風雲児 弐

 凌子は少しだけぼんやりとしながら通学路を歩いていた。今朝の出来事を思い出していたのだ。胸の内は母親に当たってしまった自己嫌悪で一杯だった。

―――お母さんには悪い事したな・・・でも、やっぱり話そうかな・・・

 凌子は頭の中で昨日の出来事を思い出していた。話の顛末は些細な出来事だ。

 ゴールデンウィーク明けから二週間。すっかり馴染んだクラスメイトも漸く休み惚けから明けた頃だった。

 高校三年生にもなると、否が応でも『受験』という二文字が至る所で聞こえてくる。

 凌子の通う国立室橋高等学校は国内有数の進学校だ。日本国内に点在する二十の国立高等学校の内、啓正高校、桜淋高校と共に『国立三侯』の一角も担っている。

 この三校が他校の国立高校と異なる点は、『文武両道』を他校よりも重視している事である。要するに、勉強にだけ秀でていても二流。運動能力にだけ秀でていても二流。両者が揃い初めて一流という理念があるのだ。

 従って、入学試験には国社数理英の学力能力試験だけでなく、運動能力試験も行われる。

 運動能力は身体的なバランス能力を検査する試験である為、必ずしも運動部の成績などは関係しない。しかしながら、ハードルは高く、毎年平均約五〇〇〇人以上の受験者の内、合格定員は二〇〇名。加えて、合格者は必ずしも二〇〇名という訳では無い。当校が求める合格基準を満たさなければ合格とはならない狭き門だ。

 凌子は学力能力試験を上位で合格したものの、運動能力試験は合格基準ギリギリの成績だった。運動能力試験は男子よりも女子の方が合格基準点が低い。これは男性と女性の身体的能力の差を考慮した措置であるが、凌子が《運良く》合格出来たのはこの措置に助けられた部分も大きい。

 しかしながら、これを良く思わない生徒も少数だが存在する、というのが今回の事件の引き金だった。

 その事件は、中間考査の学力試験結果の発表の日に起こった。


 凌子は運動能力試験で点数が劣る分を、何時も学力能力試験で挽回していた。

 結果発表は上位二十名のみが掲示板に名前を発表される。

 凌子は親友の美月と共に掲示板の前に結果を確認しに来ていた。

 凌子の名前は何時も上位五名の内に入っている。それは今回も同様だった。上位五名の内、男子が三名、女子が二名。凌子の成績は第三位。女生徒でトップの成績だった。

『あちゃー。今回は凌子に負けたかぁ』

 頭を掻きながら少しだけ残念そうに砂川美月はぼやいた。美月は凌子の親友でもある。掲示板に貼り出されている美月の成績は第五位。冬の実力試験では美月が二位。凌子が五位だった。

『えへへ。美月ちゃんに勝っちゃった』

 凌子は少し照れ臭そうに笑う。

『嬉しそうだねぇ、りょーこ。でも、次は勝つよ。次の期末考査では私が勝ーつっ!』

『うん。また一緒に頑張ろうね』

 美月は敢えて燃える展開を演出しようと試みたのだが、凌子には暖簾に腕押しらしい。何時もの調子で返されてしまった。

―――まあ、これが凌子の良い所なんだけどね・・・

 美月は凌子が嬉しそうにしているので、それ以上は特に何も云わなかった。凌子は他者と争うという感覚が時々薄くなるのだ。


『随分とヘラヘラしてるな』


 二人の間に不協和音を齎したのは隣のクラスの御手洗良和だった。御手洗は細い目を更に細め凌子を薮睨みしている。

 御手洗は以前から少しだけ凌子を目の敵にしている節があった。

 理由は単純明快。中間考査、期末考査、実力試験で一度も勝った事が無いからだ。御手洗が勝てない生徒は凌子以外にも居る。だが、御手洗は《何故か》凌子だけを目の敵にしていた。

『なーに御手洗?負け犬の遠吠えなら私の視界の外でしてくれる。うざいから』

 美月は凌子を庇うように前に出る。凌子は美月の後ろで目を伏せる。

『お前に云ったんじゃないんだけど』

 御手洗は舌打ちをする。

『生徒会長の前で喧嘩売るような事云うアンタが悪いのよ』

『偉そうにしてんじゃねぇよ、女の癖に!』

 御手洗は形振り構わず叫んだ。掲示板を見に来ていた生徒達も騒ぎに気付きざわめきだす。生徒達は口々に『また御手洗お坊ちゃんがご立腹か』、『また鳳に突っ掛かってんのかよ』、『会長も好きだね』と声をひそひそと漏らしている。御手洗は大手企業の御曹司で学年内だけでなく校内でも有名だった。この場合の有名は所謂悪名である。彼の家柄だけで無く、彼の子供地味た我が儘も含めて《有名》だったのだ。

 美月は御手洗の言葉を鼻で笑う。

『その《女》に負けてんじゃ世話無いわね』

『てめぇ・・・』

 険悪な雰囲気という事は誰の目から観ても一目瞭然だった。

 だが、誰も《敢えて》美月を手助けしようとはしなかった。

 理由は単純だ。助ける必要が無いからだ。美月は御手洗が凌子に突っ掛かる度に、まるで羽虫をあしらうかのように退けている。『今回も生徒会長が御手洗の我が儘を一蹴する』というのが、その場に居合わせた生徒達の総意だった。

『凌子。もう行こう。こんな奴に関わっていると莫迦が移る』

『美月ちゃん・・・』

 美月は御手洗を一睨みすると、凌子の手を引きその場を去ろうとした。何時もの調子であれば、御手洗は云いたい放題云われぐうの音も出ずその場で立ち尽くすだけだった。

 しかし、この時は違っていた。

『だから・・・偉そうにするんじゃねぇって云ってんだよぉ!』

 御手洗は突如激高した。その怒りは美月にではなく、当初の標的である凌子に向けられた。御手洗は強引に凌子の腕を掴み引っ張り上げた。

『きゃあっ・・・』

 凌子の小さい身体は男の腕力に耐えられず空中に放り出される。そのまま投げ出された身体は再び地面に勢いよく戻された。抵抗する間もなかった凌子は受け身も取れず廊下に叩き付けられた。

『い・・・たい・・・』

 凌子は側頭部を両手で抑え、その小さな身体を更に小さく丸める。倒れた時に頭を固い廊下に打ち付けてしまったのだ。周囲の生徒達は思わぬ出来事に水を打ったようにしんと鎮まりかえる。一方、当事者の御手洗は予想外の出来事に凌子から一歩、二歩と後ずさる。


『凌子!』


 一目散にその静寂を破ったのは美月だった。美月は直ぐ様、踞る凌子の元に駆け寄る。凌子の身体を抱えると、

『凌子、大丈夫!?返事して!』

 美月は必死に凌子に呼び掛ける。その声は切羽詰まっている。凌子は間違い無く頭を打っている。頭の打ち所が悪ければそれだけで致命傷になる。

『・・・大丈夫だよ、美月ちゃん』

 返事は直ぐに返って来た。凌子は片手で左の側頭部を抑えてはいるが、何時もの調子で柔らかい笑顔になる。美月はその笑顔を見ると、何故か一気に気が抜けてしまった。

『ああー、もう。こんなに心配したのに、なーにこのぽわぽわ感・・・』

『えへへ。心配掛けてごめんね』

 その場に居合わせた生徒達も凌子の笑顔に安心したようだ。次々と美月と凌子の近くに来ると、心配する声や安堵した声を上げる。

『本当に大丈夫なの?』

『大丈夫だよ。ちょっと瘤になったかもしれないけど』

 凌子は痛む箇所を小さく撫でる。

『分かった。取り敢えず保健室行こ』

『うん』

『ああでもその前に・・・』

 美月は凌子がゆっくりと立ち上がるのを補助すると、隣に立っていた女生徒二人に『ごめん、任せた』と云い、少しふらつく凌子の身体を預けた。任された二人は凌子を支えると、真剣な表情で美月に応える。

 美月は凌子を一瞥し安全を確認すると、正面で立ち尽くしている男を睨み付ける。御手洗はその迫力に思わず一歩後ずさる。凌子の周囲には彼女を心配する生徒達が集まっていた。一方、御手洗の周囲には誰もおらず、その場に居た生徒達は明らかに御手洗に敵意と嫌悪を向けていた。

『何だよ?みんなして俺が悪いって云うのかよ?』

 御手洗は額に脂汗を滲ませ続ける。

『大体さ、あの程度の力でぶっ倒れるソイツが悪いんだろ!そうだ!ソイツの運動神経が悪いから倒れたに決まってる!』

 子供染みた言い訳。誰も御手洗の意見に同意などしない。

『鳳は運動能力試験はウチの学年でも万年ビリだろ?みんな知ってるじゃんか!頭だけ良い奴なんかウチの学校に相応しく無いんだよ。そんなんでよくウチの入試試験通ったよな?若しかして、裏口でもしたんじゃねぇーの?』

 御手洗の悪態に凌子の身体は固くなる。

 凌子は自分の実力でこの室橋高校に入学している。だが、運動能力が他者よりも劣っている事は入学してからも大きなコンプレックスだった。並の学校であればそれなりであっても、この学校ではそうはいかない。凌子は努力を怠っている訳ではないが、それが結果に繋がらない事を誰よりも口惜しいと思っていた。

『なーに泣いてんだよ!』

 御手洗の声に周囲の生徒が凌子に集中する。

 凌子は何時の間にか涙を流していた。悲しかったのではない。一方的に言い負かされているのに関わらず反論する事さえ出来ない自分が恨めしく、そして情けなかったからだ。

―――私にほんの少しだけ自分を誇れる勇気があれば・・・

 凌子は心の中で強く思った。


『云いたい事はそれだけ?』


 凌子の代わりに御手洗の悪態に返答したのは美月だった。美月の声には明らかに怒気が孕んでいる。

『俺はお前に云った―――』

『だ・か・ら、云いたい事はそれだけって、私は聞いてんだけど?』

 御手洗の言葉を断ち切るように、美月は語気を強め責め立てる。御手洗はその迫力に気圧され押し黙る。御手洗は何度も凌子を庇う美月と衝突している。だが、今回は様子が何時もと違っている。それを肌で感じていた。

『・・・そう。云いたい事はそれだけ』

 黙り込む御手洗を確認するように呟くと、美月は御手洗に少しずつ近付いて行った。そして、正面に立った。その直後、突然風を切る音と共に、風船が割れるような音が周囲に響いた。その音が一瞬で消えると同時に、御手洗はその場にへたり込んだ。彼の左頬には痛々しく赤い手形が出来ている。御手洗は自分が置かれている状況がいまいち理解出来ないのか、茫然自失として頬を摩っている。


『何座ってのよ?』


 夜の帳を無理矢理引き剥がすように、憤怒を込めた静寂がその場を支配する。

 美月は間髪入れず、座り込んだ御手洗の髪を鷲掴み、頭を引きずり上げる。御手洗はその痛みで正気になり必死に美月の手を引き剥がそうとする。『止めてくれ!止めてくれ!』と、悪夢を振り払いように抵抗する。だが、美月の指は髪の毛一本足りとも逃がさない。

『アンタは私の親友にやってはいけない事をしたっ!だから・・・さっきの一発で終わったと思ってんなら・・・大間違いなんだよっ!』

 美月は髪を掴んだ手とは逆の手を大きく振りかぶる。御手洗は自分を守るように自分の頭を両手で覆う。


『美月ちゃん止めてっ!』


 凌子の必死な声は美月に確かに届いていただろう。だが、美月は自身の怒りを抑える事が出来なかった。否。抑えたくは無かったのだ。自分の親友に向けられた理不尽な暴力を決して赦してはいけない。美月の怒りを臨界点を突破していた。

 凌子の制止も空しく、美月の腕は御手洗に向け振り下ろされる。

 だが、その腕は振り下ろされる途中で何者かの手によって止められた。美月は自分の腕を掴んだ奴の方向を振り返る。

『それくらいにしときなよ、生徒会長殿』

 振り返った先に居たのは、同じく三年で副生徒会長である佐渡雄飛だった。雄飛は苦笑いを浮かべながら美月を止めていた。苦笑いを浮かべているのは、この事態を案じているからでは無い。自身のこの行動に対する諦めのようなものだ。

『・・・生徒会会長が、《会長》である私に逆らってどういうつもり?』

 美月は御手洗から一切視線を逸らさず質問する。不快な感覚を打ち撒けるような声に雄飛は少しだけ怯む。しかし、雄飛は美月の腕を離さない。

『生徒会長が今にも生徒に暴行を加えようとしている所を見逃せる訳ないでしょ?《副》会長としては尚更ね?』

『先にアンタから打っ飛ばそうか?』

 美月は向き直り雄飛と相対する。美月の針を刺すような視線。しかし、雄飛は一切其処から視線を外す事はしない。

『そうしてくれた方が助かるかな。―――それと、気付いていないなら仕方無いけど、凌子さんにこれ以上あんな貌させる気?』

 美月は雄飛の肩越しから見てしまった。

『それでも良いなら相手になるけど?』

 凌子が今にも泣きそうな瞳で見ている。自分を。

―――そんな貌させたくなくて私は・・・

『・・・頭の方は冷えましたか、《生徒会長》殿?』

 美月が雄飛に再び視線を移すと、雄飛は安堵の笑みを浮かべている。

『・・・ごめん。頭に血昇り過ぎてた・・・』

『どういたしまして』

 雄飛は美月の手を離す。美月はそのまま少しだけバツが悪そうに凌子の方に近付いて行く。凌子の前に立つと、

『ごめん、凌子。少しカッとなり過ぎた。早く保健室行こ』

 凌子は否定するように首を横に振る。

『違うよ。美月ちゃんは私の為に・・・私の代わりに怒ってくれただけだもん。本当なら私が―――』

『保健室行こ、ね?』

 凌子の言葉を押し切り、美月は数人の友人と共にその場を後にした。美月はそれ以上、凌子に罪の意識を感じさせたくなかった。


 凌子達が去った後、雄飛が後処理を進めた事で教師達に事態を知られる事は無かった。凌子がその事を知ったのも、凌子が保健室で患部を冷やしていた時に雄飛から伝えられた後だった。凌子はただ謝る事しか出来なかった。

 凌子は一連の出来事を逡巡する。

―――二人は気にしないでって云うけど、でも、私は・・・

 不甲斐無い。意気地無し。ヘタレ。そんな自身を罵倒する言葉が頭の中に浮かんでくる。が、それが自己満足にしかならない事も知っている。

 自身を責める事は幾らでも出来る。自身を責める事は自由だ。それが自分の罪悪感を殺す為の甘えだとしても。心が平穏を求めるように、心は自身への生易しい罵倒を赦すのだ。

 凌子はその感覚の狭間で揺らいでいた。

―――私にもっと自信があれば・・・勇気があれば・・・

 自身を奮い立たせる言葉はとても空虚だった。行動が伴わない勇気など臆病者そのものだ。一歩踏み出せれば何かが変わるかもしれない。しかし、一歩踏み出したとしても何も変わらないかもしれない。そう思うだけで、立ち止まってしまう自分がいる。心の徒労と終わってしまう。まるで蜘蛛の巣の中心に捕らわれた蝶のように、もがけばもがくほど身体はその糸から逃れられなくなる。

 ふと気付くと、凌子は交差点手前の遊歩道で立ち止まっていた。歩道の信号は既に明滅している。腕時計を一瞥すると時刻は思ったよりも過ぎている。惚けて歩いていた所為か、何時もよりも大幅に遅れていた。

―――遅刻しちゃう!急がなくちゃ!

 凌子は明滅する信号を確認すると、横断歩道を思い切り走り始めた。何時もの凌子であれば次に信号が切り替わるのを待つだろう。左右の確認をする事も怠らない。


 普段通りの凌子であれば向かいから右折してくる大型車両を見逃す筈が無いのだ。


 凌子の視界の中に巨大な黒い影が射し込む。その影は凌子の視界だけでなく、凌子の身体全てを覆い尽くす。凌子が影に染まるには三秒も要らなかった。

「あっ・・・」

 唇から不思議な音色の声が漏れる。唖然でも呆然でも無い。まして、愕然でも無い。気付いたら身体が漏らしていたのだ。吸い込んだ空気を吐き出すように。自分の不注意を後悔する時間さえも与えられず、影は凌子を覆い尽くそうとした。

 その瞬間、駆け抜ける突風が凌子を空へと放り投げた。その直後、倒錯した風景が凌子の周囲を満たした。

 反転する世界。逆様に映る世界は滑稽な自分の姿を嘸かし大笑いしている事だろう。左右確認をして横断歩道を渡る。誰でも知っている常識だ。その常識を破った結果が、視界に映り込む鼠色のコンクリートの塊だ。

 凌子は意識的か無意識的にか、最後に見たいものがあった。それは自分の貌だ。死に貌くらいせめて美しく在りたい。地面に叩き付けられれば無惨な姿になるだろう。醜い姿で自身が果てる。それだけは厭だった。醜い心まで身体の中から溢れてしまいそうだったから。凌子はしがみつくように貌を両手で覆った。

―――怖い・・・

 真っ黒になった世界を恐れ、凌子はその中で眼を閉じる。眼を閉じて怖いモノが通り過ぎるのを待つ。凌子にはそれだけで精一杯だった。


―――大丈夫。怖くないよ―――


 凌子の頭に中に優しい声が響く。それは凌子の身体を抱き上げるように寄り添う。まるで、直ぐ傍で凌子を護るように。

―――一体、誰が・・・?

 凌子は意を決し視界を覆っていた両手の指先を少しずつ開いてく。親指と人差し指、それから中指。徐々に露わになる世界。それは、淡い銀色に染まっていた。

 そして、凌子の身体を抱き上げる誰かが確かにいるのだ。その貌は銀色の光で影になっている。しかし、その《誰か》の貌は見えなくても凌子の心は何故か安心しきっていた。つい数分前まで感じていた心を劈くような痛みが、まるで始めから無かったように消えていてるのだ。

―――どうしてだろう・・・とっても安心する・・・

 その声の主は云う。

「しっかり掴まってね」

「・・・はい」

 凌子は胸元に貌を寄せ、しっかりと声の主にしがみつく。再び凌子は眼を閉じた。それは恐怖から反射的に閉じたものではない。自ら閉じたのだ。声の主に自分の心を預ける為に。預けた心は羽根が舞うようにひらりと浮かび上がる。

 凌子は心の内で考えていた。

―――この人に任せておけば安心だって、どうして思えるんだろう。きっと見ず知らずの人なのに。でも、分かる。分かってしまう。理屈じゃないんだ。心がそう云っている気がする・・・

 そう考えている内に、事態は収拾していたようだ。


「もう大丈夫だよ」


 その声に凌子は思考の海底から現実へと引き戻される。凌子は声の主の方へと貌を向ける。

「どうかした?」

 声の主は凌子に微笑み掛ける。優しい眼差しと太陽のような笑顔を持つ男の子。少し短めの前髪が風でひらひらと舞う。

「いえ。あの・・・ありがとうございます・・・」

「どういたしまして」

 凌子は伏し目がちにお礼をする。彼は眼を逸らす事なく凌子を見詰める。その真っ直ぐな瞳に見詰められるのが気恥ずかしい。凌子は支えられた身体をもじもじと動かしながら、この状態をどうしたらいいか分からなくなっていた。この男の子と居ると心が安心するのは本当だ。が、いざ眼を合わせると、貌から湯気が立つ程熱くなり、上手く言葉も出て来ない。

「あっ!?ごめんなさい」

 男の子は突然思い出したように謝ると何かを探すように周囲を見渡す。「あった!」と声を上げると小走りで走り出した。お目当てのものを見つけ出したのだろう。凌子はそのまま彼に抱き抱えられたまま、彼のお目当ての場所に移動した。

「見知らぬ男にずっと抱き抱えられてたら居心地良くないよね?早く気が付けば良かった」

「えっ・・ちが・・・」

 男の子は申し訳無さそうに云いながら、凌子をベンチへと下ろし座らせる。男の子が見つけたのは交差点を渡った先にある小さな公園のベンチだった。凌子は反論しようとしたが、最後まで云い切るが出来なかった。

―――今度こそちゃんと目を見てお礼を云わなくちゃ!

 凌子は心の中で人という字を飲み込む。何度も飲み込む。命を落としたかもしれない事故から救ってくれたのだ。お礼を云うだけでは足りないかもしれない。しかし、今一番大切なのは心を込めてお礼を云う事だ。凌子は正面に立つ男の子を見上げる。

「あの・・・」

「ごめん。ちょっと此処で待っててくれる」

 男の子は凌子の言葉を聞く事はなく小走りで再び元の場所に戻って行ってしまった。それも当然だろう。ついさっき人身事故が起きたかもしれないのだ。通勤を急ぐスーツ姿の男性や学生らしき女性、その他何人かが現場を不思議そうに見ている。

 近くには交番があった。既に警察官も二人来ている。トラックが車道の端に駐車され中から運転手も出て来ている。迷惑を掛けた張本人はこうして安全な場所でそれを見ているだけ。

―――あの人達にもちゃんと誤って来なきゃ!

 凌子はベンチから立ち上がろうとした。しかし、上手く立ち上がる事が出来ない。

「あれ・・・あれっ・・・?」

 凌子はふらふらと上半身を揺らすと、再びベンチへと落ちるように座り込んだ。余りの出来事に腰が抜けてしまっているのだ。凌子はその場に留まり、抜けてしまった腰が回復するまでただ彼等を見ている事しか出来ない。

―――どうして私はこんなに愚図なんだろう・・・

 凌子は目頭が熱くなるのを感じた。自分の不甲斐無さ、情けなさ。誰かに助けて貰ってばかりで自分では何も出来ない。周囲に迷惑を掛けてばかり。自分を追い込む言葉ばかりが頭の中を埋め尽くしていく。

「泣いちゃ駄目・・・泣いちゃダメっ!」

 凌子は自分を奮い立たせるように声を吐き出す。潤んだ瞳は潮が満ちるように凌子の視界を深海へと誘っていく。止めたくても止められない涙の波。押し寄せる波に抗う事は出来ず、凌子は大粒の涙を乾いた地面へと一粒、また一粒と落としていく。砂に染み込む涙は黒い染みになり、それは凌子の胸の中を黒いクレヨンで滅茶苦茶に塗りつぶしていくようだった。


「泣いてるの?」


 はっと我に返り見上げると、何時の間にか男の子が凌子の正面に立っていた。

 心配そうに窺う貌から逸らすように必死に制服の袖で涙を拭う。「違うの・・・違うの・・・」と独りごちながらどうにかして涙を隠そうとする。

「・・・怖い思いしたもんね。仕方無いさ。はい、ハンカチ」

 男の子は折り目正しくアイロンが掛けられたハンカチを凌子へと手渡す。凌子はそれを黙って受け取ると、真っ赤になった目を隠すように涙を拭う。

「警察官の人達には事情を説明してきたよ。トラックの運転手の人も自分が不注意だったって云ってるし、大事には至っていないから、事後処理は必要無いと思う。注意はされると思うけどね。君の事も彼処の警察官の人に事情は説明しておいたから。怖い思いをしただろうから暫く落ち着かせて上げてって。だから此処でもう少し休んでいるといいよ」

 男の子はさらさらと概ねの事情を凌子に説明する。凌子にとってはその気遣いは感謝しても感謝し切れない。だからこそ、今度こそきちんとお礼を云わなければならない。そう思った。

「あの・・・」

 凌子は漸く止まってくれた涙の雫をハンカチで拭うと、男の子の貌を見た。

「どうかした?」

 男の子は少し首を傾げ凌子の貌を窺う。凌子は制服の袖を握り締め勇気を振り絞る。

―――お礼・・・ちゃんと云わなくちゃ・・・ちゃんと伝えなくちゃ・・・

 凌子は男の子の眼を見詰めて、

「あの・・・ありがとうござます。その・・・助けてくれて・・・」

 胸の中の精一杯の気持ちを言葉に乗せて伝える。言葉が上手く発音を出来ないと思い、ゆっくりと噛み締めるように声を紡いだ。緊張の余り、凌子はそのまま固まってしまった。

―――大丈夫だよね?ちゃんと伝わったよね?変な子って思われていないよね?

 凌子はじっと返事を待つ。

「どういたしまして」

 男の子はニッコリと歯を見せ笑い答える。凌子はその笑顔にほっとし、密かに胸を撫で下ろす。緊張が一気に抜けてお腹の中にあった空気が全て吐き出されるようだった。

「もう大丈夫そうだし、俺もう行くね。ハンカチはあげるからそのまま使って。―――転校初日から遅刻したら先生に怒られるかなぁ」

「えっ・・・?」

 男の子は最後にぼやくように云うと、再び小走りで掛けて行ってしまった。凌子は彼を引き止める事さえ出来なかった。走る後ろ姿はまるで草原を翔る一陣の風のようだったからだ。

 凌子はベンチで少しだけ呆気にとられていると、男の子が走っていた別の方向から此方に走ってくる人物を見た。先程までトラックの運転手と話していた警察官の一人だ。遠くからは分からなかったが、近くで見るとどうやら若い人のようだ。警察官は凌子の前に来ると、

「君が彼に助けられた室橋高校の生徒かい?」

「・・・はい。そうです」

 凌子は申し訳無さそうに警察官の質問に答える。

「彼から事情は概ね聞いたよ。幾ら急いでいたとはいえ、横断歩道の信号が今にも変わりそうなのを無視するのは関心しないな」

「・・・ごめんなさい」

 凌子は心から反省し頭を下げる。警察官はその様子を窺うと、

「反省はしているようだね。まあ、今回は運転手の方も前方注意が不十分だったと反省しているから、お相子というところかな。幸い怪我人も出ていないし。勿論、派出所で話を聞く事になる事になるから、そのつもりでいてね?」

「・・はい。分かりました」

「では、本官はまた彼方に戻るから、君は落ち着いたら来てね」

「はい」

 警察官は忙しげにまた現場へと戻って行った。

 凌子は警察官の走る後ろ姿を眺めていると、其処でふと気付いた事があった。

「あの人・・・私と同じ高校だ・・・」

 黒を基調とした制服。何方かと言えば制服というよりもスーツに近いその制服は、室橋高校の特徴なのだ。今になって気が付くのも間抜けな話だが、しかしそれが意味する事はつまり。

―――学校に行けば、きっとあの人に会える・・・

 凌子の身体は綿毛のように軽くなる。

―――私を助けてくれた男の子・・・

 颯爽と走り抜ける姿はまるで、凌子が憧れる彼の姿に似ている気がした。

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