態ではなさそうなのは明白だ。しかし、翔真との会話はきっちり聞いている。美弥子はそう踏んでいた。

「先輩。そろそろしっかりしてください」

「・・・うん・・」

 凌子は俯きながら頷く。

「先輩があの人に《どんな感情》を持っているか、私は聞きません。ただ、もう少し普通にしていないと《変な子》って思われちゃうかもしれませんよ?」

 その言葉に凌子の肩が痙攣したようにびくりと動く。

「先輩はこの部の部長なんです。だったら、しっかりと《部長らしいところ》を見せてください。これ以上、私に甘える事は許しません」

「・・・はい。頑張ります・・・」

 完全に立場が逆転しているように見える二人の関係。しかし、美弥子は本当の凌子の《強さ》を知っている。普段は頼りなく弱々しい人に見えるが、本当はそうではない。


「お待たせー」


 翔真が扉を開くと、凌子は立ち上がり翔真の元へと駆け寄る。

「神楽坂くん。今日は見学に来てくれてありがとう」

 そのまま深々と頭を下げる。

「とんでもないです。此方こそ大幅に遅刻してしまって申し訳ないです」

 謝罪する翔真に凌子は、

「さっき美弥子ちゃんと話してるの聞いたよ。先生に呼ばれたんじゃしょうがないよ。少し遅かったから心配はちょっぴりしたけど・・・」

 安心したように微笑む凌子に翔真も少しだけ安堵した。

「遅れたお詫びじゃないですけど、俺にお茶を煎れさせてください。こう見えても一人暮らししてるからこういうの得意なんです」

 翔真はそう云って、水を並々と注いだ電気ケトルを見せる。凌子は少しだけ戸惑ったが、

「うん。じゃあ、お願いしちゃおうかな」

「はい。任せてください」

 翔真は笑顔で応えると、いそいそとお茶の用意を始める。凌子はその様子を横目に見ながら席へと着く。

「先輩。神楽坂君がお茶を用意している間に、私達は今日の『議題』の資料を用意しましょう」

 美弥子が凌子の傍に寄り添い小声で提案する。

「そうだね。うん。そうしよう」

 凌子は頷くと、美弥子と共に資料が収めてある書棚を開くと、何やら目的の資料を探し始める。その間、翔真はお茶の用意をしつつも敢えて二人には話し掛けなかった。

―――何をするつもりかは分からないけど、《普通》に楽しみますか・・・後の《準備》は雄飛に任せてあるし・・・

 翔真はお茶っ葉を入れた急須にお湯を注ぎながら、腕時計を一瞥する。時刻は五時二十分。雄飛の《作業》も愈々佳境という所だろう。

 凌子と美弥子は何冊かの厚手のファイルを机に並べると着席する。一方、翔真もお茶を煎れた湯呑みを二人の前に並べる。湯呑みからは香ばしい匂いが薫る。

 用意が一段落したところで、凌子がスタートダッシュを切るように手を鳴らす。

「それじゃ、早速今日の部活を始めます。今日は神楽坂くんも居るので割と簡単なテーマで議論したいと思います」

 凌子はそう云うと、何冊かあるファイルを順番に開き、重ならないように並べていく。翔真がお茶をひと啜りしながらそれを眺めると、ファイルの中身は年表だった。しかし、それは教科書に載っているような簡易なものではない。年代、日付単位で詳細が書かれている。

「これが私達の研究の成果物の一つよ」

 美弥子の言葉に凌子が付け加える。

「これはね、教科書の年表をベースに一般的に余り有名じゃない出来事や事件を付け加えたものなの。授業とかでフォーカスされる内容って大体一緒じゃない?でもね、知名度に関わらずこれまでの歴史に多大な影響を与えた出来事ってもっとあると思うの。云い換えると、私達は歴史という膨大な大河の中から未だ見ぬ原石を探しているって感じかな。今回は神楽坂くんの好きな時代が聞けたらなと思って容易してみました」

 凌子は自分に云い聞かせるように頷きながら想いを語る。凌子の少し恥ずかしい台詞を聞き、美弥子の方が逆に恥ずかしくて仕方が無くなる。

「そうですね・・・」

 翔真は少しだけ考えながら一頁、また一頁と捲っていく。縄文、弥生、古墳・・・。次々と年代、時代が巡っていく中で、翔真はその手をぴたりと止めた。

―――皮肉だな、俺にとっては・・・

「どうかした、神楽坂くん?」

 凌子が翔真の貌を覗き込む。

「いえ、何でも。この頁から年表の事柄が矢鱈細かくなったなぁと思って」

 翔真の云う通り、年代、月日、事柄と細かく記載されていたものが、翔真の読んでいる頁から更に細かくなっている。事柄に付いての説明も追加されているようだ。

「ああ。それはね―――」

「それは、凌子先輩の《趣味》よ」

 凌子が説明する前に美弥子が若干刺々しく説明する。「ちょっと美弥子ちゃん!」と凌子はあたふたとしているが、美弥子は「事実でしょう」と返す。

「鳳先輩はやっぱり『源頼光』が好きなんですか?」

「うん・・・まあ少しだけ・・・ほんの少し・・・」

 翔真の質問に凌子は少しだけ頬を赤らめる。語尾も徐々に小さくなっていく。

「少しだけじゃないでしょ、先輩?」

 美弥子のお母さんのような視線に凌子は「うっ・・・」と身体を小さくする。美弥子は言葉を詰まらせた凌子の代わりに説明する。

「凌子先輩は大の平安武将好きなの。その中でも一番のお気に入りが《源頼光》」

 翔真は「へぇー」と声を漏らす。美弥子は一冊のファイルを開いて翔真の前に差し出す。翔真がそれを覗くと、

「これは・・・凄いですね・・・」

 感嘆の声。驚愕と云ってもいいかもしれない。翔真は素直に関心した。そのファイルの中には歴史書や伝記、評論、フィクションやノンフィクション関係なく所狭しとコピーや切り抜きが収めてある。

「もぉー、美弥子ちゃん・・・恥ずかしいよ」

「どうせ後でバレる事なんですから、早目に云って置いた方が良いじゃないですか。『好きな事を心から好きって云えるのは恥ずかしくないよ』って云ったのは先輩ですよ?」

 美弥子は少しだけ昔を思い出しながら云う。「美弥子ちゃん・・・」と、凌子は少しだけ複雑な貌をする。美弥子はそれ以上何も云わない。

「鳳先輩、俺も正木さんと一緒の感想です」

 翔真は一頁また捲る。

「此処まで調べるなんて中々出来る事じゃないですよ。俺も好きなものは好きって云えるのは良い事だと思います」

 翔真は楽しそうに頁を捲りながら云う。

「・・・ありがとう、二人とも」

 凌子は伏し目がちになりながらお礼を云った。素直な感情を述べる事は時に難しくて歯痒い。しかし、一度云ってしまえば案外心が楽になる。凌子はお茶をひと啜りし心を落ち着ける。

 翔真はまた一頁捲る。その頁には源頼光が使用していた武器が載っている。

「へぇー、この刀って博物館に行けば見れるんですか・・・」

 翔真が指差したのは源頼光が愛用し、丹波の国に住み着いていた酒呑童子の首を斬り落としたとされている『童子切安綱』だ。

「そうだよ。私はもう何回も見てる」

 翔真が関心を持った事が嬉しかったのか、凌子はその場に立ち上がると、

「それじゃ、不肖私が大好きな『源頼光』についてお話しさせていただきます!」

 凌子は立ち上がりふんすと鼻を鳴らすと高らかに宣言した。翔真を「おぉ」と声を漏らし小さく拍手をしている。凌子から宣言された言葉に、美弥子は眉を顰める。

―――これは完全に三時間コースになる・・・何とか止めなくては!

「先輩、今日はこれ―――」

 美弥子が凌子を止めようとした時、無機質な鐘の音が教室内に響き渡る。


『完全下校時刻になりました。校内に残っている生徒は速やかに下校してください。繰り返します。完全下校時刻になりました・・・・』


「下校時刻かぁー。うぅ残念・・・」

 凌子は残念そうに呟くと、机の上に並べたファイルを名残惜しそうに片付け始める。

 繰り返される音声に、翔真は腕時計を見る。時刻は六時五分前だ。季節は日が少しずつ延びて来た頃だ。窓から外を見ても未だ明るさは充分残っている。陽も未だ落ち切っていない。

「下校時刻が随分早いんですね」

 翔真の感想に美弥子は溜め息を付く。

「神楽坂君は知らない?此処半年くらいで女子高校生の行方不明事件が多発してるのを」

 翔真は勿論知っていた。目の前の二人が知らない事さえも。

「うん。まあ、テレビやネットのニュースくらいなら」

「それの影響だよ。この学校は結構な大企業や財閥の御令嬢もいるから尚更ね。被害者にも多いみたいだし。ウチの学園長もかなり気を揉んでいるみたいよ」

「そうみたいだね。ウチの学校では未だそういう被害は出ていないみたいだけど」

 美弥子も凌子もファイルを片付けながら不安そうに云う。翔真はそれを横目で見ながら、同じように机の上のファイルを片付ける。


 此処半年で行方不明になった女子高校生は十一名。いずれも東京都内で行方が分からなくなっている。行方不明になっている高校生の共通点は、進学校に通う成績優秀で将来有望な人物である事。その中には各界に多大な影響を持つ人物の御息女も含まれている。各人には非行や犯罪を行っている者はおらず、全員が品行方正で真面目な人物とされている。彼女達の人間関係からも大きな犯罪に繋がるような事柄は皆無だった。テレビやネットでは『神隠し』などと流布されているこの事件。未だに警察は犯人確保の糸口さえ一切掴めていない。


「神楽坂くん。何だか今日はバタバタしちゃってごめんね。結局ちゃんと部の活動を見せられなかったのはちょっと残念かも・・・」

 凌子はファイルを書棚に戻しながら残念そうにしている。

「俺こそ時間通りに来れなくてすみません」

「しょうがないよ。でも、その、あのね・・・」

 凌子は翔真の方に向き直る。

「本当はね、もっとちゃんと活動してるし楽しいクラブだから!その・・・神楽坂くんが入部してくれたらもっと楽しい!・・・と私は思うの。だから―――」

「入部させてもらいますよ、俺」

 翔真は楽しそうに笑う。凌子はその言葉にキョトンとする。

「元から入部させてもらうつもりで見学に来ましたから。先輩が断ったら勿論入れないですけど」

「そんな事云わないよ!」

 凌子は前のめりに宣言する。

「ありがとうございます。じゃあ、明日入部届けを担任の先生に提出しておきます。改めて宜しくお願いしますね、先輩」

「うん!こちらこそよろしくね!」

 凌子の心は有頂天だった。もし断られたら、などという不安はすっかり彼方に吹き飛んでしまっていた。

「先輩、神楽坂君。そろそろ帰らないと怒られますよ」

 美弥子は帰り支度を既に終えているようだった。

「美弥子ちゃん!聞いて聞いて!神楽坂くんが入部してくれるんだって!」

「さっきの話聞いてましたから知ってますよ。さあ、帰る準備してください」

「うん!」

 凌子はいそいそと帰り支度を始める。その間に美弥子は部室の扉の前で待つ翔真の横に立つ。凌子は鼻歌交じりで鞄の中に持ち帰る資料を片付けている。

「神楽坂君」

「何?」

 二人は一切視線を合わせず、凌子の方を見ている。

「凌子先輩は見ての通り、《あんな感じ》の人なの。普段は頼りなくて子供みたいな人だけど、本当はとても優しくて頼りになる先輩。いざという時は誰よりも真っ直ぐに突き進める人。だから、これは私からのお願い」

「お願い?」

「そう。凌子先輩を《傷付けるような事》は絶対にしないで。先輩は人に優しい分、とても傷付きやすい人だから」

 美弥子の言葉には《何か特別な意味》が秘められている。翔真はそれを感じ取った。凌子と美弥子の間に在る見えない友情の糸。それはきっと固く結び付いたものなのだ。

「・・・肝に銘じておくよ。正木さんに怒られるのも厭だしね」

「そう云って貰えると助かる」

「手の掛かる先輩がいると後輩は大変だ」

「全く、その通りね」

 美弥子は少しだけ微笑んで云った。


「お待たせ、二人とも」


 凌子が二人の前に元気良く近寄って来ると、

「二人とも何だか楽しそうだね?」

 凌子に指摘され、二人は「「そんな事ありません」」と声を重ねて云う。

「あぁー息もピッタリ!益々怪しい!私にナイショで楽しい話してたんでしょ?」

 凌子は疑い深く二人を見詰める。

「そんな事より早く帰りましょう、先輩」

「そうですよ、先輩」

 翔真と美弥子は扉を開けると、そそくさと歩いて行ってしまった。

「ちょっと二人とも待ってよー!」

 凌子は小走りで二人を追い掛けて行った。

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