風雲児 壱

空は清々しい快晴。何処までも広がる青空は雲一つ無く、太陽は燦々と照り心地良い陽だまりを作り上げる。季節は五月も半ば過ぎ。ゴールデンウィークも終わり、人々は束の間の休息を終え、慌ただしく普段の生活へと戻って行く。

 だが、この時期にのみ、日本国には、人々の日常生活の邪魔をする一種の病気がパンデミックのように蔓延する。それは『五月病』と呼ばれる、日本人特有の生活習慣病の一種だ。

 日本人は諸外国と比較すると、『休息』を取るという行為が下手である、と云われている。要するに、突然の休みや長期の休暇が忙しい毎日の中にふと舞い降りると、日本人の多くはどのように過ごして良いか分からなくなってしまうのだ。

 人は普段と異なる行動や時間を過ごすと疲労をいつも以上に蓄積させてしまうものだ。比較的長期間の休みや休息を取る事が当然の国民の権利と考える国民性を持たない日本人にとって、ゴールデンウィークのような長期の休みは、結果的に疲労を増すだけの結果しか与えない場合も往々にしてある。

 例えば、折角の休みなのだから何処かへ遠出しよう、久し振りの休みなのだから有効に使わなくては勿体無い、休みの間にこれもあれもやっておきたい等。要するに、『休み』というキーワードを引き金に、何時も以上に頑張ってしまうのだ。休息を取る事が目的の筈が、結果的に休息を消費するという行為に変換されてしまう。悲しいかな。これが《勤勉な》日本人の悲しい性なのだ。

 しかしながら、日本人がこの時期に罹る『五月病』で最も厄介なのは、四月でも無く、六月でも無く、五月であるという点にある。

 普段とは異なる日常を過ごす、という行動。この場合、それが本人にとって有意義であったかどうかは問題では無い。四月とは日本の中で最も変化の大きい時期だ。入学式や卒業式、入社、転職、上京等、人の動きが自然と多くなる。変化の数や大きさは各個人それぞれであるが、必ずその個人に影響を及ぼす。自身の知らない人、場所、気候、言語。変化を及ぼす要因は何でも良い。それに馴染む馴染まないも問題では無い。四月という季節は否応でもその影響を存分に堪能する時期なのだ。それは、人の身体と精神に疲労を鼠算式に蓄積させていく。

 習慣的な疲労は慣れていけば大した重荷には成らない。身体にしろ心にしろ、経験を繰り返す事で鍛え上げられていくものだ。だが、鍛えている過程で其処に外的なイレギュラーが発生した場合はどうか。例えば、熱した金属を急に冷え切った水に浸けたらどうなるか。金属は急激な温度差に形を保つ事が出来ず自壊するだろう。

 ならば、人の場合はどうか。熱く火照った身体に冷え切った水をかけるとしよう。急激な温度変化は心臓に負担を大きく掛ける事になる。それが場合によっては死に至る要因になる事もあるだろう。高過ぎる外気は熱中症を、低過ぎる外気は凍傷という形で人に傷を与えるものだ。

 ゴールデンウィークはこれが逆に作用してしまう。

 変化が多い毎日を過ごしている中で、急にその変化がぴたりと無くなるのだ。変化の無い事が大きな変化となる。詰まり、変化に慣れつつあった日常が自身の好む日常へと移行するのだ。その期間は日本人にとって普段の休みよりも長い。その期間を経て、再び変化のある生活へと自身を戻す。変化に疲れていた人々はそれを拒否したくなる。所謂、縒り戻しという現象だ。

 折角手に入れた心休まる日常を誰だって手放したくはない。だが、普段生活している日常には戻らざるを得ない。その心の葛藤と折衝が、『五月病』という形でひょっこりと現れてしまうのだ。

 ゴールデンウィーク以降、日本人は何時もよりも少しだけ憂鬱な日々を過ごす事になる。尤も、それは各々に依るところではある。

 要は、人それぞれという話だ。

 しかしながら、多くの日本人と同様に例に漏れず、鳳凌子も少しだけアンニュイな気持ちで五月の後半を迎えていた。何時もより五分遅く起床したのも何となく気怠かったからだ。

 凌子は朝食のトーストを頬張りつつテレビを眺めている。トーストの上に乗せてあるのは納豆。凌子の最近の朝食のお気に入りである。

「格好いいなぁ」

 間抜けな声を上げながら、凌子はテレビに夢中になっている。

「凌子!口が御留守になってるよ!子供じゃないんだから!」

 正面で同様に朝食を摂っている母。麻子からのお叱りの声だ。確かに、凌子はテレビに夢中になる余り御口が御留守になっていたらしい。口の端から納豆の豆が糸を引いて零れ落ちている。

「ゴメンナサイ・・」

 凌子は肩を竦めいそいそとティッシュで口元を拭き取る。一方、麻子は凌子が恥ずかしそうに口元を拭っている様子を横目で見ると、

「それにしてもあんたも飽きないわね」

 少し呆れながら、溜め息混じりでテレビに映っている番組に視線を戻す。

 鳳家では朝にテレビを観るという習慣が無い。父親は朝食を摂る習慣がなく、凌子が起床する時間には既に家を出ている。母親は専業主婦ではないものの、朝の内に家事仕事を完璧に片付ける事を信条としている。凌子と同じ時間に朝食を摂る事は少ない。今日は偶々家事が早目に終わった為、共に朝食を摂っていたのだが、こういった場合、凌子は麻子の格好の的となる。

「別にいいでしょ。格好良いんだもん」

 凌子はムスッと少しだけ頬を膨らます。

「何怒ってんのよ?」

「怒ってないもん」

「はいはい。私は別にあんたの趣味に兎や角云うつもりはないわ。ただ、こう毎日毎朝同じものばっかりってのは正直ウンザリしてるだけ」

 麻子は湯気が立つコーヒーカップを口に運ぶ。

「同じじゃないもん。今観てるのは二十三話。昨日の朝観てたのは確か・・・二十話だもん」

 凌子は子供っぽく反論する。

「そういう事云ってんじゃないの。これもう何回目?」

 麻子は意地の悪い視線を凌子に送りつつ返答を待つ。凌子は口にパンを運ぶ手を止める。凌子は母親の云いたい事は重々承知していた。

「・・・十三回目」

「ふーん、そう」

 麻子は自分で質問したにも関わらず、まるで興味が無さそうにテーブルにあった新聞に手を伸ばす。そのまま新聞を開き、何事も無かったように目を通し始める。

「・・・お母さんのイジワル」

 凌子は少しだけ憎らし気に麻子を見る。

「私は意地悪じゃありません。ただ、花の女子高生が平安時代の、しかも教科書にも載ってないような武将に見蕩れながら『噫、格好良い』って云っているのが面白いだけよ。然も、同じ場面で同じ発言してるのも興味深いわぁ」

 麻子は或る部分だけを矢鱈と大袈裟に強調する。それは数分前に凌子がテレビに映る平安中期の武将・源頼光を観て云った台詞だった。

 凌子が気に入って毎日のように観ているのは、昨年まで民放で放送されていた『平安妖怪譚』という歴史ドラマのシーズン弐である。主人公は平安時代の武将・源頼光だ。民放が『NHKの歴史大河ドラマとは違った新しい歴史ドラマをお届けする』というのがドラマ放送当時の売り文句だったらしい。

 当初、視聴率は下降線を辿っていたものの、某アイドル事務所や大根役者の起用を避けた実力派俳優達の演技に加え、史実に基づきながらも平安武将達の思想を大胆に解釈した演出が視聴者に評価され再放送から火が付いた。

 また、本格的な殺陣や安く感じないVFXもふんだんに取り入れられており、史実には描かれていない武将同士の戦や妖怪との闘いは歴史好きだけではなく、多くの視聴者を魅了した。昨年の年末に放送された最終話拡大スペシャルでは、昨今の民放では珍しく瞬間視聴率四十%を超えるという偉業も成し遂げている。

 凌子が現在観ているのはシーズン弐の終盤。源頼光と四天王が大江山で酒呑童子との闘いに挑む場面だ。必死の形相で刀を振るい敵に向かう姿は絵になっている。俳優が整った容姿をしているのも場面をより魅力的に見せているのだろう。

―――やっぱりお母さんはイジワルだ・・・

 凌子は麻子に何時も揶揄われている。

「別にいいでしょ。お母さんには迷惑掛けてないもん。それに源頼光は――」

「妖怪退治のエキスパートで、人望もあって、とっても凄い人物だった、でしょ?もう何回も聞いたわよ。耳に蛸ができて足が増えちゃうわ」

 麻子は凌子の云わんとする事を主張したつもりだった。だが、凌子はその余りにも杜撰な説明に変なスイッチが入る。

「そんな簡単な纏め方してないでしょ?いい?源頼光はね―――」

「あー止めて止めて。話が長くなるわ」

 麻子は手を虫を払うようにひらひらとさせ凌子の語りを躱すと、椅子から立ち上がった。

「もう私会社行くから片付けよろしくね♪」

 麻子は得意の営業スマイルで微笑むと、そそくさと玄関へと歩いていく。凌子はふと壁に掛かった時計を見る。

―――しまった・・・!お母さんにまたしてやられた・・・

 家事を完璧にこなす母。彼女が家を出るのは朝のきっかり八時である。麻子はその時間で公私を切り替えているのだ。朝八時までは妻と母親として、朝八時以降は一〇〇人以上の部下を抱える部長として、である。

 現在時刻は八時一分。麻子は既に会社員モードだ。この時間帯麻子は家事を一切行わない。麻子は敢えて凌子に意地悪、もとい揶揄う為、この時間まで朝食を摂りのんびりしていたのだ。凌子は母の策にまんまと嵌められた。テレビに大きく映る悔し気な俳優の表情と凌子の表情はまるで示し合わせたように似ていた。

 凌子は玄関まで麻子を追い掛けると、

「お母さん!また私にイジワル!」

 麻子は後ろで文句を云っている凌子を適度に無視しつつヒールを履き始める。

「まだまだね、凌子。そんなんじゃ、何時まで経っても私を出し抜く事なんて出来ないわよ。人生は常に先を読まないとね」

「そんな事いっても・・・私には無理だよ・・・」

 凌子は目を伏せる。

 凌子は母を出し抜こうという気など最初から無い。ただ、今目の前にいる母親のようには自分は成れないと思っているだけだ。

「なーにしょんぼりしてるのよ」

 麻子は凌子の頭に手を乗せ優しく撫でる。

「だって、私はお母さんみたく頭良くないし、運動も出来ないし、背低いし、スタイルだって・・・ぺったんこだし・・・お母さんの子供じゃないみたい・・・」

 凌子は制服のスカートの裾を掴み自虐的に呟いた。

 凌子はこんな事を云うつもりは無かった。だが、何となくそういう気分になってしまった。少し憂鬱な気分というのも重なったからかもしれない。ただ、何となく唇の端から憂鬱な気分が煙草の白煙のように漏れてしまったのだ。

 凌子は高校三年生であるが、身長は一五〇センチにも満たないくらいの小柄だった。成績は優秀であるが、運動はまるで駄目で運動会の徒競走ではいつも後ろから数えた方が早かった。初対面の人と話すとどうしてもあがってしまい赤面してしまうのも悩みの一つだ。

 一方、麻子はモデルのようにすらりとした体躯を持ち、学生時代は勉学、運動共に優秀な成績を修めていた。それは会社員になっても変わりなく、持ち前の明るさとガッツで勤め先で女性初の部長となった。部下からの信頼も篤く、父の話によると、将来は幹部候補だろうという事だ。


―――親子なのにどうしてこんなにも違うのだろう?


 鳶が鷹を生む所か、蛙の子が蛙にすらなれていない。その事が凌子にとって大きなコンプレックスであり、自分に自信が持てない理由だった。

「莫迦ね。あんたは私の大事な大事な娘よ。詰まらない事云わないの」

 麻子はそう云って、玄関の扉のノブに手を掛ける。

「凌子は私が持っていない良い所を沢山持ってるわ。先ずはその事に気付きなさい。私とあんたは親子だけど違う人間なんだから、《違う》事は当たり前なのよ」

 麻子は真っ直ぐに凌子を見据える。

「何があったか知らないけど、話したくなったら話しなさい。お母さんはどんな時でも凌子の味方よ」

 凌子は麻子の言葉に静かに頷いた。

「よろしい。じゃあ、行ってくるね」

「・・・うん。いってらっしゃい」

 麻子を見送り、凌子は少しだけ軽くなった胸の内を思いながら、テーブルに並んだ食器を片付け始めた。食器をキッチンに運びながら凌子は思った。母はやはり見抜いていた。自身の心の奥にある小さな痛みを。

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