開幕 下

 日本国、第五十七代天皇にあたる功徳天皇が崩御されてから約十五年が経った。当時、功徳天皇は四十八歳。未だ若い内に亡くなったという事もあり、次の天皇に誰を据えるかという問題は皇族内で混沌を極めた。

 それは、功徳天皇が優秀過ぎた、という事もあるかもしれない。今日の日本の基礎を築いたのは彼の力量に拠るものが大きかった。

 今から数えて約二十年前、第三次米ソ戦争が勃発した。

 当時、第二次米ソ戦争から暫しの冷戦状態が続いていた。しかし、互いの消耗戦を避ける為、最終的には不可侵並びに友好条約を締結する事で《表向き》の戦争は終結した。しかしながら、水面下では貿易流通の限定措置、武器輸出入の禁止、政治的有力者の渡航制限等、互いが互いに国力を削り合い、牽制し合い、真の勝利者の存在を求め続けていた。

 第三次米ソ戦争の引き金となった最大の要因は、親ソ派・親米派によって二極化していた大中華民国の内戦だった。第二次米ソ戦争の以前から二極化していた大中華民国は、互いが大国の威光を受けつつ私腹を肥やしていた。と同時に、其処は米ソの火薬庫でもあり、兵士の養殖所でもあった。

 大中華民国の領土は広大だ。

 加えて、全人口の約九十%が貧困層に属している。それは、一部の富裕層が富を独占し、多くの国民が貧困に喘いでいるという単純明快な二層構造のヒエラルキーを示していた。社会主義を唱える彼の国にあっても、富の再分配などという経済的な平等という概念は存在し得なかった。

 後ろ盾を務める二国はこの状況を救済する事はなく、逆にこの状態を最大限に利用していた。国内よりも圧倒的に安い賃金と多くの労働力。人に憚られる仕事さえ金の為に喜んでこなしてくれる。

 未開拓の地を利用し、民意に左右される事なく兵器工場を建設するのも容易だ。情報統制を徹底すれば情報が諸外国に漏れる事は無い。仮に漏れた所で、国民に情報が漏れる事は決して無い。何故なら、多くの諸外国は何かしらのルートで彼らが製造した兵器を利用していたからだ。安価で製造された武器や兵器が大量に生産され、大量に多くの諸外国に流れる。その状態は、米ソ条約下で約五年以上続いていた。それが、大きな戦争の火種に成ると分かっていても尚、人はそれを止める事はなかった。

 内戦の理由は実に簡単なものだった。

 南北を大きく二分する大中華民国の実質の国境線で事件は起きた。国境線上には互いが互いを監視する基地局が等間隔で設置され、都市部や市街地にはベルリンの壁の如く聳え立つ城壁で覆われていた。だが、農村部はそうではなかった。開発が進んでいない森林地帯などは尚更だ。国境線に慰め程度に金網と鉄線が無造作に並べられているだけだ。警備の者も正規の軍人ではなく、非合法で安く雇われた民間人だった。

 当然、其処は密入国者・亡命者が横行する場所となる。だが、大国はそれを敢えて見逃していた。人が余り有る程の国の上で、高々数十人程の労働力が逃亡したところで痛くも痒くもないのだ。巣の中から餌を求めて這い出る蟻のように労働力は無尽蔵だった。

 しかし、便宜上対策は講じねばならない。警備兵に対して出された命令は一つ。密入国者・亡命者に対して、国境線を超えた時点で躊躇せず銃殺しろ、というとても単純なものだった。

 少ない命令で統制された地方の国境線。その命令が巨大な火薬庫の導火線に火を付ける事になった。

 深夜、亡命を求める一人の少年が国境線の金網を攀じ登っていた。少年は襤褸切れのような服を纏い、目深に帽子を被っていた。明らかに貧困の農村に住むものの特徴だ。

 国境線で警備をしていた民間人はソ側で五名、米側では三名。少年はソ側から米側へと向かおうとしていたらしい。

 一応の命令もある。髪の毛をだらだらと伸ばした如何にも不真面目そうなソ側の警備兵が、命令に従い、少年に銃を向けた。彼等が装備していたのは量産型の不良品に近い自動小銃だ。命中精度は低く、狙って命中する事はまず難しい。

 銃を向けた警備兵は何を思ったのか、米側の警備兵に突然声を掛けた。

『なあ、ゲームをしないか?』

 米側の兵士達は初め戸惑いを見せた。他国の警備兵同士の会話は禁止されている。今までもそんな事は一度もなかった。しかし、何分娯楽が少ない場所だ。規則はあって無いようなもの。一人の米兵士が口を開いた。

『ゲームとは何だ?』

 ソ側の警備兵は白い歯を見せ笑いながら云う。

『なーに簡単さ。ただの的当てだよ。其処を攀じ登っているお猿さんを先に仕留めた方が勝ちでどうだ?報酬は・・・そうだな。最高にぶっ飛べるこの《ヤク》でどうだい?』

 ソ側の警備兵は胸ポケットから白い錠剤が幾つか入った袋を取り出し見せびらかす。それは滅多に地方、まして森林地帯の国境線地帯では手に入らない『神眼』と呼ばれる麻薬の一種だった。

 『神眼』は字面の通り、神にしか見えないものが見えるようになるという謳い文句で、当時の大中華民国内で流行していた合成麻薬だ。普通の麻薬では虚ろにしか見えない幻覚が、まるで実体と変わりない姿で目の前にいるように現れる、というのが売りだった。

 特に、その幻覚は《人物》を最も明確に幻覚として出現させる事で有名だった。死んだ恋人、生き別れになった両親、手の届かない高嶺の花まで。真摯な願いから欲望の捌け口まで効果は絶大との評判は体験した者にしか分からない。その上、即刻性があり依存性も無く持続時間も長い。麻薬としては比較的安価で都市部では簡単に手に入るのだ。

 唯一の欠点を挙げるとすれは、薬の投与後、効果が続いている間、感覚器官や神経が麻痺する事だ。特に、痛覚が極端に麻痺する事が問題視されていた。しかし、常用者にとってはそんな事は瑣末な問題だ。麻痺といってもモルヒネと同様程度だったからだ。

 先程声を上げた隣に立っていた若い米側の警備兵の一人が、真っ先に『俺がその勝負を受けよう』と名乗りを上げた。彼は先日の土石流で恋人を亡くしていた。彼はどうしても彼女に会いたかったのだ。米側の警備兵達は彼の事情を知っていた為、彼を止めようとした。だが、彼は首を縦には振らず、仲間の制止を振り切りゲームに挑んだ。

 ソ側の警備兵はニヤリと笑うと、

『報酬は俺が払うんだ。先攻は貰うぜ』

 と宣言すると、小手調べに一発少年に向かって撃ってみせる。けたたましい銃声が静寂に包まれた暗闇を打ち払う。だが、少年は金網を先程と同様に攀じ登っている。自分が狙われている事にも気が付いたようだった。必死に急いでいる様子が窺える。

『外れたみたいだな』

 と、残念そうに声を漏らしながらソ側の警備兵は一歩下がる。ソ側の警備兵が目で合図をすると、米側の警備兵は一歩前に出て銃を構える。その形相はゲーム感覚とは遠く、まるで獲物を狙う狩人のようだった。

 勝負は呆気無く終わった。

 一発の銃声と共に、少年の身体は重力に引かれるようにソ側の地面に力無く落ちた。少年は荒く息を吐きながら身体を律動させ地面を蚯蚓のように這い蹲っていた。が、暫くするとその動きは停止した。

 ソ側の警備兵は、

『あんたやるな。まさか一発で仕留めちまうとはよ』

 と高らかに負け惜しみを云うと、金網が拉げた穴から薬を放り投げた。彼は『精々それで桃源郷を見る事だな』と云い残すと、のらりくらりと基地局の奥へと姿を消した。

 それから数分後、残ったソ側の警備兵は死んだ少年を処分する準備に取り掛かっていた。死体は目に付く上、放置しておけば強烈な腐臭とそれに群がる動物と蟲達で酷い有り様になる。

 此処での一般的な死体の処理法は火葬だ。死体を燃えやすい木屑で覆い、木材でその周囲を囲む。そして、車両用のガソリンを其処に染み込ませて燃やすのだ。

 ソ側の警備兵が坦々と作業をこなしているのを、米側の警備兵は何もする事が無いため眺めていた。一方、麻薬を獲得した若い警備兵は早速基地局の自室に戻り薬を服用していた。『うっ・・・』と警備兵は思わず口元を抑える。急激な吐き気に教われた為だ。だが、その吐き気も数分経つとすっかり収まった。

 彼は両手を重ね神に祈った。

『神よ。どうか彼女にもう一度会わせてくれ・・・』

 警備兵は縋るように呟いた。その時、絹を裂くような悲鳴とも云えない呻き声が轟いた。

 その声は明らかに不自然な声だった。若い警備兵は小銃を持つと直ぐさまその声のする方向へと走って行った。其処で彼は見た。炎の中で踠き苦しむ『彼女』の姿を。

 彼は初め自身の目を疑った。

『どうして彼女が・・・!?』

 若い警備兵はその光景に立ち尽くした。が、次の瞬間には走り出していた。目の前で炎に包まれた『彼女』が自分に助けを求めるように空に向かい手を伸ばしていたからだ。

 彼は叫んだ。

『彼女を二度と殺させてたまるか!』

 ソ側の兵士達は不思議そうに彼を見る。

 正気を失った警備兵は小銃を脇に構え一気に引き金を引く。フルオートに切り替えた小銃は際限無く銃口から弾を吐き出す。その銃弾は難無く金網を越えソ側の警備兵を撃ち殺した。ソ側の警備兵は為す術無く蜂の巣にされた。

 だが、彼の怒りはそれで収まらなかった。

 彼が次に標的にしたのは、仲間達だった。彼は彼等に対して怒りをぶち撒ける。

『何故彼女が殺されるのを放っておいた!』

 仲間達は反論する。

『何を云っているんだ?あれは君の『彼女』じゃない!ただの農村の餓鬼だ!』

 一人の仲間が云った。

『まさかあの薬で本当に幻覚を見てるのか!?』

『きっとそうだっ!待ってくれ!君は正気じゃないんだ!』

 彼等の推測は当たっていた。だが、時は既に遅い。

『巫山戯るな!』

 彼は叫ぶと躊躇無く仲間を撃ち殺した。二人の仲間は力無く崩れ落ちた。若い警備兵は金網を攀じ登りソ側へと降りると、一目散に『彼女』の元へと向かった。『彼女』を燃え盛る木屑の中から引き摺り出す。しかし、『彼女』は指一本すら動かす事は無かった。黒く焦げた細い腕は手を仰ぐようにその動きを止めていた。

『あぁ・・・よくも・・・よくも・・・よくもぉおおおおおおおお!』

 彼は炎に呼応するようにその怒りを燃え上がらせた。火傷で皮膚が剥げた掌で小銃を再び握り締め彼は立ち上がる。その怒りに殉教する為に。

 これが、大中華民国の内戦の引き金となった。

 彼は全身に武装を施すと、単身ソ側へと突入。基地局への破壊行為は約三十七時間続いた。彼が絶命した時、彼の身体には数十発という銃創が刻まれていた。その銃創でさえ、彼にとって致命傷足り得なかった。脳や心臓に打ち込まれた銃撃でさえ彼を停止させるには至らなかったのだ。彼はたった一人で数百という命を奪い、基地局を四箇所も壊滅させた。

 鬼神の如き彼の所業が、彼の怒りの火が、世界を巻き込む地獄の劫火と化したのだ。

 ソ側はこの行為を逆手に、米側はこの行為を正当化し、大中華民国の内部を泥沼の内戦状態へと引き込んだ。

 そして、内戦終盤。痺れを切らしたソ連は更に内戦を口実に、資源採掘所の利権争いをしていたヨーロッパ連合へと進軍した。其処からが、第三次米ソ大戦の始まりだ。

 米国と同盟関係にあったヨーロッパ連合は大中華民国の領土侵攻を元に共同戦線を宣言。ソ連は同盟関係にあったインド公国に助力を求める。

 世界は大きく二極化され、日本国も同様の選択を求められていた。

 功徳天皇が日本国を治める以前、日本国は親米派に属していた。しかし、功徳天皇が政権を持つと、彼は大国に左右される事の無い永世中立国という立場を取った。その方針は時の政治家や有力華族達に大きな反感を買う事となった。

 表面上、親米派を唱えていた政治家や華族は強国の後ろ盾を受け甘い汁を啜っていたからだ。実際は、米国側でさえソ連と繋がる者も少なかった。当時世論から最大の批判を浴びていた移民受け入れ政策も彼等の手によって進められてたものだったのだ。

 功徳天皇はそれを一切赦さなかった。だが、それを凡て放逐する事を一気に完遂する事は、端から見ても難しいという事は分かり切っていた。其処で、功徳天皇は《敢えて》この第三次米ソ大戦を利用した。

 日本国天皇が持つ戦時下における政治権と統帥権を最大限に利用したのだ。

 表向きは親米派を演じ、戦争という窮地によって炙り出された政治家や華族を悉く縛に付ける。彼等が使用していたルートを利用し、後ろ盾としていた米国の造反者まで炙り出してみせた。それは同時にソ連側へと繋がっている。功徳天皇はそのルートを敢えて表には出さず、互いの戦争を終結させる為の手段の一つとして使用した。

 米ソ共に戦争の引き際を見定めていた戦争終盤に際して、これは有効な妥協点となった。互いが互いに隠匿しておきたいルートは、一部とはいえ敵国同士が蜜月の関係を築いている。これが表沙汰になれば、多くの国民や兵士の信頼と士気に関わる。消耗戦を強いられていた両国にとって、小さな綻びは大きな傷口となり、傷口は死という名の敗戦へと繋がる。それは何としてでも避けねばならない事態だった。

 結果、第三次米ソ大戦は前回と同様、戦勝国を生む事なく終結した。

 二カ国間で停戦条約を締結せず、永世中立国である日本国が『仲介役』となり、両国の正常な国交の支援をする事となり、日本国は更に世界での地位を築く事となった。不可侵条約は破棄され、国際基準に則った友好条約が締結される事となったのも大きな功績だ。米ソ友好条約が締結されてから二十年経った今でも、この条約は破棄される事は無く、互いの国交正常化の象徴の一となっている。

 功徳天皇は第三次米ソ大戦の終結から崩御される迄の五年間、日本国の永世中立国としての立場を確固たるものとしていった。特に、司法・立法・行政の権力分立の再編、そして軍事権の統一と縮小化を徹底した。戦争を利用し国内の膿みを排除する。功徳天皇は自身の国を強国へと成長させる為にその生涯を凡て費やした。

 そして、天成十五年。

 功徳天皇の実子である慈功天皇は父の理念と矜持を遵守し、国際的な立場を維持している。混沌を気極めた跡継ぎ問題も、当時若干十七歳のこの慈功天皇によって治められた。父譲りの才覚と手腕、持ち前のカリスマ性は多くの国民の支持を得ている。それは、彼が跡を継いでからの十五年間変わる事は無い。

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